科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

宗教論

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愛と執着

愛と執着
(1)はじめに
 私は、まだキリスト教や仏教・神道をきちんと学んではいないのだが、それは今後の課題として、自分の心を探求・認識した結果、独自の「執着」観、「愛」観を持っている。そこで本記事では、自己を失うこと、つまり自己の低次の欲求の満足を断念すること、つまり執着を断つことによって、他人との相互の心の共有をして互いに幸福を願い合うこと、つまり愛がえられること、そしてこれは真の幸福が得られることであることを説明しよう。これを簡潔に表現すれば、「愛とは失うことによって得ることである」と言える。
 
(2)執着

イメージ 1

上の図は個人の目的―手段の体系であるが、赤い部分はその下位の部分体系であり、それが執着で、例えば名誉欲・金銭欲・性欲のどれかひとつであり、それだけが心の全領域を占め、心の動く範囲、つまり思う範囲が限定されている状態が執着である。


 執着の在り方にも入りいろいろあるが、特に「良くない執着」は自分のためだけを考えるように心が限定され、他人を害してでも自分の利益を得るという執着である。ただし、自分のためだけを思う利己的執着を克服して日本のために奉仕する精神を鍛え上げたとしても、日本が他国を害してでも自国の利益を得るという国家エゴに奉仕するならば、これも執着と言える。


 しかし、本記事では主に利己的執着、自分のためだけを思う執着を問題にしたい。利己的執着に陥っている状態は、自分のことばかりを考えるので、心の中に他人が居ないので孤独である。そして、他人の心を感じ取る能力が欠けるので、人間不信になる。そうすると信用できるのは、金と名誉だけになり、そうして金と名誉に執着することになる。


 ただし、孤独には利己的になることによる孤独ではなく、哲学的に真理を探究するために内省的に沈思する孤独もある。この孤独は、人並み外れて深く考えるので、その思考が他人と共有できないことによる孤独である。しかし、この思考は普遍的なのであり、本質的認識であるから、このときの観念が展開して広がれば、多くの人との真理の共有になる潜在的可能性がある。


 これに反して利己的孤独は、自分の個別的欲求を満足するためだけに執着する孤独なので、そのときの観念は発展して他人との共有になる潜在可能性は無い。


 


(3)執着を断つ=自己否定


  そこで、執着を克服するには「執着を断つ」ということをしなければならない。これは浅い自己を否定して深い自己を引き出し顕在化する意識の運動である。


 これを理解するには、そもそも個人の意志というものは宇宙に存在する根源的唯一の意志が次々と分化し、その末端が人間個人の意志となっているということを理解しないといけない。そうすると、今の自分の意志は上位の意志から分かれてきたものであるから、その上位の意志を自分のものとするために、現状の意志、表面的自己を否定し、その上位の意志が現れるようにしなければならないことが理解できる。簡単に言えば、全ては宇宙の根源意志が分かれてきたものであるから、それを自己から出発し、自己の意志を源流にさかのぼれば唯一の根源的意志に近づくことが分かる。


 自己否定とは、欲求をしている執着を抑え込むことではない。その欲求が何のためにそれを欲求しているかを反省し洞察し、上位の欲求を自覚にもたらすことである。


 例えば、名誉欲に振り回されている場合、この名誉欲を満足して何を得ようとしているかを反省することである。すると名誉欲とは他人から賞賛され、人に好意をもらえるようにしたいということであろう。そうすると、本当に願っていることは、他人と心を共有して互いに幸福を願い合う関係になりたいということであろう。すると、その欲求は名誉を得ることによってではなく、他人と本音で語り合い、承認し合う関係になること、つまり愛を与え合う関係になることによって満足できるということが分かるだろう。しかもその状態に到達するのは、他人を自分の思っていることに関心を持ってもらうように操作することによってではなく、自分が他人の思っていることに関心を持つことによる方が容易であることも分かるだろう。


 執着を断つという自己否定は、決して自己を押しつぶすことではなく、思える範囲を限定しているものを否定するという自己限定の否定である。そうして思える範囲を広くすることである。


 


(4)愛=自我の普遍化


 執着を断つという自己限定を否定することは、深い自己を顕在化させることであり、それは一歩宇宙の根源意志に近づいたことになるのであり、それは思うことが「自分のため」だけから一段「みんなのため」と普遍化することである。これを私は自我の普遍化と呼んでいる。自我の普遍化とはみんなのためを思うことであるから、それは「愛」を思えるようにすることともいえる。
  自我の普遍化は、執着による自己限定を外した分、思える範囲が広がるので、他人と同じことを思うのが容易になり、他人との心の共有がやりやすくなる。



(5)失うことによって得る


 結局低次の欲望を主体として、何かを得ようとしても得られることなく苦しむのであるが、その得ることを断念すること、つまり得たいというものを失うことによって、執着を断って、高次の欲望つまり、「みんなのため」を思えるようになり、他人と互いに心を共有し互いの幸福を願い合うことという幸福を得ることができる。


 しかし、人間にとって自己否定することによって得られた高次の自己が最高の財産なのである。高次の自己は万人が得ようと欲するに値する最高の財宝である。高次の自己を得ることは、視点が個人に縛られている状態から解放され、普遍的見地で物事を認識できる境地であり、これは最高の財産である。これは己を失うことにより最高の自己を得ると表現できる。


 


(6)結論


 「愛を実現する」とは低次の欲求の満足を断念することによって、高次の欲求の対象を得ることである。得られる最高の財産とは高次の自己であり、それは「みんなのため」を思える自己であるだけでなく、他人と心を共有できる自己であり、普遍的認識の主体である。




科学的真理と宗教的真理の分裂
(1)はじめに
 真理は一つに違いないという立場からすれば、科学的真理と宗教的真理は分裂している。
 科学的真理の常識からすれば、宇宙は素粒子が運動しているのが全てであり、素粒子が集まって原子ができ、原子・分子が偶然集まって生物が出現し、生物が次々と偶然進化して知的生命体である人間が登場したのであると考える。そういう世界観が科学的世界観である。神や霊はどこにも登場しないのである。ただし、物理の究極法則を神の意志と呼ぶ物理学者もいるが。そして科学的真理とは論理的辻褄が合い、しかも実験で実証されたものだけが、世界中に通用する。
 一方、宗教や神秘主義では、人間とは肉体に魂が宿っていると考える。人間は神によって創造された被造物と考える。決して人間は偶然出現した存在ではないとされる。そして、真理とは特別な神秘能力を持った教祖が神から啓示を授けられたものであり、それを貴重なものとされ信者から信仰される。そして、それを布教することは価値あることとされる。そして真理か否かを実験で実証するという発想は宗教には無い。
 そこで分裂の様相をまとめると、科学は唯物論であり、実証精神がある。宗教は神や霊の存在を認めるが実証精神は無い。これが科学的真理と宗教的真理の分裂の本質である。
 そこで、この分裂を克服するのが現代思想の最大の課題であり、現代文明の最大の課題であると思っているが、私は神や霊の存在を認めるが実証精神を持つという立場でその克服を目指したい。
 
(2)科学からの視点
 そうはいっても、科学の立場からすれば、その両者の分裂というのは意識されず、実証精神で真理と確立されたものだけが真理であり、宗教は頭の悪い人たちが実証されていないものを信じている迷信であるとされる。その証拠に、何が真理かは宗教によって区々なのである。真理は一つであるとする信念からすれば、宗教が真理であるならば、科学のように誰が考えたり実験したりしても唯一の真理に辿り着くはずであるが、宗教はキリスト教やイスラム教・仏教と主張する真理が異なるのである。だから、宗教は思い込みと見なされるのである。
 
(3)科学の限界
 しかし、宗教的真理を否定しきって、科学的真理だけでどこまでも行くとするならば、生物は分子が集まってできた、化学反応の工場と見なされ、分子が機械的に運動しているだけの物体と見なされる。自由意志は錯覚というのである。分子が物理の法則にしたがって運動しているだけであると見なされる。それは人間も例外ではなく、人間が水が飲みたいと思って水を飲んだとしても、そこに欲求や意志というものが表面的には有るように思われるかもしれないが、それはプログラムされたロボットのように、機械的に運動しているだけであると見なされる。科学的真理で人間を認識するならば、人間も分子でできた機械であり、自由意志の無い、自己保存がブログラムされたロボットということになる。つまり人間は、喉が渇くと水を飲むように自己保存がプログラムされているロボットであるというのである。
 このように、科学的に人間を認識すると善悪の判断は出来なくなる。道徳は解体されるしかない。国家の統治もロボットの管理ということになる。科学は心とは脳という機械の産物とみなすが、愛や善を良いものであるという認識にも決して辿り着かない。煩悩の克服という発想も出てこない。自分には自己保存がプログラムされているから、自己保存のために他人を害して何が悪いという見解が必然的結果である。
 このように科学的真理一本やりでは、善悪・道徳は出てこないのである。これは科学の限界である。
 
(4)宗教の限界
 おかしな宗教もあるのだが、優れた宗教は信者の人格を鍛える。深く内省するのを促し、克己心を鍛え、煩悩を克服し、自我我欲を滅却し、社会への奉仕の心を養う。善の方角も指示し、思いやりの心の価値も教える。
 しかし、神や霊が存在するとしても、それは特別な人にしか認識できず、しかも実証精神が欠如しているのである。
 人間を肉体に霊が宿っている存在であると主張し、生きているとは肉体に霊が入っている状態であり、死んでいる状態とは肉体から霊が抜けた状態であり、霊が肉体から抜けると、霊は肉体を動かせなくなるという。しかし、霊が肉体に入るとはどういうことであり、どうやって霊は肉体を動かすのかそのメカニズムを解明しようとはしない。
 何よりも宗教は実証精神が欠如しているのが最大の欠点である。
 
(5)唯物科学を乗り越える
 現代の科学は唯物論であるが、それがそうなってしまっている原因は物理の基本方程式にある。古典物理では、それはニュートンの運動方程式である。ma=F(慣性質量(m)×加速度(a)=力(F)である。何かが存在するとするならば、それは他の物体に力を及ぼすはずであり、何ら物体の加速度に影響を与ええないものは存在しないとされるのである。それで意識はどうなのだろうかと考えると、意識が物体に直に影響を及ぼすことはまだ実証されていないのである。意志の存在さえ実証されていないのである。そういうことで、意識や意志は現代唯物科学では無いということにされているのである。
 しかし、これはおかしな話である。物体の運動をうんぬんしているということ自体が意識があってはじめてできることであり、唯物論を信じている本人でさえ物を認識している意識を間違いなく持っているのである。物が唯物論者の意識に映っているのだから意識の存在は自明である。唯物論はナンセンスである。
 したがって意識は確実に存在しているのだから、物体が加速度運動をしたとき何らかの力が働いたものと物理学では考えるように、意識の変化が引き起こされたとき何か他の意識が作用したと考えて意識の力学を構築しようと思っている。
 例えば読者はこの文章を読んで意識が変化する。この文字は単なるインクのシミではなく、日本語を読める読者にとっては、このインクのシミである文字は意味を持っている。文字を読むというのは単なる物理現象ではなく意識現象である。単にインクのシミが知覚されたという意味以上の意味を持っている。つまり、読者の意識を秩序的な変化を促進される場合、背後に他の意識が存在することが推測される。人間間の意識の相互作用は、単なる五感に映った物理的刺激の相互作用ではない。意識と意識の相互作用である。
 現在は先ず意識の中の意志に着目し、人格を意志の体系とみなし、上位の意志が下位の意志を統御するメカニズムを解明しようと思っている。例えば「食べる」という意志はそれ自体では実現できず、その下位に「噛む」と「飲み込む」という意志を統御して実現される。つまり「食べる」という意志が「噛む」という意志と「飲み込む」という意志をうまい具合に統御して、自分を実現している。この要素の力学が、古典物理のニュートンの運動方程式対応する、意志の作用の法則ではないかと思っている。
 そういう具合に意識の力学を構築していきたい。
 
(6)霊や神の研究
 霊や神の研究も意識の研究から導かれるものと思っている。
 霊とは心を肉体に結合する装置であり、心が肉体を統御するとき、その意志の体系全体が霊ではないかと思う。例えば意識が「食べる」と思ったとき、その意志が肉体の筋肉運動に作用する経路が霊の構造であると思う。
 そして人間を意志の体系と見なした場合、個人の意思の頂点を超えたより上位の意志が神であると思う。神にも階層があり、宇宙の根本意志が次々と分化し、神の階層ができるがある段階から人間になっていく。神の意志が一段階分化する要素は「食べる」が「噛む」と「飲み込む」に分化する要素と同型だと思う。
 このように意志の力学が完成すれば霊や神の研究も進むと思う。
 
(7)まとめ
 科学は唯物論で実証精神があり、宗教は霊や神を認めるが実証精神が無い。そこでその両者を統合するために、私は神や霊を認めるが実証精神を持つというスタンスを選択する。
 物理学では何らかの力学的力を及ぼしうるもののみを存在すると見なして唯物論に陥った。私は意識の変化を引き起こす場合は他の意識が作用したとして、そういう場合に意識が存在するとみなす。そういう視点から意識の力学を構築したい。
 それにはまず、たとえば「食べる」という上位の意志が「噛む」と「飲み込む」という下位の意志を統御するメカニズムを解明したい。これが上位の意志が下位の意志を統御する意志の力学の基本要素である。これの解明は古典物理のニュートンの運動方程式の発見に匹敵する。
 これができると霊や神の解明も進むと考えている。

信仰と愛

信仰と愛
(1)はじめに
 信仰も愛も宗教用語であり類似した概念と思われるかもしれないが、私の認識するところ、信仰と愛は対立する場合も多いと思っている。愛は自他融合の促進であるが、信仰が不純の場合は、それは自他分離を促進し、エゴイストを産む側面もある。そういうことを説明しよう。
 
(2)信仰の作用
 信仰というのは、ある場合は眼に見えない神と言われるのを信じて受け入れたり、場合によっては教祖の人格そのものを受け入れたり、そしてある世界観や価値観を受け入れることである。すると信仰が強くなればなるほど、それらを強く受け入れることになるが、それを受け入れていない非信仰の人との違いが際立ってくる。信者と非信者の間に対立が生じるのである。それは自他分離である。信者と非信者が分離・対立していくのである。すると客観的にはどうなるかというと信者はエゴイストになって行くのである。宗教のエゴが生じるのである。
 それは信仰に限らず、ある価値観を受け入れるときには必ず生じることである。ある価値観を確立して自己確信が強くなると、自分と異なる価値観を持つ人とは対立していくのである。それは思想運動の失敗の原因の本質である。つまり、ユートピアをある思想に基づいて建設しようとしても、その思想が他の思想と対立して、結局ユートピアではなく思想対立が生じるのである。これをどうすれば良いかは別の機会に考えよう。
 
(3)悪い信仰
 悪い信仰とは、信者と非信者を積極的に分離する信仰、たとえば信仰する人は神から特別に選ばれた人であるとかいう選民思想を強く主張する信仰である。すると信仰することによって、信仰者は信仰しない人に対して優越感を感じるのである。すると、信者と非信者の分離はますます強くなり、自団体の利益のみを追求するようになるのである。信仰が信者と非信者の間の線引きをするとその間に対立が生じるのである。
 
(4)好ましい信仰
 好ましい信仰は、信仰すればするほど自我が普遍化していく信仰である。「自我の普遍化」とは、「自分のため」が「みんなのため」と一致するように変化していくことである。普遍化するにしたがって「みんな」の意味が家族から会社、国家人類へとどんどん広がって行く。
 そして、選民思想の優越感と違って、優越感に自己満足を感じるのではなく、非信者の幸福に貢献することに満足を感じるのが正しい信仰である。たとえ能力に関して優れていても、人の役に立たない限り自分を優れているとは感じないのが自我の普遍化である。決して「みんな」とは同じ信仰をする人に限定されてはならない。
 
(5)信仰と愛
 信仰者は信仰すればするほどある価値観が固まり、かえって異なる価値観を持っている人を愛できなくなる傾向がある。だから、信仰すればするほど、自分の愛を強くするように意図的に努力しなければならない。それを意志することによって、信仰が無私に繫がる方向に純化されていく。信仰は意図的に純化しようとしない限り、エゴイストになっていく不純さを含んでいる。自己満足のための信仰は出来るだけ早く卒業して、他人の幸福に貢献して初めて満足できるような信仰にならなければならない。
 つまり信仰すればするほど非信者に合わすのが苦痛になっていく。だからと言って、他人に合うわすのを怠けると、エゴイストになってしまう。しかし、最初から信仰しないのが望ましいのかというとそういうものでもない。信仰と愛は低次元では対立するけれど、高次元では補い合い両者が揃って魂の進化に大きく貢献するのである。
 
(6)「自己発見―自己実現理論」との関係
 私の「自己発見−自己実現理論」に「信仰」と「愛」を関連付けると、「信仰」は「自己発見」に対応し「愛」は「自己実現」に対応する。信仰は自分の人生の目的を左右するし、深い自己の発見を促進してこそ真の信仰である。一般に自己発見は他人と異なる固有の自己の発見であり、他人との違いを強調し強くする。したがって、自他融合である愛の反対であり、自他分離を促進するのである。
愛は自他融合の促進であり、決して単に相手の言いなりになるのではなく、心を合わし融合すること、つまり愛の対象の幸福を自己の幸福と感じ、愛の対象の不幸を自己の不幸と感じることが真の愛である。それは自己発見の自他分離とは逆向きのベクトルである。
しかし、「信仰=自己発見」と「愛=自己実現」という逆向きのベクトルを高次元で融合することが魂の進化に極めて貢献するのである。そのとき信仰も愛も高度に純化されるのである。
一般に人生において、対立するものをどう融合していくかということが重要な課題であることは多い。信仰と愛の対立、自己発見と自己実現の対立を融合していくことは人生において重要な課題である。
 
(7)まとめ
 信仰は自他分離(信者と非信者の間の分離)を促進し、愛は自他融合を促進し、相反する。しかし低次元で相反する両者を高次で融合するとき、信仰も愛も純化されて理想的な人格になる。

信仰の効能

信仰の効能
(1)はじめに
 これまでの私の持論は「神は認識するものであって信仰するものではない。」であったが、最近は人の人格が良く見えるようになって、やはり万人に神を認識するのを要求するのは無理だと分かってきた。
 ヘーゲルの言う通り、神を学的に認識するのは哲学者という一部の人間であり、万人にとっての真理は宗教であり、それは信仰によって真理を得るのである。どうも多くの人には哲学を理解するほどの意識の認識力が欠けているようであり、そういう場合は信仰で以て魂の進化を促進するしかないのかなという感じがしてきた。
 しかし、世の中には邪教というものがあって、信仰で魂の進化が阻害されることもあるようである。そこで、信仰の長所、短所、それはつまり魂の進化を促進する信仰と、魂の進化を阻害する信仰があると思っているので、その信仰の形態を説明しよう。
 
(2)ご利益信仰
 まず最初に、魂の進化を阻害する信仰として、「ご利益信仰」をあげよう。
 先ずは少年少女にとって、重要に思われる学業成績であるが、「できるだけ勉強せずに成績が上がりますように」とか「楽して良い大学に入れますように」とか、就職においては、「楽して良い会社に入って、楽して高給取りになれますように」とか、ともかく努力を省いて良い結果を得ようと信心するのは、魂の進化を促進しないので、それはアウトである。
 自分のことではなく、「家族全員が健康でありますように」とか「自分が仕事で世の中に貢献できますように」だとか「日本が平和でありますように」とか「誰それの病気が治りますように」とかいうのは、他人を思いやるように心が普遍化する場合、それは魂の進化に貢献するので良い信仰である。
 
(3)我欲の克服
 信仰や道徳の典型は「我欲を棄てなさい」という命令であろう。それは厳密に言えば、「他人を思いやりなさい」ということである。それの真意は「自分は不幸になっても、他人の幸福を優先しなさい」ではない。「他人の幸・不幸を自分の幸・不幸のように感じなさい」である。つまり、他人の幸福を自分の幸福のように感じ、他人の不幸を自分の不幸のように感じるように、自我を鍛えることを要求しているのである。そういう我欲の克服には信仰が役立つのかなと思っている。
 我欲を満足させると謳っている宗教もあるが、それは邪教である。それは魂の進化を促進しない。そうではなく、我欲・煩悩の克服を要求する宗教が正しい宗教であり、それは魂の進化を促進するからである。煩悩に振り回されているということは魂が劣っているということであり、煩悩を克服しているということが魂が優れているということである。魂の進化とは心の統御能力が高まるということであり、思考の力、感受性、意志の能力が高まるということである。
 
(4)勇気の源泉
 信仰が勇気の源、自信の源になることもある。
 これは「神よ、私はこう言うことを是非成し遂げたいので、私をお守りください」という祈りの場合である。こうして祈ることによって、神に守られていると信じることで自信が出てくる場合もある。
 スポーツや事業は結果を出すまで長期の努力を要して、最初から何から何まで合理的に見通すことは不可能であり、見通しの無い中、成功する自信を与えるのに信仰が大きく寄与をすることが多い。意志を強くするのに信仰が役立つのである。
スポーツで良く分かると思うが、自信の在る無しが、かなり大きく試合の結果に影響を及ぼす。実力で劣っても自信の差で、実力の無い方が勝つことも多い。事業でもそうである。自信を無くせば発想は貧困になり、守る一方になりがちであるが、才能が無くても自信を持てば、発想が豊かになり、攻めの事業を行えるようになる。自信の無い場合は事業を成し遂げ得る確信が無いので努力を躊躇するが、自信のある場合は努力を躊躇なく行うことができる。その結果、信仰している人の方が信仰していない人より成功する可能性が高くなる。
 
(5)信仰の効能のエッセンス
 信仰の効能のエッセンスは、深く自己を発見することである。自己認識が深まることである。正当な信仰は自己を最大の真面目にする。最大の真面目とは自己の深いところから浅いところまで筋の通った意志を通すことである。全ての行為、思考に一つの筋を通し貫くことである。そのとき、心の奥から流出する意志が表面まで顕在化し、同時に未開拓だった深い心が自己の意識の範囲に表出してくる。これが自己発見である。
浅い自己は自分のためだけを思うが、それより深いところでは家族のためを思う。そしてそれより深いところは会社のためを思うし、もっと深くなれば日本のためを思い、さらに深くなれば人類のためを思う。心は深くなればなるほど普遍化するのである。逆に言えば自分のためだけを思って信仰するご利益信仰は、全く自分を普遍化しないし、深い自己発見も引き起こさないので、魂の進化に寄与しないので、駄目なのであるのは自明なのである。
 
(6)教祖の信仰
 教祖を生き神様として信仰させる宗教もあるが、私は何を信仰するかは本質では無いと思っている。問題は自己発見が深くなるかそうではないかである。自己認識が深くなるかそうではないかである。信者が眼に見えない神を信仰するのが困難な場合、眼に見える教祖を生き神様と信仰することもありかなと思うが、確かにそういう宗教はレベルが低いかもしれない。
 でも人間にとって本質的な神は自己の最奥に存在し、本来信仰すべきは真の自己なのである。他人を信仰するのはおかしなことである。だから、もし教祖を信仰するなら、教祖は人類の理想の人格者でなければならない。人類のモデルでなければならない。そうでない、人格の劣った教祖を信仰すると、信者の人格も劣化してしまうであろう。教祖に名誉欲、地位欲、金銭欲、性欲の煩悩があるかどうかは重要なチェックポイントである。そういう教祖は多いように思う。本当に信者の幸福を願っているかどうかは厳しくチェックする必要がある。信者を金集めの道具にしている宗教は多いのではないだろうか。
 
(7)思想としての宗教
 教祖を信仰する欠点は、宗教が思想にならず、教祖の独断で全てが決定することである。宗教を後々まで伝えるためには、宗教は思想運動でなければならない。教祖もその思想に則って教団を運営しなければならない。こうすれば人々の魂は進化するという思想があって、それを広めることが良いことである、というのがあって、実際にそれを実践し成果をだし、それが思想の真理であることの確信を強め、そしてさらに強力に思想を広めて行くというのが正しい宗教であろう。
 邪教というのは、教祖の煩悩の満足で、教団の運営が進められる。もし教祖が生き神様として信仰されたとしても、教祖が魂の進化のための思想に則って教団を運営すれば問題ないが、教祖が独断で教団を運営し信者を教団に奉仕させるならば、それは邪教であろう。なぜなら、それは魂の進化のためという思想を実践せずに、教祖の我欲で運営しているからである。つまり、本気で信者の魂の進化を願っていないのである。だから邪教なのである。
 
(8)要点
 宗教は魂の進化のためにはこうすれば良いという思想を持ち、それを実践することに意義がある。魂の進化に寄与しない宗教あるいは信仰は邪教である。魂の進化の判断基準は自己認識が深まるかどうかである。自我が普遍化するかどうかである。
 一言付け加えれば、信仰無くして魂の進化を促進できれば信仰は不要なのである。あるいは真の自己は宇宙の本体として、真の自己である宇宙の意志を信仰するのが本物の信仰であると私は思っている。

追加解説
 「自我の普遍化」とは「みんなのため」と思うようになってくることである。この「みんな」が、家族から会社へさらに日本、世界へと拡大するのが普遍化の進展である。反対に自分のためだけを考えることを「個別への固執」という。

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