科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

ユートピア論

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真理認識を妨げる精神態度
(1)はじめに
 世の中の不幸の原因は真理を知らないことにある。なぜ知らないかというと、知ろうとしないからである。なぜ知ろうと知ないかというと、真理の価値を知らないからである。なぜ真理に価値がないと思い込むかというと、それは目先の欲望の満足に貢献しないからである。つまり、目先の欲望の満足ばかりを追求している精神態度が、真理の認識を妨げ、人類を不幸のままにしているのである。
 
(2)科学的真理の人類の幸福への巨大な貢献
 科学というものが人類を科学文明へと導き、生産性を高めることによって、巨大な貢献をしてきたのは多くの人は認めるであろう。
 科学を知らない人は、何か科学的発見があると、「それは何の役に立つのか」という愚問を投げかける。確かに、庶民にとって科学と言えば、パソコンやLEDやスマートフォンや扇風機など、自分の目先の欲望の満足に貢献するものである。
 しかし、科学的真理の発見を可能にしたのは、目先の欲望を離れ、己を無にして、自然に即して、そのまま自然を観察するという精神態度である。自分の心が欲望に満ちていたなら、自然を支配する物理の法則を発見することは不可能である。
 欲望が生じてきたら、その満足を追求するという生き方は、衝動的であり、本能的であり、自己を客観視できていないので、動物的であり、理性的ではない。これでは高度な文明を建設できない。
 科学的真理の成果は物理の法則に凝縮されていて、それは科学者が何事かを考えるときの基礎知識であり、それはすべての科学技術の土台である。理学や工学を専攻する人は、まず物理学の基礎である、ニュートンの運動方程式を学ぶのである。物体の運動には法則があり、それは予測可能であり、制御可能であることを学ぶ。それは人間の恣意ではどうにもならず、思い通りに動かすには物理の法則に従うしかないという謙虚さを学ぶ。高度な科学技術は、人間の強い意志で魔法のように物理の法則を曲げてできたのではなく、人間の意志と物理の法則が合致してできたのである。物理の法則を無視しては何事もなすことはできない。物理の法則は曲げられない。
 
(3)心の法則
 真理には物理の法則だけではなく、心の法則というものもある。それを発見するには、自分の思考、感情、欲求を客観視する努力が必要である。そうして、自己認識が深まると、自分の心は自分で作っているのではなく、宇宙の心が分かれて自分の心になっていることが分かってくる。そして、人類の心は、個々人バラバラではなく、本来一つであり、知情意のそれぞれについて万人が対立のない状態を目指していて、それが人類の理想となっていることが分かる。それこそ万人が目的としなければならない共通目標である。これを私は和の理念と言っている。
 その実現手段は、目先の欲望を満足する態度とは反対で、己を無にしてより深い欲求に、自分の欲求をシフトしていくことである。
 
(4)心の法則の応用
 心の法則の応用の基本として、自分と対立する相手がいた場合、それに腹を立てて、自分に従わせようと怒鳴ったり、叱ったりする人が多いが、それでは、表面的行為は従わせることができても、相手の心はその人の心に従うことはないという認識がある。それは怒鳴るということは、心のつながりを断ち切ることなのであり、心がつながっていないので、それでは相手の心はその人とは連動しない。
 アドラーの言うには、学校の先生が生徒を自分に従わせようと、偉ぶって説教したり叱ったりするが、それは全く不合理であり、生徒を従わせようとすれば、生徒たちと友達になることであると言っているが、それこそまさに心の法則にしたがった合理的方法である。
 つまり、人間関係でトラブルがあった場合、相手の非を責めて、コテンパンにやっつけて、相手を自分に従わせようとする人が多いが、それはまさに不合理であり、合理的方法は、相手を許して、受容して、心をつなげて、お願いすることである。
 つまり、人間関係のトラブルの解決の原理は許し、受容し、愛することであるという真理認識である。これこそ心の法則にのっとった合理的問題の解決方法である。
 
 
(5)心の法則の政治への応用
 心の法則は日常の人間関係だけでなく、政治・経済へも応用できる。近代民主主義は、政党を立てて、主張が対立し合って、多数決で政策を決定する仕組みになっているが、それは独裁よりはましであるかもしれないが、心の法則にはかなっていない。
 そもそもなぜ意見が対立するかというと、人間は誰でも完璧な認識をできないので、高度な次元の問題を、それぞれの人は低次な認識を異なる角度からするからである。それは円筒を上から見て円であると認識したり、横から見て長方形だと言い合って、意見が対立するようなものである。両者の認識を両立するように、高次に認識して、それは円筒であると認識しなければならない。したがって、皆がそれぞれ謙虚に反対意見に耳を傾けて、みんなの立場を総合して、高次な認識ができれば、意見はまとまって高次な問題を解決できるのである。
 したがって、党則を立て、党派を立てて、これを曲げる事なく、主張を対立し続けるという近代民主主義の在り方では、理想的な社会を建設することはできない。認識が高次なものに発展していかないからである。つまり、人間関係でいえば、エゴのぶつかり合いでしかなく、人間関係の解決の方法は相手を受容することだったのであり、それは政治でも同じである。対立する主張をする相手に、謙虚に耳を傾けなければ、物事は解決することはないのである。近代民主主義はエゴとエゴのぶつかり合いが原理であり、心の法則からすれば不合理な制度である。
 
(6)理想社会の建設は和の理念を共有して、その実現に向けて心の法則と物の法則を応用したとき実現可能となる
 科学が目先の欲望を離れて、自然をあるがまま観察したときに発見されたように、心の法則も目先の欲望を離れて、心をあるがまま観察したときに発見可能となる。そして、科学技術は、単に意志が強いというだけでなく、物理の法則に則って思考したときに発展したのと同じく、人間関係のトラブルも心の法則に則ったとき解決可能となる、そして、心の法則は、政治や経済にも応用可能である。
 そして、人類が知らない大切な真理は、人類の究極目標は何かということである。それは、万人が思考でも対立することがなく、感情でも対立せず、欲求でも対立しないという知情意で一体化した状態であり、しかもそれは自我がなくなることによってではなく、十分自分という自我意識を持ちつつ他人と合一できている境地である。これが人類の究極目標であり、それを実現するために心の法則と物理の法則に則って、問題を解決してゆけばよいのである。
 つまり、和の理念を共有して、それに実現に向けて、心の法則と物の法則を応用して、問題を解決していけば理想社会、ユートピア建設は実現できる。

保守運動・革新運動の原理と現場の乖離
(1)はじめに
 革新運動の原理は理性信仰であり、その結果理性偏重で弊害を生んでいる。そして、保守運動の原理は理性には限界があるので伝統を重んじるというもので間違いないと思うが、現場はどうも違っていて、原理と現場には乖離があることを指摘するコメントが私のもとに届いた。
 
(2)保守運動・革新運動の現場の現状の指摘のコメント
 先記事を読んだある活動家から、私へ次のコメントが来た。
 
 
「今の日本の政治に保守勢力もないです。
 
選挙で保守革新の対立と言っていますが、その実態は、親米と反米の対立です。
 
つまり、親米という自立精神を失った植民地根性と、共産主義勢力の工作に洗脳された反米勢力の対立という構図です。
 
現実社会を見て、保守、革新の定義を明確にしないと空論で終わります。」
 
 
 つまり、日本の保守は本来日本の伝統を重んじるはずであるが、そういうことに無関係に親米であり、しかも日本人が主体的に自国を守るのを放棄して防衛をアメリカに依存する植民地根性の持ち主が保守であるというのである。これは原理に反することである。
 革新と言うのは本来理性に基づいて現状を変革していくはずであるが、日本の革新は理性はどうでもよく、単に中国・北朝鮮の工作に洗脳された反米勢力であるというのである。それは米軍基地が無くなれば平和になるという、小学生でも疑問に持ちそうな非理性的な主張を通している。それは原理に反することである。
 政治活動の現場は思想の原理から遠く隔たっているようである。もはや思想というよりも単なるエゴにしたがっているようである。保守は「本来の日本人はどうであるべきか」という問題意識は無くなって、単に経済的利得優先に陥っているのであろう。そして、革新勢力は単に中国と北朝鮮の共産党の手先に成り下がっているようである。
 
(3)保守思想と革新思想を弁証法的に統合する和の理論
α)革新思想の本質
    理性信仰
 真理は理性で捉えきれるものであり、現実は理性に基づいて変革すればユートピアを建設できる。その最大の成果として共産主義理論がある。
    革新の和の理論の立場からの批判
 真理は理性のみで捉えられるものではなく、知・情・意全体でとらえられるものである。ゆえにユートピア建設も理性偏重ではダメで知・情・意全体をバランスよく統合するのがユートピアである。
 
β)保守思想の本質
    理性の限界の認識
理性には限界がある。ゆえにユートピア理論は創らずに伝統にしたがえば良い。
    保守思想の和の理論の立場からの批判
ユートピア理論は創らねばならない。
 
γ)和の理論の立場
    革新の理性的にユートピア理論を創らねばならないという部分は肯定するが、理性偏重は否定して、知・情・意全体を考慮に入れるべきとする。
    保守思想の理性の限界の認識は肯定する。これを和の理論の立場から見れば保守は、知・情・意全体を考慮に入れているとみなせる。そして伝統を重んじてユートピア理論は創らないでもよいという点は否定して、知・情・意全体を考慮に入れたユートピア理論を構築すべきとする。
 
 
(4)和の理論の意義
 一見、和の理論は保守運動・革新運動の現場の保革の対立の解消には役立たないように見える。しかし、両者とも運動の原点は原理にあるのであり、運動のエネルギーは原理から供給されているのであり、和の理論によって原理の対立を解消すれば、運動エネルギーの流れが変わり、それが時間はかかるであろうが末端の運動にも影響を与え、末端での保革の対立も解消されるであろう。
 もっと具体的仕事として資本論などを和の理論の観点から批判することも必要だと思っている。そして共産主義理論に変わるユートピア理論を和の理論を原理に構築しなければならないだろう。
 それと保守運動と革新運動が原理から離れて現場に行くにしたがって、どのように活動方針が原理から乖離していったかのプロセスも研究する必要があると思っている。
保守思想・革新思想の本質と和の理論の構想
(1)  はじめに
 保守思想と革新思想が歴史的に対立を続けているが、それではどちらか一方が勝っても、一方的独裁でありユートピア〔理想社会〕にはならない。両者は話し合わなければならないというのが、私のスタンスである。しかし、一方は他方を頑固で独善で話相手にならないとあきらめている。
 それで私は、保守思想も革新思想も一面的見方であり、高度な視点から見れば、両者は部分的真理であり、相補うべきものであることを明らかにする「和の理論」というものを構想している。それでもって、保守と革新の話し合いを促したい。
 
(2)革新思想の本質
 革新思想というのは理性信仰による理性偏重がその本質である。理性を徹底すれば、理想的社会を建設できるという考えである。その結果民族的一体感も肉親の情も感情的なものとして否定される。例えば共産主義では、愛国心や肉親の情も感情的なものであると否定され、理性によるユートピア建設を目指す。その結果ポルポト派による、肉親同士の殺し合いを勧めて大量虐殺をするに至る。
 社会制度は伝統を破壊し、理性に基づく人工的な制度を創ろうとするが、実際は理性には限界があり、現実を見落とし失敗する。
 
(3)保守思想の本質
 保守思想というのは理性には限界があるから伝統を重んじた方が良いという思想である。日本の場合は伝統のうち最も大切なのが天皇制である。革新が理性を重んじたのに対して、保守思想の場合は逆に心情を重んじる。その結果理想的社会の在り方は伝統を重んじなさいと言うことで理性的説明が欠落する。その結果保守思想は理性に訴えるのではなく、心情に訴えるものになる。
 
(4)和の理論の構想
 私の和の理論の構想は、知・情・意のバランスが取れた方が人間は幸福であるし、文明自体知・情・意のバランスの取れた方が理想的社会になるというアイデアが基本である。もう少し具体的に言うと、思考の自由をより認めて、自己発見の促進をし、そして人間間の愛の絆を促進し、そして絆で結び合ったもの同士が協力して現実に立脚した意志で社会を築いていくことを促す。こういう具合に知・情・意を整合的に統合するのが和の理論の基本アイデアである。
 
 
(5)現代文明の現状
 現代文明は経済優先で、それは生命を維持するために働くのが目的で、理性による自己発見も愛による絆もそのために軽視されがちである。自己発見よりも愛の絆よりも金儲けが大切であるという人が多い。しかし、人間はある程度生活にゆとりが出れば、さらなる金儲けよりも自己発見、愛による絆の方が幸福なのである。しかし、現代文明は経済優先の価値観が支配的であり、理性と愛を伸ばすという人間らしさの追求が希薄である。
現在の文明は、人類全体に生命意志だけがある状態で、それに愛と理性があまり乗っていないのである。私の文明の進歩観は、政治・経済共同体という人類の肉体に、より高度な愛と理性が出現するのが文明の発展であり人類の進化であるというものである。つまり、人間の脳という生命体に高度な愛と理性が乗るように、政治経済システムというのは人類の身体であり、それは人類のより高度な愛と理性を乗せるための装置なのである。ただ生存できれば良いというものではないのである。
 
(6)まとめ
 革新思想は理性偏重で心情を否定する。保守思想は心情重視で、伝統を重んじて理想社会の在り方の合理的説明が無い。そこで私が知・情・意のバランスが取れそれらが整合的に統一された社会が理想社会であるという和の理論を提唱することにより、理性偏重を克服し、理想社会の合理的説明をし、保守と革新の和解を目指す。そういう和の理論の構築を目指す。
ユートピア建設を阻害する最大要因
(1)はじめに
 ユートピア建設を阻害する最大要因は二つ挙げれば
    ユートピアの理念を掲げる一つの思想・価値に万人を服従させようとすること。
②他国の自国への侵略意図があるとする猜疑心
である。
これを説明しよう。
 
(2)絶対的価値観を浸透させればユートピアができるという幼稚な発想
 何か客観的に正しい絶対的価値観があり、それが万人に浸透すればユートピアを建設できるというのは、ユートピアを夢見る人が最初に思いつく幼稚な発想である。それは少し公平に考えれば、独断・独善でしかないことは分かる。何が客観的絶対的価値観なのかをどう判定するのだろうか。そして価値観は人それぞれであるという事実を無視して、万人に一つの価値観を持たせるのが可能なのだろうか。そういう疑問を持てば、こういうユートピア建設の方法は、独断・独善であることに気付くはずである。ある思想・価値観でユートピアを建設しようとすれば、それは万人にその思想・価値観を押し付けることになるが、それは必ず独断・独善なのだ。
 しかし、そういう独断・独善のユートピア思想家は、自分が神から選ばれた絶対的価値観を認識していると傲慢になる。超自己中なのである。他人は自分と異なる価値感覚を持っていることが少しも分からないのである。自分が模範的人間であり、万人は自分に服従すればよいのだと考える。すべての人は自分と同じ価値観を持つべきと考えるのである。
 こういうユートピア思想家が、ユートピア建設の最大の阻害要因である。
 
(3)戦争が無くならない原因
 戦争が無くならないのは、他国が自国を侵略しようとしているのではないかと心配する猜疑心が無くならないからである。つまり被害妄想である。そうすると他国の自国への侵略に備える。あるいは他国が自国へ攻撃する前に、自分から他国に先制攻撃を加える。被害妄想ゆえに、それを他国への攻撃を正当防衛だと確信する。こういう具合に戦争は起きるのである。
 
(4)自己発見・自己実現の促し合いがユートピア建設運動である
 人間は本当に自分のしたいことをすることが最高の幸福であり、それが何であるかを人にああこう言われる筋合いのものではない。本当に自分のしたいことを発見するのが自己発見である。したがってユートピアとは万人が自己発見―自己実現する社会のことである。ゆえに、真のユートピア建設運動とは価値観の画一化によるのではなく、各人が各人の価値観に基づいて自己発見―自己実現するように促し合い、そして多くの人の自己発見―自己実現が調和を目指す運動である。
 
(5)許し合いの運動
 ユートピア建設運動においては、他人を許す運動も必要である。他人が自分に危害を加えたり敵意を持ったりしても、それを受容して許すようにしなければならない。人に敵意を持っていても、その相手が自分の本当の心を受容し許せば、敵意は無くなるものである。最初は個人レベルでそういう運動をして、最終的には国家レベルで許し合わなければならない。そういう心の運動がユートピア建設の実現となっていく。
 
(6)まとめ
 ユートピア建設を妨げる要因は、一言で言えば他人を自分の思い通りにコントロールしようという思いである。独善的思想家は万人を自分の思い通りに従わせようとする。また被害妄想の人(国)は、他人(他国)が自分(自国)に危害を加えようとしていると思い込み、かえって逆に自分(自国)から他人(他国)に危害を加える。そういうのがユートピア建設の最大の阻害要因である。
 ユートピア建設には人をユートピア建設の道具とみなさないで、万人が自己発見―自己実現する神聖不可侵な権利があると、万人の人格を尊重しなければならない。
世界を幸福に導く思想運動の本質
(1)はじめに
 世界を幸福に導く思想運動の本質は、価値観の押しつけの運動ではなく、すでにある精神を自覚にもたらす運動である。そういうことを説明しよう。
 
(2)世直し運動の英雄の結末
 自称道徳的な人(世直し運動の英雄)が、「世間の人は堕落している。堕落して腐ってる人たちを改心させ世直しをするのだ。」と意気込んで、「自分が模範的な道徳的な人だ。世間は私を見習うべきだ」と、上から目線で世直し運動をしたところ、世間から総スカンを食らうのが落ちであろう。
 世間をエゴイストだらけだと非難していたが、その実は自分自身が世間の人の心を理解しない最大のエゴイストであったと気づくかもしれない。
 そもそも人を自分の思い通りに変えようと思うのはエゴイストなのだ。世の中のエゴイストはあちこちで摩擦を起こすが、結果はエゴイストの思い通りにはいかないのだ。
 
(3)権力による価値観の押しつけ
 しかし、世直し運動がうまく行って、権力を握った結末は、強制権力による悲惨な独裁である。世界史はそういう独裁を免れて、自由の獲得を追求し、民主主義という政治形態に行き着いたのである。
 
(4)世界を幸福に導く思想運動の本質
 世界を幸福に導く思想運動は、すでに民衆が持っている精神(心の在り方の特徴)を自覚にもたらし、増幅する運動である。例えば、私が日本精神の復興として「和の精神」の復興運動をしようとするのは、私だけが持っていて、その他の人にない和の精神を他人に押し付けようとする運動ではない。すべての日本人がすでに持っている、西洋人には少ない和の精神を自覚にもたらすように、和の精神を論理化しようと努力しているのである。
 もう一つ挙げれば、私の提唱している自己発見運動も、実はすべての人は自己発見したいが、それが自覚するに至っていないので、それを自覚にもたらそうとあれこれ思索を練っているのである。
 
(5)自己発見は神聖不可侵の権利
 自己発見運動は、どういう自己発見をするかは100%本人の自由であり、それは神聖不可侵の権利である。
 しかし、独善的思想運動をする人は、自分の価値観を押し付けて、他人を自己発見させたと言う。それは自己発見理論の誤解である。
 そもそも人を自分の思い通りに動かそうなどと考えるのはエゴイストであり、それは愛の反対である。真の思想は愛であり、それは他人の心をあるがまま良しとし受容し、その内面を顕在化させることであり、それを私は自己発見の促進だと思っている。
 
(6)価値観の共有ではなく愛で絆を結ぶこと
 理想的な思想団体は、ある価値観を共有することにより絆を結ぶのではなく、多様な価値観を認め、全ての人を価値観に関わりなくあるがまま受容して絆を結ぶのである。それでこそ盤石な絆となる。価値観の共有で絆を結べば思想や価値観の対立から、団体はすぐに分裂するであろう。分裂を防ごうとすれば価値観の押しつけをしたり、思想の自由を否定することになるだろう。それでは暗黒独裁体制に陥ってしまう。
 
(7)まとめ
 世界を幸福に導く思想運動の本質は、今は無い心の在り方を押し付けるのではなく、すでに民衆が持っている心の在り方を自覚にもたらし、増幅することである。それはすでにあるものを引き出すことであり、決して人々を自分の思い通りに動かそうとすることではない。そういうのはエゴイストである。

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