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科学革命・思想運動の構想
【1】 進捗
科学革命の構想と思想運動の構想が進んだ。かなり具体化してきた。
【2】 科学革命の構想(実証を目指す)
(1) 脳科学革命構想
脳が意識を産むのではない。脳は生命意志が異次元にある愛と理性を受信して増幅して身体の運動に変換する装置である。
(2) 論理学(真実在の運動法則)構想:進化の論理を構築する
宇宙論はホワイトヘッド
① 理性の論理
弁証法の論理:ヘーゲル
数・幾何の論理:数学、物理学
② 意志の論理:数理はシステム論、
精神意志の論理:仏教、西田幾多郎
生命意志の論理:ベルクソン
③ 愛の論理:キリスト教
④ 進化の論理:三者の相互作用(オリジナル)
【3】 自己発見―自己実現運動
① 思考の主体としての自己の発見
より客観的に考えきれるようになる運動。
② 愛の主体としての自己の発見
より多くの人を許せ、心を愛で満たせるようになる運動。
③ 高次の欲求の主体としての自己の発見
低次な我欲の欲求を克服して高次な奉仕の欲求を持てるようになる運動。
④ 自己実現運動
三通りの自己発見を促し、そしてその主体で自己実現をしていく運動。
【4】 社会革命構想
将来的には科学革命の成果である進化の論理を基盤にして、自己発見―自己実現運動をしながら、万人が自己発見―自己実現をやりやすい社会になるように政治制度・経済制度を変えていく運動をする。
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科学革命の構想
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メタフィジックスの復活
(1)はじめに
「実証的数理形而上学の可能性」
で、感覚を超えた対象を扱う学問を形而上学というが、感覚に映らない宇宙の意志と電子やクォークとの相互作用を解明することによって、宇宙の意志を数理的にしかも実証的に解明できる学問を構築できる可能性があるのではないかということを主張した。
しかし、その記事では「形而上学」の説明が不十分だと思ったので、
「形而上学とは何か」
で形而上学とはどんなものかを説明して、プラトンのイデア論を紹介したり、宇宙の意志の形而上学を説明した。
しかし、読者から「形而上学」という言葉がとっつきにくいという感想が聞かれた。確かに「形而上学」という言葉は意味が分かりにくく拙い訳だと思う。それで、本論からは「形而上学」という言葉は用いずに、その英語の表現である「メタフィジックス(metaphysics)」という言葉を用いることにする。「メタ」は「超える」を意味し、「フィジックス」は「物理学」を意味するので、メタフィジックスは「物理を超える」つまり直訳すれば「超物理学」と表現できる。
通常の物理学は時間・空間内の現象を扱うのであるが、「メタフィジックス=超物理学」は時間空間を超えた対象を扱う学問と考えればよい。メタフィジックスの対象は時空を超えたところにあり、それは私の考えでは異次元空間に存在する。
メタフィジックスは学問の名に値しないとして、学問から追放したのはカントであるが、本記事では、現に物理学が時間空間内の現象であるが、感覚に映らない対象を数理的かつ実証的に扱っているのを模範にすれば、超時空の対象である宇宙の意志も実証的かつ数理的に扱え、結局メタフィジックスの復活が可能なのではないかということを主張したい。
(2)カントによるメタフィジックスの追放
カントは「純粋理性批判」という著で、認識論を確立した。「純粋理性批判」という言葉の意味を説明すると、純粋とは経験に依存しないという意味で、理性とは思考や感覚を含む認識能力のことであり、そういう理性がどこまで正しく、どこからが間違いかを吟味批判するという意味であり、認識論とは正しい認識、特に正しい真理認識の理論のことである。
このカントの認識論によると、正しい認識は感性が外界から対象を受け取り、悟性が感性によって受け取られたものを思考するものとされる。悟性とはドイツ語のVerstandの訳語であるが、「さとり」という意味はなく、対象を分けて区別する分析的思考能力のことである。つまり、感覚に与えられたものを分析するのが悟性である。あくまでも悟りとは無関係である。これも拙い訳である。
ここで重要なポイントは、対象が外界から感性に与えられない場合は、正しい認識にはならないということである。感性に与えられたものを悟性が思考した場合に正しい認識になるということである。
この理論からすると、メタフィジックスの対象は時空を超えているのであるから、その対象は感性に与えられることはないのであり、それ故にメタフィジックスは対象の与えられないまま悟性を空転させ妄想に陥っているとされる。このカントの認識論により、学問界からメタフィジックスは根こそぎにされた。カントによると神や霊は認識不能というのである。そういうのは学問の対象ではないというのである。
(3)メタフィジックスの方法としての自己探求
外界の対象でもなく、感覚に映らないものとして確実に存在するものとして「自己」がある。自己は確実に対象として存在し、妄想でも幻覚でもなく、そして自己探求には限りが無く、どこまでも深く探究でき、自己探求がある閾値を超えると、「自己」が個的肉体を超え宇宙の意志と合一する。この自己探求こそが確実なメタフィジックスの方法だと主張したい。
禅についてネットや本で少し調べたのであるが、禅が空理空論ではない確実なメタフィジックスの方法ではないかと思えてきた。禅では「己事究明」と言って、自己探求が中心らしい。何ら先入観なく、どの仏がいるとか、信仰とかいうのも前提せず、ただ自己探求に専念するのが禅のようである。その結果見性体験というのがあって、自己の中に仏性を発見するらしい。仏性とは仏の性質のことであるが、それは私に言う宇宙の意志のことであると思う。真理の探究は自己探求であり、自己とは外界に存在するのではなく、内界に存在するのであり、内界とは時空を超えた領域であり、それ故にそれはメタフィジックスであると言える。私の実感では内界は内側で無限に広がった異次元空間に感じられる。
(4)自然科学の興隆
カントの後ヘーゲルが出て、観念論を唱え、弁証法的に一段一段認識の次元を上げていくと神を認識できるという思想を主張したのであるが、ヘーゲルが亡くなった後は、ヘーゲルの思想が実証されるのではなく、唯物自然科学が発達し、ヘーゲルの影響は急激に衰退し、逆に自然科学の興隆の時代を迎えた。
(5)心の追放
感覚に映るものしか学問の対象にならないというカントの考えを推し進められた結果、カント自身は唯物論者ではないのだが、唯物論的発想が広まってしまった。その結果、科学の世界では、生物の魂という考えも追放され生物機械論になるし、人間の魂という考えも追放され、人間は脳というコンピュータを備えた考えるロボットつまり人間も機械でしかないということになってしまった。
生物や人間は常識的考えでは生き物であり、単なる物体とは違うとされるが、科学者からすると生物も人間も何ら石ころと同じく原子が集まってできた物体であり、ただ構造は複雑なだけであり、偶然進化してできたとても複雑な化学反応装置ということになる。ここで化学反応装置というのは、食べ物を消化吸収して体を造るのは、炭水化物やタンパク質をブドウ糖やアミノ酸に分解して吸収し、吸収されたブドウ糖やアミノ酸をグリコーゲンやタンパク質に組み立てることであるが、それらは化学反応であり、生物とはそういう化学反応の装置であるとみなすことを言っている。
そしてその結果生物に意志があるのは錯覚であり、生物を構成している原子はすべて厳密に物理の法則にしたがっていると考えられている。人間が心を持つのをどう説明するかは分からないが、脳の神経を伝わる信号パルスが心だと思われている。しかし、実際は脳は物質であり、心は物質ではないので、脳は心ではなく、脳の状態と心の状態に相関があるということだけが言えるのである。
カントがメタフィジックスを追放した結果、学問の行き着く先は生物機械論、人間機械論になってしまった。
生命の本質、心の本質の解明には、感覚に映る物質や時空を超えた対象を扱うメタフィジクスが要求されるのである。
(6)物理学のメタフィジックス化
しかし、思いもよらないことに、物質の根本要素と物理の根本法則を探求する素粒子理論では、30年ほど前から時空を超えた空間を想定する高次元理論が大流行し出しているのである。それを「超弦理論」とか「超ひも理論」とか「スーパーストリング理論」とか呼ばれている。
素粒子理論の課題を説明しよう。物理の法則には力の法則である四つの相互作用があるのが知られているが、それを一つの法則にまとめ上げようとするのが素粒子理論の課題である。四つの相互作用は次の通り。
物理の法則には、先ずニュートンの発見した万有引力の法則というものがあり、それを精密化したのがアインシュタインの一般相対性理論である。これ重力相互作用という。もう一つ電気や磁気、電流や電波の従う法則を扱う理論があり、これはマクスウェルによって確立された。それを電磁相互作用という。さらに、原子核の中で陽子や中性子を結び付けている力がある。この理論は湯川秀樹によって確立された。それを強い相互作用とか強い核力とかいう。最後に、放射能が出るときのベータ崩壊というものがある。これは中性子が陽子と電子とニュートリノに崩壊する現象である。これを弱い相互作用とか弱い核力とか呼ぶ。
この四つの法則を無矛盾に一つの法則にまとめ上げようとすると、理論によって違いがあるが、10次元時空や11次元時空が要求されるというのである。特に難関が一般相対性理論と量子力学の統合であり、それにはどうしても高次元空間が要求される。
結局何が言いたいのかというと、物理学自体が日常生活の時空を超えた空間を考えなければならなくなっており、これは物理学のメタフィジックス化であるということである。
そこで私の考えはまだ主流にはなっていないし、異端であるのだが、私は超弦理論で導入しなければならない異次元空間は、自己探求の究極の結果到達する宇宙の意志が存在する空間ではないかと考えている。
私自身長い間哲学探究をしたが、物理の本格的研究はこれからであり、素粒子理論の勉強を進めていきたい。
(7)メタフィジックスの実証のためにしなければならないこと
感覚に映らない時空を超えたものを研究するのがメタフィジックスであるが、それが実証するためには、感覚に映らないものが、感覚に映るものとどのように相互作用するかを解明しなければならない。
それは例えば、感覚に映らない電波の存在の証明は、電流計で測れる電流が電波とどのように相互作用するかの理論である電磁気学が確立したことによって可能になったのである。
それは電波の法則という仮説の方程式が考えられ、この電波があるとしたら、電流にどういう影響を与えるかを計算出来、それが実験とぴったりと一視した結果、電波はこういうものであり、それが存在するということが証明されたのである。
これと同じく、異次元空間に存在する宇宙の意志の仮説の方程式を考え、これが電子やクォークとどのような相互作用をするかの仮説が立てられ、そうして宇宙の意志がある場合が無い場合と比べて電子やクォークが違う運動をするのが計算され、実験で宇宙の意志があった場合と一致する運動が観測されれば、宇宙の意志の存在証明になる。
宇宙の意志の法則や宇宙の意志と電子やクォークの相互作用の仮説を立てるのは、自己探求というメタフィジックスの実践によって可能である。
(8)まとめ
メタフィジックスは自己探求によって可能であり、それによって宇宙の意志を認識できる。それが実証可能になるためには、宇宙の意志の法則とそれが電子とクォークとどのように相互作用するかの仮説を立て、その計算結果が実際の電子やクォークの運動の観測結果と一致しなければならない。
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実証的数理形而上学の可能性
(1) はじめに
形而上学とは、感覚に映る現象の背後に感覚に映らない超感覚的な実在を想定する仕方で探究された思想のことである。私を、それを実証的にしかも数学的にできないであろうかと考えているのである。その見解を説明しよう。
(2) 実証的数理形而上学としての電磁気学
物理学は通常は形而上学ではなく、実証科学であるとみなされている。形而上学と言えば通常は実証できない空理空論を述べるものとみなされている。しかし、超感覚的実在の存在を証明すれば、形而上学も実証的になると言える。
科学は超感覚的なものを扱っていないかと言えば、そうではない。電磁気学には電場・磁場という目に見えない物理量を扱う。感覚に映るのは電荷を持った粒子であり、その電荷が眼に見えない電場・磁場から作用を受けると考える。電場と磁場の束になった波が電磁波であるが、天才マクスウェルがマクスウェルの方程式を発見し電磁波の運動を支配する方程式を導き出した。その結果目に見えない電磁波の運動を明らかにすることができ、今でいう電波を予言し無線通信を可能にした。
今はほとんどの人が携帯電話を利用しているが、それは電磁波の一種である電波を利用している。電波は感覚には映らないが電子に作用して情報を伝達することができる。観測できる電子の運動の背後に電波なる超感覚的実在があると想定することで電子の運動を正しく予測することができる。この無矛盾性が電波の存在を証明する。
つまり電波を説明する電磁気学は実証的数理形而上学と呼べるのではないかというの考えである。
(3) 宇宙の意志の実証的数理形而上学の可能性
人間の体も原子の集まりであり、原子は究極的には電子とクォークからできている。人間は現象としては電子とクォークの運動である。しかし、その背後に個人の意志なる超感覚的なものを想定するのが常識であろう。
しかし、科学者は意志を排除して物理だけから人間の体の運動を説明すべきと考えるようである。それが物理還元主義である。しかし、私はそれは間違っていて、意志は物質から生じるのではなく、意志は意志として最初から存在すると考える。
そこで意志はどこから出現したのかと考えると、人間個人の意志は宇宙に普遍的に存在する「宇宙の意志」なるものから分かれてきたと考えるのである。つまり個人の意志の背後にさらに宇宙の意志の存在を想定するのである。それが宇宙の意志の形而上学である。
そこで電磁気学のケースに沿って考えるならば、電波に宇宙の意志を対応させて、宇宙の意志の運動方程式が分かり、それがどのように電子とクォークに作用するかを数式で表せたならば、電子とクォークの運動をよりよく説明できるようになり、宇宙の意志の存在を証明できるであろう。
これが「宇宙の意志の実証的数理形而上学」である。
(4) 要約
電波の方程式が分かり、電波が電子とどのように相互作用するかを説明できることによって、よりよく電子の運動を理解できるようになったことから、電波の存在が証明できたことを、実証的数理形而上学としての電磁気学と呼べる。
そしてもし宇宙の意志の運動法則が分かり、宇宙の意志がどのように電子とクォークと相互作用するかが分かれば、宇宙の意志の存在が証明される宇宙の意志の数理形而上学が構築できることになる。
つまり、これは神の存在の科学的証明である。
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真理の認識としての統一力の認識
(1)はじめに
本記事では、「真理を認識するとは統一力を認識することである。」ということを説明したい。そのために、先ずは「統一力」とは何かを説明し、そのあとで、自己認識とは自己の根源的意志の統一力を認識することであり、物理の法則の認識とは、物理現象を支配する統一力の認識であるし、根源的真理の認識とは、意識・生命・物質を統一的に支配する宇宙の統一力を認識することであることを説明する。
(2)統一力とは何か
カレーライス作りの例を考えよう。カレーライスを作ろうと意志が固まると、材料があるとして、先ずはニンジン刻み、タマネギ刻み、ジャガイモ切りとか、ビーフ炒めをしなければならない。つまり、カレーライス作りの意志は下位の意志に分化する。そして、ニンジン刻み、タマネギ刻み、ジャガイモ切り、ビーフ炒めは、それぞれがバラバラに勝手になされるのではなく、カレーライス作りの意志の支配下にある。この意志の支配下にはいって、下位の意志はバランスよく遂行される。このように、上位の意志が下位の意志を統括する力を統一力という。
そして例えばニンジン刻みの意志は、左手でニンジンを掴む、右手で包丁を掴み押したり引いたりする、というようにさらに下位の意志に分化し、それらの意志をニンジン刻みの意志は統括する。つまり、ニンジン刻みの意志にも統一力があり、下位の意志を統括している。
このように統一力は体系になっていて、上位の統一力は下位の統一力を統括するという関係になっている。
(3)真正の自己の認識
人間には様々な欲求がある。すべての欲求を満足することはできず、通常は欲求に優先順位をつけ、ある欲求は抑制しある欲求は優先的に満足させようとする。それを意志という。欲求それ自体も、行為を左右させて自己を満足させようとする統一力を持っている。しかし、意志が自由に欲求を肯定出来たり抑制出来たりできるならば、その意志が欲求より上位の統一力である。つまり、克己心で自分をコントロールできたならば、克己心を支えている意志は、抑制される欲求よりも上位の統一力を持っているが、克己心が挫折するならば、そうではない。
ある欲求は、それ自体が空中に発生しているのではなく、反省するならば、それより深い欲求によって生じていることがわかるだろう。つまり、人間の種々の欲求は体系になっており、それは統一力の体系になっている。上位の統一力は下位の統一力を統括することができたことから、深い欲求を掴めばそれより浅い欲求はコントロールできることが分かるだろう。この自分の欲求の根源的核が、自分の根源的統一力である。これを認識し掴むことが悟りである。これは自分の人格の統一であり、人格の完成である。
では、悟っていない状態とはどういうことかというと、種々の欲求がバラバラに生じ、ある時はある欲求に従い、別のときは別に欲求に従い、人生の目的自体が統一されておらず、場合によると名誉欲とか性欲という欲求が暴走し、人格全体の統一が取れていない状態である。つまり、自分の浅い統一力しか自覚出来ていない状態が悟っていない状態であり、迷いである。自分の深い根源的統一力を掴むことが悟りである。
(4)他人の認識
他人の顔と名前を憶えて他人を知ったというのは、他人の表面的認識であり、物体としての人間の認識である。他人の本質を知るとは、そういうことではなく、他人の様々な行為の背後に共通して貫く意志や欲求を認識すること、つまり、他人の人格の根源的統一力を認識することである。
しかし、他人の人格の統一力の認識は、自分の人格の統一力の認識した深さ以上には認識できない。他人の人格の統一力の核を認識するためには、自分の人格の統一力の認識の深さはそれよりもずっと深くなければならない。それゆえに、他人の本質の認識はとても難しいものであり、それゆえに、他人をこれで知り尽くしたということはなく、他人から学ぶものは永遠に尽きないものであり、人間関係は興味尽きないものである。
(5)物理の法則の認識
物理の法則とは、先ず力が働けばどういう運動をするかという法則があり、それと自然界にはどういう力があるかという法則がある。
そのうち力として例えば万有引力があるが、それは質量同士には質量に比例し距離の二乗に反比例する引力が働くという法則であるが、それは物質宇宙に遍在する意志つまり統一力であるとみなせるであろう。つまり、カレーライス作りという意志が固定すると、行為が決定するように、何らかの目的を持って宇宙の意志が固定されて、物質の運動が決定したのが万有引力の法則とみなせる。
力にはそれとは別に、クーロン力やローレンツ力という電磁力があるが、それは万有引力とは別の統一力であるとみなせる。これも宇宙の意志の一つである。さらに核力として、強い核力と弱い核力があるがこれらも宇宙の意志であり、統一力であるとみなせる。
素粒子理論では物理の法則を一つにまとめようと努力されているが、それは四つの物理の基本的力である統一力より上位の統一力を捉えようとしていることになる。
しかし、物理の統一力だけでそれらを統一することは不可能であり、先に述べた人間の人格の統一力との整合性を考えないと宇宙の根源的統一力は発見できない。つまり物理の統一力は物理の統一力だけでは閉じていず、意識の統一力と物理の統一力は絡んでいると思われる。それを解明するのが真理の探究の重要課題である。
(6)意識の統一力は個人を超える
自分の内面を深く探り、種々の欲求の源泉を探求すると分かることは、人間の意識は個人に限定されるのではなく、個人を超えた宇宙の意識が次々と分化・限定されて個人の意識となっていることである。つまり、真正の自己の探究は、個人としての自己の探究で終わるのではなく,結局宇宙の本体の探究まで進まなければならないということである。
そして真正の自己の探究は、宇宙的意識の統一力の根源まで達したとしても、それで尽きるのではなく、肉体は物質であるので、物理の法則としての統一力と宇宙的意識の統一力の整合性が問題となる。
意識宇宙の統一力と物理宇宙の統一力の上位の統一力が私の言う宇宙の進化する意志である。それが物質宇宙と意識宇宙のもっと深いところにある根源的統一力である。
その視点から、意識の統一力と物理の統一力の整合性を解明したい。これが私が以前から主張している意識と物質の統一理論の構築である。つまり、物質の法則と意識の法則の両者を説明するとともに、その相互作用も説明する法則の解明を目指しているのである。
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根本的中心問題は何か
(1)はじめに
人間は、人生の途上で様々な問題に直面するが、それらの問題はすべてが同次元に並ぶのではなく、本質的問題とそうでない問題がある。ある本質的問題を解くと、それを応用してそれ以外の問題が次々と解けていく場合、その本質的問題を「中心問題」と呼ぼう。
そこで、本記事では、人類にとって最も本質的問題である「根本的中心問題は何か」を考察しよう。
(2)本質的問題とそうでない問題
大人になってみれば分かるが、子供には何が本質的問題で、何が非本質的問題かが分かっていない。ただ、親に怒られないためとか、先生に怒られないためとかの判断基準で行動するのであって、自分がどのように人生の問題を解決すべきかという姿勢は身についていない。大人になれば、優れた人は、人生の問題や経済の問題、そして社会の問題を解決しようとする姿勢が身についているので、本質的問題と非本質的問題あるいは派生的問題の区別ができる。
例えば、「妻の作った味噌汁がまずかった」という経験を人生の大問題であるがごとく大騒ぎする人は、子供のようなもので、普通はこのようなことは非本質的問題とみなすものであり、そのぐらいで大騒ぎする人は人生の本質的問題を解決する能力はない。
景気の良し悪しは、社会にとって中心問題であろう。というのは景気が良くなれば、多くの会社の利益が増し、社員の収入も良くなり、社員やその家族の直面する多くの問題も金で解決できるであろうからである。景気が良くなれば、他の問題も次々と解決できるので、景気は中心問題である。
このように多様な問題はすべてが同次元に並ぶのではなく、本質的な問題と非本質的な問題があり、ある本質的問題が解決すると次々と他の問題が解けるとき、その本質的問題を中心問題という。そして、人類全体の最大の中心的問題を「根本的中心問題」と呼ぼう。
(3)近代における世界観の根本的中心問題―物理の法則の発見―
ニュートンがニュートンの運動方程式を発見してから、次々とその応用が開発され、それによって現代の物質的科学文明が繁栄している。つまり、物理の法則の発見によって次々と他の問題の解決が可能となった。重力の法則や電磁気学の法則や量子力学などの物理の法則の発見は、根本的中心問題の解決であったことは疑えない。電磁気学や量子力学の法則の発見が無ければ、現代のようなIT産業の発展はありえなかったであろう。このように物理の法則の発見は近代における根本的中心問題であったと言える。
そして、現在では多くの物理学者は、特に素粒子理論を研究している人は、物理の法則を統一することが、人類が欲する真理中の真理であると思っている。それを解決して、物理の法則の統一理論を発見すると、それを応用して一切の人類の謎は解決でき、そして人類の直面する一切の問題が解決しうるのであると考えている。このプログラムでは、人間も素粒子の集まりに過ぎなく、意識は素粒子が集まり脳となってそれが創るのであり、したがって心理学も応用素粒子理論であり、人生の問題は応用素粒子論となり、経済も厳密には応用物理となり、政治も応用物理となるはずである。現代の心理学、政治学、経済学は、応用素粒子論の近似理論であったことになるはずだというわけである。もちろん真面目に、物理の法則から心理学や経済学を演繹しようと考えている人は居ないと思うのだが、しかし、心理学や政治学や経済学は素粒子理論の応用としては複雑すぎて扱えないだけであり、それらは原理的に応用素粒子理論とみなすべきだと考えているのである。それが、素粒子論を探求する真理の立場である。
このように、近代の「根本的中心問題」は物理の法則の発見であったというのは過去的事実であるのは確実であるが、その延長上に物理の法則の統一理論を発見することが、現在の「根本的中心問題」であり、これが未来を切り開くと考える立場がある。
私はこの立場を取らないのだが、私の立場はあとで述べる。
(4)近代における人生の根本的中心問題―経済成長―
生活において、便利な道具があり、快適な生活をおくることができれば、多くの人は幸福と思うだろう。近代において人類はこのような物質的・経済的豊かさを追求してきた。そのことを第一目的として努力してきた。近代では経済成長が人類の根本的中心問題であったのである。
人生における問題も金を中心に解決できる。高収入ならば、人生で直面した様々な問題も金で解決できる。病気になれば病院で治療を受けられるし、欲しいものがあれば何でも買える。何か楽しみたければ、カネを用いて旅行やレジャーに出かけられる。経済成長を実現すれば、その結果他の問題が次々と解決可能となるので、経済成長は人類の根本的中心問題である。
このように、人生においては収入を増やすことが「根本的中心問題である」という見解がある。金があれば何でも解決できるという立場である。
それに対する反論は以下に説明する。
(5)超近代における人生の根本的中心問題−自己発見―
そもそも、「問題を解決する」というのは目的に対して手段を発見することである。目的が不明確ならば、何が問題かも不明確になる。
人間とは何かを簡単に言えば、目的を立てその実現を目指す存在である。金というのは目的があるときに、その目的の実現に役立つものでしかない。近代は人生の目的を探求することを軽視してきた時代であった。近代においては何を人生の目的とすべきかは、真剣に考えず、何となく目的を立て、その目的の実現ために物質的・経済的豊かさを追求してきたのである。
現在は近代が進み、それによって物質的豊かさは飽和してきたので、これから来るであろう近代を超克する超近代は、物質的豊かさへの欲求を超えるさらなる根源的欲求として自己発見―自己実現の欲求が表面化する時代だと思っている。それは、人生の目的を自覚的に発見する時代であり、人生の目的の探究にコストをかける時代である。
社会において問題が絶えない原因の多くは、多くの人が自分の人生の目的を明確に捉えていないことにある。目的が不明確だから不合理なことをするのである。そのうえ、本当は自分が何をしたいからわからないから、表面的感覚的欲望だけを追求して、非生産的人生を送る。
それに対して、自己発見とは本当の自分のしたいことを発見することであり、それによって人生の目的を明確に立てることができる。すると何が本質的問題であり何が非本質的問題なのかを峻別できるようになる。そして問題解決を志向するので、創造的人生を歩める。さらに、自己発見―自己実現が普及すれば、多くの人が社会的、国家的、人類的問題を解決するのを自分の使命として自己発見するであろう。そうすると社会的問題も解決できる。
したがって、私は超近代における人生の「根本的中心問題」は自己発見―自己実現の普及であると考えている。つまり自己発見―自己実現が普及すれば、それ以外の問題も次々と解決できるようになる。
(6)超近代における世界観の根本的中心問題−意識と物質の統一理論―
近代科学のプログラムでは、人間も素粒子の集まりとして物理学から演繹できるものとされていて、その結果人生も応用物理になるはずだとされていた。
しかし、私はそういう立場を取らず、意識は意識として物質に還元できないものとして存在し、それと素粒子の関係を解明する意識と物質の統一理論の発見こそが超近代における世界観の「根本的中心問題」であると考えている。これが解明できれば、生命の主体が生物の身体をどのように動かしているかも解明可能となって生物学も進歩し、それは農業にも応用できるであろうし、医学における心と体の関係も解明でき医学も進歩するであろう。
私の意識と物質の統一理論を構築する学問的位置づけは、物理学から一歩一歩発展させるという立場ではなく、意識についての研究は西田哲学を評価し、それと物質についての真理の最先端の成果である素粒子理論の統合を目指すという立場である。私は、これが現在の学問的真理の探究の最も価値がある課題であると思っている。これこそが超近代における人類の世界観の根本的中心問題であるというのが私の見解である。
そして重要なのはそれが、自己発見―自己実現理論の理論的背景となることである。意識と物質の統一理論においては、通常の物理学で言われている4次元時空の宇宙の他に意識の存在する異次元空間を導入する。そういう高次元宇宙の中に人間の身体と意識はどう組み込まれているかを説明する。そこから、人間は宇宙の進化に貢献すべき存在であり、そのために人類は皆自己の魂を進化させねばならず、それが自己発見−自己実現という意識の運動なのであると説明する。
したがって、私は超近代においては意識と物質の統一理論の構築こそが、世界観の「根本的中心問題」であると考える。
(7)要約
近代においては、「物理の法則の発見」と「経済成長」が根本的中心問題であったが、これから来る超近代では「自己発見―自己実現の普及」と「意識―生命―物質の統一理論の発見」が根本的中心問題である。
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