科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

脳科学

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脳科学大革命

脳科学大革命
(1)はじめに
 本ブログを5年半前に「科学革命」というタイトルで書き始めて、本気で科学革命を志してきたが、前記事
「脳の機能のメカニズム」
で遂に本格的科学革命が起こったと自負している。
 本記事では、私の脳科学革命の意義について説明しよう。
 
(2)脳の「ハードプロブレム」
 1980年代は、人工知能や認知科学や神経科学の研究が進み、脳の唯物科学的解明は何ら本質的な問題は無いと思われていた。
 そこへ1994年のツーソン会議で、オーストラリアの若い研究者チャーマーズが脳の研究には研究の方針が立てられるイージープロブレムと、全くどう手をつけてよいかが分からないハードプロブレムがあることを主張した。
 イージープロブレムとは、脳がどのように機械として情報処理をしているのかというような問題である。それは脳を情報処理機械として解明すればよい。確かに脳は複雑で研究は難しいが原理的には本質的な問題は無い。しかし、他方ハードプロブレムとは物体としての脳になぜ意識が付随するのかという問題で、これは全く手の着けられない大難問であることがチャーマーズによって、脳科学者に知られることになった。意識と物質である脳がどういう関係になっているのか、なぜ結合しているのかの説明は、その方針のめどさえ立たたないのである。
 これは私の言葉で言えば、脳は意識も意志も持たない原子の集合に過ぎないのだが、原子が集まって意識を産むということはどう説明してよいかの方針さえ立たないのである。
 
(3)現代唯物論の牙城の崩壊
 現代科学は唯物論であるが、唯物論の研究プログラムを完成するには意識を物質が産むのを説明しないといけない。しかし、唯物論は完成していなかったのであるが、物質が集まって脳を形成しそれが意識を産むのは自明なものであり、ただ脳は複雑すぎて研究が難しいだけであり、脳が意識を産むメカニズムは脳の研究が進めばやがて解明されるものだとして、科学者に唯物論は信奉されてきた。この科学者の唯物論信仰はチャーマーズによって脳科学者の中でも捨てられはじめている。
 
(4)唯物論に変わる研究プログラムの必要性
 しかし、唯物論が不完全であることだけでは、唯物論は駆逐できない。唯物論を駆逐するためには、物質から意識を説明できないことを主張するだけでなく、意識は意識として最初からあるものとする非唯物論的理論を構築して、唯物論に変わる脳の機能の原理を解明し、脳の研究プログラムを提唱する必要がある。
 前記事「脳の機能のメカニズム」は新しい脳理論を提唱し、脳の機能の解明の研究プログラムを提案しているのである。
 
(5)心身問題という大問題の解決
 デカルトが実体には精神と物体があるという二元論を提唱した。身体は物体であり、物体は機械的メカニズムを持つものと考え、その考えは近代科学の進歩を推し進めた。精神の本質的属性は思考であるとされた。
 しかし、デカルトの二元論は精神が身体とどう相互作用するのかを説明できないという心身問題という難問を残した。
 そこで、心身問題は疑似問題であるとして、意識は無いという唯物論や、物はないという唯心論が出てきたが満足する答えとはなっていない。
 現代では、心の座は脳にあるとして、心身問題ではなく、心脳問題として研究されている。現在は哲学の分野では「心の哲学」として研究されているが、心と脳の相互作用の解明は誰もが満足する答えを提出することはできていない。
 その問題に解決案を提出するのが、前記事「脳の機能のメカニズム」である。
 
(6)私の脳理論の概要
 先ずすべての物質は電子とアップクォークとダウンクォークからできているという物理的現実を直視したうえで心と脳の問題を考えなくてはならない。
α)電子、クォーク
 全ての物質は原子からできているのは知っているだろう。水はH2Oと化学記号で書かれるように水素原子H 2個と酸素原子O 1個からできている。そして原子とは中心に原子核があり、その周りに電子が回っていて、原子に応じてその周りを回る電子の個数は異なる、水素原子は電子が一個、酸素原子は電子は8個である。
 そして原子核は原子によって異なる。原子核は正の電荷をもつ陽子と電荷を持たない中性子からできている。陽子の個数はその原子を構成する電子の個数と同じで中性子の個数はそれと同じか少し多い。そして陽子はアップクォーク2個とダウンクォーク1個からできていて、中性子はアップクォーク1個とダウンクォーク2個からできている。
 つまり、人間の身体も物質であるので、人間も電子とアップクォークとダウンクォークからできているのである。その事実を踏まえたうえでなぜ意識を持つかを説明しないといけない。
 
β)意識の起源
 人間に意識があるとして、その起源を説明するのも問題である。その視点は、身体が宇宙の物質の一部であるように、宇宙自体に異次元に広がる宇宙の意識があり、その一部が人間の意識と考えるのである。宇宙の意識は常識的には「神」であり、それは人間の意識の原因である。
 
γ)意識と素粒子の対応付け
 身体は電子とアップクォークとダウンクォークの三種類であり、意識は知・情・意の三通りで三対三で対応付けが良い。ここでは詳しく説明できないが私は電子が意志に対応し、ダウンクォークが理性に対応し、アップクォークが愛に対応すると考えている。その証明は論証よりも実験で実証すべき問題である。
 
δ)宇宙の三段構造
 先ずは異次元宇宙に唯一の生命意志があり、これが次々に分化して個体の生命意志となり、これが次々に分化して電子になる。とくに現在の考察では脳を構成している電子になる。
 次に異次元宇宙に愛の根源があり、これが次々に分化し個人の愛となる。これが次々と分化しアップクォークとなる。現在の考察では脳を構成しているアップクォークとなる。
 最後に異次元宇宙に理性の根源があり、これが次々と分化し、個人の思考を産み出す。これが次々と分化し、ダウンクォークとなる。現在の考察では脳を構成しているダウンクォークとなる。
 
ε)脳の機能のメカニズム
 人間に異次元宇宙の愛の根源から愛が流れ込み、異次元宇宙の理性の根源から理性が流れ込み、その結果個人が主観的に思考と感情を持つのであるが、その意識は脳を構成するダウンクォークとアップクォークに変化をもたらす。その変化を増幅して電子の運動に変える装置が脳なのである。そのためにこそ神経回路が必要なのであろう。
 私の仮説では脳の複雑な神経回路は、思考と感情によるアップクォークとダウンクォークの微小な変化を電子結合体としての身体の大きな運動に変換する増幅装置である。
 
(7)今後の課題
 今までの本ブログでの脳に関する考察をまとめ、分かりやすく解説して、今回の脳理論を一冊の本にまとめて出版したい。そして発表すべき学界を探して、学会発表や論文発表もしていきたい。
 それと私の脳理論を脳科学の実験事実と照らし合わせて考察していきたい。

脳の機能のメカニズム

脳の機能のメカニズム
(1)はじめに
 脳は愛と理性を身体の運動と結合する役割をしている。私の理論では、愛はアップクォークが担い、理性はダウンクォークが担い、そして意志は電子が担っている。すると、脳の神経系は愛と理性によって受けたクォークの運動の変化を、電子の運動の変化に増幅する役割を果たしているものと思われる。そういう仮説を提唱しよう。
 
(2)意志―電子の体系

イメージ 1

生命意志は物質を主体的に動かす。それは個体から発するのではなく、宇宙の唯一の生命の根源意志から発せられ、次々と分化して、個体の意志となり、その個体の意志はさらに次々と分化して、最終的には電子を動かす。

 現在の考察では、三次元宇宙の中の脳を構成している電子を考えればよい。



(3)愛−アップクォークの体系

イメージ 2

全ての人の感情を深く掘り下げると愛になり、それを根源までさかのぼると宇宙に遍満する宇宙の根源愛にたどりつく。その根源愛が次々と分化し、個人の愛となり、この愛が次々と分化し、アップクォークとなる。現在の考察では個人の脳を構成しているアップクォークを考えればよい。

 

(4)理性―ダウンクォークの体系


イメージ 3


個人の思考を遡ると宇宙を支配する宇宙の根源理性に遡り、これが次々と分化して、個人の理性となる。そして個人の理性が次々と分化してダウンクォークとなる。現在の考察では脳を構成するダウンクォークを考えればよい。

 

(5)脳への理性の作用

 思考には言語を伴うことが多いが、言語は口や舌やのどの運動を伴う。言葉を発しない内的言語で思考する場合でも口や舌やのどの運動は潜在的に想定されている。

 例えば哲学的命題を覚えるとき、例えば「Aは非Aではない」と矛盾律を想起した場合は、その想起は理性によるものであるが、その理性がつぎ次々と末端に影響を及ぼしダウンクォークにその影響が及ぶ。それを言語で表現するには、口舌喉を動かさなければならないのでダウンクォークの変化が電子の変化と結合しなければならない。この学習が、シナプス結合の形成だと思われる。いったんシナプス結合が形成されれば、哲学的観念と口舌喉の運動は容易に連動し、哲学を習得したことになる。

 

(6)脳への愛の作用

 感情の本質は愛であるが、愛が妨げられたときに、愛が屈折して嫌いとか憎いとかいう感情になる。ここでは愛というよりむしろ感情の作用を考えよう。

 人と会ったときある人には好意を感じある人には反感を感じる。そういう時、その感情は次々と愛の体系の末端に影響を及ぼし、最終的には脳を構成するアップクォークに影響を及ぼす。そのアップクォークの変化が脳を構成する電子に影響を及ぼし、呼吸や脈拍や動作に影響を及ぼす。

 愛を深く遡って愛の人となるには、アップクォークをより根源的愛の支配下に置き、電子をそれに従わせなければならない。それには持続的努力が必要である。

 

(7) 仮説

 脳とは理性による脳を構成するダウンクォークへの作用と愛による脳を構成するアップクォークへの作用を脳を構成する電子の運動として増幅する装置である。神経というものがそういう重要な機構を備えているのだろう。

 

物理的事実と主観的意識体験の事実は対等である
(1)はじめに
 科学では、世界の客観的事実とは、素粒子の集合・離散とみなされる。この世界観では、音楽現象の客観的事実とは空気の振動であり、つまり空気の疎密波であり、音楽を聴いて感情が反応したのは、主観的体験であり客観的事実ではないとされる。音楽というのは、主観的なものであり、世界の本質とは無縁である、非本質的なものとみなされる。
 しかし、音楽体験があったというのも客観的事実ではないだろうか。そういうことを説明しよう。
 
(2)科学的に音楽を観ると
 音楽を科学的に見ると、それは楽器の膜が叩かれるなり、弦が弾かれたりするなりして、それらが振動して、それが空気を振動させ、空気の振動が鼓膜を振動させ、それが人間に「音」と認識されたものである。音の中には、「物音」もあるし、「言葉」もあるし、「音楽」もある。しかし、この三つは物理的には区別されないが、人間には明確に区別されて聞こえる。なぜか、音楽とみなされている音は、音楽と認識される。あるいは、くつろげるクラシックが好きな人には、騒々しい音楽であるロックは騒音に聞こえるかもしれないし、ロックが好きな人にはクラシックは退屈な物音に聞こえるかもしれない。
 しかし、「音」とは空気の振動であるというのは、間違った考えであり、空気の振動は物理的には空気の疎密波のことであり、なぜか知らないが、それが鼓膜を振動させると「音」という主観的意識体験を引き起こすのである。「音」というのは主観的意識体験のことであり、空気の振動のことではない。しかし、空気の疎密波という物理現象と「音」という意識現象には特定の対応関係があるのだが、その必然性は誰も説明できていないと思う。
 科学的には「音楽現象」の客観的事実は特定の空気の疎密波である。「特定」と言ったのは、空気の疎密波には「物音」や「声」や「音楽」があるが、そのうちの「音楽」を特定と言っているのである。しかし、この三つは物理的には峻別できるものではないだろう。
 
(3)科学では「音楽体験」は二次的事実であり非本質とみなされる
 しかし、多くの科学者は、音楽体験の客観的事実が空気の疎密波であるとすると、「音楽体験」という事実は非本質だからと言って無視するのである。音楽体験の一次的事実は空気の疎密波であり、音楽の主観的意識体験というのは、脳が産んだ二次的事実であるとみなすのである。二次的事実は非本質で、しかも複雑すぎるので興味がなく、一次的事実としての物理学だけが興味があるとして優先的に研究される。
 
(4)空間体験の共有性
 直径10センチのボールは誰が測っても同じく10センチであり、その体験は共有できる。長さを誰が測っても同じであることを「空間体験の共有性」と呼ぼう。
 物理学が成功したのは「空間体験の共有性」があったからであり、科学的客観性とは経験が共有できることである。それが実現できたのは「空間体験の共有性」があったからである。
 
(5)物理的客観性の優越性
 物差しで長さを測る経験というものも主観的経験であるが、それが他人と共有できることから客観的事実とみなされる。そして、他人と共有できる体験の知識の体系として物理学があるが、物理学の知識だけは客観的事実とみなされる。それを「物理的客観性の優越性」と呼ぼう。
 つまり、多くの主観的体験があるが、物理的事実だけは、「空間体験の共有性」があるゆえに、「物理的客観性の優越性」があるのである。
 先の例で言えば、音楽の主観的意識体験は主観的事実であり、脳が産んだ二次的事実であり、空気の疎密波は物理現象なので客観的事実で、一次的事実とみなされる。
 
(5)物理的事実も二次的事実とみなすべき
 しかし、「空間体験の共有性」を根拠にそれだけが客観的事実であり、一次的事実であり、その他の主観的体験は脳が産んだもの、すなわち二次的事実であると区別するのはおかしいと思う。音楽体験は脳が産んだものとするならば、空間体験も脳が産んだものであり、これも二次的事実になるだろう。物理的事実だけが客観的事実であり、脳が産んだものではないというのは偏見である。もし、意識を脳が産むならば、物理的事実も音楽体験と同じく脳が産んだ二次的事実であり、一切の経験が二次的事実であり一次的事実はないことになる。主観的音楽体験を二次的事実とみなすならば、同じく物理的事実も二次的事実とみなすべきであろう。
 
(6)音楽体験も空気の疎密波も対等に扱うべき
 「空気の疎密波を一次的事実とみなし、音楽を音楽と感じる音楽の主観的意識体験を二次的事実とみなす」べきではなく、「両者を対等な主観的体験の事実とみなす」べきであるだろう。問題はある事実と別の事実の対応関係である。ある特定の音楽体験をしているときの空気の疎密波はどうなっているか。あるいは音楽体験をしているときの脳の分子はどういう構造をしてどういう運動をしているかの何らかの関係があるのであろう。
 つまり、「物理的事実が一次的事実であり、それに対応して脳が意識を産んでそれが二次的事実になる」のではなく、「物理的事実とそれに対応した主観的意識体験の事実は対等であり、それらに何らかの対応関係がある」とするのである。
 
(7)結論
 音楽を音楽として体験する主観的意識体験の事実も、音楽を体験しているときの物理的客観的事実としての空気の疎密波の事実も、対等に一次的事実とみなすべきである。
 一般的に言えば、物理的事実だけを優先的に客観的一次的事実とみなすべきではなく、他の主観的体験も対等に一次的事実とみなすべきである。
 
物理的決定論と意志的決定論
(1)はじめに
 すべては物理の法則に従って決定論的に運動するというのを「物理的決定論」と呼び、人間には自分の意志を自由に決めることはできず、何を意志するかは決定されているというのを「意志的決定論」と呼ぼう。多くの場合この二つが混同されているので、このもつれを本記事で解きたいと思う。
 
(2)物理的決定論と意志的決定論の混同
 この混同は脳が意志を産むという誤謬から生まれる。原子が集まって脳ができ、脳が意志を産むので、意志は物理の法則で決定される。したがって、人間の意志は物理の法則から計算できる。ゆえに意志の決定は物理の法則で決まるという考えである。しかし、先記事
「脳と自由意志」
で説明したように、原子の集まりである脳が意志を産むというのは説明不可能である。意志は原子を組み合わせて説明するのではなく、意志は異次元に脳ができる前から体系として存在するとしなければならない。
 
(3)意志的決定論
 自分が何を意志するかは自由ではないということは、多くの人が実感することである。どうしても私はこれがしたいと意志が不動に固まっていることはよくあることであるだろう。しかし、この意志を物理的に決定したものと考えてはいけない。この意志は、異次元にある意志を脳がキャッチしたものと考えるべきである。
 したがって、意志的決定論とは物理的決定論から演繹すべきものではなく、自分の脳がキャッチする意志は自由には選べないと解釈すべきである。したがって、人間は生まれつきこれがどうしてもしたいというものがある程度先天的に決まっていて、したがって意志的決定論というのはある程度あるとしなければならない。
 
(4)しかし、自由は残されている
 しかし、自由は残されていて、今の意志より意志の体系の根源に近い、高次の意志を顕在化する努力によって、現状の意志の束縛から解放されることは可能である。つまり、自由とはより高次の意志を持つ自由のみが、本当の自由である。そういう方向のみに自由は残されている。

脳と自由意志

脳と自由意志
(1)はじめに
 現代の主流の科学的見解は脳が意識を産むというものである。しかし、これは証明されたことではない。しかし、この主流の見解から、脳は物理の法則に従うのだから、脳の運動は決定論的であり、したがって人間には自由意志はないと結論される。本記事では、人間には意志があるとして、この意志によって脳の構造が創られるという、脳と自由意志の整合的理論を提唱しよう。
 
(2)意志は脳が産むというのは証明不可能であること
 脳は神経回路の集まりとされるが、その神経細胞も原子からできている。原子は量子力学の法則に従うのであるが、それは電場や磁場によって運動が決定されるという、受動的に運動が決定される存在である。それに対して、意志とは受動的な運動ではなく自発的に内部から決定される運動のことである。したがって、常識では原子は受動的に運動が決定されるのであるから、意志を持たないことになる。意志を持たない存在が集まって意志を持つようになることはありえない。意志を持つかのごとく振る舞うことはできるのであるが。したがって、現代物理学を脳の説明の原理とすれば、脳が意志を持つことは説明不可能である。
 
(3)意志は異次元に体系として存在する 
 意志は脳が産むのではないとするとどこにあるのかというと、3次元空間の外である異次元に脳が存在する前から意志の体系として存在すると考えるしかない。
 
(4)意志の表出口としての生物と脳
異次元に存在していた意志が3次元宇宙に出現するために、物質がある特定の構造を持って集まり、単細胞生物として出現し、さらに高度な意志を出現させるために多細胞生物となり、さらにどんどん高度な意志の出現のために生物が進化し、その中枢として脳ができ、人間が出現したのである。
したがって、生物が物質的に複雑な構造を持つことによって、高度な意志が発生したのではなく、異次元にある高度な意志を出現させるために、複雑な物質構造が必要になったのである。
 
(5)意志が脳の構造を決定する
 したがって、原子の集まりとしての脳が意志を産むのではなく、基本的に意志が脳の構造を作るのである。
 例えば英語の単語を暗記しようと努力するとき、その努力の過程で脳の神経回路のシナプス結合が生成されると思われる。そして、十分に暗記できたということは、意志の努力によって神経回路ができ、英語の単語を想起しやすくなったということである。つまり、努力によって、意志が脳の神経回路を創り、そのことによって行為が容易になるのである。
 脳の神経回路に限らず、生物とは、意志が自分の意志を安定的に実現するために、特定の物質構造を構成すると考えられる。生物の身体構造すべてがそうである。内臓にしろ、骨格にしろ、脳にしろ、全て意志が自分を安定的に実現するための構造である。思考を安定的に実現するために、大脳の神経回路ができたのであろう。
 
(6)結論
 原子の集まりである脳が意志を産むという考えは説明不能であり、意志は脳の出現以前から異次元に体系として存在していると考えるべきであり、そう考えると努力という意志の発露によって、脳神経回路が創られると思われる。そう考えると、意志が脳の構造を決定することになるので、自由意志は整合的に説明できる。

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