科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

読書要約・感想

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白井聡「永続敗戦論」感想・考察
(1)はじめに
若手政治学者、白井聡氏の著書「永続敗戦論」を読んで、極めて鋭い分析で、戦後日本の国家体制を言い当てているなと納得した。
  そこで、自分の住んでいる沖縄の問題と絡めて、そのエッセンスと感想・考察を述べたいと思う。ところどころ、白井氏の主張ではなく、私の見解も混ぜるが、いちいち断らない。白井氏の主張だけを知りたい方は、この著書を読んでください。
 
(2)戦後日本の国体は対米従属
 通常の国家は、自分の国をこうしたいという目的をもって国家を運営するのであるが、戦後日本はそうではなく、対米従属が自己目的していると白井氏は言う。確かにまさにその通りだと思う。
 安倍総理のトランプ大統領に対する卑屈な態度、そして日米同盟は堅固になったというが、日本の側に主体的な目的はないので、日米安保体制や安保法制は、自衛隊が米軍の指揮下で戦争するための約束でしかないだろう。まさにすべての発想は属国的である。
 後で詳しく述べるが、戦後日本の国家体制の原理のひとつが、日米安保体制、あるいは日米同盟であり、その現実は沖縄の軍事要塞化であり、沖縄の基地がなければ日本国家の統合はあり得ない、つまり、沖縄の犠牲の上に戦後の日本国家は成り立っているのである。
 つまり、沖縄の基地問題を本当に解決するためには、日本の国家を成り立たせている原理を根本から組み替えなければならないということである。すると、それは一見不可能に思えるが、実はそうではなく、現在は戦後日本の国家を成立させている原理が国際情勢の変化により、現実に適応できなくなってきているので、国家の統合自体がぐらついている。すると、それを見越したうえで、新たな国家原理を組み立てさえすれば、沖縄の未来に希望が持てるというのが、この書を読んだうえでの最大の収穫である。
 そして私の希望は、明治維新を成し遂げた薩長土佐の武士たちが明治国家を建設したように、戦前・戦中・戦後の日本の国家矛盾を熟知した沖縄知識人が総力で、現国家体制の崩壊を見越して、新生日本の国家を設計することである。
 それは、ホッブス、ロック、ルソーが近代国家を構想したのに匹敵する仕事である。私は、そこに沖縄と日本の希望を抱いている。先ずは理論構築から始めなければならないと思っている。
 
(3)戦前の国体
 白井氏は独特の国体論を主張しているが、それは戦前の国体だけでなく、戦後にも国体があると考え、戦後の国体はこうであると主張している。
 戦前の国体は模範的に言えば「万世一系の皇統」、「天壌無窮の神勅に代表される神代の伝統」、「国民の天皇に対する忠」であるが、そういう視点でなく、「天皇は神聖にして犯すべからず」という、天皇の一般国民に対する、神格の面である顕教と、明治の元勲たちが、天皇に実権を持たせず、立憲君主国家として明治国家を運用した、天皇機関説という政府にだけ知られる密教の面である。
 それは、明治時代、大正時代は十分に機能した。
 
(4)戦前体制の崩壊
 しかし、満州事変における関東軍の暴走や、日中戦争への突入の時期には、国家を運営する政府までもが、国体の密教の教義を放棄して、顕教に侵食されてしまった。つまり、国家を運営するトップ自体が、合理的国家運営を放棄し、盲目的天皇への忠を実行し、自分で考えることのない、無責任国家になってしまったのである。つまり、戦争目的を曖昧にしたまま戦争を続ける体制に突入したのである。
 その結果が、特攻や玉砕の戦術であり、悲惨な沖縄戦と、二個の原爆投下であり、そしてポツダム宣言である。
 
(5)戦後の国体
 戦後の国体を白井氏は一言で「永続敗戦」と言っているが、それは、アメリカの属国としての対米従属のことである。それには三つの原理があり、象徴天皇制と、平和憲法と、日米安保体制であり、その帰結としての沖縄の軍事要塞化である。
 その論理は、まずは日本を効率よくする占領する手段として、天皇制は残した方がよいだろうという、マッカーサーの打算的判断の結果の象徴天皇制である。しかし、通常は戦犯として死刑にしなければならない天皇を生かしておくからには、戦勝国を納得させるには、日本を徹底的に戦争できない国にしなければならず、その結果が交戦権を認めない平和憲法である。しかし、日本を共産圏から守るには、米軍が必要ということであり、先ずは、日本から分離された沖縄を軍事要塞化し、そして安保条約の締結である。
その後、沖縄は基地のない日本復帰を求めたが、結果は巨大な基地を残したままの、復帰であった。それは、軍事要塞としての沖縄が、日本の国体として不可欠であり、沖縄の基地がなくなれば、日本は崩壊するので当然の結果である。
 
(6)戦後の国体のひび割れ
 戦後の国体は、すでにひびが入っている。高度成長期までは、対米服従の姿勢をとることによって、米国の庇護を受け恩恵を得ることができた。しかし、冷戦を終え、新自由主義の時代となり、米国は日本の庇護をする必然はなくなり、日米間は経済戦争の関係になり、現在日本は合法的に搾取される一方である。つまり、規制緩和の名のもとに、日本の法律を米国に都合の良いよぅに一方的に変えられ、外資が日本に参入し、日本人の働いたお金は米国に吸い上げられている。郵政民営化や金融ビッグバンは米国の罠だったことは、現在はよく知られていることである。
 つまり、対米服従を国体としている限り、政府は日本国民のための政治は不可能なのである。それが、現在の安倍政権である。
 国体の三つの原理のうち、沖縄の反辺野古運動は、日米安保体制にひびが入っていることを示している。1995年に「米兵少女暴行事件」をきっかけに沖縄の過重な基地負担に対して、沖縄県民の反基地感情、反米感情が爆発し、県民85千人県民集会が催された。そして、1996年に普天間基地の返還と移設が、橋本竜太郎とビル・クリントンの間で合意された。そして鳩山総理のごたごたを経て、現在の辺野古移設の問題となっているのである。
 それは、日本の安全保障のために、沖縄に米軍基地を過重負担させながら、本土側は安保ただ乗りで、経済が発展していることに沖縄県民が自覚し始めたことによる、日米安保のひび割れである。沖縄を軍事要塞化することによってはじめて成り立っているという国家が日本であるという自覚を、全国民が持たない限り、日本は崩壊するであろう。
 また、平和憲法に基づくと軍隊は持っていけないのだが、自衛隊が創設され、安倍政権になっては安保法制が制定され、平和憲法が形がい化しているが、それは日本が自主的に日本を守れる軍隊を持てたことになるのではなく、米軍の指揮下に自衛隊が駒として動かされる、あくまでも対米服従の軍隊となったのである。それも対米服従が日本経済のメリットになる時代から、逆に搾取される時代になったのと同じく、日米安保によって日本がメリットを得る時代は終わって、逆に日米安保が日本の負担になる時代になったのである。つまり、日米安保によって平和のただ乗りができる時代ではなくなって、日米安保によって米国の手先となって戦争をさせられる時代になったのである。
 
(7)戦前のパブリックマインド
 そもそも明治時代以前はは、日本人は日本人という意識はなく、小さな村落共同体の一員としての自覚しかなかっただろう。あるいはより大きくても藩に属する一員としての自覚しかなかっただろう。したがって、日本国家に対する愛国心というものも当然なく、小さな内輪の論理しかなかったはずである。
 そこへ明治政府は日本国民を統一するために、天皇を引っ張り出してきた。そして、義務教育を開始して、教育勅語や明治天皇の御真影を通して、日本人に皇民化教育をして、愛国心、広く言えばパブリックマインドを植え付けた。日本人に日本国民としての自覚を植え付けることが、天皇を神格化することによって、実現できたのである。
 私はパブリックマインドは本来自発性を尊重し内発的に出てくるように育てるのがよいと思っているのだが、明治政府は上からの押し付けで、国民にパブリックマインドを植え付けた。そのパブリックマインドによって日本は近代化に成功したのであるが、それはある程度偽物だったので、近代的自我の形成には不十分だったように思う。それは単に権力に服従するだけの権威主義的パブリックマインドであり、自分で責任を持って考え行為し結果を出すという合理的態度ではなかったように思う。それが、戦争末期の不合理な精神主義に陥った原因だと思う。日本が敗戦から学ぶべきは、主体的で合理的な国家運営の精神である。
 
(8)戦後のパブリックマインド
 戦後の日本に対するGHQの占領は、戦前の日本のパブリックマインドを解体することに主眼があったように思う。その結果、戦前と全く反対に自分の利益のみを追求する生き方が良しとされ、国家のためという発想をするのを軍国主義的とされ否定された。精神的なものは否定され、物質的なものだけが追求され、経済的には繁栄したが精神的には相当貧しくなった。
 戦前は日本のために天皇のために死ねるというパブリックマインドを国民が受け入れていたのに対して、現在では日本のため公のために死ねるという人はほとんどいなくなった。
 その結果戦後の日本も、戦前と同じく無責任国家になったようだ。政治家も官僚も国家のためではなく、対米服従によるおこぼれを得ることが目的になってしまったようだ。日本のために死ねるという人が、国家のトップにいるのだろうか。
 戦前の日本は目的のはっきりしない無責任な戦争に突っ走ったように、現在の日本は目的のない対米服従路線に突っ走っているようである。日本が何か目的をもってその手段として対米服従するのではなく、対米服従が絶対目的なのである。それが日本の国体がそうであるから、そうであるしかありえないのである。対米服従によって日本が何らメリットを得ることはなく、逆にデメリットばかりであるのにもかかわらず、対米服従路線をやめられないのが今の日本である。現在はまさに戦前のポツダム宣言直前の状態ではないか。戦前は盲目的戦争に突っ走って、日本が破滅を迎えたように、現在は、対米服従路線に盲目的に突っ走って、日本が破滅する寸前なのではないか。
 
(9)新生日本のパブリックマインドのありかた
 明治国家は下からの民主化ではなく、上からのお仕着せの民主化であった。だから。パブリックマインドも内発的ではなく、権威主義的服従の姿勢の愛国心であった。
 戦後の国体が崩壊しつつある今、戦前とは違って内発的なパブリックマインドが要求されている。上からのお仕着せではなく、人間として生きる上において、自分としては譲れない、このためには死ねるというパブリックマインドを各自が自ら内に見出すことが全日本国民に要求されている。そして、戦前のように上からのお仕着せを守るためではなく、ひとりひとりの国民が生きるために譲れないもの全体を守るシステムとしての日本国家を構想する必要がある。そうしないと、現在の無責任国家のままだと日本は滅びてしまうであろう。
 そうすることにって、日本は本当の民主主義国家になることができるであろう。
 その方法を考えるのは、私だけがすることではなく、全日本国民の課題であると思う。

時間と自己−考察−

時間と自己―考察―
(1)はじめに
 木村敏の著書「時間と自己」の離人症論について考察してみた。というのは私は30歳代の5年間ぐらいは離人症に苦しめられたので、離人症は熟知しているからである。
 木村敏の考察は本人が離人症を経験したのではないかと思うほど妥当である。評価できる著作である。
 木村は世界のありようを「もの」と「こと」に分けて、離人症は「こと」の体験が欠落していることであると主張している。これは私の体験からしても妥当である。本記事ではまず木村のこの主張を説明し、私の認識に基づいて「もの」と「こと」は意識の何であるかを説明して、そしてそれに照らし合わせて私流の離人症の症状の解釈をしよう。
 
(2)「もの」の世界
 今、私の目の前にパソコンがある。パソコンは「もの」である。そして、パソコンの前に私の身体がある。この身体も「もの」である。そして私の周囲には目には見えないが空気がある。空気も「もの」である。つまり外界は全て「もの」に占有されている。
 そして、それだけでなく私は今「もの」について考察しているが、意識の中心が「もの」と言う観念に排他的に占有されている。また例えば「速さ」と言う観念を意識の中心で想起すればその観念に意識は排他的に占有される。意識内部を排他的に占有するという意味では観念も内界における「もの」である。
 
(3)「こと」の世界
 「落ちるリンゴ」は「もの」であるが、「リンゴが落ちる」は「こと」である。それは一つの経験である。一般に「落ちる」は「こと」であり、「試験に落ちる」「名声が地に落ちる」「品質が落ちる」は意識内の経験としては同じ意味で「落ちる」を用いている。
 「こと」は外部の対象としての「もの」とは違って知覚対象ではないが、意識には明らかに経験されているのである。
 
(4)離人症の症状
 本書で木村が挙げている離人症の症状で私の経験と一致するのをいくつか書いておこう。
 ①「自分と言うことがどういうことかわからない」
②「何をしても自分がそれをしている感じが持てない」
③「時間が経って行く実感が無い」
 ④「何を見てもそれがそこにちゃんとあるということがわからない」
 ⑤「自分は何の感情も持たないロボットになった」
 
 
 木村はそういう症状を「こと」の経験の欠落であるとした。
 
(5)離人症の原因
 ここからは私の考えを書こう。
 私は先ず、自分の意識が視覚的に見えるという特異体質になった。この原因は度が過ぎた内省をしたからだと思う。その後自分の全ての思考内容を自分から切り離して対象化する衝動が出てきたのでそうした。対象化とは何かと言うと、自分の意識を自己から切り離し遠ざけて、自己とその意識の間に壁を作ることである。そうすると自己と対象化した自己の意識との間に意識の交流が無くなる。そしてその対象化とは意識内の観念を「もの化」することである。そのときでも、常人に比べたら抽象的観念の「もの」的把握は非常に優れていたと思う。次々と自分の意識を対象化して行って、その結果自然な意識の流れが無くなって行ったのである。この意識の自然な流れの欠如が離人症であると私は思っている。
 つまり、自己の意識をどんどん「もの化」したのが原因で離人症になったのだと思っている。
 
(6)「もの」と「こと」
 内部空間内の「もの」とは観念を対象化して安定的に存在させているものである。「こと」とは意識の流れである。たとえば「速さ」は対象化された運動の観念で安定的に存在しているが「速い」はそれを経験した時の意識の変化(流れ)である。
 
(7)離人症の症状の解釈
 私の認識に基づいて離人症の症状を解釈しよう。

 ①「自分と言うことがどういうことかわからない」
 自分という感覚は身体感覚ではなく、一つの「自分」という意識の流れなのである。離人症のときは「自分」という意識の流れが無くなっていたのである。現在ははっきりと身体の中央を腹の底から脳天まで貫くように意識が流れているのが分かるが、離人症のときはそういう意識の流れは無かった。
 
②「何をしても自分がそれをしている感じが持てない」
 これも「する」と言う感じも正常時は一つの意識の流れの感覚なのである。意識の流れが詰まっているから何をしても「している」という感覚が伴わないのである。
 
 ③「時間が経って行く実感が無い」
 この著作のタイトルの「時間と自己」は鋭い視点であり、私には「時間」とは自分という意識の流れに付随する感覚のように感じる。これは意識における時間であり時計で計る時間のことではない。私は5秒と5分の違いが実感として分からなくなっていたように思う。本当に「時間が経つ」という実感が無かった。この時間感覚の喪失は自己という感覚の喪失と密着している。自己感覚の意識の流れに付随するのが時間が経つという感覚なのである。
 
④「何を見てもそれがそこにちゃんとあるということがわからない」
 それは身体に密着した意識の流れが無くなったので、身体が自分であるという感覚の欠如が起き、それが原因で「そこ」という感覚が無くなったのだと思う。私の実感では、外部の空間感覚は身体の拡がりの感覚を使って認識する。物を見たときの大小も身体と比較して認識する。離人症のときは大きなビルを見ても小さな石ころを見ても視覚的比較の大小は分かるのだがイマイチ大小の感覚が実感できなかった。「そこ」というのは空間の広がりの中の「そこ」なのであるが、空間の拡がりが実感できなかったのである。
 
⑤「自分は何の感情も持たないロボットになった」
 これも身体を自分と実感できないのが原因である。自然な意識の流れが欠如して、それと私の物理的認識を伴って、身体を原子の集まりの機械と感じていたのである。離人症の感情は「苦しい」だけであり、「悲しい」とか「おかしい」とかいうのはない。感情は肉体感覚と密着している。たとえば泣くときは眼がしらにジーンとくるとか、笑う時は頬の筋肉感覚とか腹筋の感覚が伴う。こういう肉体感覚が在って感情が生じるのである。離人症は身体に自己感覚が無い結果「苦しい」以外の感情は無くなるのである。
 
 そのほか「紙幣が紙切れにしか見えない」とか「カレンダーを見ても日が経つという実感が無い」とかいろいろあったが、「こと」の欠如、つまり「意識の流れ」が欠如していたのが離人症であるというのは当たっていると思う。
 
(8)現状
 現在では離人症の症状は消えてむしろ逆に常人より、身体の自己感覚も、外部の物体の存在の実感も強くなっている。
 私は現在、自分の外部の三次元物理空間と重なって意識空間があってそこに観念があるのが見えるのだが、観念を「もの化」しているのと同時に、意識の流れも非常に気持ちの良いほど流れている。「もの」と「こと」の両者の認識が共に高まっている。だから通常の人がかなり抽象的思考と感じるのも物を見ている感覚で思考できる。同時に、生命感覚も充実している。現在は逆境を乗り越えて絶好調である。

追記
 時間感覚は自己感覚に伴うことを認識出来たので、「時間論」にとっかかりができたように思っている。ベルクソンとハイデッガー理解が進むと思う。

私のニーチェ体験

私のニーチェ体験
(1)はじめに
 竹田青嗣の「ニーチェ入門」を読んだ。私は学生時代にニーチェを読んで、世界観・人生観を転換させられた。つまり、私の人格の形成にニーチェが大きく影響を与えた。
 今、「ニーチェ入門」を読むと、ニーチェの言っていることはほとんど間違いないなという印象を得た。現在の私の真理認識と大きく異なるのは、ニーチェが神は存在すると思っていない点であるが、私の真理認識にニーチェを組み込むと、神はニーチェの言う「権力への意志」の奥に存在する、私はそう認識したのである。ニーチェももっと意志を深く掘ったならば神と直面したはずであると私は思っている。
 そこで竹田に沿って、私がニーチェに影響を受けたことを一つずつ説明して行こう。
 
(2)真理は女である
 ニーチェの「善悪の彼岸」の冒頭に「真理は女である」、したがってこれまでの哲学者は女を理解できなかったのではないか。という趣旨のことが書かれている。それはそうで、女性を理解するとは主に女性の感情を共感することであるが、理屈で攻め行ったら女性は理解できない。その言葉は、私に衝撃を与えた。
 
(3)なぜ真理を知りたいか
 今反省してみると「意を掘る」ことはニーチェから学んだのではないかと思われる。真理を欲する動機を探るということをである。真理を認識して威張りたいのか、あるいは権力を欲しているのではないかという問いを立てられるようになった。
 この真理への意志の動機を反省することで、私の真理への意志は純化された。屈折した感情特にニーチェの言う「ルサンチマン」が無いかどうかは強く反省させられた。
 
(4)欲望相関図式
 ニーチェの言葉に「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」というものがある。これに関しては、竹田が「欲望相関図式」としてまとめている。それを引用しよう。
 「今一つのリンゴを、さまざまな生命体が経験すると考えてみる。−略−。たとえば人間にとっては、リンゴは『みずみずしくおいしそうな果実』である。ところが猫にとってそれは『まるくて、じゃれると転がるもの』でしかない。トンボにとっては、丸い形だけは識別できるだろうが、『何の意味もないもの』かもしれない。アメーバ―にとっては、それは『丸いもの』ですらないだろう。」(「ニーチェ入門」竹田青嗣:193ページ)
 つまり、異なる生物はそれぞれの肉体に応じて欲望が異なるのだが、欲望が異なると世界の解釈は異なるということである。そしてどれが本当かということはないというのである。同じ個人でも人格が変化すれば世界の像は変化するだろう。人間も個人個人が異なる欲望を持ちそれだけ異なる世界観・人生観があってどれが本当というものはないのであろう。しかし、私は今ではそうは考えない。欲望には普遍度というものがあるのではないかと考えている。自分の小さな全く普遍的でない欲望と高度な普遍性を備えた欲望には違いがあり、普遍的な欲望に相関した世界観がより普遍的な世界観であると思う。しかし、それは絶対ではなくどこまで行ってもさらに高度な普遍的欲望があり、したがってさらに普遍的世界観があるのだろう。。
また、物理的事実というのは確かにある。この客観性がどこから出てくるかは、少しだけ私の考えがある。欲望の一つとして「物理的な力を及ぼすこと」を取り上げてみると、この欲望に応じて見えてくる世界観が物理的世界観であると思っている。物理的な力という概念で世界を統一的に把握したのが物理的世界観である。これについての詳しい説明は次の機会にゆずろう。
 
(5)超越項を認めない
 私は、自分の意識を超えたところに霊とか神とかが存在するのではないか、真理はそうしたところにあるのではないかとおもっていたのであるが、私の科学的実証精神の高まりも加わってであろうが、ニーチェは私のそれを破壊した。自分の意識の範囲で考察することを学んだ。それで、自分の意識を正しく認識することに真理探究の方法を見出したのである。自分の意識を超越した世界についてあれこれ空想するのを禁じたのである。つまり、私はニーチェから超越項を導入しないことを学んだのである。
 しかし、ニーチェ以後私は自分の意識に映ったこと以外は認めなかったのであるが、私の意識が身体の束縛から解放され「神」を認識したのである。3次元物理空間が拡がっていて、移動すれば見えないところも見えるようになるので、見えないから無いなどとは通用しないように、今では、意識空間も3次元空間と同じように、見えないところも移動すれば見えるという意味で超越しているところもあると実感している。
 例えば分からないことが考えて分かるようになるのは、思索という力によって観念が運動し、意識空間としての外部から観念が身体に流入したとも考えられるし、あるいは自分の身体に付着している意識体が、分かるという観念の内容のある位置に意識空間を移動したとも考えられる。
 そういうのを認識できるようになったのは、超越した世界をあれこれ空想するのを禁じ、自分の意識の事実をしっかりと認識する努力をしたからで、ニーチェの影響である。
 
(6)ルサンチマン
 岩波哲学小辞典にはルサンチマンとは「怨恨、憎悪、嫉妬、羨望などの感情が反復され内攻して心中に積もっている状態」とある。ニーチェはキリスト教道徳を弱者の強者に対するルサンチマンであるとした。弱者が善、強者は悪として、弱者は強者からは何も学ぼうとしないのである。あるいは「強者や金持ちや権力者より、弱者や惨めな者の方がじつは善きもの、幸せな存在であるとするのである。
 私自身はルサンチマンはあまり持っていなかったのであるが、また別にキリスト教徒でもなかったのであるが、神の存在を信じるものとしてキリスト教は善と思っていたのである。しかし、ニーチェはキリスト教道徳はルサンチマンであるとしたので宗教に疑義を抱くようになった。つまり、あの世という空想の世界を作り、その世界では強者は地獄に行き弱者は天国に行くとして、弱者が強者に対する恨みを晴らそうとするのがキリスト教なのだと思ったのである。今でも確かにキリスト教にはそういう側面はあるのだと思っている。
 そこで、何が正しいのかというと、それはニーチェが言っているのか竹田が言っているのかは分からないが、こう書かれている。
 「つまり、『弱者』にとって本当に重要なのは、自分より『よい境遇』にある人間に対して羨みや妬みを抱くことではなく、より『高い』人間の生き方をモデルとして、それに憧れつつ生きるという課題である。また『強者』にとって重要なのは、他人の上にあるということで奢ったり誇ったりする代わりに、自分より弱い人間を励ましつつ、つねに『もっと高い、もっと人間的なもの』に近づくように生きるという課題なのである、と」(146ページ)
 その通りだと思う。
 
(7)ラクダ―獅子―子供
  これもニーチェの有名な思想である。
 「わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせた。すなわち、精神がラクダになり、そしてラクダがシシになり、そして最後にシシが子供になった次第を。」
 ラクダとは義務感で多くの重荷を持って生きて行く状態である。私はニーチェ以前は「人間は如何に生きるべきか」ばかりを考えていた。多くの「かくあるべし」抱えて生命感が枯渇していた。それに対して獅子は「われ欲す」で生きることを意味する。自分の欲望に従うことを意味する。最初は自分の欲望を肯定するのは悪という感じがした。しかし自分に多くの「べき」を抱え生命感が枯渇していたので、ニーチェは強烈であった。「子供」はさらに無垢な自由に価値を創造する段階である。今、私は自分が価値の創造の段階「子供」の段階に入ったと自覚している。
 
(8)権力への意志
 竹田はこう解説している。
 「まず、『神』などは当然存在しない。『真理』というものもない。『人類』や『歴史』の目標といったものも、人格の形成とか、悟り、解脱といった個人の目標も、全ての任意のフィクションだと考える。さて、その上で、人間に無前提に『価値』だといえるものが存在するのか否か。−略―。『力への意志』こそがまさしくその問いに対するニーチェの答えなのである。」(212213ページ)
 ここで「力への意志」と竹田が書いているのは、「権力への意志」と同じだと思う。私はこれは生命意志、自分を成長させたい意志、私の理論で言えばどんどん矛盾を解消させたい意志のことであると思っている。つまり自分の欲望のことである。欲望を満足させるのが「価値」あるものであると言って良いと思う。欲望と言っても生理的欲求だけでなく知識欲から創造欲求も含む。
 しかし、ニーチェは個人の意志は身体に限定されていると思っていたようである。私は「権力への意志」の動機を探究しそれが最奥で宇宙の意志に到着することを発見した。最初は超越項であると無視していた宇宙の意志(=神)が自分の意識に現前したのである。ニーチェは、宇宙の意志(=神)の存在には気づかなかったようである。ニーチェが価値創造の原理とした「権力への意志」の奥には神が存在したのである。それがニーチェを超えた私の認識である。
 
(9)最後に
 「ニーチェ入門」を読んで自分が如何に多くをニーチェから学んだかを改めて自覚した。学生時代に特に専門家になるためとしてではなく余暇として、しかも精読ではなく大雑把に素人として読んだのであるが、多くの本質は捉えていたのだなと思った。その当時は極めてプライベートな思索であり、特に文章化したことは無かった。素人の読書でしかなかった(今でも素人だが)。しかし、真剣に真理を求めていた学生時代に、ニーチェになぜ真理を求めるかと動機が不純でないかどうか反省させられ、そして神とか霊とかの超越項を考えてはならないとして、私の真理の探究態度を洗練させてもらったのであることを、今回初めて自覚した。

永遠の0

永遠の0
(1)はじめに
 映画「永遠の0」を観てきた。非常に意義深い映画だった。
 特攻隊で戦死した人物が主人公であったが、戦後の反戦教育に対抗する映画ではあったと思う。映画の感想と、戦後の反戦教育の非合理性、そして私がなぜ単純に戦争を否定しないかを説明したいと思う。
 
(2)映画の主要テーマ
 この映画のテーマは、戦争に参加する兵士として、国家のために生きることと家族への愛の間の葛藤だと思う。戦後は国家のためと言っただけで、すぐに軍国主義者だと言われてしまうので、国家のためと言ってもそう簡単には理解されないと思うが、実は人間にとって国家のためと家族のための葛藤というのは根源的問題だと思う。そういう意味で、非常に意義深い映画だったと思う。
 
(3)映画の要点
 ストーリーを細かく言うと大変なので要点だけを言うと、主人公は軍隊の中で「戦死せずに生き残りたい」と主張するが、この時代の軍隊の中の常識では国家のために死を覚悟すべきで死ぬのを嫌がるのは卑怯者で劣った者であるという価値観が支配している。そして彼は軍隊の中では弱虫と評判される。しかし、この主人公は部下が戦争で無駄死にをするのを妨げようとし、それが次第に少数の人に理解されていく。そして、自分が生き残りたいのは私心ではなく家族への愛のためで、部下を無だ死にさせたくないのは、部下が生き残って世の中に役立ってもらいたいからだということも理解されていく。国家のために生きるのは肯定しているが無駄死には否定しているのである。しかし、主人公は特攻隊で戦死する。
 
(4)映画の感想
 映画を見て、国家のためだけとか家族のためだけとかいう価値観を持って生きるのは悩みが少なく生きやすいが、国家のためと家族のための両者を両立しようとすると主人公のように葛藤し苦しむ。しかし、この苦しみを避けずに生きて行く人が真に強い人だと思った。映画の中では主人公をそう評する人もいた。
 どうでも良いことで悩む人は多いが、映画や小説の中で主題となるような普遍的なテーマとなる悩みの在り方は、ある価値観を立てそして他の価値観を立て両者を両立することが困難となり苦しむというテーマだと思う。
 国家をテーマとするならば、通常は国家にいかに貢献するかというテーマだったり、国家権力といかに戦うかという一方的なテーマが多いと思うが、国家のためと国民のための両者の葛藤というのは非常に意義深いテーマだと思った。
 
(5)国家とは何か
 国家とは何かはなかなか把握しがたく私も十分に認識できたとは思わないが、少なくとも次のことは認識している。
 国家のために国民は奉仕すべきで国民は犠牲になるべきという国家至上主義も間違っているし、国民が国家のためと思ってはならず国民は自己の満足のみを追究すべきだという極端な個人主義も間違っている。国家の課題は如何に国家のためと個人のためを両立するかにあると私は認識している。これは実際難しい課題であるがすぐに実現できないと言って放棄すべきでなく、多くの困難を乗り越えてとことん追求すべき課題なのである。
 
(6)戦後の愛国教育否定論の間違い
 愛国否定論は、私も受けてきた教育であるが、戦前日本人は愛国心教育を受けてそれは良くない洗脳教育だったのであって、それは戦争につながるので国家のためと思ってはならないというのである。
 人間にとって国家とは何かを長い間考えてきたが、それはやはり運命共同体として一体観を感じる精神的紐帯だと結論した。それが無いと価値観が拡散してアノミーになるのであって、実際現在はアノミーになっているのである。
 価値観を一方的に画一化するのは確かに良くないが、価値観をある程度共有することなくしては精神的つながりが不可能になり、国民がバラバラになるのである。心の共有が出来なくなるのである。そして、これは無秩序を産むのである。
 タイトルは忘れたが、小室直樹の本で彼の分析では、日本は戦後天皇制が崩れ価値観の共有が崩壊した結果、精神的紐帯を国家の代わり会社に求めるようになり、会社至上主義が蔓延し、、各々の会社が自己のためだけに暴走し、国家全体の秩序は失われ、日本資本主義は崩壊すると結論していた。確かにそれは鋭い分析で、戦後の経済至上主義は、戦前の「国家のために生きる」の代わりになり、真面目な人は「会社のために生きる」が至上価値になっているかもしれない。それ以上の価値観は無いのであり、心の共有も会社内でのみ可能になるのである。
戦後の価値観は人間とは何かがほとんど認識できなくなって、経済至上主義になってしまっていると思う。そう言ってもなかなか理解されないが人間とは何かが認識されていないことがそもそも認識されていないのである。それは、人間とは何かとか、何が生きる意味かとか真剣に考えることをダサいこと、重くるしくて否定すべきことで、何をすることが楽しいことかのみを考えることをよしとされているのが一般に流通している価値観だからである。人間とは何かとか、死とは何かとかを考えると新興宗教に引っ掛かるというのである。実際はだからといって、そういうのを考えるのを止めるべきでなく引っ掛からないほど深く考えなければならないのである。そもそも死を直視しないことは現実逃避であり、死を直視して初めて有意義な人生を歩めるのであって、それは人間認識に不可欠である。戦争中は死が直視されていたが、戦後は死が認識されず、そのため人間が浅くしか認識されなくなったように感じている。
私は経済の効率性を追求するのを否定するのではないが、戦後は人間認識が浅くなり、そのため人間の幸福の合理的追究というのが出来なくなってしまっていると感じている。人間が経済合理性の犠牲になってしまっているのである。
 各人がそれぞれ自分の価値観を持って、価値観の共有などは求めるべきでなく、それぞれの人はそれぞれで良いのだという極端な個人主義は間違っていて、国家というのは価値観共有の源泉であり、これが国民の精神的紐帯であるのが国家の本来あるべき姿であるというのが現在の私の国家認識である。
 
(7)戦後の反戦教育の非合理性
 戦後の反戦教育ほどひどい洗脳教育はないだろう。とんでもない非合理で非現実的な考えである。少し頭があれば小学生でも間違っていると分るはずである。しかし、大の大人が真面目に教えるものだから何か正しいことを言っているのかなと思ったりしたがどう考えてもこれほど非現実的な考え方は無いのである。
 戦争をすることを放棄して軍隊を持たなければ戦争をしなくて済むと教育を受けた。太平洋戦争の教訓というのである。戦争を二度と起こしませんという誓いというのである。確かに憲法にそれらしいことを書いてある。しかし、どう考えても軍隊を持たなければ侵略されて国家は滅ぶしかない。それが常識というものでありどう考えても現実である。
 現実を認識しない理想論ほど不幸を生産するものは無いのである。戦後社会党の石橋委員長だったと思うが彼の書いた「非武装中立論」という本があった。こういう非合理な思想を政治家が書くというのは社会の現実認識が如何に理想で曇らせることができるかということを感じざるを得ない。
 戦後の反戦教育ほど狂気の洗脳教育は無いと思う。実際これが現在の日本の危機を招いているのである。尖閣問題である。国家というものは自分で守ろうとしなければ滅ぶしかないという現実は直視すべきであって現実を無視して理想論を主張してはいけないのである。
 
(8)国家のために死ぬとはどういうことか
 戦後は国家のために死ぬのは良くないことだという価値観が浸透している。これも戦後教育の産物であるだろう。それは生命軽視の非道徳的発想だと思われている。しかし、良く考えるとそうではないのである。国家のために死ぬというのは国民の生命財産を守るために死ぬのであって、決して生命軽視の思想ではないのである。生命を最大限尊重した価値観なのである。最大の価値のために生きようとしているのであり、最高の価値観であって、決して狂信的でも軽薄でもないのである。私には戦後の教育の方がどうしても浅い人間認識であり軽薄な思想であると思える。
 人間は自分のためにだけ生きればよく、人のため社会のため国家のため人類のために生きようとするのをすぐに独善だと受け取り悪く思おうとする風潮は良くないと思っている。人のためと言っても相手を誤解すると独善になってしまうことは確かにあるが、人のために生きようとする意志は決して否定すべきではない。世のために役立つことは価値のあることなのであり、多くの人がそのように生きることで世界は良くなるのである。
 
(9)私が安易に戦争を否定しない理由
 私が何らかの形で戦争を肯定したので誤解を受けているようである。私は自分が非常に理想を高く持っていると自覚している。しかし、現実を直視する精神も持っていると自覚している。その源泉は科学精神にあると思っている。科学というのは現実を直視し理想を高く持ち、現実認識に基づいて着実に一歩一歩前進していくのである。高く理想を持つほど現実を直視しなければならないのである。現実を直視しない非合理な発想は理想の実現を妨げるのである。私はその精神をあらゆる精神活動に浸透させたのである。したがって、社会認識にもその精神が貫いているのである。
すると認識できるのは戦争を欲しないからといってそう簡単に戦争が無くなることは無いのが現実ということである。愛が幸福を招くという宗教的発想をしてもそれは現実を変えることはできないのである。精神には確かに精神の法則はあるが、だからと言って、精神的理想論では戦争は無くならないのである。世の中を良くするには、現実を直視しなければならず、現実的過程を飛び越えて理想を実現することはできないのである。戦争を肯定して平和を意志しないのかと言われるかもしれないが、原始時代の科学知識でパソコンを作れないのと一緒で、意志してもできないのはできないと言わざるを得ない。
アメリカの有名な天才と言われる言語学者にチョムスキーという人がいるが、彼は人間は言語的存在だから問題は言語活動で解決すべきで、暴力で解決すべきでないという発想に基づいて反戦活動をしている。ベトナム戦争にも反戦運動をしていたと記憶している。そして最近は辺野古への基地移設にも反対を表明している。確かに彼は天才かもしれないが、それは彼の理想論に過ぎないのである。そういう発想をすると警察権力も否定され犯罪も説得だけで解決すべきということになってしまうがそれは現実的には不可能なのである。
 
(10)世界の精神的紐帯
 国家が国民の価値観統合のための精神的紐帯になるのが国家の本来あるべき姿であると言った。すると、各々の国家が各々の国民の精神的紐帯となっても、異なる国家間では精神的紐帯が繫がっておらず対立するので、国家間の対立が無くならないのではないか。国家が精神的紐帯となるのは一つの国家の独善であって世界的に通用する普遍的価値を確立すべきではないかという発想が現在ではすぐに出てくると思う。
 確かにそう思うのが国家間の交流の激しくなった現代的考えだと思う。しかし、その実現のためには現実に立脚し歴史の法則を認識しなければならない。それには歴史を形成したのは精神だという真理を認識する必要がある。精神とは何かを認識するのは確かに至難の技で私自身常識をはるかに超えた苦労の思索の上初めて認識できたのである。精神を認識するとは抽象的に精神を推論することではない。心の運動機能を実現している根本機能が精神なのである。「思う」ことがいかに実現されているかの原理が精神なのである。そうはいっても、通常に認識では、「思う」ということがどういうことかを認識されていないことが認識されていないし、ましてや「思う」ということを認識することはどういう心境かということは想像できないと思う。実際精神を認識するとはそれを認識することである。そして世界史を実現したのが精神であるというのを私はヘーゲルから学んで認識したのである。
 そして、今年になって発見したのが日本精神であり、実は世界を統合し世界の精神的紐帯になる歴史的必然を持った精神が日本精神であるということである。これを実現することを日本国の使命と認識したのである。しかし、これを納得させるのは困難だと思っている。唯物論が常識を支配しているし、唯物論でなくとも、国家のためとか世界のためとか言ったら独善と思われるし、ましてや世界を日本が統合するとか言ったら日本の世界侵略とか言われるだろう。しかし、これは精神とは何かと言う高度な現実認識に基づいているのである。それを理解させるためには精神とは何かをもっと説明する必要があると思っている。
 私はヘーゲルが高度な真理を認識していて、これほど誤解を受けた哲学者も珍しいと思っている。ヘーゲルが口を酸っぱくして主張していることをほとんどの哲学者が理解していないのである。ヘーゲルを高く評価しているのはヘーゲルを最も誤解したマルクス主義者である。しかし、彼らでもヘーゲルが何を認識していたかを全く認識していないし、精神とは何かも全く認識していないのである。
 精神とは何か意識とは何かはこれからも詳しく説明してゆきたい。
シェルドレイクの形態形成場理論
(1)はじめに
 ルパート・シェルドレイクの「生命のニューサイエンス」を読んだ。この本に書かれている形態形成場の理論は私の直観していたイメージとかなり共通の部分があった。私が断片的に受けたインスピレーションと同じものが沢山あって、しかもそれが体系的に整理されている。ニューサイエンスにはどんちゃん騒ぎの時期もあったが、ボームとこのシェルドレイクは時代の波に耐える古典であると思う。
この本は「ネイチャー」誌からは焚書ものとされたようだが、哲学的にもきちんと考察されているし、形而上学的に断定して終わりでなく、実証精神もあって、科学として良心的である。
この理論は機械論的唯物論に終止符を打ち、将来はケプラーやガリレイのような古典になると確信する。科学革命の端緒と位置付けられるだろう。シェルドレイクより後に産まれたものとして、私の課題は彼の理論を発展させることだと思っている。形態形成場やその作用の数学的表現や、物理の基本法則である、電磁相互作用や核力、重力の形態形成場への還元は私の課題だと思う。
私は生物学の知識が欠けているので生物への応用はもっと後になると思っていたが、その部分を補ってもらったようである。この本のおかげで、
Nakamura宇宙模型の具体化はかなり早まった。
 
(2)形態形成場とは何か
 形態形成場とは、生物の構造と機能を現実化するために働く時空を超えた場というものである。細胞が細胞の構造を取るのは、機械論的因果律のみで説明されるのではなく、形態形成場というのが在って、それが細胞に作用しその結果細胞の構造が出来ると考えるのである。
 これはたぶんアリストテレスの形相の思想の影響を受けているように思われる。それを精密化し実証できるようにした理論である。
この理論が科学としての権利を得るためには、物理的因果律がそれだけで閉じてはいず、形態形成場の作用によって破れているとしなければならない。物理の法則が生命の中でも破れていないというのは証明されたことではない。分子生物学が扱うような高分子の振る舞いは量子力学的に、機械論的に厳密に計算するのはほとんど無理なようである。生命の自己組織化には物理の法則を破った形態形成場の作用が貢献していると考えるのである。
また生命のみでなく、原子核を創る強い相互作用や原子を創る電磁相互作用も、細胞を創る場と同じく形態形成場と考えるのである。つまり、従来の物理の根本法則も形態形成場の一つとして位置付けるのである。
形態形成場は階層構造になっていると考える。原子核をそれたらしめている形態形成場、原子の形態形成場、分子、高分子、細胞、臓器、個体の形態形成場と階層構造を持つものと考える。
個体の主体が個体の身体の運動を統御しているが、その統御のメカニズムは、個体を個体たらしめている形態形成場が臓器の形態形成場に作用し、臓器の形態形成場は細胞の形態形成場に作用し、とどんどん続き、原子核の形態形成場に作用し、最終的にはそれが素粒子の波動関数に影響を及ぼすのである。
 電場は電子の電荷に作用する。形態形成場は何に作用するのかというと、それは特定の時間・空間構造にである。細胞が自己形成するように形態形成場が作用するのは、細胞の材料が特定の構造を取ったときである。構造が荷量の役割を果たすのである。形態形成場の理論は電磁場と電荷の関係を一般化した理論である。
しかし、形態形成場は時空を超えたということで曖昧に済ますのではなく、時空を超えた理論を創らないといけないと思う。そのためには、時空の根源を追求するツイスターの理論の研究は不可欠であると思う。
 
(3)学習のメカニズム
 細胞を創る形態形成場がどのようにして決まるのかというと、過去の同種の細胞が取ったような構造になるように定まるとする。過去の同じ構造を持った細胞がそうなったのと同じようになるように今の細胞に形態形成場が働くと考える。形態形成場は時間空間を超えて働くのである。他の場所の過去の細胞の構造が、今のここの細胞に影響を与えるのである。
 シェルドレイクは、生物の構造のみでなく、動物の本能や学習も形態形成場の作用によると考えている。つまり過去の動物の行動がこうであったので、現在の動物の本能はそうあると考えるのである。本能の全部がDNAで決まるのではなく、一部は形態形成場の作用によるものとする。
 ロンドンの実験室で千匹のラットにある新しい課題を遂行させる訓練をすると、このラットの訓練の結果が形態形成場に影響を与え、自分の訓練して得た結果と同じ構造を与えるような場に変え、その後では、世界中のどこの実験室のラットにもこの形態形成場が作用するため、この同じ課題をたやすくこなせるようになるのだと予言する。これは実験可能である。形態形成場の理論は形而上学的空論ではないのである。
 
(4)進化論
 遺伝に関してはDNAによるものと形態形成場によるものの両者を認めているようである。動物の行動は過去の同じ動物の行動が形態形成場に記憶されそれが今の動物の行動を引き起こしていると考える。 
 ラマルクの獲得形質の遺伝の理論では、獲得形質は、形質を獲得した個体の子孫のみに遺伝すると考えるが、形態形成場の理論では、その子孫のみではなく同じ種の全ての個体に獲得形質が伝わるとする。
 シェルドレイクの考えでは、ネオダーウィズムは獲得形質が遺伝しないという点で間違っているが、ラマルク説も獲得形質が子孫にしか遺伝しないという点で間違っていて、学習によって得られた獲得形質は形態形成場によって全ての同種の個体に伝わるとする。
 私は生物の進化はその種の個体の努力の総和によってなされたと考えたいという欲求を持っている。その点では、形態形成場による生物の進化はそれにかなっているメカニズムなので、シェルドレイクの説に賛成したい。
 
(5)Nakamura宇宙模型との対応付け
 Nakamura宇宙模型では、生物の構造が細胞―臓器―個体という統一力の体系を成し、さらには意識にも目的―手段の体系が在って、その頂点はクォーク宇宙の統一力であり、末端が、我々の宇宙である電子宇宙に出現しているクォークであるとした。Nakamura宇宙模型と対応付けると、形態形成場の構成する体系はクォーク宇宙の統一力が分化してできた統一力の体系である。形態形成場が生物などに作用して構造を形成する力をNakamura宇宙模型では統一力と呼んでいるのである。シェルドレイクの理論では、形態形成場の体系の頂点と末端が何であるか、形態形成場はどのように作用するかが明らかになっていないが、Nakamura宇宙模型では形態形成場の体系の頂点はクォーク宇宙の統一力であり、末端はクォークであり、形態形成は最終的にはクォークに作用して生じるとする。
 時空とは何かについてもNakamura宇宙模型は一歩前進している。我々の宇宙を考えてみると、我々の宇宙を実現した統一力というものが在り、それが無数の電子に分化し、電子を存在たらしめ、電磁相互作用を創り電子同士を相互作用させ、そして時空を形成したと考える。一つの統一力が、電子と電磁相互作用と時空を創りその三者はセットであると考える。同じく、クォークについて、それは我々の宇宙に存在する純粋なものではなく、我々の宇宙の外にある、クォーク宇宙の統一力が我々の宇宙に作用しようとし、その過程で何段階も分化し統一力の体系を創り末端で我々の宇宙に出現したものと考える。クォークは我々の宇宙に純粋にあるものではなく、我々の宇宙の外にあるクォーク宇宙に起源をもつものである。電子宇宙の場合統一力の分化は一段階で終わるが、クォーク宇宙の統一力が我々の宇宙に作用するときは何段階にも分化し、分化のたびに一つの時空を創ると考える。その構造は4次元時空とはかなり異なるかも知れない。
 生物の形態がなぜそうなっているのかを説明するには、我々の宇宙の時空がなぜそうなっているかを解明する必要があると思う。
 私は、私の今後の課題としては、形態形成場の構造と作用の数学的表現と時空の起源の解明が最重要だと思っている。何よりも物理の法則が生命において破れていることの実証も重要である。

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