科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

哲学入門

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形而上学とは何か

形而上学とは何か
(1)はじめに
 「実証的数理形而上学の可能性」
 
 で形而上学とは何かの説明が簡潔過ぎて、分かりづらい人も多かったかもしれないと思ったので、もう少し形而上学とは何かについて説明しておきたいと思う。
 
(2)形而上学の定義
 形而上学とは感覚や知覚を超えた存在を想定し、それを真実在と考える思想形式のことである。「形而上学」は英語では「metaphysics」と表される。「physics
は「物理」であり、「meta」は「超」を意味するので、「形而上学」は、「物理を超えたもの」を意味する。
 
(3)実証主義 
 それに対して、現象の背後に形而上的な原因を想定するような思弁を排して、観察や実験によって検証できる知識だけを求めようとするのが、実証主義である。コントによって体系化された。
 
(4)日常生活における形而上学的要素
 日常生活を感覚や知覚されるものだけを存在するとして送れるかというとそうではないだろう。何よりも他人の心は感覚に映らないし知覚もされない。だからと言って、他人の心は存在しないと結論しては、日常生活は送ることはできない。
 感覚や知覚の背後、つまり現象の背後に物理を超えた他人の心なるものを想定し、認識する努力をしないと、人間関係はうまく行かない。
 
(5)実証主義と形而上学
 形而上学を嫌う物理学者は、人間も物理的に測定可能な原子の集まってできた機械であるとみなし、物理的実験で観測できない意志なんてないと思いたがるが、そういう考えは不合理であろう。
 例えば、ある年配の人が道をある方向に歩いていたとする。その運動を予測するのに、この人間を構成する全ての原子の連立方程式を立て、その人間に作用する外部からの力を想定し、スーパーコンピュータで解くことを考える。それはとても大変なことであり、計算があまりにも膨大で、現実にはスーパーコンピュータでもほぼ不可能である。外部からどういう作用が働くかの予測も相当難しい。
 しかし、その人に声をかけて、「どこへ行くのですか」と尋ねると「銀行に行きます」と答えを聞いたら、その人の運動の予測は簡単で、やがてその人の体は、銀行へ向けて運動していくと予測できる。
 つまり、「銀行へ行く意志」というものが、この年配の人の物理的身体の背後に存在し、その身体の運動をコントロールしているのである。この意志は、感覚には映らないのであるが、確かに存在するのである。「意志」というものは感覚に映らないのであるが、それを想定することを形而上学といい、形而上的原因を排除するのが実証主義というのならば、形而上学的思想形式が、実証主義的思想形式よりも正しいのは明らかであろう。
 
(6)不可知論
 「意識に与えられる感覚的な経験を超えた、その背後にある客観的な実在は認識できない」という考えを不可知論という。
 例えばカントは、現象の背後の実在として物自体を認めているが、それを認識することは不可能であると考えている。つまり、カントは形而上学を否定したのである。
 しかし、カントの形而上学批判は、カント以前の形而上学が、非実証的な空理空論に陥っていたから、それらは学問の資格がないという正当な批判である。
 
(7)物理学は実証的数理形而上学である
 物理学はニュートンによって確立されて以来、学問の模範であり、確実な知識を獲得するモデルとみなされている。そして通常は実証的なだけに形而上学とはみなされていない。
 しかし、よく考えると、物理学も感覚に映らないものを導入している。それは、ニュートンが力学を構築したときに、万有引力なる、知覚されない力を導入したときから既に始まっている。そもそも「力」なるものが、形而上的概念なのである。物体が、運動しているとき、その背後に万有引力やクーロン力や電場や磁場を考え、それが運動を支配していると考えること自体が、感覚を超えたものを現象の背後に想定しているのである。
 つまり、物理学はその確立した時点から、すでに現象の背後に感覚に映らない存在を想定する形而上学であり、ただしそれは空理空論ではなく、数学的モデルを立て、それによって感覚に映る現象を整合的に説明することに成功した実証的数理形而上学なのである。
 
(8)プラトンのイデア論
 形而上学の例として一番有名なプラトンのイデア論を紹介しよう。
 プラトンは真実在は永遠不変で完全なものであり、それをイデアと呼び、現象界はそれを不完全に分有したものと考えた。
 例えばひまわりというものが感覚には映るが、その背後にひまわりのイデアなるものが普遍的に存在し、それが多くの個々のひまわりの花に分有されている。感覚に映るひまわりは成長してやがて枯れて消滅するので真実在ではなく、また虫に食われて不完全なものもあるが、ひまわりのイデアは永遠に存在し完全であるので真実在である。
 同じく現象界の人間の背後には、永遠不変な完全な人間のイデアがあり、それを現象界の人間は分有し、そして有限な存在で不完全である。
 また花が美しいという場合には、何かが美しいだけでなく、美しさそのものという美のイデアが存在し、花が美のイデアを分有しているから花は美しく感じられるのである。
 プラトンはこのように個々の不完全で有限な現象の背後に、普遍的な完全で永遠不変な存在としてのイデアを想定した。
 
(9)宇宙の意志の形而上学
 最後に私の宇宙の意志の形而上学を説明しよう。
 人間には感覚に映る身体の背後に意識として知・情・意がある。これを想定すること自体がすでに形而上学であるが、さらに個人の知・情・意の背後に宇宙の意志を想定する。そして、各々の意志の根源として3つの一者(=神)を想定する。さらに3つの一者の背後に宇宙の進化する意志を想定する。つまり、四段階の形而上学である。
 具体的には個々の人間の知の背後に共通の宇宙の理性の意志を想定し、その根源として理性の一者を考える。個々の人間の情の背後に共通の宇宙の愛の意志を想定し、その根源として愛の一者を想定する。個々の人間の意の背後に共通の宇宙の生命意志を想定し、その根源として生命の一者を考える。そしてさらに理性の一者、愛の一者、生命の一者の背後に宇宙の進化する意志が存在すると考える。
 これが宇宙の意志の形而上学であるが、それを物理学と同じく実証的数理形而上学にまで高めようとするのが私の意図である。

真理の性質

真理の性質
(1) はじめに
 真理とは普遍的で客観的な知識である。このことを説明しよう。
 
(2) 真理は普遍的知識である
 人間はいろいろな知識を持って生きている。この漢字はどう読むのかとか、あの人の名前はなんであるのかという個別的知識や、どういう料理がおいしかったとか、どこそこの旅行は面白かったという個人的体験がある。しかし、これらは通常真理とは呼ばれない。個別的知識とは、特定の「このもの」にだけ当てはまる知識である。
 また、リンゴは赤いとか、空は青いとか、金属には電流が通るとかいう知識もある。こういうのは先に述べた個別的知識より高度な普遍的事実の知識であるが、まだ真理とは呼ばれない。普遍的とは広い範囲にあてはまるという意味である。リンゴが赤いという知識はこのリンゴだけが赤いのではなく、あらゆるリンゴが赤いという意味で普遍的知識なのである。
 真理と呼んでも間違いないのは、ニュートンの運動方程式である。「物体の加速度は、その物体に加えられた力に比例し、その物体の慣性質量に反比例する」という知識である。この知識では、物体が何であるかを問わず、石ころだろうがリンゴだろうが人間だろうが地球であろうが問わない。力は押そうが蹴ろうが殴ろうがそれも問わない。力の大きさだけが問題である。つまり、どういう物体であろうが、どういう力の加え方であろうが、ニュートンの運動方程式に従って物体は運動するのである。そういう意味でニュートンの運動方程式は高度に普遍的知識である。それゆえにニュートンの運動方程式は真理なのである。
 科学的真理だけでなく哲学的真理も普遍的知識である。例えば、意識とは何でありどう運動するかという哲学的真理は、ある特別な意識についての知識ではなく、いかなる場合の意識についても当てはまる知識である。
 人間はいかに生きるべきかという哲学的真理もある特定の人にだけ当てはまる知識ではなくあらゆる人にあてはまる知識である。例えば私の主張する自己発見―自己実現理論では、人間は本当に自分のしたいことを発見するという自己発見をなし、それを実現する自己実現をすべきという主張はあらゆる人間に当てはまるものとして主張しているのである。それは哲学的真理なのである。
 
(3) 真理は思い込みではない
 真理は思い込みの反対である。思い込みとは結論を出すために考慮する範囲が狭く、その範囲にだけ当てはまる知識をもっと広い範囲にあてはまる知識と間違ってみなすことである。それに対して真理は広い範囲の事実に基づいて当てはまると結論された普遍的知識である。
 つまり、真理は自分の狭い範囲の体験だけから結論されるべきではなく、多くの人の体験に基づく知識も考慮に入れて探求されるべきなのである。
 事実に基づくという意味で真理は客観的であり、広い範囲にあてはまる知識という意味で真理は普遍的である。
 
(4) 真理は事実に基づかなければならない
 真理は事実に基づかなければならないという主張から、考察結果を実験で確認すべきという実証科学が興り、それ以来科学が急速に進歩した。しかし、ここで言う事実は物質の事実であり、意識の事実は含まれていない。事実とは物質的事実のみであるとして、意識の事実を考慮しなかった結果科学は唯物論に陥ってしまった。その勘違いを今でも多くの科学者がしている。
 哲学的真理を探究するにおいては、事実に基づくべきという場合の事実は意識の事実も含まなければならない。そのためには意識を客観的に認識する努力が必要だが、そのことは次回の記事で説明しよう。
 ともかく、真理は客観的事実に基づかなければならないが、真理は物理的事実と意識の事実に沿って探求されなければならない。
 
(5) 真理の探究の発展の方向性
 真理の探究はどこまでも普遍的知識を追求をし、どこまでも客観的認識の方向へと発展していく。それは、私の追求する意識―生命―物質の統一理論であり、それはあらゆる現象にあてはまる極めて高度な普遍的知識であり、その認識態度はどこまでも自分の意識を客観視するという態度である。真理は高度な普遍性へ、高度な客観性へと発展していく。

正しい世界観

正しい世界観
(1)常識的世界
 多くの人は世界は見えるとおりにあり、経験されるとおりにあると思っている。お腹がすいて、何か食べたいなと思ったとき、目の前においしそうなスパゲッティがあれば、それは確実にあると思うし、食べておいしければ確実においしいっスパゲッティがあったと思う。それだけでなく、世界には色形のある存在に満ち溢れていて、目で見え手で触れるものを「確実にある」と思う。そしてかなり多くの人が、目で見ることができ手で触れるものだけが確実にあると思い込んでいる。
 
(2)常識で説明できない現象―科学―
 しかし、目で見えないものも「ある」と多くの人も思っている。これが電波である。携帯電話は、電波を用いて通話を実現していると多くの人は知っている。しかし、電波は見えないし手でも触れない。感覚には全く映らない。ラジオは電波で音声を流し、テレビも電波で映像を映している。この電波の何たるかは理学部や工学部を出た人ぐらいしか分からないだろう。電波で映像や音声を伝えるメカニズムを理解するには電磁気学というものを学ばねばならない。
 もっと言うならば、電子レンジはヒーターもないのにどうやって食品を温めているのだろうか。それはマイクロ波で水分子を振動させ加熱しているのである。それには「温度」とは何かという高度な理解が必要になってくる。物質はすべて原子から構成されていて、温度が高いということは原子の振動が激しいということである。マイクロ波を水分に充てると水分子の振動が激しくなり、それが加熱ということなのである。
 総じて電波もマイクロ波も電磁波の一種で両者は波長が違うだけである。
 それだけでも世界は見えるとおりにあると考えていては説明できない現象である。目で見ることができ、手で触れるものだけがあるという考えは非常に幼稚な考えなのである。
 もう一つ言うならば食べて消化するとはどういうことだろうか。食べたものが体を創るとはどういうことなのだろうか。食物は主に炭水化物とタンパク質と脂肪からできている。炭水化物はブドウ糖に分解され、タンパク質はアミノ酸に分解され、脂肪は脂肪酸とモノグリセリドに分解され、体内に吸収される。そして吸収されたこれらの分子が再結合され体を創るのである。つまり、消化して体を創るというのは化学反応であり、化学反応とは分子の結合・分解である。目には食物は原子・分子から構成されるというのは見えないが、消化して体を創るのを合理的に説明するのは、それを前提としないといけない。
 
(3)常識で説明できない現象―哲学―
 科学的に見えないけれどあると思われる存在は外界の対象であった。しかし、哲学的にはもっと深い問題があって、自分自身の意識とは何かという内界の問題がある。もっと分かりやすく言えば「見える」とはどういう事態なのかという問題である。光が眼に入ったら「見える」になるのであるが、それは通常目に見えるただの物体はそれだけでは物を見ることのできないものであるが、ではなぜ人間や生物という特別な物体は物を見ることができるのかという大問題である。現に「物が見える」ということは単に物だけが存在すると考えただけでは説明できず、「意識がある」と考えなければならない。物が見えているということ自体が「意識がある」ということなのである。物が見えているということだけでなく、ある感情を持つとか、意志を持つとか、思考するというように、知情意が存在することは意識があることなのである。意識自体は通常は見えないのであるが、物が見えているということが意識がある根拠である。見えるものだけが存在し、見えるものは物だけだから、存在するのは物だけであると考えるのは非常に幼稚な唯物論である。
 
(4)言いたいこと
 電磁波や原子そして意識は目で見たり手で触ったりはできないが、「ある」と考えないと説明できないことが多くある。だから、目で見え手で触れるものだけがあるという唯物論は非常に幼稚な考えである。超感覚的なものを存在すると考える形而上学は、きちんと実証しようと試みれば、空理空論ではなく、有意義な思考過程である。

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