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生命の自発的運動について
(1)はじめに
私が生命は自発的に運動する存在であると言っても、その指摘の重要性を理解している人は少ないかもしれない。それで、くどいようだがそれをもっと詳しく説明したいと思う。
そもそも物理学とは物質を扱うのだが、物質とは自発的には運動しない存在のことであり、現在の生物学は物質を扱っていて、生命を自発的に運動しない物質でできた機械、即ち分子機械として機械の構造・機能を研究しているのである。生物学科医学科向けの著名な分子生物学の教科書を読むと、生物は物理と化学で理解できるものとちゃんと書かれている。現在主流の分子生物学では生命の自発的運動の研究していないと思われる。確かに生命の分子機械としての構造と機能を研究するのは生命の一側面の研究にはなるが、生命の主体性の研究こそが生命の本質の探究になると確信しているので、それが重要だと言っているのである。
それでその重要性を今までよりも詳しく説明しよう。
(2)ニュートンの運動方程式
物理学の発想の本質はニュートンの運動方程式に集約されている。ニュートンの運動方程式はF=Ma(力[F]=慣性質量[M]×加速度[a])である。力と加速度が比例しているのである。すなわち、力が2倍になれば加速度も2倍になり、力が半分になれば加速度も半分になる。加速度を詳しく書けばa=d2x/dt2=dv/dt,ただし
v=dx/dtである。xは座標で表された位置のことである。tは時刻、vは速度である。速度とは位置の時間微分であり、単位時間に位置がどれだけ変化するかという量である、加速度は速度の時間微分であるが、それは単位時間に速度がどれだけ変化するかという量である。
直観的には速度が力に比例すると感じる人は多くいるだろう。しかし、F=0のとき
Mdv/dt=0なので、vは時間微分したら0、つまりvは定数ということになる。つまり力が働かなければ物体は等速運動をするのである。力が強いときに大きい速度を維持するように感じられるかもしれないが、摩擦が無く、力が働かないときは、速いときは早いまま、遅いときは遅いまま、そして止まっているときは止まったままである。力によって速度が決まるのではなく、加速度が決まるのである。力が正の向きに作用すれば、速度は大きくなるように変化し、負の向きに働けば小くなる方向に変化する。そして力が2倍になれば加速度も2倍になる。
ニュートンの運動方程式は力が働けば物体は加速度運動をするということを意味しているが、それを逆に読めばある物体が加速度運動をするならば、その物体には何らかの力が働いているということになる。この考えから、物体を手から放せば地面の上では下方に加速度運動するつまり速さを増しながら落下するので物体には重力という力が働いていると解釈できるのである。
(3)存在するもの
この物理的視点から、存在するものとは物体に力を及ぼすもののみに限り、物体に何ら力を及ぼさないものは存在することは証明できないという唯物論が産まれる。この観点からは3次元空間中には意識は観測されず、意識の物体への力の作用は考えられないので「意識は無い」という唯物論になる。
今の唯物科学は物体の運動の変化を引き起こすものを「存在する」と見なしているが、私は意識の変化を引き起こすものを「存在する」と見なして科学を拡張させたいと思う。例えば絵画という物体から光が届いて眼に入り脳の変化を引き起こすが、それは物理作用だけではなく、認識主観にとって美感という意識の変化を引き起こす。それ故に絵画の美は存在すると見なせる。美が美感を生じるという形で意識の変化を引き起こすので美は存在すると考えるのである。ニュートン力学では3次元ユークリッド空間と一様に流れる時間というのが経験を整理する認識の形式になっているが、美などの意識の認識形式はそうはなっていないのである。意識の経験を整理する形式を発見するのは重要な課題である。
(4)運動の原因は全て受動的である
ニュートンの運動方程式から物体の運動に変化が起きるのは、つまり加速度を引き起こすのは、全て外部の力によるものであり、科学的立場というものは物体の内部からの運動の変化の原因は物理的にはあり得ないという観点に立つのである。
つまり物理的認識とは運動の変化は外的に力が作用した結果受動的にのみ引き起こされるということが前提の世界認識である。これは量子力学や相対性理論や素粒子理論になっても変わらない根本的認識態度である。これは重要なので肝に銘じておいてほしい。だからこそ、この延長では生物の主体性や人間の意識の主体性は説明できないと私は言っているのである。
(5)生物機械論
生物は生きている物体で、生きているとは受動的にのみ運動するのではなく自発的に運動するものと思われる。これが非科学者の常識である。
しかし、物理の洗礼を受けた生物学者たちは、生物を物理と化学の言葉で説明しようと努力している。つまり、生理のメカニズムを生物を分子でできた機械と見なして説明しようと努力しているのである。生物を説明するとは一見自発的に運動しているように見えるものを実は受動的運動であったと説明することであり、それが生物学の目的になっているのである。つまり生物を分子機械であると見なそうとしているのである。生物を理解するとは生物がいかにうまい具合に分子機械になっているかを認識することと思っているのである。
生物が餌を食べようと自発的に運動しているかの如く人間には認識されるが、それは錯覚であり、実際はうまい具合に餌を食べるようにプログラムされているだけで生物の自由意志なんて錯覚であると信じているのである。
(6)人間機械論
生物機械論を押し進めれば自動的に人間機械論に至る。人間は脳という複雑な神経回路を持った分複雑な判断をできるコンピュータになっていて、これも自由意志は錯覚であり、人間は高度に複雑なプログラムをされた機械にすぎないという人間観になるのである。
(7)生命力は3次元空間を超えている
生物の機械的側面は3次元空間内で認識されるが、生命の意志、あるいは生命力は3次元空間を超えているのである。生命力がどうやって生物を構成している分子に作用するかを解明するのが重要な課題である。生命力は3次元空間の中で外部から分子に作用するのではなく、3次元空間を超えたところから、通常の感覚で言えば内部から分子に作用するのであろう。そのとき生物は自発的に運動したということになるだろう。生物の自発的運動のメカニズムが解明できれば科学革命であるし生物資源の革命にもなるし、生命力の注入による自然治癒力の増進などの医療革命も引き起こすだろう。
私は生命力が生物を構成している分子に作用して生物の自発的運動をしていることを証明して科学革命を引き起こしたいと思っている。唯物論を終わらしたいのである。
(8)まとめ
物理的認識態度というものは全ての運動の変化は受動的に引き起こされるとみなす認識態度であるのに対して、生物とは受動的ではなく自発的に運動する物体のことなので、物理的機械論では生物の機械的側面のみが認識でき、生命の本質である生命力による自発的運動は説明できない。
私は生物が自発的運動をしていることを証明し科学革命を引き起こしたい。
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生物学
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生物学の研究構想
(1)はじめに
従来の生物学は機械論的唯物論に立脚し、生物を理解するとはその生物の持つ諸機能の分子機械メカニズムを解明することとされている。しかし、生物が機械であることはたしかに生物の一側面であるが、それはあくまでも一側面であり、他の側面として機械に還元されない目的意志を持った存在であるという側面があるのは事実である。
そこで私の立脚点において生物を研究するとは何を目的とすることかを提示したい。生物学研究の目的を説明したい。
(2)従来の生物学の誤謬
従来の生物学の成功の源と誤謬の源の両者とも機械論的唯物論であることにある。DNAの発見という大成功は過去の生気論を追放し機械論を確たるものにした。人間においても脳の状態と意識の状態の対応関係も研究され、「心の分子メカニズム」もやがて明らかにされるのではと思われた。
しかし、機械や物質というとき、それは自発性を持たない存在を言い表しているのであり、即ち生物が機械であるということは生物が意志を持たないということを主張しているのであり、意志を持つように見えるのは錯覚にすぎないということを主張しているのである。
しかし、生物というのは自発性をもっている存在のことであり、自発的に自己保存を意志し、生殖を意志していて、多様な環境の中で柔軟に対処して目的を実現しているのである。
(3)生物の自発性の側面
物とか機械とかは自発性を持たない存在のことであり、生物とは自発性をもって運動する存在のことである。
したがって、生物学の研究の主目的は、生物の自発性を持った運動の実現のメカニズムを解明することであると私は考える。
生物は一見自発的に動く物に見えるが、純粋な物とは自発的には運動しないもののことである。自己運動しないものが、ある集まり方をしたらわけのわからないうちに自発的に動く生物になるのではないかと言うのが現在主流の生物学の見解であるが、自発的に動かないものはどう集まろうがやはり自発的には動かないということは少し考えれば分かることである。したがって生物を単純には物の集まりでは説明できないのである。物以外に自発性を導入する必要がある。
この自発性は普通の言葉では「意志」と呼べるであろう。人間の場合「意志」と言ったら多数の欲求が生じる中それらに優先順位をつけて、優先した欲求を実現しようと他の欲求を押さえることとされているが、下等生物の場合は単純に欲求を意志と見なして良いだろう。つまり単細胞生物でさえ低いレベルであるが意志を持ち、それを実現しようとして多様な環境に適応していると見なすのである。
(4)認識―実践システムとしての生物
生物というのは何らかの形で外界を認識しそれに基づいて外界に働きかける認識―実践システムと考えられるだろう。これは単細胞生物から人間まで当てはまることである。
ここで認識とは外界からの刺激をキャッチして主観に取り入れることであり、実践とは己の目的を実現するために外界に働きかけることである。
こういうと認識―実践システムは人工知能を備えたロボットと見なせるではないかと多くの研究者は思うかもしれない。認識においては外界からの刺激を脳まで届くことを認識と思い込んでいるようであるが、認識主観は脳という物ではなく、あくまでも「意識」なのである。物としての脳に信号が伝わってもそれは物質に影響を与えただけでちっとも認識ではないのである。認識とは意識が認識するのであって物は何も認識しないのである。ロボットは意識は無いので、外界の刺激をキャッチしても認識はしていないのである。
また実践にしてもロボットというのはあくまでも無自覚に機械的に運動しているだけであり、自発性すなわち意志は無いのである。ロボットというのは出来るのは意志を持っているかの如くプログラムすることまでであって、意志を持たせることはできないのである。
したがって、生物をロボットとみなすのではなく、物質に還元できない主体があってそれが認識と実践を行うと考えるのである。
(5)哲学の研究の必要性
生物を「認識―実践システム」と見なし、それに有効な概念を整備するために哲学を研究する必要があると思っている。
従来の情報理論は、あくまでもコンピュータの受け取る情報のみを問題にしているのであり、外界からの刺激を情報として意識がいかに受け取るかを問題としているのではない。意識と無関係な情報理論でしかない。
したがって、外界から情報をいかに受け取るかという認識論を整備する必要がある。つまり、意識が情報を得るとはどういうことかを解明する必要がある。こういうと「すでに情報理論で為されているではないか」と思う人も多いかもしれないが、先に言ったように現在の情報理論は意識には立ち入っていないのである。コンピューター同士の情報のやり取りしか扱っていないのであって、意識がいかに情報を受け取るかには無関与なのである。したがって、意識が外界からいかに情報を得るかを研究する必要があるのである。
そして従来の科学が怠けてきたことであるが、実践主体をいかに正確に捉えるか、さらには主体をいかに数学的に表現するか、そういう哲学的・数学的課題に立ち向かわなければならない。
主体というとごく簡単な概念と思う人も多いかもしれないが、これは現在の科学では全く曖昧にしか認識されていないのである。科学が正確に認識しているのはニュートンの運動方程式に従う押されたら動くという自発性の無い物体の運動であり、自発性のある主体というのはほとんど認識されていないのである。主体を正確に捉えるのは現在の科学の大きな課題であると思っている。
即ち認識―実践システムを正確に捉えるために哲学的・数学的課題を克服する必要がある。
(6)今分かっていること
生物が主体を持つということは意識の統一力が存在し、それが生物の身体に作用していることと見なせる。ここで意識の統一力とはそれが無ければ意識が拡散し方向性を持たななくなるのであるが、それがあって意識に方向性が出てきて主体を展開できるというものである。
この統一力は生命力とみなせる。従来の生物学は何故か生物はうまい具合に機械的に出来ていると思うことはあっても、生物の本質は機械であると思い込んでいたが、この「統一力=生命力」を見落としていたのである。この統一力があって生物はうまい具合に機械として作動しているのである。私は統一力が作用して生物はうまい具合に機械としての自己を自己組織化でき、機械になって多くの機能を実現できると思っている。
つまり細胞小器官には細胞小器官の統一力が働き、この統一力の上位の統一力として細胞の統一力があって、複数の細胞小器官の統一力に働きそれを束ねていて、そしてその上位の統一力として臓器の統一力があり・・・というように統一力の体系があると考えられる。
(7)まとめ
生物を「認識―実践システム」として捉えるのがこれからの生物学の課題である。そのためには「認識主観」と「実践主体」を正しく捉えるために哲学的努力が必要である。
生物の主体は統一力の体系とみなせる。
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