科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

人格の発展

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人格創り

人格創り
(1)はじめに
 ときどき優れた人格者だなと思われる人に出会うことがあるだろう。人当たりも良く、人間関係も潤滑で、しかも才能を発揮し自己実現しているような人である。そういう人を見て、「私も生まれつきあの人のように人格者だったらよいのにな」と思うかもしれない。
 しかし、実際は生まれつきの人格者などというのはいないのである。人格は創り上げるものなのである。人格者というのは、自己変革に自己変革を重ねる努力をしているのである。それには例外はない。
 
(2)率先した自己変革
 私が電機メーカーで研究員として働いていたころ、私の上司は才能を発揮しつつも、人間関係も良く、素晴らしい研究環境を創り上げてくれていた。素晴らしい研究環境とは、やりたい研究をさせてくれる環境である。部下がこういう研究をしてみたいと思ったら、できるだけそれをできるように配慮してくれるのである。自発性を最も重んじてくれるのである。
 その上司を観察すると、何か拙いことがあると、他人を攻めるのではなく、自分の配慮が至らなかったと思い、自分を変えようとするのである。部下がミスしても、自分の注意が足りなかったと思って自分を変えようとするのである。この上司は人格者の部類に入ると思っている。人格者になるには、何事にしても先ずは率先して自己変革すること、これが最初の心構えである。
 
(3)短気の克服
 先ず、短気な人は人格者とはみなされないだろう。それで、人格者になるには短気を克服できていないといけないと言える。
 すぐに怒る人というのは、自分の感情さえ客観視できていないのである。カーッとなって、我を忘れてしまうのである。それゆえ、人格者は自分の感情を客観視でき、それを統御できるのである。自分で自分の心を客観視できるように努力する必要がある。
 アドラー心理学による怒りの感情のコントロールは下の記事に説明している。
 
「怒りの感情のコントロール」
 
(4)他人を他人の立場で理解する
 人格者は他人も尊重するが、そうでない人は自己中心的である。完全に他人を認識できる人は居ないのだが、人格者はできうる限り人を理解しようと努力する。自分が他人と同じ立場だったらどうするかではなく、他人の心境で他人の立場であったらどうするかを考えるのである。「自分が他人の立場だったらこうするのにその人はそうしないから馬鹿だな」では済ませないのである。他人は他人で、自分とは異なる心を持っているのであり、皆自分とは異なるということをわきまえておきながら、それでも他人を理解しようと努力するのである。
 先ず、自分勝手に生きて主義主張もない段階があり、その上に主義主張を持つが、それを他人にも押し付ける段階があり、さらにその上の人格者になると自分を律するが、それは自分だけに対してであり、他人には押し付けず、他人をあるがまま受け入れ、その人に沿ったアドバイスをする段階がある。
 
(5)煩悩の克服
 自己満足のために他人を害したくなるのが煩悩であり、性欲、名誉欲、金銭欲が三大煩悩と言えるだろう。
 多くの人が勘違いしているなと思うのは、そういう煩悩的衝動は思わないようにしてしまえば無くなると思っていることである。そういう抑圧的努力をすると、人格が歪み、精神分析で知られているように神経症的傾向性が出てくるであろう。
 煩悩の克服の方法はその衝動を抑え込むことではなく、その衝動の根っこを探ることである。たとえば名誉欲があるなら、自分はなぜ名誉が欲しいのかを探求することである。名誉を得てどうなりたいのか、もし名誉を得たらどういう境地になるのか、そういう自己分析をすることである。そうすると分かるのは、名誉は他人から好感を得る手段であり、本当にしたいのは他人を愛し合いたいことであり、そのためには名誉は必要なく、素直に他人と心を開き、心の交流をすることであるというのが分かってくるであろう。
 
 
(6)仕事の課題より愛の課題の方が難しい
 現在の資本主義社会では、家庭生活はおろそかにされ、仕事で才能を発揮することが重要視される傾向にある。仕事で自己実現することが高く評価され、それに対して家族やパートナーとの関係の努力は低く評価されているのである。
 しかし、実際問題として、仕事で才能を発揮する課題よりも、家族やパートナーと良好な関係を築く方が困難な課題なのである。何故なら、仕事は作業をきちんと行えばよいのであるが、家族やパートナーは生身の相手であり、心の深いところで交流する親密な相手であるので、心の深いところでの努力が要求されるからである。
 人格者になるには、仕事での努力以上に、親密な人間関係を良好に保つための努力も相当しなければならない。
人を蔑視する心理的メカニズム
(1)はじめに
 人間関係がうまくいかない大きな要因として、特に自分に危害を加える人でもないのに、ある人を蔑視して嫌うということがある。人間はなぜ人を蔑視するのであろうか。その心理的メカニズムを説明しよう。
 
(2)人を蔑視する例
 何かに向かって努力しているときに、その点に関して自分が優秀になることが目的であるのだから、それだけに集中すればよいのに、なぜかわざわざその点に関して劣っている人を蔑視したくなる。それは人間関係を悪化し不必要なことに思われる。
 例えば学生の頃、禁欲的に勉強に集中して努力して学力を高めているとき、怠けて勉強せず、学力が劣っている人を蔑視したくなる。「勉強できない馬鹿たちめ」と思ってしまう。
 あるいはスポーツで苦しい努力をして、優秀なスポーツマンになろうとしているときに、全く運動をしない軟弱な人たちを見下し、蔑視したくなる。「勉強しかしないガリベンたちめ」と思ってしまう。
 
(3)努力の構造
 その原因は努力の構造にある。例えば、勉強するとは、先ずは遊ばないことである。「遊んではいけない、勉強するのだ」と思って、「遊ぶ」を否定することによって勉強しているのである。そういう時、遊んでいる人の気持ちを受け入れると、自分の努力を支えている遊ぶことへの否定がぐらつく。それで、遊びほうけている人を心から受け入れることができないのである。そうすると自分も遊びたくなり勉強できなくなるからである。
つまり、一般には、自分が何か努力しているとき、その努力を支えている否定と同じ否定をしていない人を受け入れると、その否定が崩れてしまうので、その人を受け入れられないのである。それで蔑視するのである。
 
(4)対策
 ではどうすれば、勉強をしながら、遊んでいる人を受け入れられるようになるのかというと、遊ぶのと同じくらい、いやそれ以上に勉強を好きになることである。最初は遊ぶのが楽しくて勉強がつらく、勉強は忍耐を要するものであったのが、勉強していくうちに勉強が楽しく感じられるようになる。その時は、もはや遊ぶことの否定は必要なくなる。楽しく好きで勉強をしているのだという境地に達すると、遊んでいる人を受け入れても勉強への努力はもはやぐらつかなくなる。
 一般的に言うならば、何かに向かって努力しているとき、その努力を何かを否定して忍耐で努力しているときは、その否定をしていない人を受け入れられず蔑視したくなるが、その努力自体を好きになれば、もはや蔑視の衝動は無くなる。自分は好きで努力しているだけであるという境地である。
 
(5)道徳や宗教
 これは勉強やスポーツだけに言えるのではなく、人格の向上を目指す道徳や宗教にも言える。
 人格の向上を目指すはずの道徳や宗教を学んでも、結果としてその価値観に基づいて人格的に劣っているとみなされる人を蔑視するという、本来の目的と逆の人格的に劣った人を輩出することになっていることが多い。こういうのが理想の人格であるとして、ある価値尺度を立て、人格の向上を目指していたはずが、そういう尺度で人格の劣った人を蔑視するという結果に終わっているのである。
 それは結局人格の向上を「こういうことはしてはいけない」と煩悩を否定して向上しているのであり、その否定をしていない人を受け入れると自分の人格の向上への努力がぐらつくので、そういう人を受け入れることが出来ず蔑視してしまうのである。
 
(6)道徳や宗教の限界
 「人間はかくあるべし」として「これはしてはいけない」と何かを否定して向上していく努力をしても、その否定自体は心の歪を作っているのであり、忍耐で努力していてはいつまでたっても心は歪んだままである。この歪は苦痛であり、結局は本当の幸福ではない。
 幸福とはしたいことをすることである。したいことを抑圧しての努力では永遠に本当の幸福には辿り着かない。
 その対策は勉強のときと同じで、蔑視の対策は遊ぶのを否定して勉強するのではなく、遊ぶこと以上に勉強を楽しむことであったように、煩悩を否定して人格の向上を目指すのではなく、ただ人格の向上の努力を楽しむことである。煩悩の満足が色あせるほど人格の向上を楽しく感じるようになることである。
 「べき波動」を漂わせ、人間はかくあるべしと人間を型にはめようとする人は、本当の人格者ではない。本当の人格者は「楽しさ波動」を漂わせ、人間の自由・個性を尊重する人であり、「人間を型にはめ込む」の反対を意志しているのである。
 
(7)幸福になるための心構え
 本当に幸福になろうと思うならば、自分の価値尺度で劣っている人を蔑視したくなるとき、その問題は蔑視される側にではなく、蔑視してしまう自分の問題と位置付けることである。いたずらに人を蔑視していては幸福にはなれないし、というよりも蔑視すること自体がすでに幸福ではないのである。自分の価値尺度に基づいた努力を、その努力のときに否定しているもの以上に楽しんでできるようになれば、蔑視も不要になると期待しておくことである。
 楽しんで努力するためには、私の自己発見理論で言っているように、「本当に自分のしたいこと」を見つけて、それに向かって努力することである。その時は蔑視の衝動はないのである。それは自分が好きでやっているだけだからである。好きなことをせず、嫌いなことに向かって努力するときに、蔑視が生じるのである。それは真剣に自己発見の努力をしてこなかったことに原因があるのである。

進化の原理

進化の原理
(1)はじめに
 本記事では私が「宇宙の進化する意志」と合一して悟ったことのエッセンスを説明したい。それは「進化の原理」である。宇宙がいかなる意識の運動で進化していくのか、人間は魂はどうすれば進化していくのかという問いの答えを得たのである。その答えを一言でいうならば「対立したら自分の意志を掘れ」である。
 
(2)宇宙模型


イメージ 1
私の宇宙模型では、現代で通常宇宙と思われている「物質宇宙」のほかに、「意識宇宙」を導入し、それらがその両者の背後にある「宇宙の進化する意志」の作用で統合していきつつあり、その統合が宇宙の進化であるとした。人間がより高次な理念を捉え、それをこの世で具体的に現実化していくのが、人間が宇宙の進化に貢献することであり、これが意識宇宙と物質宇宙の統合の前進なのである。
意識宇宙と物質宇宙の統合のために、意識宇宙は分化する。下図のとおり。


イメージ 2
上の図では、分化は4段階になっているが、それは図を簡単にするためであって、それは無数の段階かもしれない。意識宇宙と物質宇宙の最初の統合は素粒子の一つであるクォークである。そしてその上位は陽子と中性子である。それがどんどん上っていくと細胞になる。細胞が集まって臓器であり、その上は生物の、例えば哺乳類の個体となる。人間に至って精神が解放され、個体の上位に意識が生じる。意識はまた、その個人の人生の目的を頂点にして、その頂点から手段が分化し、そして手段の手段へと分化する。個人の人生の目的の上位に、その個人の使命を自己の分化のひとつとする上位の目的意識がある。それは通常個人には神と認識される。なぜならばその意識はその個人の意識の生みの親だからである。そして、個人の人生の目的の上位には神が存在するのだが、その神々も体系をなしている。その頂点が意識宇宙の意志である。しかし、その意志が分化して、物質宇宙の侵入できるのは、「宇宙の進化する意志」が両宇宙に作用しているからである。


(3)営業マンと開発者の対立

イメージ 3
以前にもあげた営業マンと開発者の対立の例を考えよう。
 ある開発者がいて。「会社の仕事の本質は、良い製品を開発することであり、それでこそ会社は存在できるのであり、営業マンはただそれを売るという意味の小さい仕事である」と開発者の仕事にブライドを持っている。一方ある営業マンがいて、「会社の仕事の本質は物を売ることであり、物を売ることなくして会社は成り立たない。」と営業マンとしてプライドを持っている。そして、両者は主導権争いをして対立することもあるだろう。しかし、営業マンが営業マンの視点でしか物事を見ず、開発者は開発者としての視点でしかものを見ないならば、対立はなくならないだろう。それは営業マンの意志が営業の意志しか持たず、開発者は開発の意志しか持たないので両者は対立しているのである。
 そこで「対立したならば意志を掘れ」とはどういうことかというと。例えば開発者が自分の意志を反省して「何のための開発なのか」を考え、会社全体の目的に思いを及ぼし、確かに開発は重要だが営業も不可欠であると認識し、開発の意志の立場にしかたっていなかった自分の意志の根っこを掘り、開発の意志と営業の意志が分化する以前の意志である社長の意志を自分の意志とすることである。そうすることによって、営業マンと開発者の対立は解消され、両者の上位の意志の支配下に入り、対立どころか両者は本来助け合うべきものであることが分かる。
 
(4)国家間の対立の例
 営業マンと開発者の例はこれだけを読むと簡単な当たり前なことを言っていると思うかもしれない。しかし、実際は会社の仕事でも、自分にまかされた範囲の目的しか考えず上位の意志を無視して仕事をしている人は多いのである。また、国家間の対立の場合は、上位の意志を想定する人はほとんどいないかもしれない。
 具体的に例を挙げれば、現在問題となっている中国の野望である。尖閣諸島や沖縄を狙っているという事実である。日本が積極的に中国を叩きのめそうとはしていないので、まだ浅い対立であるが、日中の対立といえるであろう。そういう場合は「日本の意志を掘れ」が正しい宇宙の進化にマッチする応対である。日本民族には日本民族の普遍的意志があり、中国には中国の国家の普遍的意志があるのである。それは意識宇宙がある段階で中国の意志と日本の意志に分化したものであり、だから逆に日本の意志を掘れば、日本の意志と中国の意志の分化以前の意志に辿り着くのである。営業マンと開発者の上位の意志が社長の意志であったように、日本と中国の上位の意志があるはずなのである。
 営業マンにとって営業の仕事だけを考えるのが楽であり、営業マンでありながら開発者の意を汲み取るのは、面倒で苦痛なことである。だからと言って、営業マンが開発者を見下している限り、両者の対立はなくならない。同じように、日本人が日本人のことだけを考えるのは楽で心地よいものであるが、それでは全く、問題は解決せず、対立の度が過ぎれば多数の死者を出す悲惨な戦争となる。だから日本人は中国人を正しく理解し受け入れ、中国の意志と日本の意志が分化する以前の上位の意志の立場に立たなければならない。
 
(5)私の使命
 私の使命はユートピア建設であるが、それのエッセンスは「進化の原理」の普及にある。それは「対立したら自己の意志を掘れ」であり、対立する相手と自己の分化する以前の意志まで、自己の意志を深く掘ることである。そうすることによって、高次の意志を顕在化することができ、それ自身が魂の進化であり、高次の意志の獲得は自己発見でもある。これは問題解決の方法論であり、この原理でユートピア文明を建設しようとしているのである。

悩みと哲学

悩みと哲学
(1)はじめに
 通常はどうだろうか、「悩み」と「哲学」は別々なものと思われているのだろうか。あるいは、哲学するとは「悩むこと」と思われているのだろうか。
 そこで私が学生時代から思っていること、「自己の悩みに真正面から取り組み、それを解決する普遍的思想が哲学である」というものを説明したい。
 
(2)悩むこと
 多くの人は自分だけが多く悩んでいるのかなと思っているかもしれないが、実はほとんどの人は顔には出さず、口にもしないが相当悩んでいるのである。
 では悩みとは何かというと、自分の直面した問題に積極的に真正面から取り組まず、逃げたいが、問題が迫ってくる状態のことである。
 問題は二つに分けられる。一つは目的や欲求があるが、その実現が困難であるとか、満足が得られないケースである。もう一つは、そもそも目的が定まらない、意志が定まらないで不安定な状態である。
 
(3)悩みに知的に取り組む
 自己の悩みに対しては通常は感情で反応しているのであろう。しかし、何らかの学問を修得したならば、その知的態度を自己の悩みに向けることが哲学への入口なのである。
 私の場合も学生時代の最初は、学問と悩みは別々であった。しかし、学問を修めるにつれて思考力が高まっていって、その知的態度を自分の悩みの分析に向けたのである。
 私自身何か本当に悩み体質だったので、一つ一つ解決してもきりがないので、まとめて「悩みとは何か?」「悩んでいる状態から悩んでいない状態にいかにして変化させるか?」と普遍的問いを立てたのである。
 
(4)矛盾理論の発見
 それで、学生時代には私の立てた理論である「矛盾理論」の端緒を発見した。つまり、「人間は常に、思いと現状の間の矛盾(ギャップ)を経験している。これは決して無くなることがない。」「悩みとは矛盾から逃避しようとするときの感情であり、積極的に矛盾を解消しようとするのが幸福である。」学生時代はこのように明確に言葉では表現しなかったが、直観的にはこれを認識していた。矛盾理論の全体は社会人になってから徐々に明確になっていった。
 矛盾理論を復習しておこう。矛盾は大きくは3つに分けられ、一つ目は、個人の心の内部での矛盾である。意志が一つに定まらず葛藤している状態である。例えば、高校生が進学か就職か迷っていて悩んでいる状態である。これが一つ目の矛盾である。二つ目は人間関係の対立である。自分の意志が他人の意志と対立する場合である。これも人間関係の間の矛盾と呼べるであろう。3つ目は精神と物質としての外界との間の矛盾である。真冬に非常に寒いときは自然と人間が矛盾しているのである。この矛盾はストーブをつけることで解消できる。
 この発見は私が悩みを普遍的に分析することによってできたものである。そして、この矛盾から逃避しようとする態度が悩みなのであるから、この矛盾の解消を積極的に意志すれば幸福になるのである。
 哲学を空理空論と思い込んでいるかもしれないが、私の思想は決して空理空論ではなく、問題に真正面から取り組んで、それを解決して認識した真理を私は語っているのである。
 
(5)大思想家の条件
 世界史に名をとどめる大思想家とは、世界史が直面した矛盾を自己のうちの矛盾として経験し、これを克服し思想として構築した人物のことである。
 例えば、アウグスティヌスは、ギリシャ哲学とキリスト教の間の矛盾を克服した思想家である。この矛盾をきわめて個人的な内面の葛藤として経験したのである。大思想家とは、頭が良くて何でもかんでも解決できる人物ではなく、頭が良いかもしれないが、個人的な悩みが深く普遍的である人物なのである。アウグスティヌスは理性と信仰をうまく両立できる思想を構築したのである。ギリシャ哲学の精神の流れ(理性)と、キリスト教の精神の流れ(信仰)がぶつかって矛盾が生じるのは世界史の流れであり、この矛盾を解消する思想をアウグスティヌスは確立したのである。
 もうひとり例を挙げると、私が世界史上最大の哲学者と評価している西田幾多郎は、西洋哲学と東洋哲学を統合するという偉業を成し遂げた世界史に名を遺すべき大思想家である。彼の本はレベルが高すぎて、通常の哲学者には実際よりきわめて低くしか評価されていない。それでも一流の哲学者としては評価されているが、実際はけた外れに認識レベルの高い哲学者である。彼は西洋哲学を片っ端から吸収し、そして10年以上参禅した。通常は考えられないこの矛盾を自己のうちに抱え、西洋哲学と禅仏教の両者を心の中で温め消化し発酵させ西田哲学を生み出したのである。私は西田哲学がこれから世界史の流れを方向づけする哲学になるのではないかと思っている。
 ともかく西田幾多郎は西洋と東洋が明治になってから、日本で衝突したとき、その両精神を身に受けその矛盾を個人的問題として引き受け解決しようと努力した思想家であり、その点はどう考えても世界史的人物である。
 では私の抱えるプライベートで普遍的な問題は何かというと宗教的真理と科学的真理の衝突である。これは、私にとっては極めてプライベートな悩みであり、人に語れるものではなかった。科学者で宗教を信じている人も多いが、その人は心の中で宗教と科学が別々に収まっていてどうも矛盾を感じないらしいのであるが、私にとっては両者の対立は我慢ならないのである。
 この問題は科学が普及し世界史を動かす原動力となってから、宗教を駆逐する勢いであって、実は大きな精神的問題なのである。宗教的真理と科学的真理が食い違って矛盾しているという状況は、生まれた時からそうであるのだから普通は当たり前と思う人が多いのだろうが、実はそうではないのである。この矛盾は本来解消されるべきものなのである。
 「近代文明の最大の問題は、科学的真理と宗教的真理が食い違っていることにある」というのが私の基本認識である。この食い違いが克服されると、新しい世界史の流れが生じるであろう。私は3年半前から、両者を統合する精神を「神科学の精神」として、自分の精神として確立している。そして、その精神が伝播して建設するであろう文明を「神科学文明」と呼んでいる。これはユートピア文明と一致する。私はそういう自負を持って真理の探究をしているのである。

悩みと希望

悩みと希望
(1)はじめに
 人間だれしも何らかの悩みを持っているものと思われる。しかし、同時に希望を持っている人も多いだろう。
 そこで悩みとは何か希望とは何か、そして如何にして悩みを消し、希望を多く大きく持って生きて行けるようになるかを説明しよう。
 
(2)宇宙の根本真理
 今まで何度も説明したが、人間の精神活動は矛盾の生成・解消の連続である。矛盾は3通りに分けられる。一つ目は個人の心の内部の矛盾、つまり意志がまとまらない、あるいは考えがまとまらず分裂しているという状態、それが一つ目の矛盾であり、二つ目は人間同士の意見の対立という矛盾、そして三つめは人間と自然の間の対立・矛盾である。
 そして人間は矛盾があると苦痛を感じ、それを避けようとする。あるいは矛盾から逃げずに積極的に矛盾を解消しようとする。その典型はこのようなパソコンの発明である。パソコンの発明によって、このようにワープロとして使え、私の考えたことを文章化し、インターネットで多くの人に自分の考えを披露できる。パソコンは情報処理と情報伝達の矛盾の解消をする装置である。
 人間は何か矛盾があるといつかは矛盾の完全にない環境にならないかと考える。しかし、私は断言する。矛盾の全く無い状態は絶対に来ないと。
 何故ならば人間が何かを思うということは矛盾の生成だからである。カレーライスを食べたいが今は無いという状態は「矛盾」である。しかし、現在はカレーライスは容易に材料をあつめて創ることが出来るのでこれで悩む人はいないが、今よりさらに贅沢な時代が来ればこれを大問題と悩む人が多く出てくるかもしれない。
また別の例を挙げれば、食事に困らないようになれば何と天国だろうと思われていたのであるが、これが実現すれば肥満で悩む人が大量に出てくる。大きな矛盾の解消を実現したが、それが次の矛盾を生成したのである。相当な皮肉である。現在は体重を減らすために金を掛ける時代である。相当な贅沢である。
 したがって、人間は矛盾を常に抱えるべき存在なのである。「思う」が矛盾そのものでできているからである。
 
(3)悩みと希望
 それでは悩みとは何かと言うと、矛盾から逃避しようとする心の姿勢に伴う感情である。では希望とは何かと言うと、矛盾の解消に積極的に取り組むことによって矛盾が無くなるだろうという期待である。
 つまり、同じ矛盾を抱えていてもある人はそれを悩み、別の人は希望を抱くのである。悩むべき環境というのは客観的なものではなく、同じ環境でも悩む人と希望を描く人がいるのである。したがって、矛盾から逃避しよう、避けようという心の姿勢を改めて、矛盾の解消に積極的に取り組めばそれは希望に変わるのである。
 その時のコツは悩みに伴う矛盾の苦痛を避けようとする思いを止めて、自分で自分の腹を刺すように切腹する気持ちで矛盾を受け入れることである。矛盾の痛みを甘受するのである。そうして自分を突き刺すと執着が取れて苦痛は無くなり、矛盾を積極的に解消する心の姿勢を取ることが出来るようになる。
 
(4)最悪の覚悟
 最悪の覚悟ができれば、人間は怖いものなしである。最悪の場合でも希望を描ける人物をテレビで見たことがある。
 甲子園を沸かした元PL高校の桑田と清原の先輩の事例である。この先輩は桑田と清原と一緒に甲子園で優勝した選手であるが、大学に進学し、大学野球で活躍していたのであるが、試合中の事故で首の骨を折って首から下が不随になった。しかし、それでもめげずに口で棒を加えてワープロを打ち、詩を書いて、自分と同じ身体不随の人に希望を与えるという活動をしていることが紹介されていた。彼は夢を持っていた。身体不随になっても自分が誰かの役に立てないかと真剣に考えたのであろう。そういう最悪な環境に陥っても、人の役に立とうとすれば立てるものであるという事例である。
 
(5)逆境を活かす
 思わぬ不幸に襲われても、その問題解決に積極的に取り組めば、それが長所になるという事例もテレビで見た。
 名前は忘れたが、中年の女性タレントで、親の介護をしなければならなくなった。しかし、仕事を優先してそれを逃れようとせずに、積極的に介護に取り組んだ。そして何らかの記録もしたのであろう。介護が終わると、自分の介護体験をもとに介護アドバイザーとして講演をしたり本を書いたりしているのが紹介されていた。
 教訓としては困難に追い込まれたとき、つまり避けがたい矛盾に直面したとき、矛盾の解消に積極的に取り組めば自分と同じ体験をしている人にアドバイスができるようになり、それは人の役に立てるようになることなのであるということである。これは極めて普遍的な教訓である。
 
(6)要点
 人生は矛盾が無くなることは絶対に無い。そういう世界を夢見るのは止めて、矛盾から逃避しようとする心の姿勢を改めて、矛盾を解消することに積極的に取り組めば悩みは消えて希望が出てくる。

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