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愛による煩悩地獄からの脱却
(1)はじめに
煩悩に駆られて生きているときは、生きる意味を満足に得られているという実感はなく、生きる意味を求めて快楽、金銭、地位、名誉などを追求するが、いくらそれを得てももっと欲しくなり、いつまでたっても生の充実感は得られない、
そこで、煩悩を克服するのは「愛」であると主張したい。愛とは他人との心の合一である。そのときの、他人との深い心の交流が生の充実感を与える。そして、正しい幸福感の獲得方法は、優越感で幸福を得ることではなく、貢献感で幸福感を得ることである。
愛によって、煩悩地獄から脱却するプロセスを簡単に描写しよう。
(2)煩悩地獄
煩悩にまみれているときの心境は、生きる意味を十分に感じ取れず、意味を欲しいと思って、本当に必要なことを求めず、間違って愛の代わり、性的快楽を追及したり、道楽に耽ったり、金銭欲が肥大したり、地位を追求したり、名誉欲が肥大したりする。しかし、追求しても挫折することも多いのだが、かりに成功したとしても、納得のいく生の充実感を得ることはできない。目的を達成しても空しく感じる。煩悩まみれになっても快楽は得られても生の充実感は得られない。
私は煩悩まみれになることを道徳的に悪いことだからやめるように言っているのではない。煩悩まみれというのは幸福の反対への道、つまり不幸への道だから、煩悩地獄からの脱却を勧めているのである。
(3)自分だけの幸福を追求したら孤独地獄に陥る
幸福というと、他人はどうでもよく、自分だけの幸福を考える人が多いかもしれないが、それでは他人と心を共有できず、いくら権力を獲得して人を支配しても精神的には孤独になってしまう。それはちっとも幸福ではないのである。
性欲の場合は感覚的快楽をいくら追求しても、心の合一が無ければ、やはり孤独である。煩悩的欲求をいくら満足しても幸福に至れないのは、他人との心の合一、つまり愛が欠けているからである。
(4)人間が本当に欲しているのは他人との心的合一である
人間が本当に欲しているのは、他人との心的合一であり、この欲求をしっかりと受け止めることができないとき、それを皮相的に受け取り、性的快楽や、道楽、名誉欲、金銭欲などの煩悩が生じる。そうでなく、自分の心を深く内省し、他人と心を通わせ、心の絆を結んでともに幸福を追求していこうという欲求が自分の心の奥にあることを自覚しなければならない。
(5)愛の本質は、他人の心をあるがまま感じ取ること
愛とは他人と心が合一することである。それは例えば他人の話を聞いているとき、その話し手の心をその通りに感じ取ることである。しかし、そうでなく、他人を見ると「ああしてほしい」とか「こうすべき」とか思う人が多い。これでは他人の心を感じ取れない。しかし、他人の心をあるがまま感じ取れたとき、生の充実感を与える。
(6)自分自身の執着を断って、他人と類似の心を持つ努力
他人との心の合一へ至るためには、先ず自分の関心のあることだけに心を向けるのではなく、他人の関心を持っていることに自分も関心を持つように努力する必要もある。例えば他人が園芸に興味を持っていたら、自分も園芸に注意を注ぐ努力は必要である。
(7)他人の心を感じとるトレーニング
他人を見ると、「こうしてほしい」、「ああしてほしい」と思ってばかりいる人は、他人の心を感じ取る能力は育たない。そうでなくとも、人は「あああるべきだ」、「こうあるべきだ」と道徳的要求の強い人も、他人の心を在るがまま感じ取る能力は低い。
そうではなく、「こうしてほしい」とか、「こうすべき」という思いを止めて、他人の現状を「これで良し」と承認して、その人の今を肯定して受け入れるように努力しないと、人の心をあるがまま感じ取ることはできない。
(8)相手の心を感じて貢献する
貢献感と言っても、奴隷のような貢献は幸福にはならない。そうではなく、他人の心を感じ取って、それに応えてあげようと思って貢献したときに幸福感は高まる。だからまずある程度他人の心と合一した後、その心でもって貢献することである。
(9)幸福は形式ではなく実質で決まる
幸福はいくら稼いだとか、仕事は何をしているかという形式で決まるのではなく、お金を稼いだり、仕事をしているときに、どれだけ他人と心を合一させたか、共感しながら貢献したときどれだけ一体感を感じたかという実質で決まるのである。だから幸福はGDPでは測れない。
(10)まとめ
人間は他人と心を合一させたとき幸福になれる。
煩悩的欲求を満足しても幸福になれないのは、そこに他人との心の合一が欠けているからである。
他人と心の合一の最初のトレーニングは他人が関心を持っていることに自分も関心を持つことである。
そして他人に「こうしてほしい」とか「こうすべき」とか言う思いを止めて、他人の今を「これで良し」と受容することで、他人の心を感じ取れるようになる。
他人の心を感じ取ったら、それにこたえて貢献していけば幸福になれる。
これで煩悩地獄から脱却できる。
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自己発見―自己実現理論
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優越の追求より親密さの追求を
(1)はじめに
多くの人間は親密さではなく、優越感を味わうことを幸福だと思って、優越を目指して努力している。しかし、絶対的優越感は無く、必ず上がいて、優越感の追求には決して満足感はない。
その反対に人と心を割って話し合えるという親密感は絶対的幸福である。どちらが上というものではなく、本音を語り合え共感し合えたならば、真の幸福である。幸福になりたいならば、優越を追求するのではなく、親密を追求した方が良いのである。
(2)優越を追求する動機
優越の追求は何を目指しているのかというと、「人からちやほやされること」を目指している。「人からちやほやされる」とは、もはや自分では何も努力することなく、人から肯定される状態である。つまり、優越とは他人を無害化することである。他人から見下されることのない状態、他人から見上げられる状態を目指しているのである。
例えばノーベル賞を獲得したとすると、世界的天才とみなされ、誰にも馬鹿にされることのない境地であろう。ノーベル賞受賞者を馬鹿にすると、嫉妬しているのだろうと逆にその人が多くの人に馬鹿にされるだろう。ノーベル賞をもらうと、世界を味方につけることができるのである。
しかし、ノーベル賞をもらえたのは、世界でこれまで数百人でしかない。こういうのを目指すのは現実的ではないだろう。
(3)優越感を目指すのではなく、好きで打ち込んだとき一流になれる
スポーツにしても、学問にしても、芸術にしても、優越感を目指すのではなく、現実にスポーツそのもの、学問そのもの、芸術そのものに興味を持ち、好きでそれらに打ち込んだ時に、本物になる。それは単に抽象的に人に優越したいという気持ちではなく、それを修得すること自身に関心があるということである。好きでもないのに、人に優越したいという気持ちで、それらに打ち込んでもそれほど上達しないし、絶対に一流にはなれない。優越を目指す意志というのは、その目的は人間関係であるが、その欲求は現実問題に取り組む現実的努力にはならないのである。スポーツそのもの、学問そのもの、芸術そのものに興味はないが、優越を目指す気持ちが突出すれば、インチキしてでも優越感を味わえる地位につきたいと思うようになる。
(4)親密さの追求
優越を目指して、誰とも親密になれないのであれば、その人は確実に不幸であろう。逆に誰にも優越しなくとも多くの人と親密な人間関係を築ければ、その人は確実に幸福であろう。
幸福になりたければ、人と親密な関係を築く能力を磨いた方が良いだろう。
親密な関係とは互いに思いやって本音を語り合える関係である。そうすれば優越しなくとも、相手を無害化できる。そして互いに思いやって貢献し合える関係を築ける。
(5)優越の追求より親密さの追求を
確実に幸福になるのは優越を追求することではなく、親密さを追求することであるのに、多くの人は優越を追求して、親密さを築く努力をしない。それは極めて不合理なことである。
親密さを知らない人は、人を上か下かでしか見ない。対等な親密さというのを知らない。だから上に立ってしか、他人を無害化できないと思い込んでいるのである。
親密な人間関係を築くのが、自分の心の牢獄に閉じ込められた孤独からの脱出である。そこは意味に満ち溢れている。この孤独を癒そうと間違った方向に努力しているのが、優越を目指す神経症的努力である。
幸福になりたければ優越ではなく、親密さを目指した方が良い。
(6)人と親密になる方法
人と親密になる姿勢は、相手を評価抜きに受容することである。相手が何を考えどう感じどういう欲求を持っているかを、それは良いことであるとか悪いことであるとか、優れているのかそうでないのかを抜きに受容することである。
評価を手放す努力が必要である。
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愛を妨げる規範意識
(1)はじめに
自己肯定感の低い人には、自分は幸福になる価値が無い無価値な人間だと思い込んで、あらゆる努力を放棄する人と、規範意識が肥大して、規範に従うためにのみ生きて、それをプライドにしている人に分けられる。本稿では後者について考察したい。
その主張は「規範意識は愛を妨げる」ということである。
(2)愛とは何か
規範意識を押し付けることを愛と勘違いしている人もいるが、それは愛ではなく束縛である。愛は相手の自発性を尊重しないと本物ではない。
真の愛とは、何かをしてあげる行為ではなく、相手が何を考えどういう感情をもち、どういう欲求を持っているかを察知し、それを「良し」として受容することである。自分のことを相手に受容され、それを自分でも受容できたとき人は安らぎを感じる。そうすると「自己肯定感」が出てくる。相手のあるがままの受容が愛である。
(3)規範意識
しかし、子供は親に育てられるとき、親にして良いこと、してはならないことを教えられ、「善悪」の規範が身に付く。規範に逆らったら親に叱られ、規範に従ったとき親に受容される。そして、成人しても子供のときに身についた規範を基礎に社会生活を送る。
そしてその規範意識は価値観の大本となる。その規範に従う人を善人、その規範から逸脱した人は悪人とされ、自分自身は一生懸命にその規範にしたがって生きようとする。時たま規範から逸脱するが、そのときは罪悪感を感じる。そのときは自分を受容しにくくなる。
(4)規範意識は愛を妨げる
そして自分自身に規範から逸脱した思いを出すことを禁じているので、他人がそういう思いを持っているとそれをあるがまま受容することができない。つまり、悪とされる思いを持っている人の心を、そのまま「良し」と受容することができないのである。相手の悪なる思いを受容することは、自分がそういう思いを持つことを受け入れることであるが、それを規範意識が禁じているからである。
すると規範意識の強い人は、その規範に反している人の人格を認めることができなくなる。「悪人だから不幸になってしまえ」と冷たい心を持つようになる。
規範意識が肥大するにしたがって、つまり道徳に厳しくなればなるほど、拒絶する人の範囲が大きくなり、より広範囲の人に冷たくなる。つまり、人の人格を認めなくなる。すると、規範に反した人に対して、人格無視な態度をとるようになる。つまり、規範意識が強くなった結果、人の人格を無視するようになり、そういう相手に悪なる行為を働こうとする傾向性が出てくる。
(5)規範意識の解除が愛を育む
人を善悪の尺度で評価するのを止め、あるがまま受容する努力によって、愛が育まれる。規範意識を解除した結果、他人のあるがままの心を認識できるようになり、結果として思いやりが出てくる。悪なる心だからと拒絶するのではなく、どういうプロセスでそういう心が発生したのかを理解でき、「それは仕方がなかったな」と受容できるようになる。その結果、規範に反した心を持った他人の人格も尊重できるようになり、結果として善なる行為が促進される。
規範意識が悪を産み、規範意識の解除が善を産むというパラドックスが真実なのである。
(6)「べき」から「したい」へ
規範意識の強い人は「べき」で生きている。「人間はこうあるべき」、「生徒はこうあるべき」、「先生はこうあるべき」、「男はこうあるべき」、「女はこうあるべき」、「社会人はこうあるべき」とべきに従うことが生きることとなっている。しかし、自分だけが「べき」に従うだけでなく、万人も「べき」に従うべきと考えている。
そして、人生を「べき」で努力しているので、「べき」が無くなったら怠けものになるだろうと思っている。
しかし、それは自分がしたいことをしていないからそうなるのである。人間は「べき」のみで努力するのではなく、したいことを一生懸命に努力する存在なのである。自分が何がしたいかが分からない人は、それを洞察するように努力する必要がある。「私はこれがしたいのである」というものを見つけることができ、それに打ち込めると、「べき」の縛りから解放され、「したい」に基づいて努力することができるようになり、自分が自由にしたいことをしているので、他人も自由にしたいことをして良いと思えるようになり、「べき」を押し付けようとはしなくなり、より広範囲の人をあるがまま受容できるようになる。
(7)まとめ
規範意識が強いと狭量になり、他人の人格を無視し悪が生まれる。規範意識を解除すると、評価抜きに他人のあるがままを受容できるようになり、他人の人格を尊重できるようになり、善が生まれる。
規範意識が強い人は「べき」に従って生きており、他人にも「べき」を押し付けたがるが、「したい」に従って生きれるようになると、他人に「べき」を押し付けなくなり、他人が自由にしたいことをすることを肯定できるようになる。
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愛と道徳の相補性
(1)はじめに
ここで相補とは相補うことという意味である。そして「愛」とは相手の感情や欲求を察知し感じ取り「良し」と承認することを意味することにする。道徳とは「こうすべき」という規範を意味することにする。
この「愛」と「道徳」という定義に基づくと道徳だけで育てられると心が歪み生命力が枯渇するし、愛だけで育てられると無規範になるので、愛と道徳をうまく整合させると理想的な教育になるということを本稿で主張したい。
(2)道徳教育とその副作用
ここで道徳は「べき」という規範を教えることを意味する。「親孝行をしなさい」、「勤勉に働きなさい」、「質素倹約しなさい」「先生を敬いなさい」などが戦前の修身で教えられていた。
問題は道徳の理想を持つことにあるのではなく、道徳に逆らいたい本音の感情や欲求が良くないものとして切り捨てられることである。つまり、低次の欲求を抑圧して高次の欲求だけを肯定する努力の仕方に問題があるのである。
心理的には抑圧した低次の欲求は無くなることはなく潜在意識に存在し続けるのである。道徳的善に必死でしがみつくと、自分に低次の欲求はないことにしたいので、その存在を否認しようとする。自分の心の中にある低次の欲求を観ないようにする。その結果自由に動ける意識の範囲が狭まっていき、合理的思考が阻害される。例えば、誰から見ても嘘吐きなのに、自分が道徳的善人であると信じたいので、それに本人が気づかないという、認識の欠落が生じたりする。道徳的善人を目指して、低次の欲求を根絶し、高次の欲求だけの人に成ろうとするのは、人間の心の法則に逆らっているので、それは絶対に不可能である。
また自分が低次の欲求を抑え込むと、他人がその低次の欲求を持っていると腹立たしく感じてしまう。自分が完全に抑え込めていないときにもである。例えば、自分に「弱音を吐くな」というルールを課しているとすると、自分の子供が弱音を吐くと「けしからん」と怒ってしまう。あるいは子供には優しくしたいなと思っていたとしても、その思いに反して子供に「このくらいで弱音を吐くな」と怒ってしまう。
(3)愛による教育
子供が何をどう考えどういう感情を持ちどういう欲求を持っているかを察知して応じてあげるのが愛による教育である。道徳的教育だと自然な自発的欲求は悪いものと思うようになるのに反して、愛による教育だと、子供は自分の自発的欲求を良いものだと思えるようになる。自分の欲求を承認され肯定されるからである。
しかし、規範を全く教えないと、わがままに育ち、社会に不適応になってしまう。
(4)「べき」の無力
道徳的理想の欲求である高次の欲求に従おうとしても低次の欲求が出てきて、自分で「こうすべき」と努力しても低次の欲求は無くならないどころか余計に暴れる。煩悩というものである。「低次の欲求は本来自分にあるべきでない、」「これは本当の自分でない。」と否認すればするほど煩悩は暴れる。煩悩とは性欲、名誉欲、食欲、権力欲などである。そういうのは抑え込もうとすればするほど暴れる。いくら「あるべきでない」と否定したところであるものはあるのである。
また他人が低次の欲求に従っていると言って叱ったところで、表面的行為は変えられたとしても、その欲求は無くなるものではない。
つまり「べき」は無力なのである。
(4)低次の欲求の高次の欲求への統合の仕方
ではどうすれば低次の欲求をコントロールできるようになるのかというと、それは低次の欲求を根絶するのではなく、低次の欲求を高次の欲求に統合すればよいのである。
その方法は高次の欲求があるにもかかわらず、低次の欲求が暴れる状態を前提として、そのときに低次の欲求をあるべきでないと否認したい感情を打ち消して、どこまでも自分には低次の欲求があるのであると低次の欲求を自分の心の真ん中に受け入れるのである。つまり、自分の本性は道徳的善人であるというプライドを捨てて、自分の本性は道徳に反する悪人であるということを認めるのである。低次の欲求を自分の本性として受け入れることである。そうすると、高次の欲求にあった自我が低次の欲求まで浸透して低次の欲求が高次の欲求の支配下にはいる。つまり、低次の欲求が高次の欲求に統合される。
例えば、頭では貢献感で幸福を得ようと思っても、どうしても優越感を追求して威張りたいという欲求が出てきて、それは本来自分の心の中にあってはならないものと思っても、それが出てきて困ることがある。そのとき自分の威張りたいという欲求があることを認め受容すると、優越感を追求する欲求に貢献感を追求する欲求が浸透して、優越感を追求する欲求をコントロールできるようになる。
(5)指導力の向上
低次の欲求を否定して、高次の欲求だけを肯定して努力してきた人は、人を指導するときも、相手の低次の欲求を否定して高次の欲求を肯定するようにしか指導できない。それは指導を受ける側としては低次の欲求を否定されるので苦痛は大きい。
それに対して低次の欲求を高次の欲求に統合した人は、人を指導するとき、相手の低次の欲求を否定することなく、それを高次の欲求に統合するように指導できる。指導される側としては、低次の欲求を否定されないので苦痛少なく指導を受けられる。
たとえば小学校の先生としては、遊びたい欲求を全否定して無理やり勉強させる先生と、遊びの欲求を否定することなく、遊びごころの延長上に勉強に誘導する先生の違いである。明らかに後者の方が指導力がある。
(6)創造性、独創性の発揮
低次の欲求を抑圧して、高次の欲求だけを肯定したときは、型にはまった仕事はできるが、自然な生命力には従っていないので独創性や創造性は発揮できない。発想に自発性が無いからである。
それに対して低次の欲求を高次の欲求に統合した場合は、低次の欲求は否定されていないので、生命力は旺盛であり、自発性も保たれているので、独創性、創造性は発揮される。
(7)結論
理想的教育は、道徳で高次の欲求を育て、愛で低次の欲求も受容してあげて、低次の欲求を高次の欲求に統合する教育である。
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低次の欲求の高次の欲求への統合
(1)はじめに
ここで簡単に低次の欲求を抑圧して高次の欲求に従うべきという考えを道徳と呼び、自発的欲求に従うことを自由と呼ぶことにする。
そこで常識的には、道徳は良いこととされるのであるが、道徳主義は人類をユートピアに導かず、ユートピアに導くのは低次の欲求を抑圧することではなく、低次の欲求を高次の欲求に統合することであることを説明しよう。
(2)低次の欲求と高次の欲求の例
低次の欲求とは性欲、金銭欲、名誉欲、権力欲、自己保存本能、おしゃべりの欲求、異性にモテたいという欲求、遊びいたずらの欲求、パチンコなどの博打である。ここであげた例はわずかな例であり、具体的には無数あるであろう。
それに対して、高次の欲求とは、正義、真理、愛、誠実、信頼、平等、国益などの普遍的、社会的価値を求める欲求である。一般的には人間はかくあるべしという高尚な理想の実現の欲求のことである。
道徳は低次の欲求を否定し抑圧し、高次の欲求に従うことを要求する。
(3)道徳の自発性の否定
道徳の欲求が浸透すると、人間の自発性は良くないものであり、権力の作った規範に従うことが良いことであるという価値観が浸透し、これがうまくいくと大衆は奴隷状態に置かれることになる。道徳は支配者と被支配者という独裁体制に導く。
(4)道徳家の残忍性
道徳家は、自分自身の自発的欲求に従うことなく、自分自身を頭で描いた観念に嵌め込む努力をし、実際は欲求不満で不幸である。そして他人が自発的低次の欲求に従うのを見ると、自分の無意識の低次の欲求が刺激され、自我が保てなくなりそうになるので、他人にも道徳に従うことを要求する。
道徳家は他人の自発性を認めず、自分の道徳観に従う人だけを認める冷たい残忍な人間である。人権無視である。結局は道徳は頭だけで立ち、生命否定に帰着し、道徳に従うと生きる意味が欠乏してくる。そして意味を得るためにさらに狂信的に理想を追求する。
(5)道徳的親
道徳を重視する親の子育ては、子供が何を欲求しているかを完全に無視し、「人間はかくあるべし」を子供に押し付ける。子供が何をどう思いどう感じているかには無頓着であり、ただ「こうしなさい」だけを教えるのが子育てだと思っている。
その結果子供は自分が自発的に思うのは悪であり、親や権威に従う生き方が善だと思い込み、自己肯定感は極めて低くなる。道徳的子育ては、愛情欠乏になるのである。それは親が子供の心を観ないで無視するからである。
(6)自発性を尊重する子育て
子供が何をどう思ってどう感じているかを感じ取り、それを否定せずに受け取り、そのうえでどう判断や行為したりしたら良いのかを指導するのが、自発性を尊重した子育てである。
こういう子育てをすると、子供は自分の自発性を良いことだと感じるようになり、自発的で創造的な人物に育っていく。人生の目的が人からの称賛を求める屈折したものではなく、素直な自発性に根付いているからである。
(7)際限のない名誉欲は愛情欠乏が原因
幼少時に親から自分の思っていることを受け止められずに、親の言うとおりに従ったときだけ褒められた子供は、称賛欲求が強くなる。つまり、自発性に従うのではなく、称賛を求めて目的を立てるようになる。
そして学問やスポーツ、事業などで成功して名誉を勝ち得たとしても、根本的な自分の自発性の肯定には至らない。したがって、核心的な部分で満足はできない。どれだけ名誉を得ても自己肯定感は得られない。自分自身の本当の自発性が肯定されていないからである。
それの根本原因は親から自分の自発的思いを受容されていないという愛情欠乏である。
(8)超近代的課題
古代・中世は道徳的価値観の時代であり、高次の欲求に従うことが善だとみなされていた。しかし、近代にいたっては低次の欲求の満足が肯定され、食欲の満足や性欲の満足も肯定されるようになった。また、フロイトによる社会規範による性欲の抑圧が神経症を産むという事実も解明された。それで道徳の権威も低下した。
しかし、低次の欲求の暴走はやはり良くないものであり、だからと言って低次の欲求を抑圧すればよいというものでもない。そこでどうするかというと、低次の欲求を高次の欲求に統合するのである。その方法は結局親からの愛情欠乏を補って、いかに自分の自発的欲求を肯定するか、いかに自己肯定感を高めるかという課題に帰着する。そのひとつの例はすぐ下で述べる。
(9)欲求の遡源
低次の欲求の高次の欲求への統合は「欲求の遡源(そげん)」で実現可能である。欲求の遡源とはある欲求がなぜ出てくるのかを反省してより深い欲求からその欲求が分化しているのを発見することである。欲求を遡るのである。
たとえば過食で肥満している場合、肥満にならないために食欲を抑圧するというのは表面的努力であり、原因をそのままにして結果だけを変えようとしている不合理な態度である。何故食欲が強すぎるのかを認識しなければならない。欲求の原因を遡らなければならない。するとストレスが原因で食欲が増進することが分かるかもしれない。しかし、ストレスで過食になる人もならない人もいるが自分はなぜストレスで過食になるかを反省しなければならない。そうするとストレスに耐えにくい原因があるはずである。それは結局自分自身に対する自信の欠如であり、不安感が強いことであり、自己肯定感の欠如であることが分かってくる。その根本原因は親からの愛情欠乏である。愛情欠乏で自分自身への信頼が弱いのである。結局過食の原因は親からの愛情欠乏による自己肯定感の低さにあることがわかる。
(10)超近代文明建設の中心課題
低次の欲求を高次の欲求に統合するという超近代的課題は、いかに親からの愛情欠乏を補って自己肯定感を高めるかという問題に帰着することになる。
(11)今後の課題
いかに親からの愛情欠乏を補って、自己肯定感を高めるかの方法論を研究して確立していきたい。
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