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種の論理―田辺元―
(1) はじめに
田辺元(1885〜1962)は東北大学講師のときに西田幾多郎(1870〜1845)に招かれて、京都大学助教授になりのち教授になった哲学者である。
最近、田辺元の「種の論理」〔岩波文庫〕を入手したが、非常に興味を惹かれた。
それは、私の西田哲学に対する疑念を3点にわたって共有していたからである。「種の論理」はこれから読むのであり、まだほとんど読んでいないのだが、読む前の問題意識の整理として、この3点を説明しよう。
(2) 種の論理
西田哲学は、絶対無と個の関係の思想である。個の論理と言える。個人と絶対無がどういう関係になっているかの論理が場所の論理である。そういう理由で国家・民族と個人の関係が説明しづらい。
それで西田に対抗して、田辺は「種の論理」を提唱した。田辺が種の論理を構想したきっかけは、国家の個人に対する強制力に合理的な理由があるのかどうか、あるとすればその根拠は何かを説明するためであった。そして、それは種族的なものであると説明された。分かりやすく言えば、日本民族の一体化のために国家は個人に強制力を働かすことができるというのである。しかし、それを無批判に肯定しているわけではないことを言っておく。
ともかく、私は田辺哲学の種の論理が西田哲学の個の論理より国家をうまく説明できるのではないかと期待している。
(3) 絶対媒介の論理
西田哲学では媒介なし(中間を経ないで)に絶対無と繋がる。それが「即」で表されている。それに対して田辺は必ず媒介(中間段階)が必要である、一歩一歩ステップアップしなければならないということを主張した。これが「絶対媒介の論理」である。つまり、媒介なしにいきなり絶対無と繋がるのではなく、必ず媒介が必要ですよという主張である。それは私自身の実体験から言って一者に到達するのはワンステップずつの上昇であり、いきなり一者に到達するのではない。そういうことで、私は田辺に共感する。
(4) 流出説に対する疑念
西田は一切は絶対無から流出して創造されたものであるとして、絶対無の自己限定で全てを説明しようとした。それに対して、田辺は、現実の全てを流出で説明するのは無理があるのであり、この世の現実は、直に経験しないと分からない側面もあるのではないかと考えたようである。私の直観では絶対無から何かが流出するのは絶対無とは別の他者が必要であり、それ故に自己限定が起こり、完全な絶対無から不完全な現象界が生じるように思える。
(5) 絶対弁証法
ついでに田辺の絶対弁証法も簡単に説明しておこう。
田辺から見るとヘーゲルの弁証法は観念的で非実践的である。つまり、頭だけの哲学なのである。それに対してマルクスの唯物弁証法は、事実に偏しヘーゲルとは逆の意味で抽象的である。ヘーゲルとマルクスを総合したのが、田辺の絶対弁証法である。
(6) 最後に
以上の問題意識を持って田辺元の「種の論理」を読もうと思う。
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田辺元
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