科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

超近代文明の構想

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快楽の追求と正義の追求
(1)はじめに
 より根源的快楽を追求するのが欲求の遡源であり、より根源的正義を追求するのが思考の遡源である。人間はより快楽を追求する本能があり、そして同時に正しさを求める存在である。この二つは根源的に対立している。
そして、歴史の進展は、人類全体として快楽の追求と正義の追求が互いに対立しながら、欲求の遡源と思考の遡源が進んでいくという形であり、この形式で人類は進化しているということを本稿では主張したい。
時代認識としては、近代は物質的繁栄を実現して、文明として快楽の追求に正当性を与えた時代であり、そして近代の次に来る近代を超克した超近代は快楽の追求を認めたうえで同時に正義の追求も実現していく時代であることも主張したい。
 
(2)フロイトの性欲理論
 20世紀後半は世界的に性欲の抑圧から解放され、性的に自由になった時代である。それは単に道徳が廃れた頽廃の時代という意味に捉えては表面的過ぎる。その根源的思想はフロイトにあり、それは性欲を抑圧すると神経症になる可能性があるという精神分析理論の発見である。その理論に基づいて性欲に抑圧的であるより、性欲を積極的に満足した方が健康的であるという価値観が広まったのである。
 これを一般化すると、個人の欲望の解放運動というのが登場する。少し昔では女性の人権運動、今ではLGBTの権利を認める運動とかがそれである。
 
(3)道徳的な人の本心
 道徳的で性欲を抑圧している人は、性的に自由な人を観ると軽蔑する。それはなぜかというと、自分の本音は性的快楽を追求したいのであるが、それを我慢していて本当は苦しいのであるが、にもかかわらず性的欲求を満足している人を観ると、自分は我慢しているのに、その人は満足していてうらやましいからである。そして、自分の本音を自分に隠すために性的に自由な人を見下すのである。その人を受け入れると、自分の本音が自分にばれるからである。
 一般に道徳的な人は、自分の本心に直面するのを避けて、自分に不正直なのである。自分をごまかしているから、自分を道徳的な人で、性的に自由な人は不道徳で見下されるに値すると思い込むのである。
 
(4)快楽追及する人の無責任
 では快楽を追求するのをそのまま正当化できるかというと、個人個人が快楽を放恣に追求すると社会は無秩序化する。夫婦の絆が堅固であり、不倫が無いことによって家庭は健康に調和できるのであり、性的に放恣ならば、家庭は崩壊するであろう。
 これを一般化すると社会がどうやったら秩序を保てるかを考えたときに「正義」が登場する。文明の在り方はこうでなければならないという政治運動が始まる。現在でも道徳復興運動もあるし、保守のように日本の伝統文化、伝統精神を復興しようとする運動もある。
 
(5)快楽を抑圧する正義は禁欲地獄を産む
 正義は快楽を抑圧して正義を押し付けようとするが、その行き着く先は禁欲地獄である。一部の正義の信奉者だけが満足して、多数の平均人はその禁欲には耐えられない。快楽を否定した正義の文明は地獄を見るのである。
 
(6)正義を放棄する快楽の追求は頽廃地獄を産む
 それでは逆に正義を放棄して、社会に秩序の形成を放棄して快楽追及に専念すれば、どうなるかというと、文化も文明も廃れ頽廃するしかないだろう。頽廃地獄に帰着する。無責任状態である。
 
(7)快楽と正義の両立
 ではどうすればよいかというと、快楽と正義の両立を追求するしかない。それは欲求を遡源して、同時に思考を遡源するしかない。
欲求の遡源とは、欲求を抑圧するのではなく、その欲求を支えているさらに一段と深い欲求を自覚にもたらすことである。当然性欲の遡源もしないといけない。食欲の遡源もしないといけない。あらゆる欲求の根源にある深い欲求を自覚にもたらし、あれこれの欲求をバラバラに満足するのではなく、多くの欲求を体系的に整合的に合理的に満足することを考えなくてはいけない。
思考が浅いと正義は独善に陥る。万人が幸福になるためにはどうすればよいかを考えるように思考を遡源しなければならない。思考の遡源とは自分の思考が独善になったとき、その思考を発した自分のエゴに自覚的になることである。
自分の思考にエゴが混ざっているのに気付き、それを取り除くのが思考の遡源である。
欲求を遡源して、思考を遡源すると、究極的には「快楽の追求」即「正義の追求」の境地に至る。
 
(8)近代の成果と超近代の課題
 近代は物質文明が繁栄して、快楽の満足を実現した時代である。多くの文明の利器、クーラー、自動車、スマートフォン、テレビ、冷蔵庫、シャンプー、など多くの発明品によって人類は快楽を実現している。そして性的快楽もますます追求するようになっている。
 この快楽追及はけしからん。人類は道徳的であるべきだという理念を持っても、近代に作られた時代の流れの後戻りは不可能である。そういう思想は反動思想でしかない。
 そうではなく、今までの快楽追及は不徹底だったと感じるくらい、快楽追及をもっと推し進めて、本当の快楽はここにあるという発見、根源的快楽として、感性的快楽と思考の快楽を統合した快楽を追求すべきである。その行き着く先が快楽と正義の統合である。これが超近代の課題である。
 
(9)快楽と正義の両立が時代を動かすことができる
 これが正義だという思想家は多いが、大衆は正義の追求などはしていないし、また思想を発信する人の多くも正義の探究などしていず、自分の快感のために思想を発信しているだけである。いくら正義を主張しても空回りに終わるのは当然である。正義を追求する人は人類のごく一部だからである。
ではどうすれば良いかというと、大衆は快楽を追求して生きているのがほとんどなのであるが、「これは快楽だけれど正義でもあるね」というものを発信すればよい。こうしてこそ大衆を導くことができる。これで初めて時代を動かすことが可能となる。
今後はこの方法を考えていきたい。
 
 
超近代文明の花形産業
―自己発見−自己実現アドバイザー―
(1)はじめに
 先記事で、自己発見―自己実現した人を創造的人間とし、自己発見―自己実現をちっともしようとしない人を一般大衆とし、人間を創造的人間と一般大衆に二分した。
 そこで、心の貧しい衆生とは、主体的に生きることのできない一般大衆のことであり、創造的人間は一般大衆に奉仕することが人生の目的であるが、文明全体としてやらねばならないことは、創造的人間が一般大衆を救済することである。
 救済とは自己発見―自己実現を出来るように、導くことである。
 そしてこの活動が超近代文明の花形産業「自己発見―自己実現アドバイザー」になるだろう。
 
(2)近代の大衆の物質的快楽の追求
 近代は物質的快楽を満足しやすい時代であり、それ以前は物質的快楽を満足することはほとんどできなかったので、物質快楽を得ようとする欲望は煩悩として捨て去る以外にはなかった。煩悩を持つことは不幸に直結していた。
 しかし、近代の科学の進歩と経済の成長は物質的快楽を満足することを可能とする時代を創った。衣食住に欠く人は居なくなったが、それだけでなく最近では加齢臭対策グッズが売れるほど、快楽追及は徹底している。生理的不快は徹底して排除しようとしている。
 一般大衆は物質的快楽の満足を追求して生きているが、それは広告に操られる人生を送ることになる。おいしそうなお菓子のコマーシャル、流行のファッション、アイドルのCD,イケメンタレントの写真集と、広告は快楽を刺激してくる。この刺激に反応して生きているのが一般大衆である。ちっとも主体的には生きていないのである。
 
(3)創造的人間の一般大衆への奉仕のテーマの転換
 近代においては創造的人間が一般大衆に奉仕するテーマは物質的条件であった。一般大衆が、物質に不自由なく、そして経済的に豊かになるように奉仕するのが、創造的人間の一般大衆への奉仕の中心課題であった。そのためにこそ科学技術は進歩し、経済を成長させてきた。
 しかし、この近代のテーマはもはや飽和して、これ以上物質的満足を追求しても幸福感は増大しなくなった。
 そこで超近代における創造的人間の一般大衆への奉仕のテーマは、一般大衆が創造的人間に近づけれるように、一般大衆も自己発見―自己実現できるように導くことである。これが一般大衆の救済である。これが超近代文明の為すべき課題である。
 
(4)間違ってはいけないこと
 私が人間を創造的人間と一般大衆に二分すると、すぐにそれはエリート主義であり、創造的人間だけが威張ろうとしていると誤解する人もいるかもしれない。しかし、そうではなく、創造的人間は奉仕の対象を必要としているのであり、一般大衆がいないとすることはないのである。一般大衆に奉仕してこそ、創造的人間は満足できるのである。
 だから創造的人間と一般大衆に人間を二分し、創造的人間の威張れる文明を創ってはいけない。それは主人と奴隷の専制帝国になってしまう。そういうのはユートピア〔理想郷〕ではない。理想は創造的人間と一般大衆が仲睦まじく行きていく社会である。
 
(5)超近代の花形産業―自己発見−自己実現アドバイザー―
 そこで私が予見するのは、物質的快楽の追求が飽和している現時点では、一般大衆にも自己発見−自己実現の欲求が芽生えてくるということである。この方向にしかさらなる幸福は無いのである。物質的技術の進歩はそれほど幸福は増進しないので、物質科学は遅れた学問になるだろう。
 近代においては、科学技術で製品を創ったりするように、物質制御による幸福追求が文明の原理であったが、それが限界に来たので、超近代においては心の合理的統御による幸福追求が原理になるだろう。その中心課題が自己発見―自己実現の方法である。これこそ心の技術の最先端テーマである。
 そこで登場するであろう花形産業が「自己発見―自己実現アドバイザー」なのである。一般大衆が自己発見―自己実現できるように懇切丁寧にアドバイスする仕事である。心の技術を駆使するのである。それは、一般大衆が、広告に操られて生きるのを克服し、主体的に社会への奉仕を目的として立てて生きていけるようにアドバイスする仕事である。
 それは創造的人間が単に創造的であるだけでなく、創造的人間である自分を自己反省し熟知し、その精神を一般大衆に伝授する仕事である。これが新たなる創造的人間の仕事である。
 
(6)まとめ
 近代は物質的快楽を満足できる時代になったが、結果として一般大衆は広告に操られて生きるだけになっている。そして近代が終焉しつつある今、物質的快楽の追求による幸福感の増大は飽和しており、一般大衆にも自己発見−自己実現の欲求が芽生えてくるだろう。そこで超近代の花形産業として「自己発見−自己実現アドバイザー」が出現することになるだろう。

創造的人間と一般大衆

創造的人間と一般大衆
(1)はじめに
 文明を設計し建設を遂行する上で、どうも人間を少数の創造的人間と多数の一般大衆に二分して考えた方が良いと思うようになった。この二者を区別しないと文明の動きが見えてこない。
 創造的人間とは私の言葉で言えば、自己発見―自己実現する人、つまり、自分の本当にしたいことを発見し、それが社会への奉仕であり、奉仕としての事業遂行として創造的活動をする人のことである。創造とは物理の法則の発見や機械の発明だけでなく、世の中に貢献するために組織を創ったり制度やルールをつくったりすることなども含む。
 一般大衆とは私の言葉で言えば、自己発見―自己実現を全くしようとしない人のことであり、世の中に奉仕しようとは全く思わず、自分のためだけに生きる人のことである。
 もちろん30歳までは一般大衆であったのが、それを過ぎると自己発見―自己実現を始め創造的人間になるということもあるかもしれないが、しかし、文明の考察、そして文明の建設の遂行の上では創造的人間と一般大衆は区別しなければならない。この二分法は有効だと思う。
 
(2)主体的vs受動的
 創造的人間は主体的に生きるが、一般大衆は受動的快楽を追求する。
 創造的人間は何かを積極的に行為して創造することに喜びを得るのであるが、一般大衆は、感覚を楽しむ以上の喜びを知らない。性欲や食欲を満足したり、余裕が出るとオシャレを楽しみだす。知的創造を楽しむとか芸術的創造を楽しむとか言うことも知らない。一般大衆は何かを創造できるまで自分を鍛えるということをしないのである。だから創造の喜びを知らないのである。
 
(3)独自の自己を追求vs多数派迎合
 創造的人間は独自の唯一の自己を発見しようと努力する。他人と同じであることには満足しないのである。どこの誰とも異なる独自な自己を発見しようとする。しかし、これは奇を衒うのではない。欲求の湧き出しが他人の影響を受けない純粋な自己から発するまで自己を掘り下げるのである。そのときの自分が自分であることに満足するのである。
 それに対して、一般大衆は自分がみんなと同じであることに苦痛を感じないどころか、他人と自分が同一であることにかえっていい気持になるのである。むしろ、自分が他人と違っていることに不安を覚えるのである。
 
(4)教養vs無知
 創造的人間の最大関心事は世の中への奉仕であるが、限られた一生の時間の中で効率的に奉仕するには大量の知識が必要なので、教養を積む努力は怠らない。社会への奉仕を念頭に情報を集め教養を積んでいく。
 一般大衆は、自分の満足しか追求しないので、主観的満足で終わり、教養は積まない。基本的に無知であることに満足している。
 
(5)奉仕vs我欲の満足
 創造的人間は奉仕に生きるのであり、そのためにあらゆる努力をする。それは小さな奉仕のサークルから、世界史を動かす大発見まであらゆるランクがある。しかし、歴史を前進させる原動力は創造的人間の奉仕の精神である。
 それに対して、一般大衆の最大の関心は我欲の満足である。それは歴史の前進にはあまりかかわらない。ただ生まれて子孫を残したという貢献があるだけである。
 
(6)謙虚vs傲慢
 創造的人間はよりよく奉仕しようと心がけているので、自分の認識の欠如を補おうとアンテナを張り巡らしているので、自分の欠点の指摘には謙虚である。
 それに対して一般大衆は我欲の満足だけを追求して、社会へは無責任なので、自分の過ちを認めようとしないので平気で偉ぶる。つまり傲慢である。
 創造的人間が傲慢にならないのは、傲慢になると、自分の過ち気付かず、逆に社会への奉仕の妨げになることを知っているからである。
 
(7)創造的vs消費的
 創造的人間は奉仕のために創造的に生きる。奉仕の実現が創造である。常に何事かを創造しようとしている。
それに対して、一般大衆は我欲の満足のために消費的に生きる。何事かを消費するのに満足するのである。
 
(8)自分に厳しいvs自分に甘い
 創造的人間は社会への奉仕のために自分に厳しい要求を課している。刻苦勉励して努力している。そうしないと社会へ奉仕できないからである。
 それに対して一般大衆は自分に甘く苦しい努力をしない。奉仕が目的でなく、我欲の満足が目的だからである。
 
(9)責任感vs恩知らず
 創造的人間は社会の利便の供給に責任感を持っている。奉仕が目的だからである。
 それに対して一般大衆は社会の利便の恩恵を享受しながらも、その背後にどれだけの卓越した人の苦しい努力があるかを微塵も知らず、それを自然の産物であるかの如く当たり前だと思って感謝もしない恩知らずである。
 例えば電機メーカーの開発者のような創造的人間はスマートフォンみたいなものを発明するのに喜びを感じ、奉仕しているが、一般大衆はスマートフォンを使うにしても、それが発明されるまでどれだけの優秀な人のしかも苦しい努力のたまものであるかも知らず、雨が降るように自然発生的にスマートフォンが出現したと錯覚している。一般大衆は文明を享受しながらも恩知らずなのである。
 
(10)文明発展の推進者vs文明発展の享受者
 最後に最も重要な認識であるが、文明を発展させる推進者は創造的人間であり、自己発見―自己実現した人たちなのである。
 一方一般大衆は発展した文明の享受者でしかないのである。
 
(11)成果
 人間を創造的人間と一般大衆、つまり自己発見―自己実現している人と、していない人に二分することによって、文明設計、超近代文明建設運動の方針に見通しが出てきた。
 今後、超近代文明を建設していく上で、創造的人間へのアプローチ、そして一般大衆へのアプローチを分けて考えきれるようになった。
 
(12)さらなる課題
 創造的人間と一般大衆に人間を二分する考えに基づいて、文明の運動を分析し、超近代文明設計を一歩具体化する。
超近代文明の原理―進化の原理―
(1)はじめに
 近代がもうすぐ終焉して、近代を超克した超近代文明の時代がやってくると私は主張しているが、近代の三つの原理、α)唯物科学の原理、β)個人主義の原理、γ)資本主義の原理を超克する原理は進化の原理であることを説明したい。
 
(2)唯物科学を超克する進化の原理
 西洋発の近代唯物科学は、機械論的唯物論であり、それは世界のすべてはゼンマイ仕掛けの時計のように、機械的因果律に則って受動的に運動しているだけだという世界観に基づいている。その世界観には自発的に運動する生命というのもないのだし、そもそも自発的に発展する進化というのもないのである。
 しかし、生物学に進化論があるではないかというかもしれないが、その進化論は機械論的唯物論に則って、自然淘汰に従て偶然進化したと考えるのであり、私が主張する個人の魂の進化のように努力して進化するとは考えないのである。あくまでも、世界は機械的に運動していると考えるのが近代科学である。
 それに対して、超近代の科学は、物質に還元できない意識が異次元にあり、それを物質界で受信するのが生物であり、より高次の意識を受信するように生物は進化しているのだという世界観を持つ。そして高次の意識を受信するための進化は、個体の努力によるものであると考える。
 したがって、人類も進化の途上にあり、より高次の意識を受信するために努力しているのであり、人類の使命は進化にあると考える。
 「宇宙は進化している」「生物も進化している」「人類も進化している」「人生の目的は魂の進化にある」という世界観、生命観、人類観、人生観が、超近代の世界観、人生観である。
 
(3)個人主義を超克する進化の原理
 近代の個人主義において、個人を尊重するのは確かに正しいことなのであるが、その根拠があいまいであり、その結果エゴイズムを助長する傾向にある。自分の義務は放棄して、人権ばかりを唱える傾向は現代社会には出てきている。
 何故個人を尊重しなければならないかを、超近代的視点から見れば、それは魂の進化を促進する手段としてである。魂の進化とはより個人が深く自己を発見し、それを外へと広く展開することなのであるが、それは異次元のより高次の意識を受信したことを意味するのである。その促進のためにこそ、個人は尊重されねばならないのである。自己発見を促進しない堕落する個人主義は超近代では否定される。しかし、個人を尊重しない限り魂の進化は促進できない。
 したがって、個人主義のエゴイズム的傾向は進化の原理で超克される。
 
(4)資本主義を超克する進化の原理
 資本主義の原理を資本の増殖を第一目的とするという考えは、超近代では否定されねばならないが、個人の魂の促進のために、経済的ゆとりを達成しなければならないという発想は肯定されなければならない。
 経済成長は、魂の進化を促進する自己発見―自己実現を実現するときに肯定されるのであり、自己発見―自己実現を妨げてまで、経済成長したら意味が無いのである。
 経済成長の目的は、自己発見―自己実現を促すためであり、それは魂の進化に貢献することに他ならない。
 
(5)超近代文明の原理としての進化の原理
 結局近代文明の三つの原理、α)唯物科学の原理、β)個人主義の原理、γ)資本主義の原理は、超近代文明の唯一つの進化の原理で超克されることが分かった。
 

近代超克の方法

近代超克の方法
(1)はじめに
 私は3年ほど前から、現在は近代が終焉に向かっていて、近代の原理では歴史が前進できなくなりつつあると認識している。そして近代を超克する超近代文明の時代が始まると思っている。
 そこで本稿では、この時代の流れに沿って、私が構想している近代を超克する方法を説明しよう。
 
(2)西洋発の近代
 近代文明はルネッサンスと宗教改革と科学革命を経て、西洋で誕生した文明であり、西洋のローカルな文明ではなく、西洋で誕生以後、世界中を席巻した文明である。何故、西洋発の近代文明は、世界中に広まる力を持つことができたのかは、私はまだ分からない。それは現在考察中である。
 
(3)近代の原理
 近代の原理は、α)近代唯物科学、β)個人主義、γ)資本主義の三本だと思ってよいだろう。それぞれ簡潔に説明しよう。
 
 α)近代唯物科学
 西洋に近代科学が興ったのは世界史的に重要な事件である。それはコペルニクスによる地動説に始まり、ケプラーによるケプラーの法則の発見、そしてガリレイによる慣性の法則や落体の法則の発見、そしてニュートンによるニュートンの運動方程式と万有引力の法則の発見によって完成した。
 我々現代人は科学の恩恵をふんだんに受けて自然界に数式で表現できる真理が存在するということを当たり前であると思っているが、しかしそれはとても不思議なことなのである。そんなのは当たり前ではなく、デカルトやガリレイが数式でもって自然の真理を捉えるという発想をするまでは、全く当たり前ではなかったのである。
 そして近代科学が威力を発揮したのは、産業革命によって、科学が経済とリンクすることによってである。科学の進歩が経済の成長を促し、経済の成長が科学の進歩を促すようになって、世界中は激変した。科学はどんどん進歩するし経済もどんどん成長した。
 そして、近代の幸福追求の仕方の一つとして、物質を制御することによって幸福を獲得するという発想がある。それが近代の一つの原理なのである。
 
β)個人主義
 私は個人主義の元祖はロックではないかと思っている。社会契約説を説いた思想家である。ロックが個人主義を主張するようになった発想の由来はまだ理解していない。しかし、ロックとルソーが社会契約説を説いて、それが世界中に広まって、近代国家が成立した。ロックやルソーが近代国家のビジョンを打ち立て、それに基づいてアメリカ合衆国の独立やフランス革命が起きたのである。そして、その二国だけでなく、社会契約説は世界中の近代国家のひな型になっている。独裁や全体主義は悪であり、個人の人権を尊重した民主主義が善であるというのが世界の標準的価値観である。
 個人のために国家や政府は有り、個人の人権は尊重すべきという価値観で世界は動いているのであり、個人主義は近代以来現在までの文明の原理である。
 
γ)資本主義
 経済自体は資本の増殖を目指して動いていて、それが資本主義の原理なのであるが、資本と関係のない大衆にとって、資本主義の精神がどう浸透しているのかというと、金を儲けるために働くのが、人間の正しい生き方であるという価値観の浸透によってである。より多く儲ける人が偉いという価値観である。その結果は資本の増殖への貢献なのであるが。
 近代資本主義は、人間の精神活動、肉体労働、そして自然の資源を、最大限資本の増殖に向けて投入するように誘導する。資本主義文明では、個人が自分の精神的満足のために、身の回りの人の幸福のために活動しようと思っても、それは妨げられ、資本の増殖に貢献しないと、うまい具合に生きていけないようになっている。
 資本主義の原理が稼働しているのは、金を儲けることが幸福のための条件であるという価値観が支配的になっているからである。それも近代の原理の一つである。
 
 
(4)近代の超克方法
 私の言う「超近代」は「反近代」ではないことがミソである。近代に反抗して、対立する原理を打ち立てようとしているのではないのである。そうではなく、近代の原理を積極的に推し進めて、それを深めることによって近代を内包した超近代の原理を打ち立てようと考えているのである。これも三つを説明しよう。
 
α)近代科学の超克方法
 近代科学に対抗して、それと別の科学を創るのではなく、現代物理学の進歩の延長上に、唯物論を終焉させる意識―生命―物質の統一理論を構築しようと考えているのである。現代科学を否定するのではなく、現代科学を内包したより高度な非唯物論的科学を構築しようとしているのである。
 
β)個人主義の超克方法
 私が個人主義を徹底しているのは、自己発見を奨励していることから分かると思う。自己発見とは、他の誰とも異なる独自の自己の発見であり、それは個人を最大限尊重しているのである。しかし、真の自己発見−自己実現は他者貢献にあるとすることによって、個人主義でありながら、エゴイズムに陥ることなく、個人主義が全体の調和に貢献できる。むしろ、全体の調和に貢献する自分を発見することが、真の自己発見であり、それは個人主義を徹底することによる、個人主義の超克である。
 
γ)資本主義の超克方法
 これはまだアイデアは煮詰まっていない。ただ方針としては、自己発見―自己実現に貢献してこそ、経済の成長は意義があるのであり、いくら経済が成長しても、自己自己発見―自己実現を阻害したら意味がないと思っている。経済が成長すれば、生活にゆとりができて、自己発見―自己実現はやりやすくなるので、経済成長は良いことなのであるが、近代資本主義は生活のゆとりで余ったエネルギーが、自己発見―自己実現に向かわずに、さらなる経済成長にばかり向かうので、このままでは真の人間の幸福には貢献しない。
 いかにして自己発見―自己実現を促進する経済システムを始動させるかはまだ分かっていない。
 
(5)近代超克の方法のコンセプト
 私が提案する近代超克の方法の重要なコンセプトは、近代の原理に対立しないで、近代の原理を受け入れて、それを推し進めて深めることによって、近代を超克しようとすることである。近代の原理の対抗したのでは、摩擦が激しくて不幸を産むし、そしてエネルギーがいくらあっても足りないだろう。近代の原理を受け入れたならば、摩擦も少ないし、エネルギー源も近代の推進力からも供給できるので、時代の変革のためのエネルギー効率が良い。

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