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意識は錯覚か
(1)はじめに
「意識は錯覚である」と主張する科学者もいるので、それについて反論したい。その場合、意識の意味するところが、物質を対象とする「対象意識」と、自分の心を対象とする「自己意識」を区別した方が良いだろう。
「対象意識」とは例えば、リンゴが見えるときリンゴを認識する意識の事であり、一般に外界についての意識である。
「自己意識」とは、今自分は怒っているとか、今自分は考えているとか自分についての意識のことである。外界に対して言えば、内界についての意識のことである。
(2)対象意識は錯覚ではない
自分がリンゴを見ているとき、別の方角から他人が同じリンゴを認識したとすると、他人にはリンゴは少し違って見えると思われる。他人の意識は認識できないが、他人には他人の視点でリンゴを含めた世界空間像が映っているはずである。通常は他人の意識は表情や動作から推測するが、他人の意識はそれだけではなく、他人の内面には外界という世界空間像が映っているはずである。「世界像」というのは対象意識があって初めて経験できるのである。
したがって、世界には物があるだけでなく、物を認識している対象意識という存在があるのである。確かに対象意識は物のように空間の中に局在するものではないが、もし対象意識がないとすると、物の経験が成り立たないのである。
(3)自己意識は錯覚ではない
自己意識があるということの論証として、自己の経験を対象化する主体があるということを説明しよう。
「自己意識は錯覚である」という立場は、物質についての記憶は認め、意識はそれからにじみ出た錯覚と考えているようである。しかし、記憶は経験の対象化の一例であり、それは理性による経験の対象化の一つであり、外的経験も内的経験も対象化する理性という主体が存在するのである。
理性の基本機能として、自分の意識を対象化して認識する機能というのがある。リンゴをおいしいと思ってすぐに食べている状態が本能的であるのに対して、リンゴを客観視し、対象化し、成分を化学分析して、化学成分を抽出するというのは、理性のなすことである。本能的経験を中断して、経験を客観視するというのが理性の基本機能である。
物質科学では、「リンゴを食べる」などの物質を対象とした行為を本能から切り離し、物質を客観的対象にし、物質の法則性を発見する。しかし哲学では、それだけではなく、本能的思考も自己から切り離し、思考を客観的対象にし、思考の法則を発見する。本能的思考とは自分がどういう思考方法をしているかについて無自覚な思考のことである。思考を対象化して正しい思考方法を主張したのが、アリストテレスやヘーゲル、西田幾多郎が行った論理学である。大哲学者の思考の自己認識能力は科学者に比べれば相当ずば抜けている。正しい思考を常識的本能的思考を離れて模索し追求した科学者はボーアとアインシュタインぐらいである。哲学もしたが哲学と物理の統合までいかなかった科学者としてボームがいる。アハラノフ・ボーム効果のボームである。彼は哲学者としても優秀だ。ほとんどの科学者は思考がまだ本能的である。しかし、ボーア、アインシュタイン、ボームも意識と物質の整合的認識は時代的制約もあるが、全くまだまだである。
ともかく、自分の経験を対象化し、観念を操作する思考というのがあって、これは思考の主体というものの存在があることを意味する。観念操作の主体である。「主体」概念は物理学には無いものである。
主体も錯覚という科学者もいるが、そういう場合は、「どうぞ自分を自動機械と思ってください」としか言いようがない。主体を錯覚という人間観ではまともな人間関係も社会も築けない。
したがって、自己意識は錯覚ではなく、主体は確実に存在する。
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唯物論批判
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世俗唯物論と科学者唯物論
(1)はじめに
世俗向けに唯物論批判をすると、「唯物論」の概念に食い違いが生じることが分かった。世俗の人が「唯物論」という言葉で指し示すのは、「科学が唯物論である」と言った場合の「唯物論」の指し示す意味とは違っている。この違いを説明しよう。
(2)世俗唯物論
科学を学んだことのない世俗の宗教信者は、唯物論者は眼に見えない神や霊を信じないと、唯物論者を見下す。この時の唯物論者は唯物科学者を含んでいるかどうかは分からないが、「眼に見え、手で触れるものしか信じない人」という意味で、「唯物論者」という言葉を使っている。そういう唯物論を「世俗唯物論」と呼ぼう。他方、現代唯物科学の唯物論を「科学者唯物論」と呼ぼう。
そしてまた、宗教信者は、神や霊の存在は証明できないから、信仰すべきと主張するのである。
(3)科学者唯物論
では、科学は眼で見え、手で触れるものだけが存在すると考えているのかというと、そうではなく、五感に映るものは存在する者の一部でしかなく、存在する者の大半は、眼で見えないし、手で触れないと考えているのである。
たとえば、現在は携帯電話が普及していて、電波の存在は常識になっているが、電波はもともと眼で見えないし、手で触れないものなのである。電流と電波の相互作用が研究され、電磁気学が進歩した結果、電流回路を電波と相互作用させ、無線で音声通信できるようになったのである。その結果、電波の法則を知らない世俗の人も電波の存在を常識として知っているようになっている。
(4)世俗唯物論者の無知
眼で見え、手で触れるものだけが存在すると思い込むのは、本当に無知である。霊や神を考える以前に、眼に見えないものとして「心」がある。「心」を認識するのは、人間にとって重要な課題である。自分の心を深く認識するのも大切であるが、他人の心を正しく認識する努力も大切である。心は眼に見えないし手で触れないが確かに存在しているのは分かるのではないだろうか。
(5)科学者の立場
宗教信者が、神や霊を信ずるべきという主張に対して、科学者は次のように考えるだろう。「神や霊が存在すると主張するならば、眼に見えない電波が存在し、電波の法則が分かり、電磁気学やエレクトロニクスが進歩した結果、電波の存在は強固に証明されたように、神や霊のモデルを立てて、眼に見えるものとの関係で神や霊の存在を証明すべき」と言うだろう。
実証精神というのは、真理の探究にとって不可欠であり、実証精神が欠落すると妄想の世界に突入していくしかない。
(6)「宗教」と「科学」の対立を止揚した「神科学」へ
科学は眼に見え手で触れないものを存在すると弁えている点で「世俗唯物論」よりも上であるが、心は物質である脳が産んでいると勘違いした点では、実証精神の欠落した宗教とどっこいどっこいである。
宗教のなすべきは神や霊の存在を信仰で済ますのではなく、その存在を実証する心構えを持つこと、科学のなすべきは、実証精神を維持したまま神や霊の存在を取り入れることである。そして両者のなすべきは、4次元時空を超えたところに個人を超えた普遍的意識としての神が存在し、それを実証することである。これが「神科学」である。この研究が進むと、電波の存在が常識になったように、神や霊の存在が常識になることが期待される。
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唯物論的認識論の破綻
(1)はじめに
科学者には唯物論者が多いが、唯物論的に認識メカニズムを説明しようとするとそれは破綻する。本記事ではその唯物論の欠点を説明しよう。
(2)「物」の定義
先ずどういう存在を「物」と言っているかを説明しよう。
①空間を占有する。つまり、同じ場所に二つ以上のものは存在できない。
②受動的にのみ運動が決定し、自発的には運動しない。
③意識を持たない。
以上が一般的定義だが、物理的にもきちんと定義しよう。物理的に存在するものをすべて物と呼んでよいかどうかは分からないが、先ず電子、μ粒子、τ粒子、そしてこの3つにそれぞれ対応するニュートリノ、そして6種のクォークが物質粒子あるいは物質場と呼ばれている。それは同じ状態には2個以上は入れない(パウリの排他律)ので、物質的性質を帯びてくるからである。物質粒子はフェルミオンでもある。それと異なるのが力の粒子、あるいは力の場である。これはボゾンと呼ばれる。それでもっとも有名なのは電磁場を量子化した光子という粒子である。電子が光子をやり取りして力を及ぼしあうので力の粒子と呼ばれている。ボゾンである光子はフェルミオンと違って、同じ状態に何個でも入ることができる。だから物の定義の「①空間を占有する」は成立しない。光子を「物」と呼んでよいかどうかは分からないが、広義の「物」としよう。光子と兄弟の関係にあるものとしてグルーオンとウィークボソンとグラビトンがある。グルーオンはクォーク同士を結び付けている力の粒子である。ウィークボソンは弱い力の媒介粒子である。グラビトンは重力波を量子化した粒子で未発見であるが、この測定は非常に難しく、そもそもが重力波もまだ観測されていない。
物理的に存在するのは、これらの物質粒子と力の粒子であり、空間を占有するのは物質粒子だけで、力の粒子は空間を占有しない。同じ状態に何個でも入れる。そして両者ともに受動的に運動が決定され、意識を持たないとみなされている。物理的に「物」と言ったらこういう存在である。
(3)厳密な唯物論
こういう「物」しかないというのが厳密な唯物論である。「実験装置で観測されるのは物質粒子か力の粒子だけではないか」「意識なんて観測装置にかからないではないか」というのである。哲学的に言えば「存在するとは空間において存在するものである」「空間において存在するものは物だけである」という論法である。
しかし、この唯物論は物を認識している意識の存在を見落としている。物を存在すると思うのは意識である、物質を存在すると認識するのは意識である。厳密な唯物論は物を認識している意識の存在を見落としている。
(4)緩和された唯物論
物を認識している意識の存在を認めるが、その意識は物である脳が生んでいると考えるのを緩和された唯物論と呼ぼう。唯物論と呼ぶのだが、物が一次的存在であり、意識は二次的存在と言えるだろう。
これは多くの脳科学者の立場であろう。脳科学の研究では多くの脳の状態と意識の状態の対応関係は発見されている。脳がこういう状態ならば意識はこういう状態であり、意識がこういう状態ならば脳はこういう状態であるというのは確立されている。しかし、「それがなぜか」については全く解明されていない。なぜA10神経を刺激すれば快感が得られるのか、なぜエンドルフィンが分泌されれば多幸感が得られるのか、なぜ視覚中枢に神経信号が伝達されれば視覚映像の意識が生じるのか、脳のある状態がなぜ意識の特定の状態を引き起こすのかの解明は全くできていない。
その原因は意識と物質の関係が解明できていないからである。
(5)脳科学は主観的観念論?
意識を脳が産むと考えると、人間の経験することのすべては脳が産んだ意識であるということになる。人間がバラの花を見たとき、人間が経験するのは外部のバラの花ではなく、脳が産んだ意識としてのバラの花であることになる。そもそも外部から感覚器官を刺激しその信号が脳に伝わったとき、脳が意識を産むとされるのであるが、それが外部のあるがままであるということは保証されていない。あくまでも脳がある意識を産むとされているのである。
したがって、脳が意識を産むと考えると、自分の意識内容はすべて脳が産んだものであり、外部のあるがままかどうかは全く分からず、したがって外部はどうでもよくなる。つまり、脳が意識を産むという考えは、自分が経験していることは外部の存在ではなく、脳が産んだ意識であるという主観的観念論になる。
(6)主観的観念論
順序は逆になったが、「主観的観念論」を説明しよう。
普通の意識では五感に映る「物」の存在が堅固なものに感じられる。しかし、深く反省してみると、意識に物という像が映っているということが疑えない事実であり、物があるかどうかは疑えることがわかる。例えばクラシック音楽を聴いたとき、自分は気持ちが良いのだが別の人が聞いたら退屈で仕方がないという。同じ音楽を聴いても異なる個人には異なったように意識に映っていることが分かる。確実に言えるのは、クラシック音楽は気持ちの良い音楽であるということではなく、自分の意識にはクラシック音楽は気持ちが良いと映るということである。
一般に意識に映ったことは外界のあるがままかどうかわからないので、言えることは「私の経験するすべては私の意識の現象である。」であり、その考えを主観的観念論という。他人の存在は証明できない。証明できるのは自分の意識に他人と思われる存在が映っているということだけである。このとき世界とは私の意識に映るすべてのことになるが、そうすると「世界はすべて私の意識の現象である」ということになる。その行き着く先は、「世界に存在するのは自分だけである」という独我論である。
観念論は「意識に物が映る」と考えたとき、その映り方が物のあるがままであるということをどう保証するかという深刻な問題を含んでいる。
(7)予告
私の考えは、脳が意識を産むのではなく、意識は脳ができる前から物理空間の外に存在し、脳は意識と物質の相互作用する場所であると考える。そういう考えをもとに意識が外界を認識するということはどういうことかを考えた結果、外界を認識するとは意識に物が映ることではなく、物も広義の意識と考え、意識としての物と人間の内的意識が結合することであるという「結合的認識論」を着想し思案中である。考えがまとまったら報告する。
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ある唯物論的見解に対する反論
(1)はじめに
今日は予期せずに、埼玉から親戚があいさつ回りで訪ねてきた。以前から、唯物論者と聞いていたので、さっそく議論を吹っかけて、自分の説がどう受け取られるかの反応を調べた。向こうも、忙しくて10分ぐらいしか議論できなかったが、学生時代の後半は私自身唯物論者だったので、向こうがそういう考えをするのはもっともだけど、それはやはり唯物論的偏見であると思った。
彼に反論したわけではないが、議論の後で考えて、彼の唯物論的見解に対して、自分の説をどう説得するかを考えてみた。
(2)唯物論の立脚点
この立脚点は多くの唯物論者の立脚点だと思われる。それは、「意識を所有するのは物質である」つまり「人間の脳という物質が無ければ意識はない」という考えである。それと、「意識は完全に物質が規定している」とも主張していた。
そして、私の「意識のない原子が集まって意識を産むというのは、説明できないのではないか」という問いに対しては彼は答えきれなかった。
(3)意識を異次元空間に存在すると考える
意識のある所には物質が付着しているというのは、この我々の3次元宇宙だけをすべての世界と考えた場合のことである。通常意識のあるのは人間だけであると考えられているし、しかも脳の無いところには意識は無いからである。しかし、それは宇宙を4次元時空だけと考える先入観に災いされているのである。この考えだと、そもそも意識とは何かを説明できなくなる。4次元時空内に存在するのは物質だけだからである。人間が物を見て「物がある」と意識することは一体どういうことなのかが説明できない。意識は脳が生んでいると強弁するが、それはどうやってなのかは説明できない。
それで、意識は脳ができる前から、異次元空間に存在していたと考えるしかないだろう。そして、下図のように、意識の我々の物質宇宙への侵入は最初は最も低次でクォークを介してだと考える。下図は意識と身体はどういう関係にあるのかという心身問題の解決法として非常に重要である。
先ず意識とは何かの流れであると感じられる。そこでこれを一般的に「光」の流れと考えられる。その光が強いときは希望の光とか理性の光と比喩的に捉えられている。また、何かひらめいたことを漫画では頭のランプが点くように表現するが、それはまさに意識の光である。それで意識があるということを、「意識の光が流れている」と表現しよう。わざわざ「意識の」光というのは、通常の電磁波である「物理的」光とは区別してである。
そこで、人間の意識をどうとらえるかだが、人間の意識の光の流れの全体を、人間を構成しているクォークの意識の光の流れの総和だと考える。しかし、単なる総和ではなく、下位の意識の光の流れを統合し束ねて高次の意識となる。クォークは通常の物理学では3次元空間内に存在する粒だと思われている。しかし、私はクォークは単なる3次元空間の粒であるだけでなく、3次元空間を異次元方向に貫通している意識の光の流れであると考えている。ただし、意識と言っても人間のような高次の意識ではなく、それよりもはるかにレベルの低い意識である。下図の通りである。下図では3次元空間を平面として表し、それと直交する方向に意識の光の流れを表している。ひょっとして、読者は異次元方向とは自分が存在する3次元空間のどの方向かと悩むかもしれないが、3次元空間のどの方向でもなく、それとは別の方向であるとしか言えない。
(4)意識の物理宇宙への出現の説明
唯物論では意識の定義を不明確のままにして、先ず、物質だけの世界があり、物質が偶然ある集まり方をして生物が出現し、それが進化して人間となって意識を持ち始めたと考える。メカニズムは分かっていないがともかく物質が意識を産んだと考えるようである。これでは実際説明不能なことが多すぎる。
しかし、私の考えでは、意識は脳が生じる前から異次元空間に意識の光の流れとして存在し、その流れをクォークの意識の光の流れの総和として物質宇宙を貫通したときが、その意識の物理宇宙への出現であると考える。
(5)意識と身体の相互作用
主に脳が関与していると思われるが、身体を構成しているクォークの配列が変化すると、クォークとして流れる意識の光の流れが変化する。例えば知覚はそれで説明される。目に0.7μmの波長の光が入ったとき、その信号が視覚中枢に到達すると、それを構成するクォークの3次元的物理的配列にある変化が起こり、それによってクォークの意識の光の流れが変化し、そしてそれらを束ねる意識が変化する。それによって「赤」という意識が生じるのだろう。
そして意識にある意志が生じると意識の光の流れが変化し、それがクォークの状態の変化を引き起こすのだろう。例えば、食べるという意志が生じたとき、意識の光の流れがそれを実現するように変化し、それが顎や舌の筋肉や喉の筋肉の運動を「食べる」が実現するように変化させるように、脳の神経回路に信号を巡らせる。このメカニズムで意志が身体の運動を引き起こす。
(6)「物質が意識を一方的に規定する」への反論
ここで反論と言っているが証明はまだできていないし、唯物論者のこの考えも証明されているわけではもちろんない。私の立場は「物質が意識を規定している場合もあるが、意識が物質を規定している場合もあるのではないか」という立場である。今は、私はこういう方向で考えてゆき、そして証明しようと意志していると主張するだけである。
物質が意識を規定していると思われるのは特に生理的欲求の場合である。これはかなりの程度物質が意識を規定していると思われる。それに対して、意識が物質を規定しているのではないかと思われる場合は、自己変革しようと自分の意識を習慣的運動から変化させようとしている場合である。例えば外国語を修得しようとして、単語を苦労して覚えようとしているときは、意識が脳に変化を引き起こしているのではないか。そして習熟したときは脳が変化したので、それ以後は脳を構成している物質が意識を規定しているのではないかと思われる。特に浅い自己を否定して深い自己を顕在化しようと努力しているときは意識が脳や身体を自分に合わせるように規定しているのではないかと考えている。
(7)唯物論と観念論の欠点
唯物論は物質が一方的に意識を規定すると考えるが、そういう考えだと本能にしたがうのを無批判に肯定し自己変革をしようとする意欲を削ぐ傾向にあると思われる。私の会ったマルクス主義活動家には確かにそういうところがあった。
他方観念論は意識が一方的に物質を規定すると考えるので本能を抑圧しすぎ、神経症を産む原因になっているのではないかと思われる。これはフロイトの精神分析の観点から私はそういっている。性欲を抑圧しすぎて神経症になるという話である。
幸福を獲得するために物質を制御すればよいという考えを私は物質主義と呼び、現代の唯物科学文明はこの傾向性が非常に強い。そして幸福を得るためには精神を統御すればよいという考えを精神主義と私は呼んでいる。しかし、過去の精神主義は非合理的精神主義であったように思う。心の運動法則をあまり合理的には捉えていなかったようであるからである。例えば戦中の日本では、竹槍で米軍の爆撃機を落とそうという非合理な精神主義であった。精神力が強ければなんでもできるという考えである。私は意識の法則に則った精神主義を奨励したい。イメージとしてはブルドーザーのようにただ念を強くすればよいというのではなく、コンピューター制御の機械のように、きめ細かく意識を統御するという発想である。
そして良く、私が精神主義を主張するとすぐに物質主義を否定すると勘違いする人がいるが、私は、物質を制御して幸福を得るという考えは否定しない。物質主義のみを肯定して精神主義を完全に否定すると、精神の統御ができなくなって、その結果むしろ物質の統御もできなくなる。逆に、物質主義を否定して精神主義のみを肯定すると、物質の統御が全くできなくなり、文明のレベルが落ち、食べるのに不自由して精神的高尚さというのは不可能になり、精神主義も不可能になる。精神主義と物質主義は対立するのではなく互いに助け合うのであり、両方があってはじめて人間の本当の幸福は実現できる。
(8)まとめ
「意識があるところには必ず脳という物質がある」そして「物質が意識を一方的に規定する」という唯物論者の考えに対して「脳ができる前から、意識は異次元空間にあり」そして「物質が意識を規定する場合もあるし、意識が物質を規定する場合もある、前者は主に生理的欲求の場合で、後者は主に自己変革の努力の場合ではないか」と私は主張する。
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物理的客観性と哲学的客観性
(1)はじめに
物理的客観性が本当の客観性であり、それに比べると哲学は主観的思い込みあるいは妄想であるという見方が科学者に流布しているように思う。というのは以前は私自身もそう思っていたからである。
私はそれほど沢山の哲学を勉強したわけではないが、少なくともヘーゲル哲学と西田哲学は、物理的客観性より高度な客観性を持っていると認識している。そういうことを説明して行こう。
(2)物理的客観性
物理的客観性の見方は、外的世界が世界の全てであり、そこに起きたことのみが客観的に起きたことであり、主観は曖昧なので本質では無い、したがって無視して良いという見方である。
物理学では世界を観察したり実験したり、計算したり、概念を組み立てたりするが、それは、外的事実ではなく、つまり物理的客観的事実ではなく、主観的出来事なのであるが、物理をするという主観があるのは物理学者でも分かるはずである。物理学は物理学をする本人の意識を無視して説明していないのである。物理を研究する主観を考察対象から除いて無視するというのが物理的見方なのである。
そこには客観的現実とは3次元空間内の素粒子の配置と運動であるという物理的見方がある。ニュートンの運動方程式を解くというのは、解いている本人にとっては主観的出来事であるが、その時の意識は無視して、意識があることの客観的現実とは脳の神経回路の現象であると見なすのであろう。主観的意識というのは客観的実在ではなく脳が客観的実在と考えるのであろう。しかしそれは、証明されたことではない。主観的意識はそのままで客観的実在ではなく、脳が客観的実在であるという考え方が出てくる原因は、実在は3次元空間内の物質のみであるという思い込みに由来すると思う。意識を捉えようとするとき、3次元空間内の物理現象として捉えないと分かった気にはならないという物理学者の習性があるのであろう。しかし、実際は意識現象は3次元空間内の物理としては捉えることができないのである。
「主観は実在ではない」「実在は脳である」というのが物理的あるいは科学的見方なのであろう。主観を無視するのは本当はおかしな見方なのである。本当は、「主観は曖昧であるから本質ではなく捨ててよい」のではなく、「主観は客観的世界像においては本質なのであるから、明晰に把握しなければならない」というのが正しい方向なのであるが。
(3)哲学的客観性
明確に見据えないといけないのは、世界は主観が客観を認識したり、あるいは主体が客体に作用するという主―客の関係で成り立っているということである。主観を捨てて客観のみ実在とするのではなく、主観と客観を丸ごと把握しようとするのが哲学的客観性である。
哲学的客観性、は思索するうえにおいても高度な客観性が要求される。物理をするときは自分の思索過程を観察することは少ないが、哲学は完全に自覚的に思索をしなければならない。ただ考えるだけではなく、自分の思索過程を観察しながら思索しなければならない。これができる哲学者が論理とは何かを提示する論理学なるものを構築できるのである。
そして、主観と客観がいかなる相互作用をしているかを認識するのが世界の認識になるのである。私のそういう思索の結果は、通常唯一の宇宙とされている物質宇宙の他に同等な宇宙として意識宇宙なるものを考え、意識宇宙と物理宇宙が空間を共有しようとして進化しているという宇宙モデルに結実した。それを思い込みとか妄想とか思い込む人は多いかもしれないが、それは自分の意識をどこまでも客観視することができない人の感想にすぎない。先ず、自分の意識が客観的に実在するという現実を客観的に認識できず、「自分の意識は本質ではなく、脳が思っている」とかいうように、自分の意識と脳を区別できず、混同しているようでは客観的真理は認識できないので、意識をそのまま意識として捉えきれるように努力せねばならない。
意識は脳が産んでいるというような、証明されてもいないことを確信する唯物論信仰から脱却し、意識は脳ではなくそのまま意識として実在するという事実を科学的にどう受け止めるかを真剣に考えないと真理は分からない。
(4)科学的実在
科学者には、物理的実験に引っ掛かるものだけが実在と見なす人が多いかもしれ
ないが、そうすると、たとえ脳の神経回路の運動は実験に引っ掛かるかも知れないが、意識そのものは物理的実験に引っ掛かることは無いので、その行きつく先は必ず唯物論である。これは唯物論の証明ではなく、唯物論を前提とした結果唯物論的結論が出ただけである。物理的実験に引っ掛かるものだけを実在とするというのが、既に唯物論を前提としているのである。
では物理的実験に引っ掛かるとはどういうことかを考えてみよう。物理の原点はニュートンの運動方程式である。これはma=F(質量×加速度=力)と表せる。物理的作用とは力なのである。力が作用すると運動量やエネルギーをやり取りすることになる。そして物理的に実在するとは力を作用する潜在能力があるもののことである。もし頭の中で何かが実在すると想定しても、考察の結果実験装置に何ら力を作用させる可能性が無いならば、それは実在しないと見なしても良いことになる。物理的に実在するとは、力を作用する可能性のあるもののことである。そういう意味で電磁波は物体ではないが実在であるし、ニュートリノも実在なのである。現代物理学の実在観は場の一元論に集約されたが、場とは力を作用する可能性の在るもののことである。場は姿かたちは無く、従来の物質観とは異なるが、力を作用する潜在力があるという意味で実在なのである。
(5)意識の実在性
意識が実在するとは、必ずしも意識が物理の実験装置に力を及ぼすということは意味しない。では、意識が全く物質に力を及ぼさないかというとそうでもないと思う。心の中で右手を上げようと思って、それから右手を上げるのは、意識が身体に作用した、つまり、意識が物質に力を作用したことを意味すると思う。念力があるかどうかは分からないが、意識と物質の相互作用の原理の研究は、身体とその意識の相互作用から解明した方が良いと思う。意識と身体がどう相互作用するかの問題は、デカルトの心身二元論以来の哲学的大問題であるが、意識が身体にどう作用するかの解明は科学の重要な課題であると思っている。
そして意識の実在性の意味は、意識が意識に作用することも本質的な意味であるだろう。思索というものも自分の心の中のある意識と他の意識の相互作用でもある。もちろん思索が何らかの脳の神経細胞に影響を与えるであろうがそれは本質では無く、意識と意識が相互作用したことが思索の本質である。また、コミュニケーションというものは物理現象を伴うのだが、その本質は物理現象ではなく、意識現象であり、意識と意識の相互作用である。意識があるとは他の意識に影響を与えうることである。したがって、「意識が実在する」とはその意識が他の意識に作用しうることであると見なせる。これは科学的実在観よりも実在を拡張した実在観である。
(6)意識は実在するか
ここまで言っても、意識の実在性を納得しない人もいるかもしれない。感覚に映るのは物であるし、物しか実在しないのではないかというのだろう。そこで言うと「物が有る」と心に映っているのが意識の事実なのである。意識があるから意識の中に物が映っているのである。意識が無ければ物は認識できないのである。物が有ると思っていることが、そう思っている意識があるという事実なのである。
長年物理学をすると、存在するのは物のみと思い込んで、意識が外界にへばりついていしまうが、本当に世界を客観視するためには、つまり主観と客観を丸ごと把握するためには、自分の心に物が映っているという自分の意識を客観視するトレーニングが必要であろう。思考している自分の意識を脳の状態であると見なすのはやめて、自分の思考を客観視するトレーニングが必要である。思考からすぐに脳を連想するのを断ち切って思考をそのまま思考と把握しなければならない。思考は思考なのであって、そのまま思考を把握するのが客観的な世界の事実の認識である。あくまでも意識の状態は意識の状態なのであり、物の状態ではないのである。
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