科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

意識力学

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意識の光の流れ

意識の光の流れ
1)はじめに
 私の記事に今まで何度か「意識の光の流れ」というワードが出てきたのだが、説明が簡単すぎて分からない人が多かったかもしれないので、本記事で詳しく説明しよう。
 
(2)意識の光の流れ
 先ず、どう考えているのかというと、意識を光の流れのようなものと捉えているのであるが、その光を物理的光、つまり可視光線としての電磁波と区別して「意識」の光と表現しているのである。
 
(3)なぜ「光」か
 意識がなぜ光と関係するのかというと、例えば「希望の光が見えた」とか「理性の光に照らして認識する」とか例えばマンガでアイデアを着想したとき頭にランプが点くのを描いたりする。そういうのは、意識が拡大したとき漠然と光を感じているのでそう表現するのであるが、意識の光とはそういうものである。
 
(4)意識の光と幸福
 意識の光の増幅を感じたときが幸福である。例えば、人と深く心が交流出来て理解し合えたと感じたとき意味を感じるであろう。意識の光の増幅するとき意味を感じるのである。これは「愛の光」が増幅したときである。あるいは考えに考えて何かが分かったときも意味を感じるであろう。これは「理性の光」が増幅したということである。あるいは健康で生命力旺盛のときも生きる意味を感じるであろう。それは「生命の光」が多いときである。
 「愛の光」、「理性の光」、「生命の光」が意識の光である。他に美しいものに意味を感じる美感があるが、それは「美の光」と言えるであろう。
 つまり、意識の光が増大したときに意味を感じ幸福になるのである。
 
(5)意識の光と意志
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 意識の光は上位の意志から下位の意志へと流れる。つまり、意識の光の流れは意志の作用の方向と考える。何かしているという自覚つまり意識は意識の光の流れの感知であり、衝動は上位の意志からの意識の光の流れ込みであり、何かをするというのは意識の光を下位の意志へと送り込むことである。
例えば、「食べる意志」の下位に「飲み込む意志」と「噛む意志」がある。それは少し反省してみればわかるが、「噛む意志」と「飲み込む意志」は「食べる意志」によって制御されているのであり、3つは対等ではない。「飲み込む意志」と「噛む意志」は「食べる意志」によって制御されて整合的になり「食べる」を実現できるのである。もし、「食べる意志」の支配が無くなれば、「飲み込む」と「噛む」が支離滅裂になり「食べる」が実現できなくなる。
 この上位の意志の下位の意志の制御を光の流れの制御と捉えるのである。「食べる意志」が「飲み込む」を実行したいとき、「飲み込む意志」に光を流す。「噛む」を実行したいときは「噛む意志」に光を流す。光の流れ込んだ下位の意志は活性化するのである。つまり、「食べる意志」の実行は、上位の「食べる意志」が下位の「飲み込む意志」と「噛む意志」に光を整合的に送り込んでいるのである。
 「食べる意志」はさらに上位の「個体の生きる意志」から光が流れて制御されている。つまり食べたいという衝動は上位の生きる意志から光が流れ込んでいるのである。
また「飲み込む意志」と「噛む意志」はさらに下位の「筋肉を動かす意志」を制御し、さらに下位の意志へと意志の体系は続く。
 
(6)意志の制御の末端が電子とクォークである
 意志の作用は筋肉へ、そして細胞へ、そして細胞小器官、さらにはタンパク質や炭水化物、脂肪などの高分子、そして原子、原子核となり、最後は電子とアップクォークとダウンクォークとなる。
 最後には意識の光の流れは、電子とクォークを通して3次元空間を異次元方向へと貫通する。
 電子とアップクォークとダウンクォークは何が違うのかというと、3次元空間を貫通する異次元方向への向きが違うだけであり、電子とクォークは本質的には同じと考えられる。
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(7)一者(=宇宙の根源意志)と個人の関係

 

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 電子とアップクォークとダウンクォークと個人の意志と一者(=宇宙の根源意志)との関係は「人間とは何か」で説明した。上に生命の一者の図を載せておく。

 

「人間とは何か」


 

 この場合も上位の意志から下位の意志へと意識の光が流れているのは同じであり、生命の一者は生命の光の根源であり、愛の一者は愛の光の根源であり、理性の一者は理性の光の根源である。

 人間個人の主体とは、生命の根源意志から流れ込んだ生命の光と、愛の根源意志から流れ込んだ愛の光と、理性の根源意志から流れ込んだ理性の光を在るレベルで統合し制御している意志である。つまり、人間とは上位の意志から意志が流れ込みそれを欲求と感じ、それを満足するために意識の光の流れを制御して行為する主体である。

 

(8)まとめ

 人間は生命の一者と愛の一者と理性の一者から意識の光が流れ込み、それを欲求と感じ、それを満足するためにそれより下位の意志へと意識の光の流れを統御し、行為する存在である。意識の光の流れは最終的に電子とクォークとなって3次元空間を異次元方向に貫通する。その意識の光の流れの総和が個人の意識である。

 



人間と宇宙の意志の体系の構造
(1)はじめに
 宇宙を3次元空間とみなし、そこには素粒子から構成された物質のみが存在し、起こっていることの本質は素粒子の結合と離散であるというのが、現代の科学的世界観であるが、私はそうではなく、3次元空間以外に異次元空間があり、そこに意志の体系が存在し、それが弁証法的発展という運動をしているという宇宙観が正確であると確信している。何度も言っているように、唯物論では、意志も意識も演繹できないのである。意志や意識は物質が産むのではなく、最初から「有る」としなければ説明できない。
 そこで、意志の体系の構造について説明しよう。
 
(2)個人の意志の体系
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  意志というものは体系になっている。根本的意志があり、それを「意志の頂点」と呼ぶと、頂点の意志の目的の実現のために複数の手段が必要になってくる。するとその手段を実行する意志が出てきて、その意志の実現のためにまた下位の意志が出てくるというようになっている。

 この意志の体系の存在を3次元空間内で確認しようとしてもできない。3次元空間内では受動的に運動が決定する素粒子の存在しか確認できない。意志の体系は異次元空間にあって、それは人間にとっては内面の世界である。自分で自分の内面に意志があることは確認できる。内面が異次元空間なのである。

 例えば人間は生物的に生きる意志がある。欲求と言っても良い。そしてその手段の一つとして必ず「食べる」を実行しなければならない。つまり、「食べる」は「生きる」の下位の意志である。すると食事が準備されたとして、「食べる」の実現のために「噛む」と「飲み込む」を実行しなければならない。「噛む意志」と「飲み込む意志」は「食べる意志」のコントロール下に入っているので、「食べる」の下位の意志なのである。

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   今は生理的な事柄を例に挙げたが、意志の体系は精神的な事柄にも存在する。それは「自分の人生の目的はこれ」と言える人には明確に存在する。つまり、そういう人は、「私の人生の目的はこれであり」「その手段はこれとこれであり」「さらにそれぞれの手段はこれとこれである」と体系になっているのを自覚している。精神の意志の体系がどれだけ明確になっているかは人それぞれであるが、自己発見―自己実現をしようとしている人、あるいはしている人ほど明確になっている。意志の体系がはっきりしないというのは、その都度その都度の思い付きや衝動で行動しているということである。つまり無目的ということである。

 

(3)宇宙の意志の体系

 意志は個人が発生源ではなく、人間個人の意志は宇宙の意志(=神)が分化したものである。それを認識するのは哲学では「形而上学」と呼ばれている。真実在は五感を超えた知的直観で認識できると考え、それを認識しようと試みるのが形而上学である。ヘーゲルの「絶対精神」や西田幾多郎の「絶対無」などが宇宙の根源的意志と思ってよいだろう。それは通常の個人の意志をはるかに超えた普遍的意志である。そして、人間個人はそれらが分化してできたものと考える。宇宙の意志を認識するには意識が肉体の束縛から解放される必要がある。自己認識が肉体ではなく、思考そのものとなるのが宇宙の意志を理性的に認識する必要条件である。それは「理性による自己超越」と呼べるであろう。宇宙の意志の認識は、自己の外部の神を認識することではなく、どこまでも深い内部である真の自己の認識である。

 「食べる」「歩く」は個人が目的を持って実行した個人の意志であるが、それと対応付けると、個人の全ての思いは宇宙の意志(=神)が何かを目的にして思ったことの一つなのである。簡単に言えば人間の心は神の心の一部なのである。そして「食べる」が「噛む」と「飲み込む」の上位の意志であったように、個人を超えた神の意志が、人間個人の頂点の意志より上位の意志なのである。

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(4)宇宙の三つの根源的意志

 私の最近の分析によると、宇宙の根源意志は三つあって、それは「理性の根源意志」と「愛の根源意志」と「生命の根源意志」である。

「生命の意志」は生物が生きようとする意志であり、生物としての意志である。生物は個体として意志を持っているが、それだけでなく種としての意志や地球生命全体としての意志もありその頂点として宇宙生命全体の根源意志があると推測される。宇宙の生命の根源意志があり、すべての生物はその意志の支配下にあると考えられる。「食べる」「歩く」という個体の衝動は、個体としての生物が発生源ではなく、発生源は宇宙の普遍な生命の根源意志であり、それらの個体の意志はそれから分化したものである。

「理性の意志」とは経験を自分から切り離して客観的に認識しようとする意志である。物質科学は「おいしい」とか「おいしくない」という認識対象の食物と絡んだ経験を自分から切り離して、認識対象を客観的にとらえ、そして植物の三大栄養素は炭水化物とタンパク質と脂肪であると科学的に分析する。そういう精神が「理性の意志」である。「理性の意志」は外界だけではなく、自分の意識自体も自己から切り離して対象化し認識する。思考の自己認識である。自分の思考過程をどこまでも客観視するのである。完全に思考の自己認識ができるのが理性の根源意志である。そしてこの本領を発揮するのが正しく真理を認識する方法を定式化する論理学の構築である。そういうのはアリストテレスやヘーゲルや西田幾多郎が行ったことである。

「愛の意志」は他者と心を合一する意志である。愛の対象と自己が一体化を意志する精神である。相手の苦しみを自己の苦しみと感じ、相手の喜びを自己の喜びと感じることが愛である。愛の本質は共感能力である。どういう行為をすることが愛であるかという倫理などがあるが、しかし行為自体が愛ではなく、共感した結果の行為であって初めて本物の愛である。すべての人類、全ての生命と合一するのが愛の根源意志であろう。

人間とはこの三つの意志があるレベルで統合された存在である。

 

(5)魂の進化と宇宙の進化

 自分の意志を宇宙に流れている「生命の意志」と「理性の意志」と「愛の意志」のより根源へと遡り、つまりこれらの三つの宇宙の意志のより根源に近い方向に自分の意志を上昇させ、しかもこの三つの意志をバランスよく統合していくのが魂の進化の本質である。

 簡単に言えば、体を鍛え、頭を鍛え、思いやりを鍛え、三つをバランスよく統合するのが魂の進化である。

 そしてこの三つがそれぞれより高く、しかもバランスよく統合されている存在が3次元宇宙に出現することが宇宙の進化である。したがって、生物の進化も宇宙の進化の一つであり、人類の魂の進化も宇宙の進化の一つである。




欲求の満足の弁証法

欲求の満足の弁証法
(1)はじめに
 例えば腹が減って、食べたら満足したという「欲求の満足」の過程を客観的に、すなわち弁証法の過程として捉えよう。
 
(2)弁証法
 弁証法はよく、「正」「反」「合」の過程として知られている。「正」の状態とはスタートの段階として最初の統一状態のことである。「反」の状態とは分裂・対立の状態を意味する。「合」とは分裂していたものが高次のレベルで統一されることを意味する。
 
(3)欲求の満足
 そこで、欲求の満足の例として、空腹の状態のとき食べて満足する過程を考えよう。空腹にならない前が、素朴な統一状態、すなわち「正」の状態である。
空腹の状態は分裂の状態であるが、それは現状が否定されて空腹という苦痛の状態になるのである。しかし、本来の空腹でなく満足している状態、つまり「満腹」という理想の状態になりたいという欲求は残っている。つまり現状と理想に分裂しているのである。これが「反」の状態である。もし空腹になっても食べないで良いと理想を下げたら分裂でないことになる。あくまでも満腹を理想と思うから、理想と現状に分裂しているのである。
そして食べるという行為によって理想と現状が統合される。現状が理想と合体するのである。これが「合」の状態である。
 
(4)まとめ
 空腹にならない前の満足している状態が「正」の状態であり、空腹で食べたいと思っている状態は「満腹という理想の状態」と「空腹という現状の状態」が分裂した「反」の状態であり、食べて満足するのは理想と現状が統一した「合」の状態である。
 

執着とは何か

執着とは何か
(1)はじめに
 仏教が由来なのだろうか。通常は「執着」は悪いこととみなされている。「執着」の意味を辞書で調べてみると、「ある物事に深く思いをかけてとらわれること」と書かれている。何かが頭から離れない状態なのだろう。
しかし、よく考えると人間は困難なことを実現するためにはそれについて執心して取り組まなければならないだろう。
スポーツにしても毎日毎日同じようなことを繰り返しトレーニングするというように、それが頭から離れないくらい執心しないと一流のアスリートにはなれないだろう。
また科学者が大発明するには、毎日何年間も同じ目的を保持し、あれこれ思案し実験を繰り返すというように執心しなければならないだろう。だから、一概に「執着」を悪いこととは言えないだろう。
そこで、「悪い執着」とは何かを明らかにしよう。
 
(2)個別への固執
 悪い執着は「個別への固執」と言える。「個別」とは自分個人だけに関することを意味する。つまり自分だけのためという自分の利益へ固執することが悪い執着である。これは他人に危害を与えても「自分のため」が頭から離れず、他人への思いやりを持たないことである。
 「個別への固執」の反対は「自我の普遍化」である。普遍とは自分だけに関することを意味する個別の反対で、「みんなの立場に立つ」ことを意味する。だから「自我の普遍化」とは本音での「自分のため」が同時に「みんなのため」と一致するようになることである。苦しいが自己の利益を我慢して「みんなのため」を思う場合はまだ自我の普遍化は不十分と言える。問題は「本音」である。本音の私欲が「みんなのため」になったときが自我の普遍化である。
 
(3)下位の手段への固執
 もう一つ悪い執着の視点があり、それは下位の手段へ固執することである。図では下の通り。

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上の図は、目的―手段の体系を表している。最高位の目的が頂点に来て、その下の丸はその手段であり、三段目は手段の手段である。簡単のため三段だけを図に表しているが、一般には何段階あっても構わない。また一つの目的に対して手段は二つとは限らず、いくつに分化しても良い。


 上の図の頂点の下に来る2段目の赤丸が執着である。この執着に最下位の赤丸は執着の手段である。一番上は上位の目的である。


 これをカレーライスを作る例で説明しよう。上位の目的として「カレーライスを作る」がある場合を考え、その下位に来る手段として、タマネギ刻み、ニンジン刻み、ビーフ炒めなどがある。そこで、例えばタマネギ刻みが執着になるとは、本来のカレーライスづくりという目的を忘れ、タマネギ刻みだけをする状態である。本来の目的である「カレーライス作り」を忘れニンジン刻みや、ビーフ炒めをしなくなることである。そうすると、本来の目的を達成できなくなる。


 このことを見ると執着するとはばかげたことであると感じるが、しかし、人間はこういう執着を良く持っているのである。


 例えば有名な煩悩である、名誉欲、金銭欲、性欲に振り回され、本来の人生の目的を忘却し名誉欲の満足だけを目指したり、金銭欲の満足だけを目指したり、性欲だけの満足を目指したりする。これは頂点の目的を忘却しているのである。本来頂点の目的に来るのは愛と創造である。あるいは愛のための創造かもしれない。みんなのためと思って他人に奉仕することこそが人生の目的に来なければならない。そうすると本人も他人も幸福になるのだが、名誉欲、金銭欲、性欲の満足だけを人生の目的にすると不幸になるのである。


 


(4)高次の目的も執着になることがある


 みんなのためというように自我が普遍化されていたとしても、より普遍的自我から見たら、それも限定されているものであり、部分的な目的であり、したがって執着であるとみなすこともできる。


 私の例であるが、物質科学で人類に奉仕しようと思っていたのであるが、それが執着だったのであり、物質科学と宗教を下位に含む高次な目的として、さらに自我が普遍化した「神科学」が登場した。

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 上の図では頂点の黒丸が神科学であり、神科学はその下位に赤い部分の物質科学と紺色の宗教を含む。一方、物質科学は唯物論であり実証的である。他方、宗教は神や霊を扱うが非実証的で信仰を要求する。その点、宗教と物質科学は対立して水と油であるが、この対立を解消して神科学が登場した。神科学とは、物質科学から「実証的」を残して、唯物論を除外し、宗教からは、神や霊を扱うのを残し、信仰を除外して両者を統合したものである。すなわち神科学とは神や霊を実証科学的に研究する学問である。


 一般に自我がある程度普遍化したとしても、その上位の目的を忘却して、自分の目的を絶対とするならば、上位の目的の実現を妨げるので、悪い執着ということになる。


 例えば愛国心でもそうである。自分の私心を洗練し、私心が「国のため」と一致したのは自我の相当な普遍化であるだろう。しかし、国家エゴで他国を害してでも自国の利益を追求するならば上位の目的である地球平和の実現を妨げるであろう。そうすると愛国心も悪になる。だから何か目的を達成しようと思うとき、その上位の目的は何かを自覚しないと悪い執着になる。


 


(5)まとめ


 悪い執着とは、個別へ固執したり、下位の手段を第一目的にしたりすることである。つまり、自己の利益だけを求めるときであり、あるいは本来の目的を忘却して手段を絶対目的と錯誤する場合である。



本質と現象

本質と現象
(1)   はじめに
 宇宙はただ「素粒子が集合離散している」だけであるという平板的世界観よりも、世界を「本質が現象する」という深さのある世界観が正しいことを主張したい。特に、意識が本質であり、身体の運動は現象であること、そして究極の本質は宇宙の主体であり、我々の経験する一切の事柄は、宇宙の主体を本質とする現象であることを主張したい。
 
(2)   現代の物理的世界観
 現代の科学的世界観は、宇宙にあるのは素粒子だけであり、それが複雑に結合したり離散したりしているのが、我々の経験する全てであると考える。それは、生物も人間もそうなのであると考える。
生物は主に炭水化物とタンパク質と脂肪と核酸からできている。炭水化物は分解すればグルコース(ブドウ糖)になり、それは炭素原子と水素原子と酸素原子からできている。タンパク質は20種のアミノ酸からできていて、そのアミノ酸は炭素原子と水素原子と酸素原子と窒素原子からできている。もっと正確に言えば一部のアミノ酸には硫黄原子が含まれている。そして、脂肪は分解されれば脂肪酸とグリセリンになる。脂肪酸もグリセリンも炭素原子と水素原子と酸素原子からできている。最後に核酸は糖と塩基とリン酸からできており、それらは炭素原子と水素原子と酸素原子と窒素原子とリン原子からできている。つまり生物も原子からできていて、原子の集合離散が生物現象とみなされているのである。つまり、現代科学では、生物とはそういう原子からできたいろいろな分子が化学反応を起こす化学現象とみなされているのである。
では人間はというと、人間も生物であるので、生物と同じく人間も同じく化学現象とみなされるのであるが、他の生物と違って神経細胞の集まった脳が神経回路を作り、それによって意識現象が引き起こされているとみなされている。神経細胞も炭水化物とタンパク質と脂肪と核酸からできているので、結局脳も他の生体の一部と同じく原子の集まりであり、結局意識とは原子の引き起こした現象と考えられている。
つまり、現代科学では生物も人間も素粒子の集合離散の現象の一つであると考える。
 
(3)   現代科学における本質―現象の考え方
 現象の背後に本質を考え、現象は本質の引き起こしたものと考えるのが「本質―現象」の思考の枠組みである。現代科学にもそういう思考の枠組みがあるが、そのとき本質はミクロスケールの原子あるいは素粒子であり、人間の大きさ程度のマクロスケールの経験の対象が現象である。例えばHOにはマクロスケールでは氷―水―水蒸気という固体―液体―気体の三つの状態があるが、ミクロのスケールではその背後に水素原子2個と酸素原子1個からできた水分子HO分子という本質があり、それが完全に結合し形が変化できないのが氷であり、いくぶん結合がほどけて形が自由に変化できるのが水であり、結合が完全に切れ自由に運動できるHO分子になったのが水蒸気であると考える。つまり氷―水―水蒸気という我々の経験に現れた現象の本質はHO分子であり、HO分子がその結びつき方の違いによってさまざまな現象が我々に現れると考えるのである。
 それでは意識と物質の考えはどうかというと、原子の集まりである脳という物質が本質であり、意識はそれの引き起こした現象であると現代科学は考える。例えば人と楽しい会話をして、人の意識や自分の意識を経験する。そういう意識の背後に原子が集まってできた脳があり、それが楽しい会話という現象の経験を引き起こしたと考えるのである。
 
(4)「本質―現象」の思考の枠組みの前提
 しかし、そもそも本質―現象という思考の枠組みはなぜあるのだろうかというと、「現象」というのは我々の意識に直に与えられるものがあり、その背後に本質があると考えるので、「自分の意識」の存在が前提なのである。「自分の意識がある」がこの思考の枠組みの前提なのである。
そして自分の意識現象を引き起こしている本質を探究しなければならない。その探求を外界に向けて行えば、その本質は物質の運動であろう。さらに物質の奥に本質を探究すると、その物質の運動の背後に本質としての意識を見出すであろう。それは生物をただ自動機械とみなすのではなく、生物の運動の奥に意志を認識したり、人間の身体の運動の背後に意志や思想を認識したりする。
それとは反対に自分の意識現象の本質の探究として、自己の意識を内側へと探究することができる。自分の意識の源流を探求するのである。どこから思考や意志が湧きだしてくるかの探究である。それは結局内なる神の探究である。
 
(5)   哲学としての「本質―現象」の思考の枠組み
 哲学的に先の楽しい会話における「本質―現象」という思考の枠組みはどうなっているのかというと、それは意識が本質であり、脳という物質を含む身体の物理的振る舞いが現象である。話すという舌や口の運動や、笑ったりするときの顔の筋肉の運動が現象なのである。
 つまり、楽しい会話をしたというときには、のどや舌や口の引き起こす音や、ジェスチャーなどの身振り手振りという物理現象の背後に、その人の本質である意識を認識しているのである。あるいはその人の本質である意識が、のどや舌や口の運動やジェスチャーという現象を引き起こしたのである。
 人間という存在においては身体の運動は物理現象という現象であり、その背後に意識という本質があると考える。
 
 
(6)   意識が身体現象の本質であること
 ある人が銀行に金を下ろしに行くために道を歩いていた場合、道を歩いているのは現象である。客観的には物理現象である。その外見だけを見たとき、道を歩いているという現象の本質は分からない。そこで「どこへお出かけですか」と尋ねて「銀行に金を下ろしに行くところです」という答えを聞いて、その行為の本質を知ったことになる。金を下ろそうとしている意志が道を歩いているという身体現象の本質なのである。
 
(7)   宇宙論における「本質―現象」
 人間という存在には意識あるいは精神としての本質があり、現象は身体あるいは身体の運動である。現代科学では脳という身体の一部が意識を産むと考えているので、意識と身体の関係は人間だけの事柄と考えるが、真理は宇宙規模において「本質―現象」の関係があるのである。宇宙の本質が現象したのが人間であると考える。つまり、「本質―現象」の関係を何段階も考え、身体の運動を現象とすると、その本質をその運動行為の意志とし、さらにその意志を現象と考えると、その意志の湧き上がらせる動機をその意志の本質と考える。そして動機の動機が動機の本質である。そういうように意識の深さの階層に沿って、本質―現象の階層ができる。すると、意識が個人を超えた段階で人間の本質は神であるということになる。個人を超えたあとも本質の階段をどんどん上っていくと宇宙規模の本質に到達し、それは宇宙の意志としての神に到達する。究極の本質は宇宙の主体である。宇宙の主体が究極の本質であり、宇宙の一切はそれが現象したものである。
 
(8)   宇宙の構造としての「本質―現象」関係
 宇宙の究極の「本質」として、宇宙の主体を考え、これが分化したのが「現象」である。分化は何段階にも起こるのであるが、ある段階の本質に対してそれより下位は現象であり、上位は本質の本質である。宇宙全体を究極の本質としての宇宙の主体が分化したものと考え、この体系の把握が宇宙の構造の認識である。

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