科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

経済

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実相経済学における歴史観の比較考察
(1)はじめに
 実相経済学は、人類の未来を切り開くための理論であるが、それは歴史とは何かという問題意識も含み持っている。それについては、歴史の究極目的は何かという問題意識と、歴史の主体は何かという問題意識が重要である。その二点について、機械的唯物論、ヘーゲル歴史哲学、マルクスの唯物史観、実相経済学のそれぞれについて説明しよう。
 
(2)機械的唯物論
 機械的唯物論では、歴史には目的はなく、人間といえども物体としての原子の集まりに過ぎなく、自由意志は錯覚であり、人間の意志も物理の法則に基づく、機械的因果で決定するのであり、生命の進化は目的ではなく、結果であり、物体が引力に引かれて落下した現象と本質的違いはないと考える。すべては物理の法則に従って、機械的因果で運動していくだけである。
 歴史の主体は物理の法則である。これが未来を決定する。
 
(3)ヘーゲル歴史哲学
 ヘーゲルの歴史哲学では、歴史の究極目的は自由の実現である。ここで、ヘーゲルのいう自由は、生理的欲求に束縛される自由ではない。生理的欲求を克服して高度に観念的になるのが自由である。ヘーゲルは宇宙の理性を神だと思っているので、理性が地上に出現して、人間が理性的になるのを歴史の発展だと考えている。つまり、歴史は理性の自己実現である。この理性の自己実現の形式が弁証法的発展なのである。
 では人間の努力の余地はあるのかというと、ヘーゲルは、人間は理性という神に操られていると考える決定論である。世界史に登場した偉大な思想家や政治家、発明家は、主観的には努力したのであろうが、客観的には宇宙の理性に操られたにすぎず、歴史は最初から決定していたと考える。つまり、ヘーゲルの歴史哲学では歴史の主体は宇宙の理性である。
 そうだからこそ、ヘーゲルの歴史哲学は理性という神がいかに自由を実現したかを解釈するだけで、未来を切り開く現実変革の理論にはならなかった点、マルクスに批判されたのである。
(4)マルクスの唯物史観
 唯物史観では、歴史を決定づけるのは生産手段と考える。狩猟・採取が生産手段の時は階級はなかったが、農業が生産手段になると階級ができた。マルクスは歴史とは階級闘争の歴史であると規定して、人類前史の歴史の目的は階級の解消であると考えた。その後が理想の無階級で平等な共産社会である。
 唯物史観では、哲学・思想も生産手段が何であるかによって決定されると考え、そこには自由な思考があるとは考えない。
 そして、個人には歴史の方向を変える余地はあるかというと、共産制の実現は歴史的必然であり、歴史の英雄とは自力で歴史を左右した人物ではなく、歴史の進歩方向を見抜いてその実現を促した人であると考える。歴史の流れに逆行する人を反動と呼ぶ。唯物史観もヘーゲルと同じく決定論で個人の努力は重視しない。
 
(5)実相経済学
 実相経済学における歴史の究極目的は、和の理念の完全な実現である。和の理念とは万人が万人の思考を理解し合って思考の対立がなく、万人が万人を許し受容し合い、愛し合い、万人に欲求に対立がなく生かし合うという状態である。これは和の理念という実相が顕現しようと個人に圧力をかけ、歴史はその実相顕現の過程であると考える。
 歴史の究極主体は神である実相であり、和の理念であるが、それを地上でどれだけキャッチできるかは個人の努力に依存する。歴史を決定的と考えるのではなく、個人の努力によって左右されると考える。個人の努力とは、思考においてはより客観的に考えようとする努力であり、感情においては、他人を許し受容し愛しようとする努力であり、欲求においては、他人との欲求を対立しなくなるように、自分のより深い欲求を発見する努力であり、総じて我執を離れる努力である。そして人類をどうしたらよくできるかという思想や、人間関係、社会制度などは実相をより多く受け取れれば、良いものができてくると考える。物質経済も実相の量が多ければより発展すると考える。
 
 
(6)実相経済学の問題意識
 実相経済学を案出するにあたって、人間とは何か、心とは何かを非常に深く考えてきた。そしてどういうときに人間は幸福なのかというと、我執を離れて、より客観的に考えることができ、多くの人の幸福を願っているときであり、つまりより実相を多く受け取ったときであると結論した。自分さえよければ他人はどうでもよいというエゴがあるときは、不幸なのである。不幸な時は他人を不幸にしたくなり、不幸の拡大再生産が生じる。
 しかし、近代資本主義は、金銭的富を増やすのが目的になっていて、いくら金持ちになっても心は空虚であるという状態になっている。そもそも儲けることばかりを考えて、人間とはそもそも何かを客観的に考えず、自分の儲けのことばかりを考えて隣人や社会や人類のために何をしようかとも考えない人が多すぎる。つまり知恵や愛や生命の供給が欠乏している状態であり、心が満たされることがない。
 つまり、実相経済学の目的は人類を経済奴隷から解放することであり、心豊かに生きれるようにすることである。その問題意識はある程度マルクス主義と同じである。マルクス主義も労働者を資本家の搾取体制からの解放を目指した。しかし、その手段は怒りであり、闘争であるので、それはエゴであり、実相の供給が阻害されるので、建設的で創造的アイデアは湧いてこなくなるので結果としては破壊で終わるし、歴史的にもそれは実証されている。
 実相経済学は人類を経済奴隷から解放を目的とするのであるが、その手段は闘争ではなく、創造的知識と愛と奉仕の精神を以てである。

凡人の悟り

凡人の悟り
(1)はじめに
 「実相経済学」という記事を書いたが、実相経済学の目指すものは、「凡人としての幸福の増大」であるという非常に重要なことを解説したい。そしてそのために不可欠なことが「凡人の悟り」であり、それは自分が一生地位も名誉も財産もなくても凡人として、一家団欒で和気あいあいと幸福に暮らせたなら、それで満足だと死ねるという境地である。そして非凡な才能、非凡な努力、非凡な業績の究極目的は、多くの人の凡人としての幸福の増大であると言いたいのである。これを解説しよう。
 
(2)優越感の獲得を追求しているうちは、愛を知らない
 優越感を感じたいということは、自分と他人を区別して、自分は他人より上でないと気が済まないということであり、それは自他の心が分離しているということであり、他人との心の一体感がないということ、つまり愛を知らないということなのである。
 
(3)他人と親密になれたときが人生の本当の成功である
 多くの人は仕事で大きな業績を上げたり、金持ちになったりしたときに、優越感を獲得できたときが人生の成功だと思っているが、それは他人とまだ心がつながっていないので、常に失敗したとき人から見放されるのではないかと不安であり、成功に執着する。人は優越感を追及しているうちは本当の幸福にはなれない。それはいかに地位と名誉と財産を獲得してもである。
 幸福とはそうではなく、他人に心を開き、それに相手が応えてくれて、心が通じ合い、信頼し合え、絆を結べたときに、本当の幸福を感じる。これが愛なのである。いくら金持ちになり、地位と名誉を得ても心が孤独ならばそれは全く幸福ではない。
 人生で追及すべきは優越感ではなく、親密さである。
 
(4)目指すべきは凡人としての幸福
 人間社会の単位は家庭であるので、家庭での一家団欒和気あいあいとした幸福が最高の幸福であり、目指すべきはそれである。しかし、実はそれが最も困難なのである。
 宗教家や教育者には外面がよく、外からは人格者とみなされているが、家庭の中では全くそうでない人が多いものである。外では表面的意識をコントロールすれば人格者として振舞えるが、家庭の中では本音が出るので、家庭の中で人格者として振舞うには本音からコントロールしなければならない。つまり、外で成功するには、心の表面をコントロールすればよいが、家庭で成功するには、心の深いところまでコントロールしなければならないので、外での成功より家庭での成功の方が困難なのである。
 要するに外で非凡な業績を上げるよりも、家庭で凡人としての幸福を得る方が困難で、その方が非凡な才能と非凡な努力が要求されるのである。
 
(5)非凡な業績の究極目的は多くの人の凡人としての幸福
 政治や科学や経済、学問、文化など一切の非凡な業績の究極目的は、凡人としての幸福の増大であるということは押さえていておいてほしい。非凡さそれ自体は価値がないのである。非凡さに価値があると思っているのは優越感を追及しているからであり、それは愛を知らないからであり、増大すべきは凡人としての幸福なのであり、それは心の通じあう愛なのである。
 
(6)先ずは凡人としての幸福を感じること
 世の中に大きく貢献しようとしている多くの人は、非凡な才能を持ち非凡な努力をしていて、大変苦労しているのはわかるが、それ故に自分が凡人であることには我慢ができず、その結果凡人を見下す傾向にある。しかし、それでは凡人と心底から心の交流することが不可能であり、その結果凡人の心がわからない。すると、結果として独りよがりになり、世の中に本当に貢献することができない。
 凡人の気持ちが本当にわかるには自分が一生地位も名誉も財産がなくとも凡人としての幸福があれば満足して死ねるという境地になり、その時に初めて凡人と心が通じ合うことができる。そしてその凡人としての幸福の増大のために非凡な才能と非凡な努力を発揮したとき、真に世のなかに貢献できる。
 
(7)凡人の悟り
 凡人の悟りの境地とは、凡人である自分が真の自分であり、非凡な才能は、他人も自分と同じく凡人としての幸福を経験させるために使う自分の特殊な状態であるという境地である。非凡な才能を発揮して優越感を感じているときは、人からどう見られるかばかりが気になって、人が見えず、独りよがりになってしまって、本当の人々の幸福には貢献できない。
 
(8)現代社会の価値観のおかしさ
 現代社会は科学が進歩し、経済の成長を追求するが、本当の幸福というものを知らない人が多すぎる。愛が本当の幸福であるにもかかわらず、本当の愛を追求せずに地位・名誉・財産ばかりを追求している。私はそれを道徳的に悪いからそう言っているのではなく、そういうものをいくら追及しても本当の幸福にならないことを知っているからそう言っているのである。誰とも心を開いて分かり合えなかったならば、いくら地位・名誉・財産を得ても不毛である。
 
(9)結論
 凡人としての幸福の増大を目指すのが実相経済学の究極目的である。そのためには、非凡な才能を持つ人が凡人の悟りを得て非凡な努力をして非凡な業績を上げなければならない。

第一次実相経済学

第一次実相経済学
(1)はじめに
 より多くの実相の供給を受ける方法論が、第一次実相経済学であり、それを人を幸福に導く知識と、絆と健康と奉仕の精神に変換する方法が、第二次実相経済学であり、第一次の富と第二次の富を増加させるために貨幣や物的財産を産むのが第三次実相経済学であった。
 本稿では第一次実相経済学のアウトラインを解説する。
 
(2)実相を捉える基本的心の姿勢
 実相とは簡単に言えば神のことなのであるが、神に近づくには我執を離れなければならない。
 我執とは仏教でいえば「貪瞋痴」と呼ばれている。「貪瞋痴」が実相の反対である。「貪」とは我欲であり、他人を不幸に陥れてでも自分の欲求を満足したいという思いである。「瞋」とは自分の気に入らないことがあるとカーッと怒ることである。それは他人の欠点を見ては非難するような態度でもある。「痴」とは妄想というときついが、主観的思い込みのことである。真理を認識していない限りそれは主観的思い込みなのであり、完全に「痴」を離れるのは困難なことである。
 そして「貪」を克服するのがみんなのために奉仕の精神で生きることであり、「瞋」を克服するのが寛容な気持ちで人々を許し、愛で包むことであり、「痴」を克服するのが何事も客観的に認識することであり、それが外界だけでなく自分の心をどこまでも深く客観的に認識することである。つまり貪瞋痴を克服すればするほど実相に近づくのである。そこでその方法を一つ一つ説明しよう。
 
(3)神の無限の知恵に至る方法(ヘーゲルの方法)
 客観的認識というと唯物論的科学的方法を思う人も多いが、それは妄想である。物と心を包含する理論こそがより客観的理論である。そこまで行くのは大変なので、哲学で客観的真理に至る方法を確立したヘーゲルの方法を説明しよう。
 三次元空間に茶筒のような円筒形の物体があったとする。そこへ物を二次元的にしか認識できない異なる二人が、この茶筒を見たとする。一人は茶筒を上から見て茶筒は円形であるといい、もう一人は真横から見て茶筒は長方形であるといったとする。確かに二人とも言っていることは正しく、嘘は言っていない。しかし次元が低いので部分的真理でしかない。しかしもっと高次に三次元的にみると茶筒は円筒形であるというのが真理である。
 今は誰にでもわかるような事例で言ったが、他の物事でも多くの場合同様に高次の一つのものを低次で異なるように見て主張が対立しているのである。
 したがって、真理の認識のためにはどうすればよいのかというと、自分で真理はこうだという確信を持っているが、自分と異なることを真理を主張する人がいた場合、相手が間違っているといって対立するのではなく、自分の立場を離れ相手の立場にしっかりと立ち、その後自分の立場を回復し、相手の立場と自分の立場を同時に保持する苦痛な努力の中で、両者を整合的に両立する高次の立場を獲得することである。
 政治運動などは、ほとんど低次な一面的な立場同士の対立ばかりであり、物事を思索で解決することを知らない人ばかりである。
 物事の根本解決というのは、自分と対立する思想をやり込めることによってではなく、自分と対立する思想を自分が受け取り両者を自分の中で対立させるという葛藤を克服して高次の立場を発見してこそできるのである。
 このように自分と対立する思想に出会う度により高次な観点を発見していくことによって神の無限の知恵に近づいていく。つまり客観的に物事を認識できるようになる。
 
(4)神の無限の愛に至る方法
 神の無限の愛に至る方法は「守破離」で説明できると思う。
 「守破離」とは師弟関係の在り方であり、まずは師から型を学びそれを守ることで向上していくが、それがある程度できたならば、型を破っていくことである。そしてさらには型から自由になり型を離れることである。
 これを人間一般に当てはめれば、型とは道徳のことであり。人間はいかにあるべきかを子供の時に親から学ぶ。「人間はこうあるべき」言葉で言われたり、無言で押し付けられたりする。人間はまず「べき」をマスターして成長していく。
 しかし、この型が大人になったとき、人間関係をぎくしゃくさせる。というのは身に着けた道徳は人によってさまざまであり、人間はこうあらねばならないと自分はそう思って努力してきたのに、他の人はそうでないからである。自分の尺度に固執すると、自分が親の「べき」にかなっている場合は、自分が一番偉く他の人は劣っていると思って高慢になって非寛容になるかもしれないし、あるいは親から人間はこうあらねばならないと教えられたが、自分はそうではない場合は、劣等感を感じてしまうかもしれない。
 そこでやるべきはあ「守破離」の「破」である。切り替えは「べき」から「欲す」へである。自分はどうしたいか、何を欲しているかですることを決めていくのである。これは最初に「守」があって初めて有効である。最初から「欲す」で生きたら、不道徳な人間になってしまう。いろいろな「べき」を守って吸収して初めて,「欲す」に従ってよいのである。他人が自分の「べき」に反して「瞋」が生じたら、それは自分に「べき」があることなので、その「べき」を解除して欲すに従うのである。そうするとどんどん他人に寛容になり他人を受容できるようになり、人間関係がよくなっていく。
 そして「離」であるが、それは孔子の「己の欲するところに従いてノリを超えず」のような境地であり、型無し、つまり道徳無しでも道を外さない境地になり、融通無碍に他人を受容でき、しかも悪の誘惑には全く惑わされない境地になる。
 この時が神の無限の愛に近づいた時である。
 
(5)神の無限の生命に至る方法
 意志は精神的意志と生命意志があるが、生命意志がより根源的なので、意志の根源の至る方法を説明して、神の無限の生命に近づく方法としよう。
 意志は欲求から生じるので、より深い欲求を探求するのが、生命の根源に至る方法である。
 したがって、自己の内部で対立する欲求がある場合、どちらか一方を抑え込んで他方を優先するのではなく、両者に共通の根源的欲求を発見し、両者はそれから派生したものであるというものを発見するのがよい。
 そして欲求の場合も思考の視点と同じありかたが当てはまる。つまり、自分の欲求と他人の欲求が対立する場合、他人の欲求を否定して自分の欲求を押し通すのでもなく、他人の欲求を優先して自分の欲求を抑え込むのでもなく、他人の欲求を感受して自分の欲求のように感じ、そして自己の内部で欲求が対立し葛藤状態になった後、両者を派生的欲求とする一段深い欲求を発見しその欲求を自分の欲求とすることにより、他人との欲求の対立を解消するのが理想である。
 そこで他人の欲求を感受するには他人の心を受容できるように心が開いておかなければならず、それには先に述べた神の無限の愛へ至る努力を前もってしておかなければならない。そうすることによって、他人の欲求を自分の欲求のように感じることができる。その後葛藤を解消できるように深い欲求を発見すればよい。
 
(6)和の精神
 神の無限の知恵に至る努力をすることは、主観を排して誰とも思考の対立をしないようにする道であり、神の無限の愛への道は、誰とも感情的に対立しないように、他人を受容し愛で包む道であり、神の無限の生命への道は、誰とも欲求の対立をしないようにする道であり、三つの道を通して、知情意の三者で万人が完全調和するようになる。それが和の理念であり、実相世界の状態であり、それが日本の民族精神である。
 この私の和の理論は日本の民族精神である「和の精神」を世界精神化するために論理化したものである。
 
(7)宗教の頂点に位置づけられる和の精神
 実相に至る道はつまり神へ至る道であり、宗教の目的となっていたものである。そして神への道は思考の根源に至る方法と感情の根源に至る方法、欲求の根源に至る方法があったが、思考の道は西洋哲学であり、感情の根源への道はキリスト教であり、欲求の根源への道は仏教であった。三者を統合した神が和の精神なので、和の精神が宗教の頂点に立つ精神である。しかもそれが日本の民族精神なので、日本は和の精神を復興してそれを世界精神にして世界をリードする使命があるのである。
 
(8)実相へ至る三通りの訓練
 実相に至るには、実相とは何かを理論的に学ぶことと、我執をなくすようにすることを日常生活で実践することと、自分の心を深く見つめるように瞑想することの三通りの訓練が必要である。このうち瞑想は谷口雅春先生は神想観として教えてくださった。
 
(9)最後に
 これで実相に至る方法論である、第一次実相経済学のアウトラインを説明できたと思う。これはかなりレベルが高いのであるが、目標はこのあたりにあるということをまず示しておきたかった。今後実相に至る方法をこのアウトラインに沿って詳細に解説していきたい。

実相経済学

実相経済学
(1)はじめに
 私の見解では、近代資本主義は行き詰っていて、現在矛盾を露呈し崩壊しつつある。そこで近代資本主義を超克する新しい経済体制のビジョンを打ち立てねばならないとここ数年思っていたが、ついにそれができたと思っている。その新しい経済体制は実相主義経済体制である。実相とは生長の家初代総裁の谷口雅春先生の超ベストセラー「生命の実相」の実相である。つまり、実相の供給量を幸福の指標として、実相の供給量の増大を目的とする経済体制である。それが近代資本主義の次に来る新しい経済体制であると確信する。
 
(2)近代資本主義の行き詰まり
 近代資本主義は、科学技術の進歩と経済の成長がリンクして、経済の発展により資本が蓄積され、それが科学技術の研究に投資され、科学技術の進歩を促進し、それが新製品の開発に寄与し、そしてそれが経済の成長を促すというように、科学技術はどんどん進歩し、経済はどんどん成長してきた。
 近代資本主義の理念は、庶民が王様のようなリッチな生活をすることであったが、それはすでに実現できたかの感がある。
エジソンが電球や蓄音機を発明したころは、生活が一変し便利になったので、科学技術の進歩、経済の成長はまさに幸福感の増大と一致していた。しかし、庶民が以前の王様よりリッチな生活をしている現在では、科学の進歩、経済の成長は、幸福の増大とは乖離してきている。IT技術の進歩は確かに便利にはなるが、電球の発明ほど幸福感の増大は感じられない。そして現在の若者は高度成長のころの若者ほど、物質的に豊かな生活を追求するビジョンを持っていないし、今苦しい努力をすれば、将来豊かな生活ができるのだろうという希望を持っていない。現在の生活に満足している。
 では何を欲しているのかというと無自覚であることは多いが心の豊かさである。それはアドラー心理学が流行していることからわかるように、人間関係の悩みであり、自分が何をしたいかわからない悩みなのである。
 もっと大きな視点で言うと、人類の未来像が見えていない閉塞感が現在あるのである。資本主義が持っていた物質的に豊かな生活の追求というビジョンが崩壊しつつあるのだが、それに代わる、人類の新しいビジョンがないというのが現在の閉塞感なのである。
 そこで物質的豊かさの追求に代わる、新しい人類の目標が必要なのだが、それは実相の供給量を増大するという目標である。それが資本主義経済体制に代わる実相主義経済体制を創っていく。
 
(3)実相とは何か
 実相とは何かというと真の実在であるが、それは神の無限の知恵であり、神の無限の愛であり、神の無限の生命である。一見それはあることが分からず、我々の世界には物質しかないように見えるのであるが、それはなぜかというと我々の見ている世界は現象の世界であり、現象とは実相を反映したものが五感に現れたものなのである。五感は真実在を捉えることができず、それを捉えることができるのは直観なのであり、その方法を谷口雅春先生が神想観として教えてくれたし、さらに実相の顕現を妨げている心の曇りを取り除く方法として浄心行を教えてくださった。
 総じて谷口雅春先生の意図したことは実相の顕現である。現象の背後にある実相を捉えて、それをこの世に実現することが人間の使命であり、そして人間の幸福なのである。
 
(4)実相経済学
 近代資本主義は貨幣が富であるとして、幸福の尺度を貨幣でとらえる。だから国家の政治目的をGDPの成長としているのであるが、それはもはや国民の幸福感とは乖離してきている。
 しかし、人間の真の幸福はいかに神と一体化したか、どれだけ実相を受け取ったかなのであり、それを第一次の富としよう。つまり、第一次の富は神の無限の知恵であり、神の無限の愛であり、神の無限の生命である。
 そしてこの第一次の富は、第二次の富に変換される。神の無限の知恵は人を幸福に導く知識に変換される。神の無限の愛は人と心の底からわかり合うことによって絆に代わる。神の無限の生命は健康を創りだし、人を生かそうとする奉仕の精神に変換される。つまり第一次の富である実相は、知識と絆と健康と奉仕の精神という第二次の富に変換される。
 そしてこれら第二次の富を元手として、通常富と思われている、貨幣と物質的財産である第三次の富を生み出す。つまり、人々の幸福のために知恵から出た知識と、愛によって結んだ絆で他人と協力し、奉仕の精神で事業を営んで物質的富を生み出すのである。
 つまり、客観的認識では、第一次の富があってこそ第二次の富を生み出すことができ、第二次の富があってこそ第三次の富を生み出すことができるのであるが、近代資本主義はこの因果関係を認識できず、第三次の富ばかりを追求していたのであり、それが近代資本主義の限界だったのであり、資本主義では克服できない諸問題の根本原因だったのである。
 それで実相経済学は三種の経済学に分けられ、いかに実相の供給を多く受けるかという、第一次の富の増大方法を研究する第一次経済学と、第二次の富の増大方法を研究する第二次経済学と、通常の富である貨幣と物的財産の増大方法を研究する第三次経済学に分けられる。
 しかし、第三次の富が著しく欠けると実相の供給を受けることが不可能になるのも事実である。しかし、現在は昔のように貧困で餓死する可能性は減っているので、ある程度第三次の富を確保できたならば、実相の供給を目指した方がよいであろう。
 真理を知らないと、第三次の富が豊かになっても、実相も第二次の富も犠牲にしてでもさらに第三次の富の増大を目指すという不合理なことをしてしまう傾向にある
実相経済学は真理を客観的に認識したうえでの科学的に合理的な経済理論であるので、人類を真の幸福に導く理論になると確信している。
 今後緻密な理論を構築していきたい。近代経済学やマルクス経済学も内包する理論として展開していきたい。
 最後に付け加えると、近代資本主義の原理では止めることのできなかった、環境破壊、自然破壊も実相経済学は止めることができるであろうし、また同時に実相経済学は道徳・倫理と矛盾しない経済理論でもある。
 
 

近代資本主義の限界と衰退あるいは終焉
(1)はじめに
 「近代資本主義はもはや限界に来ている」あるいは「終焉しつつある」というのが、私の直観的時代認識である。ここで言う近代資本主義とは、資本の自己増殖を原理として経済成長を継続していく経済システムのことを意味したい。それは私有財産制のことをいっているのではない。私有財産制はまだまだ続くと思う。
 そして、資本主義の終焉の兆候が先進国全体にみられる長期にわたる経済成長の低迷であり、そして経済至上主義ともいえるグローバリズムの破綻の兆候がイギリスのEU離脱であり、トランプ大統領の誕生である。すなわち、グローバリズムは人類全体を豊かにするのではなく、貧富の差を激しくするというのが、明らかになってきたのである。
 そもそも貨幣制度による経済活動の目的は、分業によりともに豊かになることであるので、経済は貧富の差が無くなるように模索しなければならない。
 経済学についてはまだ勉強中であるが、資本主義とは何で何が問題か、グローバリズムとは何で何が問題かが少し見えてきたので、本記事で報告したい。
 
(2)近代文明の特徴
 ヨーロッパルネッサンスに端を発し、ガリレイ、ケプラー、ニュートンらによる科学革命、そして経済と科学が融合した産業革命によって、近代文明が築き上げられ、世界の様相は一変した。近代文明の特徴を二つに絞るならば、近代唯物科学と近代資本主義である。その精神は飽くなき物質の制御の追求と資本の自己増殖の追求である。科学技術は発明と大量生産により経済を発展させ、逆に経済の発展は資本を蓄積させその資本を研究開発に投下することによりさらに科学技術を進歩させるというように、科学技術と経済が相乗効果を生み、互いに他方の進歩・発展を促進した。
近代における人々の幸福追求の方法のメインは、科学技術的発明などによる物質の制御能力を高めることと経済的豊かさを得ることである。
たとえば一昔前は、人々は高度経済成長により、経済的に豊かになり、洗濯機・テレビ・自動車が普及し、大衆の生活は便利になった。これにより大衆の幸福感はかなり増大しただろう。そして最近の発明による便利さの追求の最先端はパソコンからスマートフォンに移っている。それは、数十年前のスーパーコンピュータがポケットに入っているのである。そしてそれが安価に大量生産され、大資本は大量の利益を得ている。まさに科学技術と経済がリンクし大発展している。 このように近代人・現代人は科学と経済による幸福の追求が、幸福追求の最大のパターンになっている。
 
(3)近代資本主義の衰退
 しかし、現在の世界的経済成長の長期鈍化は、一時の不況というものではなく、資本の増殖の限界に来ているものと思われる。その原因は物質的豊かさが飽和してきていることにあると思われる。
エジソンの時代の電球や蓄音機の発明とその大量生産は、大衆の生活を一変させ、幸福感を大きく増大させたのだが、現在のIT 技術の進歩は確かに便利さは増大したのだが、人々の幸福感はそれほど増大しない。つまり、科学技術の進歩と経済の発展による幸福感の増大は飽和しつつあると思われる。
 そして、資本を投下しても、以前より資本の増殖が出来なくなっている。その最大の証拠は日本では、日銀が2016年1月に導入を決めたマイナス金利である。金利(利子率)は、実物投資の収益率を表している。つまり、マイナス金利は実体経済の成長がストップしたことを意味する。ただし金融経済はまだ成長しているのであるが。
 
(4)資本主義の成長原理
資本主義を資本の自己増殖のプロセスとして捉えよう。そうすると、どうやって資本を自己増殖しているかを考えなければならない。これを資本主義の成長の原理と呼ぼう。
では、資本主義の成長の原理とは何かというと、資本主義には「中心」と「周辺」があり、中心は「周辺」から資源を安く買いたたいたり、安い労働力を利用したりする。そのように、中心は「周辺」から富を吸収する。これが資本主義の前提であり、これがあって初めて経済は成長する。
 「中心」とか「周辺」とは何かというと、例えば、一昔前は欧米の先進国が
「中心」であり、南の発展途上国が「周辺」であり、先進国は発展途上国の資源を安く買いたたき、安い労働力を利用していた。オイルショック以前の日本の経済成長も、「周辺」である中東からの石油資源を安く買いたたいて実現していたといえるだろう。実際、水野和夫氏は、オイルショックを資本主義の終焉の始まりと主張している。先進国が「周辺」から資源を安く買いたたくことができなくなったからである。
私は本来の経済の目的は、人類全体の豊かさを実現することと考えているが、資本主義の原理がこのようなものである限り、一部の国の国民全体が富めることはありえても、富める国と貧しい国の存在という国家間の貧富の差は決してなくなることがないと考えている。
 
(5)グローバリズムの破綻
 グローバリズムとは「国境を越えて、ヒト、モノ、カネが自由に飛び回るようになること」と言われているが、それは表面的なことである。
 最近は現代の日本もアメリカも格差社会になっていることは周知になっているが、それがグローバリズムの本質なのである。
 イギリスがEUを離脱した最大の原因は移民問題であったが、それはEU 内の貧しい国から移民がイギリスに入ってきて、安い労働力で働くことによって、イギリス本国人の雇用が奪われたり賃金が安くなったるする問題である。豊かな国は貧しい国に比べて、同じ労働をしても賃金が高く豊かな生活が可能なのであるが、グローバリズムによって、ヒトの移動が自由になると、貧しい国から安い労働力が入ってきて、資本家は利潤を追求するので安い移民労働者を優先的に使うだろう。そして、資本家は利潤を増やしますます儲けることができる。逆に労働者は、ますます賃金が安くなり貧乏になっていく。これが格差発生のメカニズムである。これはイギリスに限らず、日本でも将来起こり得ることである。
 グローバリズムは経済的に合理的発想なので、合理的で尤もと思う人も多いかもしれないが、それは経営者・資本家にとって合理的なのであり、国民全体から見れば、それによって疎外を受ける人は多く、全体としては不合理なのである。
 アメリカのトランプ大統領の誕生も、トランプを支持したのは、グローバリズムから疎外を受けた人たちである。したがって、トランプ大統領の誕生もグローバリズムの破綻の兆候と言える。
 
(6)だからと言って反グローバリズムでは問題は解決しない
 ではどうすればよいのかというと、反グローバルで国際交流を無くせばよいかというと、そうはいかないだろう。既に、経済は世界中が密着しており、国家間の分業は密であり、一国だけで経済を成り立たせるのは不可能であろう。
 
(7)考察の方向
  そこで、私は資本主義の限界とグローバリズムの破綻を認識したのであるが、どうすればよいかという答えはまだ出していない。
 思索の方針としては、ユートピア社会(=理想社会)とは万人が自己発見―自己実現できる社会と規定しようと思っている。したがって国家の発展の尺度はGDPではなく、自己発見の深さと量であり、自己実現の広がりの量としたい。どれだけ深い自己発見をどれだけの国民が達成したか、どれだけの自己実現をどれだけの国民が実現できたか、これこそが国民の幸福の尺度とできると思う。これで、根本目的は設定できたので、これを実現するためにどうすればよいかを考えることが可能となった。より多くの国民が自己発見―自己実現を実現するための経済対策はどうすればよいかを考えればよいのである。
 しかし、自己流だけで考えていては、思索が未熟なままになるので、先人の業績を学ばなければならないと思っている。どういう方向の研究をしようと思っているのかというと経済と道徳哲学の統合の方向にである。その先駆者としてアマルティア・センがいる。インド人の経済学者であり、1998年にノーベル経済学賞をもらった人物である。先ずは、その入門として「経済学と倫理学」(ちくま学芸文庫)を読もうと思っている。
 しかし、もっとさかのぼれば、そもそも経済学の父アダムスミスは著名な道徳哲学者だったのである。そして彼も有名な著「道徳感情論」という道徳哲学の本も書いている。これも読みたいと思っている。当然「国富論」も。道徳哲学と経済学を統合するという研究方向で、私の自己発見―自己実現理論を経済学とつなげたい。 

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