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人間とは何か
(1)はじめに
ここ25ヶ年は真理を知りたいという衝動に悩まされ、ひたすら真理の認識を目指して生きてきて、現在はやっとで徐々に成果が出始めているのでそれを嬉しく思っている。
しかし、私自身が他人からあまりにも理解されなさすぎているのではとも感じる。だが、他人からの理解を求めるよりも、先ず他人を理解するように努力する方が建設的であることも自覚しているので、他人を理解する努力も行っている。自分の心境をあるがまま他人に理解されるのは全く不可能であることもわきまえているが、私の真理認識の衝動の一つである、「人間とは何か」を探究する心境を、読者に共有してもらうことを試みたいと思う。というのは分かってもいないことを分かっているという思い込みが真理認識の最大の障壁だから、人間とは何かを実は分かっていなかったのだという境地を自覚してもらうのは、真理認識への一歩前進であるからである。それで、それを知ってもらうことは有意義だと思う。
(2)人間は原子の集まりか
私の学問的真理の探究は物理学から始まった。というのは哲学は色々な哲学があり、何が本当かさっぱり分からないので、ある哲学を勉強したとしてもそれが空理空論で全く無駄になる可能性もあるのだが、物理学は科学の根幹であり、何が真理かは試行錯誤のうえ明確になってきているのであり、一番信頼できる学問であると思ったからである。また単なる真理というだけでなく、現代文明を支えている応用も豊かであり、役に立つ学問だから、勉強しても決して無駄にはならないと思ったから、物理学から出発したのである。
しかし、物理学をそのまま信じると、人間も原子が集まってできた機械であるということになる。もちろん物理学では人間を解明できないと主張する人もいるかもしれないが、物理学の限界を明確にし、人間とは何かを科学的に解明した人はいないだろう。それで、原子が複雑に集まって脳という機械が出来、それが意識を産むのだと考えるのが科学の主流であろう。そこで私はそれを学問しているときだけではなく、生活実感として実践したのである。つまり、人間の行為も物理現象として認識するように努めたのであり、自分の行為でさえ物理現象として把握しようと努めたのである。というのはそれが自分が真理と思っていることに対して忠実に生きることだからである。私にとって真理を認識することが最大の価値であり(確かにそれはそのときは無自覚ではあったが)、たとえ人間は機械であるという真理が人生を無意味にする無慈悲な真理であるとしても、それでも真理に価値を感じていたのである。
そのとき思っていたのは生きる意味という客観的な意味があるのではなく、意味とは脳の快感神経の刺激であり、何かを想起したとき、その快感神経が刺激されたならば人間はそのとき生きる意味を感じるという人間観である。
今ではこういう人間機械論は間違っていることを認識しているが、今の唯物科学がそのまま進めば私の実感した人間機械論的人間観が世界を支配するであろうと認識している。
(3)意識が見えるようになった
人間機械論から導出が難しい、「意識とは何か」を考え続けた。いや考え続けたというよりはどこまでも深く観察を続けた。自分の意識を「思うとは何か」、「自分という思いとは何か」「どこまで思うことを自由にコントロールできるか」など、自分の意識を観察し、心の実験を繰り返した。
するとある日自分の意識が視覚的に見えるようになったのである。通常思考しているとき、思考内容を感じる感性というのがあるが、その感覚を刺激する意識というものがはっきりと見えだしたのである。全く度肝を抜かれる体験である。意識が見えるというのは本当に説明しがたいが、思考するとそれが運動するのであり、心が不安定というのは、その見える意識が不安定になっていることであり、思索の結果がまとまったというのは見える意識が安定状態になることなので、見えている対象がどう考えてもまさに自分の意識なのである。
また重要なことは意識というのを自分の内側に感じるのだが、その内側というのは個人の範囲で閉じているのではなく、表現は難しいが内側が奥で拡がっていて、自分自身は心の内奥に存在する神というべきものから分かれてきたと感じられたことである。ここで神と表現したのはそれが自分の意識の根源であると感じたので、それで神と表現するに相応しく感じられたからである。つまり、個人が意識を独自で産みだすのではなく、意識というものは根源的なもの(いわば神)から流出しているものであるというのが真理であるということを認識したのである。
しかし、それはそう感じられたとしても、それも全て脳の産物ではないかという思いも否定できなかった。自分の内的出来事が、脳の産物ではなく、あるがままを事実とするのは脳が意識を産むことは説明不可能であるという考察を待たなければならなかった。
(4)人間とは何か
そこで真理を分かったと心が安定するのではなく、ますます人間とは何かが分からなくなったというのが現実である。肉体を持っているがそれが何かを思うということはどういうことか。今では通常の人の意識が分からなくなっているが、「思う」ということを普通はどう捉えているのだろうか。他人の心といえばその人の表情を思い浮かべるのだろうか。表情というのは心ではなく、肉体の原子の配列である。何故かは知らないが、表情という物体の配置に人間は感情を感じ取るのである。声もそうである。声というのは声帯が振動して、音を発生させ他の人はその音を聞いて他人の心を感じ取るのである。外界に起きているのは全て物理現象である。忠実に物理の精神を貫くならば、外界には生命現象も意識現象も無く、全て物理現象である。物理の実験で観察されるのは物理現象のみなのである。血圧や体温と言ってもそれは忠実に物理の精神にのっとって外界を認識しているのではなく、人間が内的に感じる生命感覚を交えて、言い換えるならば単なる物理的圧力や温度に主観を交えて血圧とか体温とか言っているのである。物理の精神に忠実に主観を排して外界を認識したならば、それは素粒子が飛び交ったり、束縛し合ったりする単純な無意味な世界である。生命や人間が存在するというのは、内的に感じる主観の産物に過ぎない。
そう考える中で分かったのは人間は物理的には観測されないこと、内的にしか認識できないことである。ある姿形にそれを人間であると感じるのは客観的認識ではなく、人間の本能に従った主観的認識なのである。外界に客観的に存在するのは素粒子のみであり、生命や人間を感じるのは人間の主観である。
通常の認識では内的なことと外的なことがまぜこぜに認識されていて漠然と人間という像が形成されている。それで人間とは何かが分かったと感じられている。私の場合物理的世界像に忠実に従ったために人間という存在が像を結ばなくなったのである。外的には物理的対象が見える。一方内的には自分の意識が見える。世界に物と意識があったとして人間とは何であるか。これが全く分からなくなったのである。外界に見える人間の形から人間という像を結んでいるうちは、私の心境は分からないと思う。人間の形というのはあくまでも幾何学的配置であり、それから像を結ぶのは主観であると自覚しなければならない。スマイルマークの図を見てニコニコとした感情を感じ取るのは、人間の脳にインプットされた本能であり、その図そのものがニコニコとした感情を持っていないことを自覚すべきである。人間の形を見て、それに何か「人間」という感じがしたとしても、それは外界に客観的に存在するものではないのだが、それはそれとして人間という感じは何か、それを探究すべきである。繰り返すがこの「人間」が存在するという感じは外部に物理的に人間が存在するわけではなく、人間自身が内的に主観的に感じているだけである。
(5)「思う」とは何か
人間の人間たるゆえんは何かを思いそれを実現することである。常に何かを思い、その中のいくつかを実現して行くことが人間の人間たるゆえんである。そしてその思うとは一体何であるか、なぜ思えるかを探究しなければならない。「思う」は個人的事柄ではなく、普遍的意識界というのがあって個人はその一部を担当して「思う」を行っているのである。ここで厳密には説明できないが、思うことが可能な原因は意識界と物質界の間に食い違いがあるからである。思うことが即座に実現できないところ(これを食い違いと表現している)が思うことを可能にしているのである。
内界の認識は、自分の意識が見えるようになった後、自分に内界から意識が流入してくるのを認識し、やがて意識の源流を辿る意識の運動が可能となり、意識の源流を深く遡った結果、心の深奥に「宇宙」という感じがしてきて、それはつまり内界が宇宙的無意識に繫がっていると感じるまで進んだのである。まだ証明はできないが、私は内的意識界は宇宙全体と繫がっていると思っている。
意識界と物質界は全体として食い違いを解消させてゆこうと意志している。個人が何か理想を抱き、困難を克服してこの理想を実現して行くというのは、個人が普遍的意識界と物質界との食い違いを解消させてゆく意志を分有して、それを実行した結果である。この意識と物質の食い違いを解消させてゆく運動というものはスケールの大小は有っても全ての人間、いや全ての生命、あるいは原子や素粒子でさえもが分有しているのである。そして、意識界と物質界の食い違いの解消が宇宙の進化と表現でき、それが文字通り生命の進化であり、人類の進歩であり、文明の発展である。宇宙の進化とは何かを簡単に言えば、より高次の意識を物質世界で実現することと言える。より高次になって行くのが進化である。
(6)新しい宇宙論
内界に意識というのがありそれが個人を超えて宇宙的に普遍的に存在するという認識は宇宙論の革命を引き起こすことになる。宇宙は物理的外界のみではなく、意識界である内界も含み、内界と外界が人間や生命を通して結合しており、内界と外界が次第に統合して行こうとする方向を持つ、つまり宇宙は進化して行っているという宇宙観である。
人間とは何かというと外的物理界と内的意識界を結合する存在というのが私の今の人間観であり、それは同時に私の宇宙観である。今では歴史に残る偉人というのは、全て内的意識界の深いところの理念を外界に実現した人物であると思っている。私はこの認識に至って初めて人間とは何かが分かった感じになった。
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直観の時代
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純粋経験と創造
(1)はじめに
「純粋経験」とはウイリアム・ジェームズたちによって、立てられた哲学用語だが、その用語はそれと異なる内容を盛られて、西田幾多郎の処女作「善の研究」で用いられた西田幾多郎の哲学の基本概念である。
その意味は最初は一切の思考や判断を受ける前という意味で「純粋」という言葉を用い、そういう経験という意味で「純粋経験」と定義されている。しかし、少し読み進むと、純粋経験の特徴として「統一作用」があることと意味が食い違ってくる。西田幾多郎は哲学では本音を語っていないが、本音は禅の経験における神との合一体験を「純粋経験」と呼んでいると私は思っている。それは自己の人格の最大の統一力のことを「純粋経験」と呼んでいると思う。つまり神とは自己の深いところにある人格の統一力のことであるというのが私の認識である。
この純粋経験が哲学や宗教とは異なる意識現象にどう表れるかを考察しよう。
(2)使命感
まず最初に政治や事業を使命感を持って努力する心境について考察しよう。
現在NHK連続テレビ小説で「マッサン」をやっているが、日本で初の国産ウイスキーを作るという使命感を主人公が持っていることがメインテーマになっている。この使命感は主人公の人格の統一力になっているので、この使命感は純粋経験の一種と言える。「マッサン」の人格の中心が国産のウイスキー造りになっているのである。
政治理念を持った政治家も心境は同じであろう。将来の日本のビジョンを抱き日本はこうあらねばならないという理念が純粋経験であり、この政治家の人格の統一力になっている。しかし、国家のあるべき姿というのは頭の表面で捉えきれるものではなく、謙虚で無私になることが必要で、このとき初めて国家理念を把握するという純粋経験を体験できる。
(3)美感
芸術家は美の感受性が優れていなければ本物ではないと思う。優れていない芸術家は技術だけをマスターして美の感受性を欠いているのかもしれないが、本当の芸術家は美感が先行し、それに導かれて技術が身に付くものだと思う。
真の芸術家は美感が人格の統合力になっているはずである。美を感じたいという衝動があり、それに突き動かされ、風景を認識したり、静物を注視したりする。印象派は主に外界を在る通りにではなく感じた通りに描いて、自分の感じた美を表現する。それでも美が表現できないときは抽象絵画で表現するようになる。
芸術家が創作以前に感じた美の体験は純粋経験であり、人格の統一力である。
(4)発明・発見
科学者は主に発明・発見の努力をする。それを偶然の経験と解釈すると誤りである。科学者は偏執狂のように発明・発見にこだわる。表面的に見ればそれは偶然の思考錯誤かも知れないが、自然の法則はこういう方向にあるに違いないとか、何が何でもこういうものは発明しなければならないと思い込んでいる。この思い込みが人格の統合力であり、これもやはり純粋経験である。
(5)純粋経験の奥の神
これまで政治・事業・芸術・科学の創造活動の原点が純粋経験であると述べたが、それはまた彼らの使命でもあるといえるのだが、この使命の湧き出しの源流を遡ると心の内側から神が出現するということを言っておこう。この神の認識はどうやったら可能であるかは次の機会に説明しよう。
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客観的現実
(1)はじめに
「客観的」という言葉にもいろいろな意味があるようである。それを整理して何が「客観的現実」かを考えてみた。すると、物理的世界観が客観的現実なのか、そうして美の存在は客観的現実か、神の存在は客観的現実かという問いに突き当たる。
(2)客観的の意味1
客観的の最初の意味は、自分で自分の経験を認識することのようである。スパゲティーを食べておいしいと思った。そのとき、それで終わらず、自分が「スパゲティーを食べておいしいと感じた」と自覚することである。自分の心の客観視はどこまでも深いのが可能であるがとりあえず第一段階として、自分の経験を対象化して認識することとしておこう。
つまりスパゲティーを食べておいしいと感じるだけでなく、おいしいと自分は感じていることを自覚することが客観的認識である。
(3)客観的の意味2
次の段階が自分の感じたことと同じ事を他人がどう思うかを認識することである。自分はスパゲティーをおいしいと思ったが、それを多くの他人はどう思うかを認識することが客観的認識である。他人はどう思うかが客観的認識とされている。つまり、スパゲティーはおいしいかどうかは客観的にはどうなのかは自分の感じ方だけでなく、多くの人はどう感じるのかで決まるということである。自分がスパゲティーを食べておいしいと思ったのは主観的認識であり、スパゲティーは客観的においしいものなのかどうかは多くの他人の評価で判断されるということである。
(4)客観的の意味3
しかし、多くの人がそう思ったからと言って、本当の現実はそうなっているかどうかは分からない。天動説を人類のほとんどの人が信じていたからと言って、天動説が客観的現実ではあるとは言えないだろう。天動説は人類全体の主観的思い込みだったと言えるだろう。
すると自分の精神活動全体の対象化を客観的態度と言えるだろう。これによって誤謬から免れることが可能となる。自分の為す精神活動を自覚的に行うことが客観的と言えるだろう。
スパゲティーがおいしいかどうかを自覚している人は多いが「考えるとき何をどうしているか」と他人に聴くと、ほとんどの人からは「あまり考えたことは無い」という返事が返ってくる。哲学は精神活動を自覚的に行うことだから思考の自覚的反省は当然のこと必要である。以前にも述べたことがあるが、思索を対象化するだけでなく、思索を対象化する自分をさらに対象化する、そしてそれをさらに対象化するというようにどこまでも対象化することが本当の客観的思考である。これを自覚的な思索というのである。そうでないのは主観的思索である。
(5)物理的現実
物理学者の大半は物理的世界観が客観的現実でありそれ以外は主観的思い込みと思っているようである。つまり、物理の装置で測定できるのが客観的現実であり、それ以外は人それぞれの主観的思い込みというのである。自分で1円玉の重さを計ったら1グラムだった。これは先ず自分の経験の客観的認識である。それを他人が測ってもやはり1グラムだった。誰が測っても1グラムである。だからそれは客観的現実であるというのである。
(6)物理的世界観の本質
物理的世界観の本質はニュートンの運動方程式に集約されている。ニュートンの運動方程式はF=Ma(力=慣性質量×加速度)でありこれで外界の現実の全ては説明できるというのが、世界探究の戦略である。世界の最小構成要素は何か(電子とか光子とかクォークなど)、そして世界にはどういう力があるのか(例えば重力とか電磁力とか)を探究して行くのである。
そして、力を及ぼす可能性のある潜勢力のあるのを「在る」と考えているのである。質点に力が及ぼされたかどうかは質点が加速したかどうかで測られる。そして加速度は質点の空間的位置と時間を測って計算される。そして何より、時間空間は誰が測っても同じになることが物理世界の客観性を支えている。1センチメートルは誰が測っても1センチメートルなのである。時間を精確な時計で計ったら1分は誰が測っても1分なのである。そして時間空間は数で表現されるが数も5と言って他人に伝達したら確実に5であり誤ることは無い。客観性を持っているのである。つまり結論を言うと物理世界の客観性は幾何と数の共通認識に支えられているのである。空間と数の認識を異なる人同士で共有できるところが物理世界を客観的と思わせているのである。
(7)音楽は現実にあるか
音楽とは要するに空気の振動であるというのが物理的現実なのであろう。ある曲を聴いているとき生じている客観的現実は空気の振動であり、その振動の仕方は観測者によらず同じなのでそれこそが客観的現実である。そしてある人はこれは良い曲であると言い、他の人はいや駄目な騒々しい曲であるというかもしれない。評価は人それぞれなので良い曲であることも駄目な曲であることも客観的現実ではないことになる。そもそも曲というのは現実にあるのかということが問題になってくる。曲というものは人間の主観にすぎないというのは本当かも知れない。曲は1円玉が1グラムであるというようには客観的現実ではないのも事実であろう。
(8)主観の客観的実在性
これをどう考えれば良いかというと、人間に主観があるということも客観的現実であると認識することである。曲が認識されたという主観的現象が客観的に生じたということである。ここで「客観的」とは自分の精神活動をどこまでも対象化して認識するという意味での「客観的」のことである。曲を認識している自分を対象化して明らかに自分は今曲を認識していると自覚して認識することによって、曲は私という主観には客観的に認識されているという意味で存在するのであると認識されるのである。
しかし、曲は自分には確実に存在するものであるが、他人はどう思うのかという意味での客観性は満足されるとは限らない。この曲は自分にしか認識されないものかもしれないという危惧はどこまでもついて回ってくる。
(9)美の客観的実在性
このことは芸術の美について普遍的に言える。ピカソの絵画の美は私の解するところではないが、審美眼を極めた人には共通に美しく認識されるらしい。私を含めて平凡な審美眼しか持っていない人にはピカソの絵画の美は認識されないのである。そういう意味でピカソの絵画の美は少数の高度な審美眼を持った人にとってしか存在しないのである。
しかし、ピカソの絵画が少数の人にとってしか美しいとは認識されないにもかかわらず、客観的に評価されているのは審美眼というものがありそれを磨くと真の美が認識できるという尺度が世間的に認められているからであるだろう。
したがって美は誰にも共通に認識されるという意味での客観性は無いが、審美眼を磨けば共通の認識に到達するという前提の上で客観性を確保できているのである。ここら辺はもっと細かく考察したいと思っている。
(10)神の存在の客観性
神の実在性も美の実在性と同じだと思う。美を認識する審美眼を磨けば同一の美の認識に到達するように神を認識する眼を磨けば同一の神の認識に到達するだろう。そういう意味で神は実在するのである。神は物理的事実のようには誰が測定しても同じ結果を得るという意味での実在ではなく、審美眼を磨いた人のみが真の美を認識出来るというのと同じ意味で実在であり現実的に存在するのである。
(11)結論
時空と数の共有性に基づいて物理的世界の客観性は可能となっている。美の客観的実在性は審美眼というものがあるということによって確保されている。神の実在性は物理の意味での客観的実在性ではなく、審美眼を持った人のみが真の美を認識出来るというのと同じ意味、すなわち神は神を見る眼を持った人のみが認識できるという意味で客観的実在性である。
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論理学の研究構想
(1)はじめに
意識(無意識)と生命と物質の統一理論の研究を進める上で、それらを何とか数学的に表現したいと思っている。物理の世界では論理と物理は別であるが、意識の世界において意識の構造と運動形式は論理そのものではないかと考えている。したがって、意識を数学的に表現するためには、論理学を数式化すれば良いのではないかと考えている。
そういう観点から何を研究すれば良いかを構想した。構想は確かな研究に基づいたものではなく思い付きで不正確な知識に基づいているかもしれないので、「現段階におけるの私の思い込み」と思ってもらっても構わない。
研究すべきは①アリストテレスの論理学、②記号論理学、③プリンキピア・マテマティカ、④ヘーゲル論理学、⑤数学の拡張である。これをひとつひとつ説明しよう。
(2)アリストテレスの論理学
アリストテレスの論理学はオルガノンと総称され次の6つからなる。
①カテゴリー論、②命題論、③分析論前書、④分析論後書、⑤トポス論、⑥ソフィスト的論駁について
それぞれどういう内容があるかについてはまだ詳しい知識は無いが、私のおかれている状況としては、論理学の基本中の基本であるアリストテレスの論理学はこの6つの書から構成されているという知識を持ち、一昨年の記事で報告したように、新版アリストテレス全集を購入したので全集の1巻、2巻、3巻に含まれていて手元に持っているということである。
論理学の体系を最初に構築し2000年以上世界を支配しているのがアリストテレス論理学である。デジタル情報処理において数学的土台となっているのがブール代数であるが、ブール代数はアリストテレス論理学を数学化したものである。アリストテレスは現代科学文明にも影響を与え続けているのである。アリストテレスの論理学は論理学の古典中の古典なので身に着けておきたい。
(3)記号論理学
記号論理学は、確認できていないが、たぶんアリストテレスの論理学を土台に論理を記号で表し代数のように扱えるようにしたものだと思っている。ヘーゲルに言わせれば悟性の論理と言えると思う。分かりやすく言えば区別を固定化する分析的思考の論理である。これも身に着けておきたい。
(4)プリンキピア・マテマティカ
これはホワイトヘッドとラッセルが書いた論理主義に基づいた論理学・数学の著書である。数を記号論理学から導出し、数理は論理から導き出せるという立場の本である。これは記号論理学の成果に基づいていると言われているので、それで記号論理学も学んでおこうと思っているのである。この本がどこまで正しいのかは分からないが論理と数理の関係の考察には役立つと思う。
(5)ヘーゲル論理学
ヘーゲルの論理学を数学化しようとするのが私のねらいである。アリストテレスの論理は平板的でヘーゲルの論理は立体的であるというのが私の基本認識である。
ヘーゲル論理学は弁証法論理と言われているが、それは低次元では互いに矛盾する事物や観念が高次元では無矛盾に統合されることだと私は思っている。思考の観点では次元を移動する論理と言った方が分かりやすいかもしれない。
それとヘーゲルが言ったかどうかは分からないが、私は思考の弁証法とは別に、意志の弁証法もあると思っている。意志の場合は高さというより深さと言った方がぴったりくるかもしれない。例えば「食べる」という意志が分化して「かむ」と「飲み込む」という意志になる。「食べる」が深い意志で「かむ」と「飲み込む」は浅い意志である。「かむ」と「飲み込む」は同時にはできない矛盾した意志で、したがって浅い次元では両立しないが、深いところでは相互に浸透し合い統合され両者が「食べる」というひとつの意志を実現しているのである。これは一般的に言えば浅いところでは互いに矛盾する意志も深い意志では統合されているということの認識である。
「食べる」という簡単に統一できる例を挙げたが、すぐには認識できない例を挙げれば、例えば私自身は若いときは科学にも宗教にも哲学にも惹かれて矛盾する意志を持っていると悩んでいた。三者は浅い次元では両立しないのである。浅い次元では矛盾していたのである。しかし、深い意志これは意識と生命と物質の統一理論を創る意志であるがそれが顕在化して宗教と科学と哲学を無矛盾に統合している。これが意志の弁証法の私自身の具体例である。
従って、私は弁証法には思考の弁証法と意志の弁証法の両者があると思っているが、ヘーゲルがそう考えているかどうかは分からないが、私は私の考えに基づいてヘーゲル論理学を研究したい。目指しているのはヘーゲル弁証法の数学的表現である。主体の運動を数学的に記述したいのである。
(6)数学の拡張
数学と論理学の関係も考察しなければならないが、それと同時に幾何と数の根柢も解明する必要を感じている。物質の世界では数や幾何は現にある通りに認識されるが純粋な意識の世界では従来の幾何や数は部分的にしか通用しないのではないかと感じている。例えばユークリッド幾何学では「直線」は無定義語であり定義されていない。そしてどの数学でもきちんとは定義されていないのである。「線」自体も定義されていないが線というものが与えられたとしても「曲線」と「直線」を区別する方法を「直線」という概念を用いずに区別する方法は定められていないのである。学問の厳密性の代表と思われている数学さえ多くの暗黙の前提があるのである。こういうこの世の幾何の暗黙の前提を排除して、もっと普遍的に幾何を構築できないか、そういうことを考える必要があるように思っている。ユークリッド幾何の暗黙の前提のひとつを除いた幾何としてリーマン幾何があるが、さらにそれよりも普遍的に拡張された幾何が考えられないかどうかそういうことを自分自身に見えている意識をきちんと認識しながら検討したい。
数も同じである。「『ある』か『ない』かのどちらかであり中間は認めない。」という論理が数の概念の前提にあると思う。集合論などもそうである。「ある要素はある集合に含まれるか含まれないかのどちらかであり中間は認めない」いう考えが集合論の前提にある。数学のそういう前提が意識の現実を正しく認識するのには、そぐわないのではないかと思っている。それで、数学を拡張したいと思っている。
(7)最終目標
目標は意識と生命と物質の統一理論を構築することであるが、それは従来意識は意識、生命は生命、物質は物質と別々に研究されそれらの相互作用が研究されていなかったので、相互作用のメカニズムの解明し、応用として意識、生命、物質のコントロール能力を高めるのに貢献しようと思っているのである。
「右手を上げようと思って右手を上げた」という場合、唯物科学では常識的直観に逆らって、全ては物理法則が支配していると考えるのであるが、そうではなく意識が肉体という物質に作用したと考えるのが正しいと私は思っている。それは意識が物質を制御しているのである。これを解明しようとすると、意識を正しく認識しそれが生命体に作用し、さらには生命体が物質に作用しているのである。この単純な事実を認識するためにも意識と生命と物質の統一理論を創り三者の相互作用を解明する必要があるのである。
意識と生命と物質の統一理論が出来上れば、意識、生命、物質の制御技術も飛躍的に進歩するものと思っている。
しかし、最後に念を押して簡単にコメントしておくと、人類の生存目的は宇宙の進化にあり、それは自らの魂の進化を通して為されるものである。したがって、宇宙の進化を妨げる科学技術は許されないのである。そういうことの証明も同時に並行して進めて行きたいと思っている。
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宇宙の進化する意志の役割
(1)はじめに
これまで私は「宇宙の進化する意志」なるものを考え、その意志が宇宙を進化させると主張してきた。生命の進化や人間の魂の進化、文明の発展を担っている意志のことである。しかし、この意志を正確に認識すると、それは意識、生命、物質という世界の全体の隅々まで作用を及ぼしているのが分かってきた。
簡単に言うと「思う」ことが出来るのは宇宙の進化する意志が作用しているからであり、生命が単なる物質と違って[生きている]という状態にあるのは、生命力があるからであり、そしてその生命力の源流も宇宙の進化する意志にあるのであり、また物質の世界においても電磁相互作用、重力相互作用、強い相互作用、弱い相互作用という力があるのもその源流は宇宙の進化する意志であると私は考えている。
それぞれ詳しく説明しよう。
(2)「思う」こと
人間は常に何かを思っている。なぜ思えるかというと脳があるからだと考えるかもしれない。脳が壊れると思えなくなるのがその主張の根拠であろう。しかし、脳とは何かと言うと、原子が集まってできた精密な機械、神経回路と考えているようである。しかし、機械が何かを思うというのは不可能である。全く何も思わない原子が複雑に集まったらなぜ物が思い始めるのだろうか。思いを持たないものをいくら集めても思いが出てくるというのはどう考えても説明しようがない。したがって、脳を構成している原子が意識を産むのではなく、脳とは物質と意識の結合体と考えた方が正しいであろう。何も思うことができない物質が集まって意識を生じるメカニズムというのは原理的に説明不可能である。機械論的唯物論の立場で説明出来るのは、人間には本当は意識はなく、あくまでも意識があるかのように振る舞うプログラムがそなわっている機械と見なすことである。意識はどこから来るかというと、4次元時空を超えたところに最初からあって、4次元時空内に顕われるのは脳などの適当な条件が備わったときであり、脳が意識を生成させるのではなく、脳は意識の顕在化の条件と考えた方が正しいのである。
ニュートン物理が確立される以前は、物体が下に落ちるのは当たり前と思われていた。「なぜ物体は下に落ちるのか」という疑問は起り得ず、「下だから落ちるのだ、当たり前だ。」と思われていたと思う。しかし、地球が丸く他の惑星と同じく太陽の周囲を回っているのが分かって、なぜ物体は下に落ちるのかという疑問が生じ、ニュートンは万有引力を発見した。
それと同じように私は「人間は何故思えるか」という問いを立てる。もっと普遍的に言うと「意識の運動は何故可能か」「意識の運動のエネルギー源は何か」という問いを立てる。そして答えとして、「意識が運動するのは宇宙の進化する意志が作用したからである。」というのが私の答えである。物体が下に落ちるのは重力場が作用しているからであるのと同じく、人間が何かを思えるのは宇宙の進化する意志が作用しているからである。弁証法的発展のエネルギーや分化発展や共鳴のエネルギーあるいは思考のエネルギーや意志のエネルギーも宇宙の進化する意志から供給されるのである。宇宙の進化する意志の作用が止まれば「思う」ことは不可能になるはずである。意識がストップするのである。
人間には何か目的を持ちその手段を実行するという経験の構造が張り付いている。それは物理の法則よりも根源的構造であると思う。そしてその構造の起源も宇宙の進化する意志が作用したから出来ているのである。意識の運動のエネルギー源は宇宙の進化する意志にあるのである。人間は誰でも自分の認識できる範囲の考えで自分なりの幸福を追求するが、その幸福の追求に方向性を与えているのが宇宙の進化する意志なのである。そして宇宙の進化する意志は宇宙全体の進化の方向を決定して、宇宙全体を進化させ統合しているのである。
(3)生命について
分子生物学の代表的教科書を読むと、生命は魂のようなものを前提せずとも、物理と化学の言葉で説明できると書かれている。しかし、これは大きな誤謬である。生命の機械的側面だけを認識して生命は機械であるという証明をする方向に分子生物学は進んでいるようである。
しかし、生命の生命たるゆえんは機械のような受動的な運動のみをするのではなく、自発的に運動するところにあるのである。生命は他から作用された力学的な力による受動的運動のみではなく、主体を持ち自発的に運動しているのである。主体があるからこそ生命なのである。生命の機械的側面のみを見てこれが生命の全てであるという考えは現代科学の誤謬である。生命には生命意志があり、それがあってはじめて生命は生命たり得るのである。自発的運動をするからこそ生命は生命なのである。単細胞生物から哺乳類、人間まで生物が合目的に行動できるのは、宇宙の進化する意志が作用しているからである。生物の生理現象が極めて合目的になっているのも生命力としての宇宙の進化する意志が作用しているからである。環境の作用に逆らって自己の秩序を保つ力、即ち生命力の根源も宇宙の進化する意志にあるのである。
生命力の根源は、周囲と分離された個としての身体の中にあるのではなく、宇宙全体を貫く根源意志にあるのである。つまり、生命と宇宙は密着している。そういう認識は、宇宙とはその本質は物理的なものであり、生命はたまたま偶然にできたと考える現代科学とは正反対な認識である。生命の本質は精密な分子機械にあるのではなく、分子機械としての身体を統合するとともに、統一的意志を貫いているところにある。つまり主体が物質である身体に浸透していることが生命の本質である。
宇宙の進化する意志、即ち生命力をコントロールする技術が確立すれば、生命の制御の技術も高まって来るであろう。例えば、植物の生長スピードを促進したりして、種を植えたら一晩で出来上る大根とか、医療においては肉体生命力をコントロールして自然治癒力を高めることが出来るようになるだろう。宇宙の進化する意志の一つの表れである生命力の解明が医療技術の革命の鍵となるであろう。
(4)物理の法則について
物理の根本法則は電磁相互作用、重力相互作用、強い相互作用、弱い相互作用の4つがある。そしてその力の統一的根源は宇宙の進化する意志にあると私は考えている。そして物理の法則、生命力、意識の運動能力の統一的根源が宇宙の進化する意志なのだと私は考えている。
思いはどう物質に作用するか。例えば右手を上げたいと思ってその思いが右手を上に上げるとき、思いが肉体に作用したと言えるだろう。つまり心が物質に作用したのである。そのメカニズムを解明するには、意識と生命と物質の統一理論が必要である。それができたとすると、心が従来の物理の法則をいかに破るかのメカニズムが分かることになる。つまり、心の力を用いて従来の物理の法則を破ることが可能となる。
これは結局、宇宙の進化する意志の作用をコントロールして、物理の法則を破る技術を開発することが可能となるということである。
例えば宇宙の進化する意志の作用をコントロールして重力を強くしたり消したり、あるいは逆の反発力を発生させたりということが出来るようになるかもしれない。これができると、反重力推進器の開発が可能になるかも知れない。あるいは時空の起源も宇宙の進化する意志にあるかも知れないので、宇宙の進化する意志の作用をコントロールできれば、テレポーテーション装置も可能になるかも知れない。
宇宙の進化する意志は意識、生命、物質全体にバランスよく作用して宇宙を進化させているのである。宇宙の進化する意志を応用可能となるのは、宇宙の進化を促進させるためである場合に限られる。宇宙の進化を妨げようとしたら、宇宙の進化する意志から供給されるエネルギーは枯渇する。
(5)最後に
私の目指す、意識―生命―物質の統一理論の構築の課題の中心が、宇宙の進化する意志の認識にあることが分かってきた。そしてそれを解明すると、世界観の革命だけでなく技術の革命にもつながることが分かってきた。
この研究は重要な研究だと思うので必ず成し遂げたいと思っている。
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