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純粋経験は単純なる一事実である
(1)はじめに
西田幾多郎の「善の研究」で純粋経験とは何かを説明している一つについて考察した。
「しかし純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。」(「善の研究」西田幾多郎、岩波文庫15ページ)について考察した。
(2)純粋経験は統一されている。
一事実とは、統一されているひとまとまりという意味である。17ページに次のようにある。
「純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析できぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである。」(同17ページ)。
(3)「ラ」、「イ」、「オ」、「ン」の統一
ここで問題なのは「統一」とは何かということである。西田はこれを説明していないので厄介である。考えてみるに、経験の分節化のことであると思う。例えば、言葉は連続した音であるが、「ライオン」という連続した音を聞いたとき日本語を知っている人は「ラ」、「イ」、「オ」、「ン」と分けて聞き取る。このときそれぞれの音の経験はひとまとまりとして統一されて経験されているのである。そしてさらに上位の構造としては、「大きなライオンが走っている。」という文章の中の「ライオン」という単語が区分され統一されて経験されている。言語も物理的には連続した音なのであるが、これを聞き取るときに分節化するのであるが、それが意識の「統一」のひとつの例だと思う。
(4)視覚経験の統一
言葉と同じく視覚に映ったものも分節化されて経験される。
テーブルの上に「コップ」、「ナイフ」、「スプーン」があったとき、生理的には光の点の集まりで連続的映像なのであるが、それが区分されて「コップ」、「ナイフ」、「スプーン」とそれぞれ一まとまりのものとして統一されて経験される。視覚内容の分節化も意識の「統一」の一つの例だと思う。
(5)意識の「統一作用」は意識の根源的性質である
これは西田が言っているのを読んだことはないのだが、おそらくそう考えているであろうことであるが、純粋経験が意識の統一作用であることは、脳生理学から演繹されるべきことではなく、意識の持つ根源的性質であると考えられる。私もそう思うが、西田もそう考えていると思う。言語や視覚の分節化を脳生理学ではどう説明しようとしているのだろうか。調べてみたいと思う。私は、それは脳の性質から説明できるものではなく、意識の持つ本性だと思っている。
現代の科学的常識では意識は脳が産むと考えられているが、誰もそれを証明していないし、そのメカニズムを説明した人はいない。西田は「善の研究」では純粋経験で一切を説明することを目的とした。つまり、脳の物理現象から意識現象を説明するのではなく、逆に純粋経験から物理現象を説明しようとした。私もそれが正しい方向だと思う。そして物理学では「力」と「質量」が基本的概念であるのと同じように意識現象においては「統一」と「矛盾」が基本概念と言えるだろう。そういう意味で「統一」は意識の本性である。
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西田幾多郎
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純粋経験―あるがままの意識の事実―
(1)はじめに
通常の意識は、外界は心とは独立に存在しているとみなしているが、真理の探究においては、それは疑われなければならない。どこまでも疑っても疑えないのは「あるがままの意識の事実」である。それを西田幾多郎は、「純粋経験」と呼んだ。それについて、西田幾多郎の著書「善の研究」に沿って説明しよう。
(2)事実そのままに知る
「善の研究」の冒頭にこうある。
「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を捨てて、事実に従うて知るのである。」(「善の研究」13ページ:岩波文庫)
しかし、ここでいう「事実」とは何かは、非常に難しい。つまり、通常は、「テーブルの上に赤いリンゴがある」と見えたら、それを事実とみなすが、哲学ではそれは本当に事実かどうかさえ疑わなければならないのである。
そこで、疑えないのはなにかを説明している箇所が第二編にこうある。
「さらば疑うにも疑いようのない直接の知識とは何であるか。そはただ我々の直覚的経験の事実即ち意識現象についての知識あるのみである。」(62ページ)
つまり、「テーブルの上に赤いリンゴがある」のは疑えても、「テーブルの上に赤いリンゴがあると意識に映っている」というのは疑えない事実なのである。ただし意識にリンゴが映っているからと言って、映った原因となるリンゴがあるかどうかは疑えるのである。疑えないのは「自分の意識はこうである」という事実のみである。
(3)「リンゴの赤さ」への疑い
「リンゴの赤さ」が科学的にも疑えることを説明しよう。そもそも、「赤い」というのは外的客観的事実であるとは現代科学でもそうは思われていない。色というのは光が眼に入って意識に映るとされているのであるが、赤い光とは波長0.7μmの電磁波である。しかし、電磁波が赤いわけではない。電磁波とは電場と磁場の波であるが、それが眼に入って網膜を刺激し、その信号が視神経を伝わって脳の視覚中枢に到達するとなぜか「赤い」という意識が発生すると思われているのである。すなわち現代科学でも、「赤い」というのは外的事実ではなく、意識の性質、つまり内的性質なのである。つまり、外的に存在するリンゴが赤いのではなく、リンゴから反射された電磁波が眼を刺激し、その信号が脳に伝わった結果、意識が「赤い」になるとかんがえられているのである。
(4)主客対立の疑い
「善の研究」の最初のページにこうも書かれている。
「たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考の無いのみならず、・・・」(13ページ)
これは、私が意識と身体を持って存在し、それが外界の存在を経験しているという、世界の経験の基本構図を疑っているのである。自分が世界空間の中に位置を占めて存在し、外部を経験しているという常識を疑っているのである。それを疑う能力が無いと西田幾多郎の哲学は全く理解していないと言えるだろう。
そしてそれを疑っても残るのは主客対立以前のあるがままの意識の事実であり、それが「純粋経験」であるということである。
(5)世界観の構築
そして、あるがままの意識の事実を認識したとして、次に行わなければならないことを書いている。
「斯くの如き直覚的経験が基礎となって、その上に我々の凡ての知識が築きあげられねばならぬ。」(62ページ)
ここで「直覚的経験」とは「純粋経験」のことである。それをもとにすべての知識、つまりすべての学問を構築しようと言っているのである。つまり、あるがままの意識の事実以外の事実というのは、独断が混入しているので、それをもとに学問を構築したら誤謬をもたらすと考えているのである。疑えない事実が「純粋経験」であるということである。それをもとに学問を構築しようと西田は提案しているのである。
(6)要約
疑っても疑っても疑えないのは「あるがままの意識の事実」であり、それを「純粋経験」と呼び、「純粋経験」を基礎にすべての学問を構築すべき。
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純粋経験3(統一状態)
(1)はじめに
これまで純粋経験の解説として二本の記事を書いた。
「純粋経験1」
「純粋経験2」
「純粋経験1」は一切の思慮分別を加えない前の経験、自己の細工を加えない前の経験という最初の定義を説明した。
「純粋経験2」では、記憶、意志、抽象概念などを純粋経験の例として挙げて説明した。
本記事では、純粋経験の「意識の統一状態」としての定義を解説する。
(2)意識の統一状態
「純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析が出来ぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密な統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである。」(「善の研究」17ページ、岩波文庫)
次の二つは同一のことを指していると思われる。
「かえって具体的意識の厳密な統一にあるのである。」、「元来一の体系を成したものである。」
この文章から統一とは体系の統一であり、体系とは一なる意志が次々と分化しながら、全体は最初の一なる意志の支配下に統合されているということを意味していると思われる。図にすれば下図の通り。一番上が一なる意志であり、それが下位に分かれて末端の意志になっている。そして下位の意志は上位の意志の支配下にある。こういう統一作用の体系が純粋経験だというのである。
意志の体系と言っても分かりにくいので統一でよくあるのは有機的統一である。これを図にしてみよう。
臓器の意志が個体の意志の下位に来ている。これはどういう意味かというと、個体が走る意志を持つと筋肉が収縮・弛緩したりして、それを実現するがそのとき、肺も収縮・弛緩の運動をして酸素を吸収するし、心臓は鼓動を速くして、血流を盛んにする。これは筋肉や、肺や心臓が自己の保存を維持する範囲で個体の意志によって支配されている。そして肺や心臓はその運動を細胞の運動を支配下に置いて実現する。結局、生物体は細胞や臓器が個体の支配下に統一されている。全体が合目的に運動する。これが有機的統一である。
そして、純粋経験の統一とはこの有機的統一みたいに意識の体系が運動することである。下位の意識は上位の意識の支配下にあるのである。
(3)分化発展
「初生児の意識の如きは明暗の別すら、定かならざる混沌たる統一であろう。この中より多様なる種々の意識状態が分化発展し来るのである。」(17ページ)
「分化発展」とは一なる意識が下位の意識へと次々と分化していく過程である。下図の通り。
西田は直接経験の意識は何時でもこのように分化発展の形式で現れると言っている。
(4)知覚
西田は純粋経験をこのように統一された体系と定義したうえで、知覚は純粋経験であると言っている。これは私なりの考察をしよう。
知覚の代表として視覚を挙げると視覚は色と形の認識である。形は例えば丸を考えよう。丸を丸として認識するのは、単に空間に丸い線があると認識するのではなく、丸を認識するときは丸の内部を外部から区別する意識の運動が働く。そして丸を一つの存在として捉える、これは意識の統一作用なのである。一つの丸というイメージは意識の統一作用なのである。「一つのもの」として捉える点が重要である。モニター表示のように点の集まりとしての線ではなく「一つのもの」として捉えるところが統一作用なのである。
では少し複雑になってアナログ時計の知覚を考察しよう。先ず、文字盤の円がありそれも統一作用として捉えられる。そして1から12までの文字があるので、それも12個の文字をそれぞれ一つの統一作用として捉えられる。そして短針と長針もそれぞれ一つの統一作用として捉える。結局、文字盤の円、12個の数字、短針と長針をそれぞれ下位の統一作用として捉えこれらを束ねて「時計」という上位の統一作用の支配下に置く。人間がアナログ時計を知覚するときは、単に点の集まりの映像として捉えるのではなく、統一作用の体系として捉えるのである。
(5)表象
これも私なりの考察をしよう。この「表象」の意味を私は心像を想起し、その想起した心像を知覚することと理解したい。心像の知覚というのは分かりにくいかもしれないが、例えば心の中で「3」という数字を想起した場合、その心像を想起することと心像を認識することは別の意識の運動と私は捉えているのである。
そして心像を想起するのは統一作用によってである。心像を想起する意志が作動し、それが有機的統一の体系となって複雑な心像を形造る。心像を造る意志の体系は統一作用の体系であり、したがって、心像の想起は純粋経験である。
そして想起した心像を知覚するのは時計の知覚と同じくこれも統一作用の体系であり、したがって、心像の知覚は純粋経験である。
したがって表象することとは、心像の想起と知覚であるが両者とも統一作用の体系であり、したがって、表象は純粋経験である。
(6)まとめ
統一された意識の体系が純粋経験であり、そういう意味で知覚も表象も純粋経験である。
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西田哲学の世界史的意義
(1)はじめに
現在、哲学界では西田哲学というと、戦前の古い哲学であり、なぜいまさら「西田」なのかといわれる風潮である。しかし、西田幾多郎は、まだ伝統が残っていた日本が西洋とぶつかった明治期に生まれた哲学者であり、西田哲学は、西田が東洋人・日本人としての自分と、西洋の文明を吸収する自分が、心の内部で対立・葛藤し、西田個人の内面という坩堝で両文明の精神を溶融し、西洋の原理と東洋の原理を統合した世界原理という素晴らしい合金を作り出した哲学である。
現在という時期は西洋発の近代が行き詰って崩壊を始めている時期なのであり、近代を乗り越える超近代文明を日本発の文明として、日本が世界・人類をリードする使命を持っているのであるが、その超近代文明の原理となる世界原理の哲学が西田哲学なのである。
これからは、西田哲学を継承し発展させるのが、日本人哲学者の大きな使命である。そして西田哲学を日本だけの哲学とするのではなく世界に向けて発信し、人類を平和に統治しなければならない。
(2)西田幾多郎
西田幾多郎は明治3年生まれである。西暦で言えば1870年生まれである。まさに明治がスタートし日本が西洋の圧力によって近代化せざるを得ない状況に追い込まれ、急いで西洋文明を吸収した時期である。しかも、戦後日本に比べると日本の伝統は保持されていたであろう。そこで、西田は東洋人・日本人としての精神を持ちつつ、西洋の文明にも惹かれ、それを吸収しつつ、しかし折衷するのではなく、西洋と東洋の統合原理を求めた。
明治30年ころからは参禅し、明治36年には広州老子のもとで「無字の公案」を通過した。そして同時に西洋哲学を経験論から合理主義、神秘主義まで乱読している。そして実際これらの広範囲の哲学は西田哲学では消化されている。
明治44年に30代の思索の集大成として、そして処女作として「善の研究」を出版した。これは純粋経験を唯一の実在としこれからすべてを説明することを試みた哲学であり、不完全であるが〔そもそも完全な哲学体系というのはいまだにないのだが〕見事な体系的哲学書である。
大正15年には、西田の独創的哲学の端緒となった記念碑的論文「場所」を発表した。これは東洋哲学の論理化であると言える。
昭和14年には西田哲学の完成となる論文「絶対矛盾的自己同一」を発表した。「絶対矛盾的自己同一」とは真実在である「絶対無」の論理構造のことである。これを西田幾多郎が解明したのである。
そして、西田幾多郎は昭和20年6月に、太平洋戦争が終わる以前に死去した。
(3)戦後の日本精神の忘却とこれからの課題
しかし、戦前は西田幾多郎の哲学の影響力は高かったが、戦後はその影響力は急激に衰退した。哲学界は舶来ものが重宝されるようになった。日本人が自尊心を失い、自分自身の足元にある日本精神の中に素晴らしく価値あるものが潜在しているという事実を忘却したのである。
神道は教義が無く論理化されていないことから分かるように、日本精神は直観的に思考するのであるが、その直観は西洋人には驚くべき精密さがあるのである。したがって、学問的に論理的に思考する傾向性のある人は西洋かぶれし、直観的に思考するタイプの人は日本の伝統を重んじる保守派になる傾向がある。だから保守の論陣は論理が突き詰められていない。例えば天皇を崇敬すればどういうメカニズムで日本は良くなっていくかの緻密な理論が無い。右翼は信念・心情を主張するだけで、マルクス主義に匹敵する緻密な理論が無い。
しかし、これからなすべきは直観的日本精神に論理性を与えることである。これのひな型となるのが西田哲学ではないかと私は思っている。そしてこれが世界原理となり、人類を地球ユートピア〔理想郷〕へと導いていくのである。西田哲学の世界史的意義はそこにあると思う。
(4)西洋哲学と東洋哲学の統合としての西田哲学
普通哲学と言えば西洋哲学のことであり、それは論理性があることを意味している。それは古代ギリシャから始まり、キリスト教とともに西洋の精神的源泉となっている。西洋哲学はアリストテレスの論理学に代表されるように、論理性があることが最も重要な性質である。
それに対して東洋哲学は、例えばインド哲学を考えてみると、論理性はなく心境性が重要なのである。インド哲学の柱は「梵我一如」である。宇宙の原理である「梵=ブラフマン」と個人の原理である「我=アートマン」がひとつであるという思想である。それは論証するのではなく体感することが大切なのである。我と宇宙が一体であることを論理的に納得するのではなく、体感として実感することに価値をおいているのである。
そこで西田哲学はどうなのかというと西洋の論理性と東洋の心境性を両立しているのである。
例えば、処女作「善の研究」では「真の自己は宇宙の本体である」(岩波文庫: 206ページ)と言っている。これは西田哲学の心境性を表している。西田哲学は頭だけで分かるものではなく、自分が自己をどう感じているかを認識し、どこまでも真の自己を求めて探求しないとわかるものではない。その究極が宇宙との一体感である。のちにこの宇宙との一体感は自分が真実在である絶対無そのものであるという自覚「絶対無の自覚」と捉えなおされる。
そして、「善の研究」では論理性が欠けていたのを自覚して模索し到達したのが「場所の論理」である。論文「場所」が掲載されている書「働くものから見るものへ」の序の一部を長いが引用しよう。
「形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云うまでもないが、幾千年来我等の祖先を孚み来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なき者の声を聞くと云ったようなものが潜んで居るのではなかろうか。我々の心は此のごときものを求めて已まない、私はかかる要求に哲学的根拠を与えて見たいと思うのである。」(6ページ:西田幾多郎全集、第四巻)。
「形なきものの形を見る」というのが東洋の精神であり、それを論理化して見せようと、西田は自負しているのである。これが「場所の論理」なのであり、のちには「絶対矛盾的自己同一」の論理へと発展し完成する。
要約すると、西洋哲学の傾向性は論理性にあり、東洋哲学の傾向性は心境性にあり、西田哲学は論理性と心境性を両立している。心境性は「絶対無の自覚」という境地で言い表され、論理性は「場所の論理」あるいは「絶対矛盾的自己同一」という論理に到達した。そういう意味で西田哲学は西洋哲学と東洋哲学の統一を果たした世界原理の哲学なのである。
したがって、西田哲学は継承し発展させ、世界中に発信する価値がある。
(5)近代の行き詰まり
ニュートンが力学を創って以来、人類は外界の物質を制御して幸福を得るというパターンを獲得し、実際それに成功してきた。実証科学は多くの実績があり人類の多くはそれを信頼している。この自然界を制御して幸福を得ようとする、思考―行動パターンが近代の特徴の一つである。
しかし、このパターンは二つの意味で行き詰っている。
一つは、物質制御(=発明)を高めることにより得られる幸福が飽和しているという点である。エジソンが電球や蓄音機を発明したころは、それらの発明により民衆の幸福度は飛躍的に増大した。近代は科学と経済がリンクし相乗効果で両者の発展が加速したが、それがもはや飽和しているのである。一体これ以上何の便利を追求するのかという気分である。スマートフォンの機能がアップしいろいろなことができるようになってきているが、ここまで便利にするかという機能ばかりである。電球が発明されたときは誰もが無条件に喜んだであろうが、現在は便利さの追求はもはや飽和している。
したがって、50年前は誰もが科学が進歩した未来を夢見たが、現在は青少年が未来はこういう理想的な時代になるのだろうという夢が無くなっている。夢が無いというのは文明にとって致命傷である。
二点目は、近代は環境破壊が止まらないということである。近代は経済と科学が融合して、どんどん物質の加工速度が増大しているのであるが、経済的利潤を生む方向で自然を加工するという原理になっている。だから地球環境全体を保持する方向で自然を加工しないといけないと思っても、経済法則としてできないのである。経済原理が儲け優先だからである。経済には経済の法則があって、どうしても止められない力が働くのである。近代がそのまま進んだとしても環境破壊の末、人類は滅びるかもしれない。現代はそういう近代の行き詰まりに達しているのであり、現実は人類は滅亡の危機に立たされているのである。
(6)まとめ
現在の近代の行き詰まりを突破し、人類を近代を超克する超近代へと導く哲学が西田哲学なのである。それは先に述べたように西洋知と東洋知の統合でもあり、西洋文明と東洋文明の両者を吸収しえた日本がのみなし得た偉業であり、それゆえに世界を平和に統合する使命を日本が持っているのである。
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純粋経験2 (1)はじめに 「純粋経験1」に引き続き「純粋経験」とは何かを説明しよう。 「純粋経験1」 (2)なぜ純粋経験を問題にするか なぜ純粋経験について書くのかというと、純粋経験の認識とは一切の先入観を排除して意識のあるがままを認識することで、それが唯物論の克服に重要だと思うからである。あるがままの意識の経験が純粋経験なのである。科学者の多くは唯物論を信じていると思うが、そうなってしまうのは意識が物質に付着し、意識と言えば物質についての意識のみとなり意識についての意識が欠けているからである。私は意識についての意識を確立し、意識の存在にリアリティーを持つようになるのが唯物論の克服に必要だと思っている。そのために純粋経験説の理解は役に立つと思う。 西田哲学では「純粋経験」の思想の次に「自覚」とか「絶対自由意志」や「場所」「弁証法的一般者」とかが展開されるが、それらは純粋経験説を否定したのではなく深めて行っているのである。それで、西田哲学の研究を純粋経験より先に進めて行く上においても、純粋経験説の深い理解は不可欠なのである。そういう意味でも「純粋経験」の理解は重要で不可欠なのである。 (3)全ての精神現象は純粋経験の形で現れる 「如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡ての精神現象がこの形において現れるものであると信ずる。」(「善の研究」岩波文庫:14ページ)
これは一見矛盾があるように感じられる。つまり、一切の思考を差し挟まない経験が純粋経験であると言って、純粋経験とそうでない経験を区別しておきながら(「純粋経験1」を参照)、今度は一切の精神現象が純粋経験の形で現れると言っているからである。 そこでもっと読み進めると、記憶が純粋経験であるということを言っているのでこれについて考察してみよう。 「記憶においても、過去の意識が直ちに起こってくるのでもなく、したがって過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。」(同14ページ) 「過去と感ずるのも現在の感情である。」と言っているのは、「感情は現在の経験であり、それは純粋経験である」ということを暗黙に主張しているのである。 重要な点は記憶は「過去を直覚するのではない」というところで、良くある誤解は記憶は過去を経験しているという誤解である。「過去を思い出して過去を経験した」というのが思考の差し挟まれた純粋経験ではない経験であり、現実は過去の経験に関して想起して想起内容を現在経験しているのであり、それは純粋経験であるということである。 意志にについても同様である。
「意志においても、その目的は未来にあるにせよ、我々はいつもこれを現在の欲望として感ずるのである。」(同15ページ)
ここでも「現在の欲望として感ずるのである」は暗黙に「したがって現在の経験だから純粋経験である」というのが主張されている。 未来をこうしようと意志している場合も、「未来を経験している」と誤解することがある。そういう場合は、この経験は思考の差し挟まれた、純粋経験ではない経験である。意志も良く観察すれば「現在の欲望」であり、したがって純粋経験である。 良くある勘違いで、記憶や意志のように、過去を経験しているとか未来を経験しているとか、誤解することがある。こう解釈した経験は純粋経験ではないということなのである。そして、記憶や意志の経験は現実には現在の経験であり、したがって純粋経験であるということなのである。つまり、本当の経験は現在の経験であり、それは純粋経験であるということである。過去を経験したとか未来を経験したとかいう場合、それは本当の経験ではなく、しかしそう経験したという場合、それは純粋経験ではない経験である。 抽象概念についても言及している。
「抽象概念といっても決して超経験的のものではなく、やはり一種の現在意識である。幾何学者が一個の三角形を想像しながら、これを以て凡ての三角形の代表と為すように、概念の代表的要素なる者も現前においては一種の感情にすぎないのである。」(同14ページ)
これも「感情にすぎないのである」というのは、「感情は現在の経験であるから、したがって純粋経験である」ということを暗黙に主張している。 通常は抽象概念を想起することは経験ではなく思考であると思われるのであろうが、西田は想起内容を経験するという意味で、抽象概念も経験と見なしている。そして抽象概念であろうと何らかの心像があり、その心像を経験しているだから、純粋経験であると言いたいのだろう。
(4)純粋経験は単純か複雑か 「(純粋経験は)これを単一なる要素に分析できるとかいう点より見れば、複雑といってもよかろう。しかし、純粋経験は如何に複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。」(同15ページ) これは音楽の鑑賞を例にして考えれば分かりやすいと思う。ひとつの曲は色々な音からなり複雑であるが、リズムとメロディーという全体のまとまりがあり、一曲が「一事実」である。だから音楽の鑑賞という経験は純粋経験なのである。つまり、曲は物理的には色々な音の集まりで複雑なのであるが、リズムとメロディーにのるという経験は一事実の経験であり、したがって、それは純粋経験なのである。 したがって「純粋経験は単純か複雑か」の答えは、「純粋経験は複雑であるが、ひとまとまりの一事実である」という結論である。 (5)純粋経験の時間の範囲はどれだけか 純粋経験は瞬間的なのか長時間でも良いのかということに関し、西田は瞬間的経験の場合もあるし、山登りのように長時間の場合もあると答えている。 音楽の鑑賞の場合のようにリズムとメロディーにのり、主客合一している場合も純粋経験であるし、山登りの場合のように、夢中になって断崖をよじ登る場合も主客合一で純粋経験である。瞬間的経験も純粋経験である場合もある。複雑という点からすれば長時間の経験も複雑であるが、瞬間的経験もさらに分析すれば複雑であり、複雑さは相対的なものであり、それが純粋経験とそうでない経験に区別する尺度にはならない。 結論は純粋経験に時間の制限はないということであり、瞬間的なものもあれば数十年の場合も考えられる。 |





