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第一回 アドラー心理学勉強会
【1】ライフスタイル・・・幼少時にさだまる問題解決の独自のパターン
私の以前の不適切なライフスタイル
① 禁欲―努力
② 優越して受け入れられる
③ 人に頼らず自力で努力
その結果孤立して仲間がいない、人と共感できない、限りなく優越を目指す
→不幸
今はこれを修正
【2】幸福の条件
① 自己受容
② 他者信頼
③ 他者貢献
こういうライフスタイルを目指す
【3】縦より横、優越より親密、有能より貢献
優越では本当の幸福は得られない。人と親密になって、心が繋がるのが幸福である。
【4】人生はやる気が最大の元手
金・地位・名誉・知識があってもやる気が無ければ人生に絶望する。やる気さえあれば残りはついてくる。
【5】怒りは支配欲が原因
怒りの感情は人を思い通りに動かそうとすることから生じる。人のあるがままを受容できれば怒りは生じなくなる。
怒りはかえって人を思い通りに動かせない結果に終わる。そうではなく、人をあるがまま受容して、心が繋がれば、人は言うことを聞いてくれる。
【6】自己変革の勧め
人を「1」変えようと思ったら、自分は「10」もしくは「100」ぐらいは変わる覚悟が必要。人が変わらなくとも自分が変わっただけでも儲けものである。
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心理学
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親の権威からの脱却
(1)はじめに
自由に生きることを知らないものは本当の愛を知らない。それは愛のように見えて実は支配と服従の関係でしかない。自由を知るものは相手と自分の違いに寛容で自由を尊重する。相手の自由を尊重するのが本当の愛である。
そこで、個人がいかに親の権威から解放され自由を獲得するかそのプロセスを説明しよう。
(2)精神的親殺し
「精神的親殺し」とは実際に親を殺すのではなく、自分の心の中で自分を支配していた親の権威を否定・根絶することである。親の支配、親の権威からの脱却である。
親はどうしても子供を支配するし、子供は親の価値観を受け入れざるを得ない。しかし、そのままでは子供は親の言いなりであり、真の自己を発見できない。とても教養があり、子供の自由を尊重する親に育てられない限り「精神的親殺し」は子供の成長過程において通過儀礼である。早い人は中学時代に来るかもしれないし、20代、30代に来る人も多いだろう。また一生親の権威の支配下に生きて、主体的に生きるということを知らない人も多いだろう。そういう人は自由を知らない、支配―服従の人間関係しか知らない人になる。
精神的親殺しによって、初めて親と精神的距離が持て、親を客観的一人の大人と見れるようになる。そうでないとまだ特別な親としか認識できず、そして自分が特別な変わった育てられ方をした偏った人間であることに気付かず、独特な家風を世間一般に通じるものと錯覚したままである。
自分と親を客観視するためには「精神的親殺し」は必須の通過儀礼である。
精神的親殺しを経ることによって、親子の関係は悪くなるのではなく、逆に二つの異なる人格同士として、大人同士として成熟した関係を結べるのである。
(3)自己中心性の脱却
精神的親殺しにより、親の価値観とは異なる独自の価値観を構築すると、従来の親の価値観を絶対視することなく、価値観は人それぞれということが分かるようになり、他人の価値観を尊重できるようになる。精神的親殺しを通過しないと、親の価値観を絶対的価値観と思い続け、それを他人にも押し付けたがるか、あるいは親から譲り受けた自分の価値観が世間に通用しないので人間嫌いになるか、あるいは自分の価値観に従って生き、そうでない人を見下すようになる。価値を一元的に考える傾向を脱出できない。他人も自分の価値観に従ってしか評価できない。自分の価値観は70億分の一の主観でしかないことに気付かない。自分の視点だけが絶対で、自分の視点と対等に他人の視点があるということに気付かない。自己中心性を脱却できない。
精神的親殺しを経て、自分と親を客観視できるようになり、視点は人それぞれであるということに気付くことが可能となる。自己中心性の脱却が可能となる。
(4)自由の尊重
親の権威から脱却して、主体的に自由に人生を歩めるようになると、他人も自由に生きてよいと思えるようになる。人間は自分の好きなように人生を歩んで良いと思えるようになる。精神的親殺しを経験しないと、「人間はこう生きるべき」と「べき」にとらわれる。自分は親の価値観に沿って生きるべきという観念の束縛から脱却できず、自分の人生のみが正しい人生であり、それ以外の他人の人生をそれぞれ価値あることだということを認めることができない。
例えば医者の家庭に生まれて医者になるように親から育てられ、親の権威から脱却せずそれが価値ある人生だと思って生きていくと、自分は医者になるべきだし、医者でない他人の人生を価値あるものだと認めることができない。医者であることに相当なプライドを持つ。他人には他人の価値観があり、それぞれの人生が価値あるものだということに気付かない。親の価値観が絶対だという自己中心性から脱却できない。
精神的親殺しを経ると、自分が自分独自の人生を歩んでいるように、他人は他人独自の人生を歩んで良いし、それは自分の人生がかけがえのない価値あるものであると同じように、かけがえのない価値あるものであることを知るようになる。他人を自分の価値観で評価せず、あるがまま価値を認め愛することができるようになる。
(5)支配―服従の関係
精神的親殺しを経ずに、本当に自分独自の人生を歩んだことが無いと、他人の自由を尊重できず、人間関係は他人に服従するか、他人を支配するかの関係しか結べなくなる。他人と自分がそれぞれ異なっておりながらそれを尊重しつつ付き合うということができないのである。
例えば自分が親の権威から脱却できない人は、子供が自由な人生を歩むことを好まず、子供の人生を支配しようとする。自分は親に服従して、子供は自分が支配するのである。
(6)権威主義的パーソナリティ
権威に服従したがる性格を「権威主義的パーソナリティ」と言うが、それについてはフロムを研究してから詳論したいと思うが、自由を知らない人は政治的には権威主義に惹かれる傾向がある。自由に生きることを選択するのではなく、ある権威がありそれに服従することを好むのである。しかも、自分たちだけが権威に服従するならまだしも、国家を一つの権威で一元支配したがる。つまり、自由を放棄して独裁を好む傾向にある。基本的に自由を知らないので、自由は良くないことであり、権威に従うのを善だと思っているのである。
(7)まとめ
精神的親殺しを経て、自分独自の主体的で自由な人生を歩めるようになって、初めて自己中心性から脱却できて、自分と異なる他人の価値観と他人の自由を尊重できるようになる。そうでないと、自分の価値観が絶対で、人間関係は支配―服従の関係しか結べないという自己中心性を脱却できない。
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思考タイプ、感情タイプ、意志タイプ
(1)はじめに
人間には努力の在り方が、思考タイプ、感情タイプ、意志タイプの区別があるように思われる。その努力のメカニズムを考えてみよう。
(2)思考タイプ
「感情が出て来たら、それを突き放して意志で感情を否定する。」
これは例えば勉強しているときに、分からなくて苦痛であるが、その感情を突き放して客観的に見て、意志を作動させて苦痛に耐えることである。
「欲求(意志)が出て来たら、それを突き放して、感情で欲求(意志)を否定する。」
ここで欲求と意志を「〜したい、〜しよう」という思いという意味で同一視している。
これは欲求が出てくると、それに無自覚に従うのではなく、突き放して客観的に見て、それはエゴであるという感情によって欲求の満足を断念する。。
この両者のメカニズムによって、思考タイプは感情にも意志にも従わないで、思考だけに従うことになる。
(3)感情タイプ
「思考が出て来たら欲求(意志)と合一して、欲求(意志)で思考を否定する。」
これは、堕落型の場合は、何か思考が出てきても、まあいいやと言って欲求に従うのである。
高尚型の場合は、何か思考が出てきても、こんな堕落した考えはダメであるとして、奉仕の欲求に従うのである。
「意志(欲求)が出て来たら、思考と合一して意志(欲求)を否定する。」
これは堕落型の場合は、欲求が出てきても、どうせ無理という思考と合一して、欲求の満足を断念する。
高尚型の場合は、欲求が出てきても、奉仕しなければならないという思考と合一して、欲求の満足を断念する。
この両者のメカニズムによって、意志も思考も否定して感情に従うのが感情タイプである。
(4)意志タイプ
「感情が出て来たら、思考を制御して、感情を否定する。」
例えばダイエットでお腹がすいていても、思考で健康の為とかなんとか理屈をつけて、苦痛の感情に耐えて、ダイエットの意志を貫徹する。。
「思考が出て来たら、感情を制御して、思考を否定する。」
何か目的を持っている場合に、何のためそれをするのかという思考が出てこようとすると、感情で、こんなことを考えても無駄であると思考の否定を正当化して、最初の目的を貫徹する。
この両者のメカニズムによって、意志タイプは感情にも思考にも従わないで、意志だけに従う。
(5)努力の形式
思考タイプは、感情で意志を否定して、意志で感情を否定して、結局思考だけに従うタイプである。
感情タイプは、意志で思考を否定して、思考で意志を否定して、結局感情だけに従うタイプである。
意志タイプは、感情で思考を否定して、思考で感情を否定して、結局意志だけに従うタイプである。
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真理の認識を妨げる防衛機制
(1)はじめに
心理学で防衛機制と知られているものがある。精神的安定を保つために、認識を歪めることである。しかし、それは精神的安定を保つには有効かもしれないが、真理の認識を妨げるものである。したがって、真理を認識するためには、防衛機制を抑制し、精神の不安定化に耐えなければならない。それを乗り越えてこそ真理に到達できるのである。
有名な防衛機制を四つ挙げよう。
① 合理化
② 投影
③ 同一化
④ 抑圧
これらをひとつひとつ説明しよう。
(2)合理化
自分の欲求が満たされないとき、屁理屈をこねて自分を納得させることである。イソップ寓話の「すっぱいブドウ」にあるように、キツネが木になるブドウを取ろうとするが、高いところにあるブドウが取れないので、「取れない位置にあるブドウはすっぱいブドウだ」と屁理屈をこねて、自分の心を平安に保つのである。これが合理化の例である。
真理の探究は屁理屈こねて、自分の心を安定にしようとしたらダメであり、たとえ自分の心が不安定になっても現実を直視しないといけない。
(3)投影
本当の自分の心が自分の価値観に反していて、自分の心はそうであると受け入れたくないので、自分の本当の心と同じ心を他人が持っていると誤認することである。
例えば自分では守銭奴はけしからんという価値観を持っているが、実は自分が守銭奴の心を持っている場合、それを受け入れることはできず、他人を守銭奴と誤認するのである。これが投影である。
真理の探究においては投影してはいけない。自分の本当の心を直視して、変革していかないといけない。
(4) 同一化
他人の好ましい業績や能力を自分のものと錯覚すること。例えば、甲子園で優勝した選手が自分のクラスにいるとき、あたかも自分が甲子園で優勝した人物であるかの如く錯覚すること。自分は優秀でもないのにあたかも自分が優秀であると錯覚している。
真理の探究において、客観的自己認識は不可欠である。自分のしたことと他人のしたことの峻別は当然なさねばならない。同一化など言語道断である。
(5)抑圧
満足が実現不可能な欲求を自分が持っていることを自覚しないように無意識に閉じ込めておくこと。有名なのはフロイトが発見した性欲の抑圧である。倫理的に不道徳とされていた性欲を自分が持っていると自覚しないように抑圧するのである。
抑圧も真理の認識の敵である。自分の本音の欲求はどこまでも認識しないと真理は認識できない。
(6)総論
普通の人は防衛機制を働かせて、認識を歪めて自分の心の平安を保つ。しかし、それでは真理の認識どころか日常生活の事実さえ正しく認識できない。
真理の認識をするためには、たとえ心が不安定になっても防衛機制を働かせず事実を直視しないといけない。防衛機制を働かせずに、あるがままの事実を認識できる境地にならないと真理は認識できないのである。それは当たり前なことである。
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自我が普遍化されていない人の境地
(1)自我の普遍化とは
自分の本音の欲求が「みんなのため」であり、その範囲がどんどん広くなるのが「自我の普遍化」である。例えば「自分のため」は即「家族のため」と思える心境から、「自分のため」が即「会社のため」へと一段普遍化し、さらに「自分のため」が即「日本のため」とさらに普遍化し、そして「自分のため」が即「人類のため」とさらに自我が普遍化する人もたまにいる。
(2)自我の普遍化のテスト
自我がどれだけ普遍化しているかは、その人の本音の欲求を聴けばすぐに分かることなのである。本音の欲求が自己満足を得る私欲なのか、本音で日本国民のために役立ちたいのか、あるいは本音で人類の科学の進歩に貢献したいのかどうか、そういうことですぐに判定できる。
しかし、普遍化した自我の欲求も私欲と言えば私欲なのである。「日本のため」「人類のため」と言った私欲なのである。一切の欲望を断って無欲を聖人の境地と思われているのが多いかもしれないが、そういう無欲の境地では、ユートピア建設という積極的活動はできない。欲望は断てば良いというものではなく、みんなのためを思った欲望を持つのが良いのである。
(3)ユートピア建設のために望ましいこと
ユートピア建設のためには「自我が普遍化した人ほど偉い」という価値観が普及するのが望ましい。つまり、多くの人のためを思って判断する人を尊重するほど多くの人のためになるからである。私欲で物事を判断する人を組織のリーダーに選ぶのはその組織のためにはならないだろう。あるいは、それを独善的価値観とみなす人がいるかもしれないけれど、どう考えても小さな私欲で物事を判断する人より、多くの人のことを思って物事を判断する人の方が優れた人であるだろう。例えばエジソンのような多くの人の役に立つ「電球」を発明する人は、ひねくれて考えなければ偉い人と認めるべきだろう。確かに発明したいという欲求は私欲かもしれないが、しかしその自我は普遍化された自我なので、優れているのである。自我が普遍化されていない人の自我では、狭い範囲に役立つものしか発明できない。自我が普遍化されているからこそ多くの人の役に立つものを発明できるのである。
(4)自我が普遍化されていない人の境地
しかし、自我が普遍化されている人を評価すべきだという判断は、多くの人のためを考慮して判断されたことである。「多くの人のためには、多くの人のことを思う人を偉いとみなすべきだ」ということである。ごく当たり前なことだが、しかし、この当たり前が、自我が普遍化されていない人には分からないのである。何故わからないのかというと、自我が普遍化していない人は、何事も私欲で判断し、みんなのためという発想が全くないからである。自我が普遍化されていない人は小さなことをプライドにして、素直に自我が普遍化した人を「偉い」と評価しないのである。
(5)政治・教育の重要課題
「自我が普遍化した人ほど偉い」という価値観を浸透させるのが、世の中を良くしていくための重要な課題であり、それは政治・教育の最重要な課題である。
この私の提案は自我が普遍化した視点から、つまり世の中をどうやって良くしていくかという視点からの発言であるので、どうすれば私欲を満足できるかと考えてばかりいる人の心には届かないものである。
今まで人類の理想はどこにあるかを探求してきたが、現在は私欲でしか物事を判断しない人をどう教育するかということに、私の考えが及ぶようになったところである。
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