科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

ヘーゲル

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精神の現象学―序文―解説2

(1)はじめに

 「精神の現象学」(金子訳)の序文7ページを解説する。テーマは「真理の知は学にならねばならない」である。

 

(2)真理の現存形態

 先ずこうある。

 「ところで真理が現存するにさいしての真実の形態としては、真理の学的体系をおいてほかにはありえない。哲学を学の形式に近づけること――哲学をして愛知という自分の名を捨て去るをえさせて現実的な知であらしめるという目標に近づけること――、このことに協力するということこそ、私が企てたところである。」(「精神の現象学」(金子訳7ページ)

 

 ここで一番言いたいのは「真理が現存するにさいしての真実の形態としては、真理の学的体系をおいてほかにはありえない。」であるが、それは哲学に限った考察ではなく、宗教的真理、芸術的真理、哲学的真理、科学的真理を含めて、真理が現存するのは現代では宗教でも芸術でもなく、学であると言っているのだと思う。これは重要な主張であると思う。現代は過去にそうであったように、宗教が真理の中心である時代ではないという認識である。

 ここで「学」とは何であるかは難しいところだが、「哲学をして愛知という自分の名を捨て去るをえさせて現実的な知であらしめるという目標に近づけること」とあるように、哲学の語源はフィロ(=愛)ソフィー(=知)で「知への愛」であって、それは真理を愛するがまだ真理には到達していないものとされている。真理を追究する作業が哲学であり、哲学はまだ現実の学ではないとされている。それをヘーゲルは哲学が「知への愛」から脱して学になる時代が来たと確信し主張しているのである。したがって、ここで言う学は、哲学と言うより科学に近いと思う。ただし現在の科学は唯物科学のみであるが、ヘーゲルの科学は観念論の科学と言える。

 しかし、実際はヘーゲルの確信に反して、ヘーゲル哲学は通常の科学のようには普及しなかった。ヘーゲルに代わってヘーゲルの弁証法を唯物論化したマルクス・エンゲルスの唯物弁証法の方が普及したが、それも今では廃れている。その原因は科学との齟齬にあると思う。特にヘーゲル哲学は、彼の哲学が普及した後、唯物科学が大発展して、その科学とヘーゲル哲学が乖離して行ったので、唯物科学が世界観の主流となり、ヘーゲル的世界観は廃れたのだろう。

 

(3)内的必然性と外的必然性1

 次の解説をする前に内的必然性と外的必然性とは何かを説明しよう。

 先ず内的必然性から説明しよう。例えばカレーライスを作ろうと思ったら、ニンジン刻み、タマネギ刻み、ジャガイモ切り、ルーを溶かすなどの料理をしなければならない。つまり、カレーライスを作ろうと思うならば、ニンジン刻み、タマネギ刻みなどをしなければならないというのが内的必然性である。これはカレーライスを作るという目的に対して、ニンジン刻みという手段を実行しなければならないという目的―手段の体系という内的必然性である。

 これに対して外的必然性というのは物理的因果律の必然性である。野球でバットにボールが当たってホームランになったという現象の一側面は物理現象であり、その必然性は物理の法則にしたがって、ボールがこういう速度で飛び込んできて、バットにこういう角度で当たると、ボールに力が加わって、こういう角度でこういう速度で飛んでいくから、外野スタンドまで届くというように力学的必然性である。

 私は前から人間は外界と内界の両方に属する存在であると主張しているが、人間は自分の持つ目的―手段の体系と言う必然性と外界の物理的必然性の両方が混ざり合った経験をして生きているのである。

 

(4)内的必然性と外的必然性2

 「知Wissennが学Wissennschaft学でなくてはならぬという内的必然性は知の本性に基づくことであり、この点についての満足な説明としては、ひとり哲学そのもの(論理学)の叙述あるのみである。しかし、外的な必然性と言っても、これを、人物や個人的な動機という偶然性を顧慮の外において、普遍的な仕方で把握すると、内的必然性であるものと同じものである。即ち外的な必然性も時代がこの必然性の諸契機の「そこ」にある存在をいかに「表象」しているかという形態においてあることになるが、このときには内的必然性と同じである。」()

 私もまだヘーゲルの論理学を勉強していないので分からないが、知が学になる必然性はヘーゲルの論理学に書かれているようである。カレーライスの例では必然性の根拠は個人の目的に有った。それで知が学でなければならない根拠は、論理学に書かれているというのだが、論理学とは思考の諸規則・諸法則の学であり、論理学という内面の知は個人を超た思考、簡単に言えば神の思考を扱う学なのであり、したがって知が学でならなければならない根拠は個人を超えた思考である神の思考にあると言える。

 「偶然性を顧慮の外において」とあるが、カレーライスを作る例に戻って考えると、カレーライスを作るためには、ニンジン刻みやタマネギ刻みをしなければならないのは必然的であるが、どっちを先にやるべきか、いつやるべきかというのは必然性が無く偶然である。内面においては内的必然性があるが、それが外に行為として現れるときは偶然な要素が含まれてくるのである。

「即ち外的な必然性も時代がこの必然性の諸契機の「そこ」にある存在をいかに「表象」しているかという形態においてあることになるが、このときには内的必然性と同じである。」

これは分かりにくい。特に「この必然性の諸契機の「そこ」にある存在」はちんぷんかんぷんである。そこで牧野紀之の訳を参照する。牧野は同じ部分を次のように訳している。「すなわち外的必然性とは、内的必然性の諸契機が時間のうちに現われたものなのである。」(「精神現象学」牧野紀之訳36ページ)これはカレーライスの例で言えば、外的必然性とは、カレーライスを作るという目的を知らない人に対して、分けも分からず、ニンジン刻みという行為が観察され、それとは全く独立にタマネギ刻みという行為が観察されるというように、ある人の内面が外界にバラバラに現象化している状態が「内的必然性の諸契機が時間のうちに現われた」ものであるといえるだろう。

 

(5)契機

 カレーライスの例で言えば、カレーライスを作るという目的に対して、手段であるニンジン刻み、タマネギ刻み、ジャガイモ切り、ルーを溶かすが「カレーライス作り」の契機である。「契機」は単なる部分とは違う。部分はただ単純に足し合わせて全体を作るが、契機は、手段が目的という方向性に沿って組み合わされる。足し算と違って有機的統一である。

 「内的必然性の諸契機が時間のうちに現われた」においては、内的必然性が「カレーライスを作る」であり、「ニンジン刻み、タマネギ刻み、ジャガイモ切り、ルーを溶かす」が諸契機である。

 一般に目的の実現とは内面の外界への顕在化であるというのを実感してほしい。

 

()まとめ・考察

 ヘーゲルは現在は「知が学にまで高まる時代である」と主張したいと思っている。その内的必然性は今後書く予定の「大論理学」で説明する。内的必然性とは内面を認識して捉えうる必然性であり、これは個人を超えた内面である。一方外的必然性は内的必然性が外界に現象化したものである。外的必然性とは、外界を観察して認識できる必然性である。

精神現の象学ー序文ー解説1
(1)はじめに
 精神現象学の「序文」の最初の部分は「序文の序文」と言えるが、そのテーマは序文に何を書くべきか」である。そして論旨はあまり明確ではなく分かりにくい。
 そこで考えるべきは、哲学するとは本の解釈をすることではなく現実を認識することである。そこで問題となっている一般的現実は何かと言うと、真理を認識した人は、その真理の伝達・普及のためにその真理を文字を使って著作にまとめるのであるが、その時にその伝達・普及を促進するために「序文」を書くということである。そういうときに序文に何を書くべきかが問題なのである。したがって、ヘーゲルの問題としていることは、ヘーゲルが認識した真理の伝達・普及を促進するために「序文に何を書くべきか」ということである。こういう問題意識を持って序文の序文を読んでいこう。
 参考文献は「精神の現象学()」(ヘーゲル著、金子訳)の37ページである。
 
(2)序文には「断言」は書けない
 (哲学書の序言で)語られるのは例えば傾向や立場や概略的な内容やもろもろの結論の記述的な報告であり、要するに真なるものについて謂れもなくあれこれと語る一連の主張や断言であるが――こういったことは哲学的な真理が叙述されるさいにふさわしい遣りかたとして妥当することはできないからである。」(「精神の現象学()3ページ)
 「断言」がなぜ哲学に相応しくないのかというと、それは言いっ放しであり、真理の伝達にはならないからであろう。読者を納得させないからである。哲学に相応しいのは断言でなく証明である。証明は正しく考えるならば万人がそう考えるという論理展開を示すことであり、そうすると真理が納得され伝達できるのであるから、それが哲学に相応しいのである。
 
(3)「事柄」とは何か
 序文の序文には「事柄」という用語がたびたび出てくるが意味を汲み取りにくい。私が推測するに、たとえば歴史の研究で全ての歴史的事実、たとえば「名もない人物のある日の夕食のメニューが何であったか」などを片っ端から解明するのではなく、歴史を左右する人物の歴史を左右する行為を研究すべきで、そう行為が歴史に関する「事柄」であると思う。一般にある学問の事柄というのは、その学問に関して重要な意義を持った事物であろう。
 
(4)序文には「目的や最終の結論」は書けない
 「また哲学は本質的に特殊的なものを内含している普遍性という場面のうちに生きているのであるから、哲学の場合には他の諸学の場合にもまして、目的や最終の結論のうちにこそ事柄そのものが表現せられており、しかもその完全な本質において表現せられていて、この本質に比するならば、実現の過程のごときは本来非本質的なものであるかのごとき外観を呈しやすい。」(3ページ)
 これは、哲学の「事柄」は普遍的なものであるという外観があり、そして普遍的なものとは「目的や最終の結論である」ということになり、そしてその誤解に基づけば、哲学書の「事柄」は「目的や最終の結論」であり、実現の過程は特殊なので「事柄」ではないということになる。ヘーゲルが言っていないことを推測して追加すると、序文に「目的や最終の結論」を書くと、その本の全ての「事柄」が序文に有ると思われることになり、本論には序言に含まれているもの以外の「事柄」は含まれていないので、読者は序文だけを読めばよく本論を読む必要が無いと思うことになるので、それは都合が悪いのでそのために序文に「目的や最終結論」を書けないということになるのである。
 ここで推測を書くと、「最終の結論」は精神現象学では神の知である「絶対知」のことであり、実現の過程とは感性的確信から絶対知まで意識が昇っていく過程のことだと思う。
 ここでは哲学書について述べたが、解剖学の例も述べている。解剖学では細胞・筋肉など特殊な内容が「事柄」であると思われているので、「事柄」は普遍的なものだとは思われていなく、序文に普遍的なことを書いても、本論に特殊な内容である「事柄」が書かれているので、哲学書と違って、本論も読むべきと思われるので不都合はない。したがって、解剖学の場合には「目的や最終結論」を序文に書ける。
 
(5)叙述の正しい形式
 先ず「会話」と「対話」を区別しなければならない。「会話」とは社交を目的とし、真剣に考え議論せず軽くコミュニケーションをすることである。それに対し、対話とは「事柄」を尽くし真剣に議論することである。
 ヘーゲルの言うのには、たとえば解剖学では、序文では目的とか最終の結論など普遍的なことを会話風に語るが、本論も同じく会話風に語られるので問題は無い。しかし哲学書で序文で会話風に語ったしても、本論は会話風に語ることは許されない。その理由は、序文と本論で食い違いが生じるからであるが、それは何故かというと序論は会話風に語った場合でも本論は弁証法的発展の形式で語らねばならないからであろう。これが食い違いである。だから、哲学書の序文に「目的や最終の結論」を会話風に書くことは出来ないのである。
 
(6)序文に「他の著書との比較」は書けない
 ここではヘーゲルの独自の認識である、哲学的真理は弁証法的に発展するという認識が表われている。通常はある対立する哲学があるとすると、どっちかが正しくどっちかが間違っているかであると考えられる。しかし、弁証法的発展とはある哲学と他の哲学が低次で対立している場合どちらも部分的には正しいのであるが、その後に出てくる高次の哲学はその両者を契機として含み、その対立を解消した哲学であるという考えである。そう認識しているヘーゲルだから、自分の哲学は過去の全ての哲学を契機として含む最高最深の哲学であると自負しているはずである。
 「それから或る哲学的著作が同一の問題に関する他のもろもろの試みに対して立つと信ずる関係が規定せられる場合にも、また事柄とは異種の関心が引き入れられて、真理の認識にさいして肝心であるところのものが不明瞭にされる。」(4ページ)
「事柄とは異種の関心」とは、「現存の哲学体系に対する賛成かそれとも反対かのいずれか一方を期待する」(4ページ)という非弁証法的見方であり、「真理の認識にさいして肝心であるところのもの」とは「哲学体系の相違をもって真理の進歩的発展として概念的に把握する」(4ページ)という弁証法的見方である。
 そしてヘーゲルの考えでは意図的に弁証法的に思考できる人はほとんどいないので、他の著書との比較を序文で書いても、ほとんどの人は賛成かそれとも反対かばかりに注意が注がれて真理の核心がぼやけるだけなのであるから、それは序文には書けないのである。
 
(7)序文に「目的・結果」が書けないもう一つの理由
 次のように考える人は多いと思う。
 「或る哲学的著作の核心はその諸目的および諸結果におけるよりも以上に、はたしていかなる点においてよりよく言明されうるであろうか、そうして目的と結果とは専門を同じうする同時代の他の人々が生産するところのものとの相違によるよりも以上に、はたして何によってより明確に認識されうるであろうか」(同5ページ)
 そしてヘーゲルはそうではないと言っている。理由は下の通り。
 「事柄はその目的において尽くされているのではなく、尽くされているのは実現においてのことであり、また結果も現実的な全体ではなくして、そうであるのは生成といっしょにされたときのことである。」(同5ページ)
 これは、普遍的なものである目的や結論だけが事柄であるという考えは間違っており、特殊である実現の過程も事柄であるということである。
 
(8)ヘーゲルの結論
 ヘーゲルは自分の仕事の目的をこう言っている。
 「哲学を学の形式に近づけること――哲学をして愛知という自分の名を捨て去るをえさせて現実的な知であらしめるという目標に近づけること――このことに協力するということこそ、私が企てたところである。」(7ページ)
 そこでその目的を推進するために序文に次のことを書くと言っている。
 「だから哲学を学にまで高むべき時代がきているのを指摘するということこそ、この目的(序文を書くこと)をいだく試みの〔序文において可能な〕唯一の真実な正当化であるであろう。なぜなら、時代はこの目的(哲学を学に高めること)の必然性を示すであろうし、いな同時にそれを実現しさえするであろうからである。」(同7ページ)
 「序文に何を書くか」の答えは「今まで愛知であった哲学を本当の学に高める時代がきていることを示すこと」ということである。愛知とは真理を追究するが真理に到達はしていないという哲学の過去から今までおかれている状態のことであるが、ヘーゲルは自分は真理に到達したという確信があり、哲学をもはや真理を追究する愛知ではなく真理に到達した客観的知の学問にできるという自負があったものと思う。

弁証法的発展

弁証法的発展
(1)はじめに
 弁証法的発展とは、個人の側から見れば思考の次元が高まること、あるいは意志が一段深まることである。世界の意識の運動という視点から見れば、意識宇宙に潜在的に存在していたものが、物質宇宙に顕在化することである。
 そこで、ヘーゲルが「大論理学」の序言に書いている弁証法的発展のプロセスと照らし合わせながら、私の認識している弁証法的発展を説明しよう。
 
(2)「大論理学序言」からの引用
 「精神は単一なものを否定する、こうして精神は悟性の規定された区別を定立するが、精神はまた同じくこの区別を解消し、こうして精神は弁証法的である。けれども精神はこの成果である無[悟性の区別を解消した結果、あとに何も残らなければ、解消するという運動の成果は無であろうが、そのような無(訳者)]のなかにじっとしているのではなくて、この成果である無の中で、またまさに肯定的であり、こうしてそれとともに最初の単一なものを回復するのであるが、しかし普遍的なものとしてこれを回復するのである。」(ヘーゲル、大論理学1、寺沢恒信訳、39ページ)
 
(3)図式的説明

イメージ 1



 先ず、単一なものが潜在的に存在する。これは上の左の図で表されている。そして、「精神は単一なものを否定する、こうして精神は悟性の規定された区別を定立するが、」となるが、区別のことを否定とも表現している。悟性という用語はカント、ヘーゲルの用語でドイツ語の「Verstand」の訳である。悟性という言葉ではなかなか意味が分からないが、長谷川宏は「分析的思考」と訳している。区別立てをする思考のことである。それに対して「理性」=「Vernunft」はヘーゲルでは、対立しているものを統一する思考の意味で用いられている。したがって、上の図で左から真中への移行は悟性の作用であり、真中から右への移行は理性の作用である。


 「精神はまた同じくこの区別を解消し、」では、悟性の立てた区別を解消する。そして、この成果である無の中で、またまさに肯定的であり、こうしてそれとともに最初の単一なものを回復するのであるが、しかし普遍的なものとしてこれを回復するのである。」ということであるが、区別の解消をした後は、元の単一的なものを普遍化しながら回復するということである。またこの回復は区別を保存したままの回復である。普遍化しながらの回復というのは図ではうまく表現できていないが、右の図では潜在的空間に有った元の単一なものが顕在の空間に降りてきた様子を表している。区別を保存していることは下の方に二つの分岐があるという図で表されている。


 ここで弁証法的発展は低レベルの単一的なものを否定し高次の普遍者として回復するので、この過程は個人の立場から見れば意識の高度化であるが、意識中心の立場から見れば、意識が下って行く潜在的なものの顕在化の運動である。


 


(4)区別の解消の二通りへの分類


 ヘーゲルは、悟性の区別の解消の結果、無に終わる解消と、元の単一なものの普遍化しながらの回復の違いが何かを明確には述べていないので、ここで私の考えを説明したい。


 無に終わる区別の解消とは、区別作用の意志に対して、同次元の意志を真正面から対立させる解消の仕方である。そのとき、区別作用は根は残りながらも抑えられて解消されるのである。その結果は無である。


 逆に単一的なものを普遍化して復活させる場合の区別の解消は、区別作用の意志の源泉を掘られ、区別作用を根こそぎにされる解消の仕方である。区別作用を抑えるのではなく、区別作用の意志を根こそぎに引っこ抜くのである。つまり、区別作用の意志の発信源を断つのである。そして、回復される普遍化した単一なものは、区別作用の発するところのさらに奥から湧き出してくる。区別作用の発信源のさらに奥から、普遍化した単一的なものが湧き出てくるのである。


 


(5)水分の例


 先ず、「雨が降って土地が湿った。」という経験のとき、漠然とした単一な世界を「雨」と「土地の湿り」に区別する。これが悟性の区別作用の例である。その区別された両者を「水分」という一つのものの異なった現われ方であると統一的に把握する。つまり雨も本質は水分であり、土の湿りを作っているのも水分であり、両者の本質は同一であると統一するのである。これが理性の統一作用の例である。


 


(6)親子の例


 乳児はまだ自己と母親の区別がつかず、渾然一体としている。それがやがて母親と自己の区別ができるようになり、さらに少年時代後期には親と異なる自己を確立しようと反抗期になる。これが自他を区別する悟性の区別作用の例である。そして、さらには大人の愛として、親の立場を理解し、大人同士として理解しあえるようになる。これが理性の統一作用の例である。この場合の弁証法的発展は、他人の立場の観点も持てるようになる意識の普遍化である。


 


(7)自己変革


 悟性の区別作用を否定する理性の否定作用を、人格の発展に即して言えば、「理性の否定作用とは、浅い自己を否定し深い自己を肯定すること。」と表現できる。深い自己がより主体であり、浅い自己の意志は深い自己の意志の作用を受ける客体である。浅い自己を否定して深い自己を引き出すのが真の自己変革である。深い自己はより主体的なので、自己変革するとより主体的な人格になる。深い自己を掘り出すというのは無限に可能であり、これで終りというのは無い。深い自己が「弁証法的発展の成果としての、普遍化されて回復した単一的なもの」に対応する。


 


(8)真の自信と謙虚


 真の自信とは現状の自己に対する自信ではなく、謙虚に自己変革する覚悟を持って潜在的な深い自己が顕在化しうることへ自信を持つことである。すなわち、常に自己変革の心構えを持つことである。自己変革をしようとはしないで現状の自己に自信を持つことは傲慢であり、失敗をする傾向にある。逆に現状の自己を駄目だと思い、かつ自己変革をしようとしない場合は自己卑下でしかない。つまり、真の自信とは無限に自己変革する覚悟を持って、潜在的自己が顕在化しうることに自信を持つことである。そういう心構えは真に謙虚で、他人からの欠点の指摘に対して自己を変える心の準備が出来ている。


 ただし、ここで言う自己変革とは先に述べた、浅い自己を否定し深い自己を顕在化することである。


 


(9)まとめ


 弁証法的発展とは、単一なものが悟性によって区別作用を受け、理性によって区別が解消され、単一的なものが普遍化されて回復することである。


 これを人格の発展として見たとき理性の統一作用とは、浅い自己を否定し深い自己を引き出すことであり、これが自己変革である。


 真の自信とは、謙虚さをもって無限に自己変革をする覚悟を持ち、潜在的な深い自己の可能性に自信を持つことである。


自己の分裂としての主体
(1)はじめに
 「主体をどう捉えるか2」において、主体を本来の自己と現状の自己の分裂と捉えたが、まだ説明が足りないように感じた。
 主体をどう捉えるかという問題意識は、物理学における存在の捉え方と比較したら分かりやすいと思う。そういうことを説明しよう。
 
(2)物理的捉え方
 物理の基本は、非常に小さいが質量を持った点としての質点の運動を考えることである。事態を知るとは質点の各時刻における座標(位置)を知ることである。つまり座標をxとして、時刻tにおける位置、つまり時刻の関数としての座標x(t)を知ることが事態を知ったこととするのである。これは質点に働く力を知れば、ニュートンの運動方程式の解として知ることが出来る。
 そこで、このような点の運動を捉えるというような物理を知る方法では、主体は捉えられないということが私の根本見解である。主体も何か一つのものとして、質点の集まりとして、その状態が時刻と共に変化して行く物質のようなものとして捉えようとしても、主体は正しくは捉えられないのである。
 
(3)「する」ということ
 何か行為を「する」のが主体である。「する」ことは物体の運動を引き起こす場合もあるが、「する」は物体の運動には還元できない。物体を如何に複雑に組み合わせても「する」は導出できない。「する」ということは現状を変化させ理想に合致させることである。意図があるとはそういうことである。
 ある人のバケツAからボールを取り出しバケツBに入れるという行為を考えてみよう。これを物理的に見ればある人の意図を無視してその人の身体の物理運動が与えられ、身体とボールの力学相互作用の結果ボールがバケツAからバケツBに移動したと把握できるだろう。しかし、これは物理現象として捉えられただけであり主体は捉えきれてはいない。「する」を把握できていないのである。これだけでは物体が運動したという事実を認識しているだけであり主体は捉えきれていない。
 この行為は行為する人がボールがバケツAにあるという現状を認識するとともに、それを超えてボールがバケツBに入っているという理想状態を想起し体を動かすことによってそれを実現したと捉えるのが主体の運動を捉えたことになるのである。主体の運動は物理現象とは異なるのである。
 
(4)自己の分裂としての主体
 主体が何かを「する」というのは、今現実には無い理想を想起し現状を変化させ現状を理想と合致させることである。通常は人が意図を持っていることは認識されているが、私の主張は脳生理学のように意図を脳の物理状態であるというように意識を物理的に捉えきれるという考えは間違いであり、物理的には考えられない概念である「理想と現状の分裂」こそが意図を持つことの正しい認識であるということである。そこには単なる質点の運動を捉える物理的把握とは異なり自己の分裂が不可欠である。主体は単一なものの運動としては捉えられないのである。現状と理想への自己の分裂が主体の行為の前提である。主体は分裂を解消しようと働くのである。物体が運動したというような物理的な捉え方では主体は捉えることができないのである。
 
(5)成果
「思う」ということ全般が現状を超えたものであるが、それを捉えるには、思考とは如何なる意識の運動かということなどもっと多くの事柄を研究する必要があるが、とりあえず何かを「する」という行為を捉えるために、物理的事実の捉え方と異なる観点が必要であることを把握することが出来たのではないかと思う。

主体をどう捉えるか2

主体をどう捉えるか2
(1)はじめに
 「精神現象学」を読解することによって、主体をどう捉えるかについての認識に進展があったので報告する。
 前の記事に主体は点ではないと述べたが、では本当のところはどうかと言ったら、主体は分裂があってこそ主体であるということが分かった。つまり、主体の運動とは、自己が本来の自己と現状の自己に分裂し、そして現状の自己と本来の自己が統合する運動であると認識した。自己を単純な点であると前提したら主体の運動は正しく認識できない。分裂を考慮して初めて主体の運動を捉えることが可能となる。
 
(2)自己の分裂
 上に言ったことを簡単に理解できるだろうか。通常は人間を体を持った物体と認識するので、「自己の分裂」と言われてもピンと来ないかもしれない。しかし、人間を物体と認識するのは一面的認識であり、人間は現実的には意識なのである。主体とは何かを正しく認識するためには、意識がどうなっているかを正しく認識する必要がある。
 そこで、意識に着目すると、意識は常に何かを意志している。例えば「コーヒーを飲みたいと思ってコーヒーを飲む。」という意識の運動があったとする。それは通常の言葉で言えば「コーヒーを飲みたいという欲求があってコーヒーを飲んで満足した」と表現されるだろう。しかし、「欲求を持つ」とはどういう意識の状態かを考えなくてはいけない。それは「満足しているという本来の自己と、満足していない現状の自己に自己が分裂している」ことと言えるであろう。そして「満足する」とは現状の自己が本来の自己になることである。主体の運動の認識には「分裂」の認識は不可欠であると思う。
 
(3)「精神現象学」からの引用
 精神現象学に次の文章がある。この文章を読解することによって、上記の考えに至った。ここでヘーゲルは絶対者の主体を考えているかもしれないが、個人の主体も同じ形式で運動するので、私はここで個人の主体としてこの文章を解釈したい。
 「しかし、この生成という不安定こそ自己であり、そうしてこの自己が初めのかの直接態と単純態とに相等しいのは、己れのうちに還帰したものであるところの結果たることによっているのであるが――しかし己れのうちに還帰したものこそはまさに自己であり、そうして自己とは己自身に関係する相等性であり、単純態である。」(精神の現象学(上)、金子訳、21ページ)
 
 ここでは「自己」の定義が多義的になって不明確になっている。
先ず「この生成という不安定こそ自己であり」の自己は「本来の自己と現状の自己の分裂した全体」を自己の統合を意志する不安定な自己と言っているようである。
 次に「初めのかの直接態と単純態」の理解も重要である。人間は産まれたばかりは理性を持っていない。生長して育てられながら言葉を覚えて理性を持つようになる。これをヘーゲルは「人間が本来であるところの存在になる」というように表現する。そこで「初め」とは何かというと、個人の主体の場合は「生まれる前」としか考えられない。ヘーゲルが「あの世がある」と発言したのを読んだことはないのであるが、私が素朴に考えるとそういう考えに至る。それはプラトンの想起説のように、「人間は産まれる前に善のイデアとか美のイデアを認識していて、人間が善や美を認識するということは産まれる前に認識していたそれらのイデアを思い出すこと」と言っていることに近いと思う。人間が何か事業を為したり創造するというような自己実現は産まれる前の本来の自分に成ることと言えると思う。つまり、「初めのかの直接態と単純態」とは生まれる前の自分と言えると思う。しかし、生まれる前の自分というのを肉体の形をした人間として存在するかどうかは私は分からない。純粋な単純な意識ではなかろうかという気がする。私はあの世がどういう世界かは分からないし、死んだあと意識はどうなるか、死んでも意識は生きているときと同じなのか全く異なるのかとか、生まれ変わりは果たしてあるのかどうかは分からないが、あの世の解明の前に意識・無意識の存在形式と運動法則の解明が必要であると思っている。そういう現象の事実の解明の前に基本法則の解明が先であると思っている。そのためには最初の段階として今行っている主体の運動の解明が必要なのである。
 次に「己れのうちに還帰したもの」について説明しよう。ここで「己」とは本来の自己である。「還帰」とは現状の自己が本来の自己になることである。例えば子供が育って理性を持った大人になることである。これが「還帰」である。
 まとめて引用すると、そうしてこの自己が初めのかの直接態と単純態とに相等しいのは、己れのうちに還帰したものであるところの結果たることによっている」であるが、「この自己」は不安定な自己である。すると上の文章の意味は、「生成という不安定な自己が 最初の本来の自己に等しいのは、現状の自己が本来の自己になったという結果によってである。」と言える。
 「己れのうちに還帰したものこそはまさに自己であり」とある。ここで言う「自己」とは、現状の自己と本来の自己が合体した自己のことを言っているようである。
 「そうして自己とは己自身に関係する相等性であり、単純態である。」とある。ここで「関係」とは本来の自己と現状の自己の関係である。つまり「自己とは本来の自己と現状の自己の関係性であり、そして本来の自己と現状の自己が合致した単純態である。」ということである。
ここで「単純態」とは何かというと、本来の自己と現状の自己に分裂したのは内部に区別があるので単純ではなく、両者が合体したのを内部に区別が無いので単純態と言っているのである。
 
(4)私のイメージ
 上のことを私がどうイメージしているかを説明しよう。
 主体の運動としては、先ず3次元空間を超えた意識空間にある主体があるとする。この主体の低次元の意識が3次元空間に侵入する。これが子供の誕生である。あるいは一般的にある低次の意識の実現である。そして人間は誰でも低次の意識を超えて高次の意識の実現である「本来の自己」になろうと努力する。これが幸福の追求である。意識の3次元空間への侵入は先ず低次元で行われ、低次元の意識しか実現されていない意識は欲求不満になり、本来の自己になろうと理想を持ち始め、その実現の努力を始める。この過程の認識には二つの視点がある。一方では、3次元を中心に見れば、個人が努力して本来の自己になる過程であると見れる。他方、これを意識を中心に見れば、観念空間にある主体がより高次の意識を3次元に注入していく過程とも見れる。
 この意識の運動全体を眺めてみると、先ず低次元の意識が3次元空間に侵入し、その後段階的に高次元の意識が侵入して行くという運動をしている。
 
5)宇宙の基本運動としての主体の運動
 現代科学では宇宙の基本運動は素粒子が無意味に飛び交って、意味もなく衝突、散乱、結合、分離している運動であり、これがたまたま結合して星が出来、たまたま偶然に複雑な有機体が出来、たまたま偶然生命が進化し、それは客観的には無意味なことであり、人間が何か努力していることも無意味だと見なされる運動である。
 しかし、私の世界観はこれとは違って、観念空間の意識が低次のレベルの意識から高次の意識まで段階的に3次元空間に侵入していくのが宇宙の基本運動であるという世界観である。
そして意識を認識する上でもうひとつ重要なことは、意識は個人で閉じているのではなく、全ての生命は無意識界で繫がっていて、宇宙全体が一つの統合された意識を持った生命体であるということである。人間の意識というのは身体内部の脳が産んでいるのではないのである。脳とは意識と物質が相互作用している中枢であろう。
人間が何かを思い行為しそれを実現するというのは、意識が3次元空間への侵入するプロセスの一つである。決して物理的物質の運動が中心であって、人間は複雑な物理現象であるというのではない。決して人間の意識現象は物理現象に還元されるものではない。逆に意識現象の特別な場合が物理現象であろう。
 
(6)まとめ
 主体の運動は自己が本来の自己と現状の自己に分裂し、そして統合していくプロセスとして認識できることが分かった。
 ここで扱ったのは主に意志であるが、思考とは何か、自己認識とは何かを考えるとこれよりも複雑のように感じられる。こういうことも考えて行きたい。

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