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内向型と外向型 (1)はじめに ユングの「タイプ論」の序論を読んだ。要は人間の性格には内向型と外向型の二つのタイプがあるということである。 その考えを、私の認識している人間の意識の運動と照らし合わせて考察してみた。 (2)内向型 内向型の在り方は先ず次のように説明されている。 「他方(内向型)には、関心の向きが客体から離れて主体へと、つまり主体自身の心理過程へと向かう場合がある」(「タイプ論」〈みすず書房〉林道義訳:11ページ) この観点からすると私自身が内向型的側面があるのは事実である。というのは学生時代物理を勉強していたのであるが、その数学を扱うとき数学に没頭するのではなく、数学を思考する自分自身の意識の反省へと関心が移って行ったのである。つまり数学をするだけではなく、数学をする自分の心理過程に関心を持ったのである。基本的に自分自身の意識へと関心が向うのが内向型の性格であろう。 次の説明もある。 「(内向型の場合は)客体が何らかの意味で強い影響力を持つことをつねに妨げているように見える」(同:11ページ) これも実感として私に当てはまる。それぞれバラバラな現象が私の意識に与えられると、異物感を感じて苦痛を感じるのである。例えば電気ストーブと扇風機があるとして、それをそのまま受け入れるのは「メカニズムが分からない」ので苦痛なのである。そこで物理を勉強して、電磁気学や熱力学を勉強して、電場・磁場・原子・電荷などをの概念を用いて両者を統一的に認識して安心するのである。 同じように、心理現象も社会現象も政治現象も経済現象もバラバラに意識に表われるのは苦痛なのである。一般に多様な現象を、原理から演繹して統一的に理解することでその現象の自分への圧力を無力化できるのである。 多様な現象を多様なままで放置しないで、原理から出発して統一的に認識したいという衝動が、私の真理の探究の原動力である。統一的に認識するまでは現象が意味も分からずに私に影響を及ぼしているように圧迫感を感じるのである。原理から統一的に諸現象を認識して、初めて諸現象を自分に統合出来たように感じて、自分に親和的になり異物感が無くなるのである。そうすることで、現象の自分に与える強制的影響力を解消できるのである。それは一切の現象についてである。 次もある。 「この立場(内向的な立場)はいかなる時でも自我や主観的心理的な事柄を客体や客観的な事柄よりも上に置こうとする」(同:12ページ) 私もそういう価値観を持っている。物質が人間を助けるのではなく、人間の主体、あるいは人間の精神こそが物質を支配すべきであり、物質より精神が価値があると思っている。通常はどうなのだろうか金銭や製品が崇拝されるかの如く価値を持っているのだろうか。自分の精神の価値よりも金銭や製品が価値を持っているのだろうか。私は金や製品よりも自分の精神の方が価値を持っていると強く感じている。 さらに次もある。 「客体はある主観的な内容の外面的客観的な印としてしか、たとえばある理念が具象化されたものとしてしか存在しない。つまりこの場合大事なのは理念なのである。」(同:12ページ) これは客体を客体のままとして認識するのではなく、客体を何らかの理念の具象化として捉える姿勢を言っている。私自身は素粒子でさえ一つの理念の具象化であり、犬や猫はそういう理念と素粒子の理念が結合してできた具象体だと思っている。犬や猫を見える通りに客体そのままとして受け入れるのではなく、理念の具象化として受け入れるのである。犬や猫を存在する通りに存在すると認識しているのではなく、その背後に犬や猫をそれたらしめている宇宙の意志を感じているのである。この意志が理念であり、犬や猫はその具象化である。 (3)外向型 外向型は先ず、「関心の向きが客体へと向かう」(同:11ページ)とある。私自身学生時代の前半は興味は主に物質にあったが、しかし先に言ったようにあらゆる諸現象をバラバラに理解するのではなく、法則を勉強して統一的に認識したい欲求があった。外向型というのはそうではなく、バラバラな客体の現象にそのまま関心を抱くことを言っているのであろう。そういう点、私は内向型かなと思う。 こうもある。 「(外向型の場合)客体は主体を主体自身にとってよそよそしいものにさえしてしまい」(同:11ページ) 私は学生時代の前半は関心が物質にのめり込んでいたからこの境地も分かる。つまり存在するのは物質であるとして、物質ばかりを認識しているので、自分の意識の存在感は薄いが妙なものと感じられていたのである。意識は脳が産みだすのだろうが何か物質とは異質な感じがしてよそよそしいものと感じられたのである。客体である物質になじむと、意識は異物でよそよそしく感じるのである。 これは内向型と反対である。 「客体が主体より高い意味を持っており」(同:11ページ) 私はそう思ったことは無い。 次もある。外向型の場合である。 「主観的な事柄はしばしば単に客観的な出来事を妨害する余計な添え物としか思われないのである。」(同:12ページ) これはこう言う心境であろう。存在するのは物質であり、主観である意識は客体である物質に偶然付随した添え物にすぎない。人間の思いは所詮主観にすぎない。意識は物質の海の表面の泡のような存在にすぎないという心境であろう。本来あるものは客体である物質であり、それが本筋であり、主観である意識は余計なものであるという感じ方であろう。それは現代科学の宇宙観である。宇宙に本来あるべきは物質であり、意識を持つ人間は物質宇宙にとって異物なのである。 (4)プラトンとアリストテレス 序論の最初にハイネの「ドイツ」が次のように引用されている。 「プラトンとアリストテレス!これは単に二つの体系であるにとどまらず、むしろはるか昔からあらゆる衣装をまとって多少とも敵意を持って対立してきた二つの異なる人間性のタイプでもある。・・・(省略)・・・。夢想的で神秘的なプラトン的性格の持ち主は、彼の気質の深淵から、キリスト教の理念やそれに対応するシンボルを取り出してこれを呈示する。実際的で整理好きなアリストテレス的性質の持ち主は、プラトン的な人々が呈示した理念やシンボルを使って、強固な体系、教義学や儀式を構築する。」(同:9ページ)
ユングはこれについて解説していないが、単純に今まで述べた内向型・外向型に当てはめて考えるとプラトンが内向型の代表であり、アリストテレスが外向型の代表と考えていると思われる。 プラトンは理念を捉えること、つまりイデア論を構築して満足したが、その弟子であるアリストテレスは、謙虚にプラトンのイデア論を学んだうえで、それを土台に質料と形相の結合理論を構築して世界を解釈した。アリストテレスはプラトンの到達した理念を携えて、外界の認識に突き進んで膨大な学問を構築したのである。 しかし、通常は外向型はあまり理念を捉えようとはしないであろう。しかし、アリストテレスはプラトンからイデア論を学んで、それからあとはそれを携えて外界の客体の認識に向かっている。理念を熟知しているという点で、アリストテレスは内向型の長所を含み持った外向型であると思う。 私自身はプラトンよりもアリストテレスに魅かれる。というのは、私にとっての理念は「宇宙の進化する意志」であるが、プラトンのように理念を認識して終りではなく、この理念を展開して、あらゆる現象を捉える理論を構築したいのである。物理学、生物学、心理学、政治学、経済学、哲学などを唯一の理念としての宇宙の進化する意志の展開として説明したいのである。その点はアリストテレスに近いのではないかと思っている。 (5)自己発見と自己実現 私は「自己発見」と「自己実現」を奨励している。これを内向型・外向型と比較すると「自己発見」は理念の発見のことであり、これは内向型に対応する。「自己実現」は理念の外への展開であり、これは外向型に対応する。 すると「自己発見―自己実現」理論は内向型と外向型を交互に繰り返すのを理想とすることになる。 私自身はではどうなのかというと、私の理念である「宇宙の進化する意志」を発見するまでは主に内向型が優勢であったと思う。そしてその後はその理念の展開であるので徐々に外向型にシフトしていると言える。これからはさらに外向型になっていくと予想している。そういう意味でも私はアリストテレスに親和性がある。 ユングは内向型か外向型なのかは強く固定的に捉えているようであるが、それは一方に偏るのではなく、より内側へ、且つより外側へと両者を両立させるのが人間の理想ではないかと私は思っている。つまり徹底的に内向的になると同時に徹底的に外向的になるのが、人間の理想ではないかと思っている。 |
ユング
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