科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

遡源理論

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意識の全運動形式

意識の全運動形式
(1)はじめに
 「意識の運動」と言ってもピンとこない人が大半かもしれないが、人間には意識がありそれは常に変化している。この意識が変化することを意識の運動と呼んでいるのである。そして意識には知情意があると言われるように、意識の運動には思考、感情、意志(欲求)がある。
 しかし、通常は思い付きで考え自分がいかに考えているかは認識しないし、感情も生じるままに従いコントロールしないし、欲求も赴くままに従いコントロールしない。つまり、無自覚に思考し、感じ、欲求している人が大半である。
 人間の不幸の原因は、主観的に考え、客観的に考えないこと、人を嫌ってさばくこと、我欲に従うことにある。幸福になりたかったら、客観的に考えること、人を許して好きになること、我欲を克服しみんなのためを欲求するようになることが必要である。
 そこで、意識の全運動形式を網羅的に俯瞰し、心の統御の努力の課題の全貌を観れるようにしたい。
 
(2)意識の全運動形式
 意識の運動形式には思考と感情と欲求があるが、思考には思考の遡源、思考の共鳴、思考の展開がある。感情には感情の遡源、感情の共鳴、感情の展開がある。欲求には、欲求の遡源、欲求の共鳴、欲求の展開がある。この九つをそれぞれ説明しよう。
 
(3)思考の運動形式
ある観点に立って思考することができる人は多いが、それは思考の展開である。思考の展開は思考の意志と言っても良い。勉強してそれを応用するのは思考の展開である。
そして思考の遡源(そげん)という運動もあるが、遡源とは源流に遡る(さかのぼる)という意味でこう表現している。思考をどんどん源流に遡ると、個人の思考を超越した宇宙の理性に到達する。宇宙の理性は理性の神とも表現できる。
思考には原理があり、ある原理をより深い原理から説明する努力が思考の遡源である。例えば物理学でオームの法則という法則が知られているが、これは究極的原理ではなく、マクスウェルの方程式の応用として説明された。このようにある法則をより根本的法則から説明するのが、思考の遡源である。ある思考を原理として思考しているときに、この思考を客観視し、その原理をより根源的原理から説明しようとする努力が思考の遡源である。
そして思考の共鳴というのは、ある理論を勉強したとして、他の理論に関心を持つのが思考の共鳴である。共鳴は基本的に感情的なものであり、共鳴したり反発したりする。ある理論の立場に立つと、他の理論に共鳴したり反発したりする。これは感情の遡源と同じように、反発を抑えて共鳴を増大して、他の理論を吸収し統合する努力をすると、遡源が生じより根源的理性に遡ることができる。
 
(4)感情の運動形式
 感情は好き嫌いであり、それは別の表現をすれば牽引と反発である。好きなら好きに従い、嫌いなら嫌いに従うのは、感情の展開である。しかし、嫌いを克服して好きに変えていくこと、反発を抑えて牽引に変えていくことが、感情の遡源である。感情をどんどん遡源していくと、感情が愛に満たされていき、究極的には個人を超えた宇宙の根源愛に到達する。宇宙の根源愛は愛の神と呼んでよいだろう。
 感情にも共鳴がある。自分の感情が愛で満たされていたら、他人の愛に共鳴し、他人はいい人に見える。逆に、自分の心が憎しみに満ちていたら、他人の憎しみの感情に共鳴し、他人は悪い人に見える。
 
(5)欲求の運動形式
 欲求にそのまま従うのは、欲求の展開である。しかし、欲求がなぜ生じるかを反省し、それがより根源的欲求から生じているのを認識すると、それは欲求の遡源である。
 欲求には生理的欲求と精神的欲求があり、生命的欲求をどんどん遡源すると、宇宙の根源的生命意志に到達する。それは宇宙の生命を統括する生命の根源である。精神的欲求とは高尚な理想のことであり、普遍を意志し、みんなのためを意志するものであり、精神的欲求をどんどん遡源すると、宇宙の精神意志に到達する。宇宙の精神的意志とは人間の精神を動かす究極主体である。
 そして精神が遡源しみんなのためを欲求したら、それを実現しようと実践するが、それが欲求の展開である。
 欲求にも共鳴・反発があり、自分と同じ欲求を持っている人は集まり集団を創る。趣味などがそうである。俳句を作るサークル、絵画のサークル、武道のサークルなどがそういうものである。それらは欲求の共鳴である。同じ欲求同士は牽引し、反対の欲求は反発したりする。
 
 
(6)精神の努力で傾けるべき努力
 ほとんどの人は思考にしても感情にしても欲求にしても現状のレベルで展開するが、より深い思考、より深い感情、より深い欲求を開拓するような遡源の努力がないがしろにされている。それがなかなかユートピアができない根本的原因である。遡源こそが物事の問題の根本的解決の方法である。つまり、客観的に考え、人を許し、みんなのためを欲求することが、問題を解決する基本原理である。したがって、意識の遡源を促進する思想運動を展開しないといけないと思っている。

問題は遡源で解決すべし
(1)はじめに
 何か問題が生じると、感情的になり、人に攻撃的になったりして事態を悪化させる人は多いのではないだろうか。そもそも問題が起こった原因はどこにあるのか冷静に考えただろうか。
 問題解決の合理的方法は、外界を思い通りに変えようとする前に、自分自身を変えることである。私の理論では問題は遡源で解決するのが王道ということになる。
 
(2)遡源とは何か
遡源には思考の遡源と感情の遡源と欲求の遡源がある。遡源とは源流に遡るということで、思考の源泉は理性の神であり、思考が理性の神に遡ることを思考の遡源と言い、感情の源泉は愛の神であり、感情を愛の神に遡ることを感情の遡源と言い、欲求の源泉は生命意志と精神意志であるが、ここでは精神意志の神に遡ることを欲求の遡源という。
 
(3)思考の遡源による問題解決
 思考を遡源するとどうなるかというと、より客観的に思考できるようになるのである。客観的と言うと、外界を客観的に認識するには科学であるが、それは実際科学者は外界を客観的に認識し、それで多くの問題を解決している。しかし、客観的に考えるというのは外界だけではなく、自分の思考、感情、欲求を客観的的に認識することも含む。
 問題が生じたとき、自分はどういう思考の仕方をしていたか、問題が生じたとき自分はどういう感情を持っていたか、問題が生じていたとき自分の欲求はどうであったか、と自分の知情意を客観視するのが思考の遡源であり、問題解決に向けて自分の知情意はどうあるのが好ましいかを考えて、その方向に自分の知情意を誘導するのが問題解決の方法である。
 
(4)感情の遡源による問題解決
 感情を遡源するとどうなるかというと、心が愛で満たされるようになるのである。つまり嫌いと言う感情や憎しみという感情を許しによって克服し、それを愛に転換するのが、感情の遡源である。
 つまり問題があるという状況は、あなたが人を憎んでいるという事実が原因であり、嫌いな人がいるという事実が原因であり、憎んでいる人を許して、嫌いな人を好きになれば、問題は解決するということである。これは極めて合理的な解決方法である。
 
(5)欲求の遡源による問題解決
 欲求を遡源するということは、生理的欲求などの低次な欲求が主な欲求だったのが、みんなのためという高尚な欲求が主な欲求になっていくことである。
 そもそも問題がある状況というのはエゴが突出して低次な欲求、つまり煩悩を持っていることが原因ではないかと反省しよう。無限に湧いてくる煩悩を満足しようとすることは不可能であり、煩悩を持つがゆえに問題に直面しているのである。
 したがって、低次な欲求を抑制し、高次な欲求、つまり自分だけのための欲求ではなく、みんなのためを本音の欲求にできれば、問題は解消するのである。
 
(6)まとめ
 問題の解決方法は、外界も内界もより客観的に考えきれるように思考を遡源し、より心が愛で満たされ、人を許せるように感情を遡源し、自分のためだけを思う低次の欲求を抑えて、みんなのためを思う高次な欲求を持てるように欲求を遡源することである。
 これは個人の問題だけではなく政治的問題も経済的問題も皆この方法で解決できるユートピア〔理想郷〕建設の普遍的原理である。
哲学的思考―意識のあるがままを認識する―
(1)はじめに
 超一流の哲学書は難解であるが、それは数学的客観性の難解性とは異なった難解性がある。それは超一流の哲学者は自我の殻を破って、自己の自我にとらわれない客観的思考をしているということである。そのことによって、自己の意識をあるがままに認識することができているのである。意識のあるがままを認識するのが真理の認識の条件である。意識のあるがままを認識出来て初めて意識の法則を認識できるようになるのである。意識の法則こそが真理なのである。
 自我の殻を破った哲学として、フッサールの純粋意識、西田幾多郎の純粋経験、ベルクソンの純粋持続があげられ、ともに「純粋」とは、あるがままという意味で、先入観を付加されていないあるがままの意識を認識できていることを言っている。
 本稿では、自我の殻を破りあるがままの意識を認識する思考方法を説明しよう。
 
(2)外界の主観的認識
 哲学は意識とは何かを研究するので、自己の意識を厳密に深く認識する。しかし、通常の人に意識は主に外界に向けられていて、内側はかすかにおぼろげにしか認識しない。
 通常の人間は、外界を欲求の対象として主観的に認識する。リンゴを見たら食べる対象として、自分の欲求の対象として認識する。それだけでなく、あらゆる外界を自分の欲求の対象として解釈する。テレビも見たい番組を観る電化製品、スマートフォンも電話やネットをするもの、鍋も料理をするもの、料理とはおいしい食事を作るための行為である。世界を主観的欲望を満足するための対象として認識しているのであり、ちっとも客観的に認識する努力はしていないのである。
 
(3)外界の客観的認識
 外界を客観的に認識するときは先ず外界には空間があるということなので、相対論以前は外界はユークリッド空間とみなされていた。縦横高さの3次元の空間である。外界には距離があり近いとか遠いとかいう量があり、ある場所までの地点には縦横高さの3つの座標を割り当てればよい。しかし、飛行機に乗らない限り平面であり、2次元の座標を割り当てればよい。東経何度であり、北緯何度かで、場所は指定できる。
外部の物体の運動は作用する力で決定する。外部を客観視する見方で、自分を認識すると自分の肉体も運動する物体である。自分の足が運動して、歩く行為ができるのであるが、歩く運動も力学に従っている。つまり、肉体の移動もニュートンの運動方程式に従っている。
 しかし、このように外界を客観視する人も物理学者ぐらいであり、多くの人は先に述べた主観的にしか外界を認識しない。それでは当然客観的真理は認識できず、思い込みを生きていることになる。そういう人は客観的現実というのに無縁なのである。
 
(4)意識の主観的認識と客観的認識
 意識をきちんと認識する人は少ないが、自分の意識についても主観的認識と客観的認識がある。
 意識の主観的認識とは無自覚に考え、無自覚に感情を持ち、無自覚に欲求を持つことである。
 意識の客観的認識とは自分の思考プロセスを客観的に認識し、自分がどういう感情状態なのかを自覚し、自分が何を欲求しているかを自覚することである。
 
α)思考
 つまり、自分がどういう思考の仕方をしているのかに無自覚に考えるのである。ほとんどの人は自分がどのように考えているかを自覚していない。何を想起し、それをどう変化させてそれをどう感じているかを自覚していない。無自覚な思考をしている。
客観的に考えるとは、何を想起しそれに自分がどう反応しているかを自覚しながら思考することである。分かるという感じ方はどういう感じ方で、自分はどのくらい納得して、どのくらい不満足かを自覚していることである。
 
 
β)感情
 その都度の感情に盲目的に従うと、ある感情は満足でき別の感情は満足できないということになり、トータルとしては不満足に終わる。そうではなく、自分の感情を対象化してそれにはすぐには従わず、自分のさまざまな感情を勘案し、トータルとして最も満足できるようにしたがったりしたがわなかったりするのが良い。
 
γ)欲求
 自分の欲求に無自覚に生きている人も多い。自分が何をしたいか分からない人も多い。出世欲に駆られているが無自覚であるとか、人に意地悪したいが無自覚であるとか。
 自分の欲求をどこまで深く認識しているかは人それぞれである。欲求はどこまでも深く認識することができる。
 
(5)防衛的思考
 自分の思考、感情、欲求に無自覚に思考する人は、自己防衛のために思考している。人に非難されると、自分を守り正当化するために思考を始める。例えば政治の議論をする場合でも本当に客観的に思考しているかというと、全くそうではなく、自分の立場に有利な材料を集めて、自分に有利な結論を導くように偏った思考をする。
 人に痛いところを突かれるととっさに防衛態勢に入って自分を正当化しようとする。
 
(6)防衛を止める
 客観的真理を認識するためには、防衛を止めなければならない。人から自分の欠点などの痛いところを突かれたとき、防衛するのではなく、自分でもっと痛いところを探して、自分でずぶりと突き刺さなければならない。客観的思考とは切腹するようなものなのである。それが苦しい思索というものである。人に指摘されたくない自分の最も痛いところは何かを探して自分でずぶりと突き刺すのである。
 
(7)私心を断つ
 そもそもなぜ突き刺されたら痛いのかというと、私心があるからである。プライドが傷つくのはプライドという私心があるからである。プライドを持っていると、自分のプライドが傷つくようなことは考えたくないのであり、そうすると客観的思考ができなくなるのは当然である。プライドがあるから傷つくのであるから、プライドを捨てればよい。これで痛みは無くなるとともに、客観的に思考ができるようになる。
 結局、私心を捨てれば、自分で突き刺した痛みも無くなって客観的に思考できるようになる。
 
(8)自我の殻を破る
 自分で自分の痛いところを突き刺して、それが痛くなくなるように私心を取り除くという思考を10年程も続ければ、次第に自我の殻が破れて、自分の意識をあるがままに認識できるようになる。思考が自我の束縛から解放されるのである。これが超一流の哲学的思索である。
 
(9)真理の探究の開始
 自我の殻を破って、自分の意識を客観的に先入観抜きにあるがまま認識できるようになると、自分の意識の変化のプロセスを認識できるようになる。つまり、真理の探究が可能になるのである。この観察を何十年も続ければ意識の法則とはこういうものだというのに習熟してくる。つまり真理を認識できるのである。

欲求の発展段階説

欲求の発展段階説
(1)はじめに
 人間は生まれたときは、自己中心的に欲求を満足しようとするエゴイストであるが、次第に他人に配慮するようになり、理想的には最後は「自分のため」と「人のため」が合致するに至る。その欲求の発展段階を説明しよう。
 
(2)欲求の発展段階説
    第一段階
「自分のため」と「人のため」は対立しているが、他人に迷惑をかけてでも自分の欲求を満足しようとする段階。
    第二段階
「自分のため」と「人のため」は対立しているが、自分の欲求の満足のために、他人に服従する段階
    第三段階
観念的・道徳的に人のためにすることは良いことであると考えているが、本音は「自分のため」と「人のため」は対立していて、自分の欲求を抑えて他人に奉仕する段階。
    第四段階
本音において自分のためと人のためが合致している段階
    第五段階以降
「人」に相当するのが「パートナー」、「家族」、「会社」、「地域」、「国家」、「人類」、「地球」、「宇宙」とスケールアップしながら、第一段階から第四段階までを繰り返す。
 
(3)第一段階
 生まれたての赤子は、不快があると泣くことによって、母親を動かし、自分の欲求を満足する。人に迷惑をかけるのではないかという配慮はしない。人に迷惑をかけてでも自分の欲求を満足しようとするのがこの段階である。
 
(4)第二段階
 45歳の幼児になると、親から人に迷惑をかけないようにしつけられ、そして自分のわがままはそれだけでは押し通せないことが分かってくる。すると、自分の欲求を満足するためには親や家族身の回りの人の言うことに従わなければならないことを学んでいく。自分の欲求と人の欲求とは対立しているのであるが、自分の欲求を満足するためには、それを一時的に我慢して人の言うことに従わなければならないということを熟知してくる。
 
(5)第三段階
 青年期になると人格的向上を目指す人も出てくる。そうして人に奉仕することは良いことであると道徳的に学んでいく。しかし。それはまだ観念的なものであり、頭では「人のため」と思っているが、本音では「自分のため」と「人のため」は対立して、人のための行為も自分の欲求を抑えて行っている。理想は在るが、現状の自分はそれについて行っていない段階。
 
(6)第四段階
 人に貢献することが即自分の喜びとなる段階。つまり、「人のため」と、「自分のため」が矛盾なく合致する段階。これに至るには本当に自分のしたいことを発見する自己発見をして、その自己でもって他人に貢献する自己実現をしなければならない。理論的に貢献は良いことだと学ぶだけでなく、実際に何かを努力して貢献した体験が必要である。
 
(7)第五段階以降
 「人のため」と「自分のため」が一致するときの「人」が、「パートナー」である段階から、「家族」である段階、そして「会社」や「職場」である段階、そして「地域」、さらには「日本」、そして「人類」の段階、そして人類以外の生命を含めた「地球」、そして物質の根源も含めた「宇宙」の段階へと広がりつつ、より広範囲に普遍的に奉仕することが自己の喜びとなっていくのが欲求の高次化、欲求の普遍化、欲求の発展である。

弁証法的思考

弁証法的思考
(1)はじめに
 「弁証法」とは、ヘーゲルが発見した思考の運動法則であり、それは
    矛盾・対立の無い素朴な統一状態。[正]
    矛盾・対立が露呈した分裂状態[反]
    矛盾・対立が解消された高次な統合状態[合]
というプロセスを思考は経て、意識は発展するという法則である。
 しかし、ヘーゲルはそれを単に人間の思考の法則ではなく、あらゆる実在の運動法則であると考えた。
 
(2)母子の弁証法的運動
 母と子は子供の自我が未成立のとき、素朴な一体感がある。これが「正」の状態である。
 次に子供に自我が芽生えてくると、自分と母は異なる人格であることが分かってくる。思春期になれば親とは異なる独自な主体を確立しようとして反抗期になることが多い。それは分裂状態であり、すなわち「反」の状態である。
 さらに子供が成長して成人になると、大人同士としての理解し合いに到達する。それは高次な統一状態であり、自他の区別を認識したうえでの和解であるから、より高次な一体感がある。これが「合」の状態である。
 
(3)素朴な統一状態「正」
 矛盾・対立が生じる以前の素朴な統一状態が「正」の状態である。しかし、その平和が永遠に続くことはなく、必ず矛盾・対立の状態に遭遇する。
 
(4)矛盾・対立の露呈する分裂状態「反」
 「反」というのは対立状態だが、良くないから避けるべきだというものではない。人間関係というものは、素朴な一体感というのは互いの相違というものに気付いておらず、相違が露呈し対立になるのは必然なのである。自他の区別を明確に認識するというのは、人間にとって大切なことであり、それは反の状態なのだが、避けるべきというものではないのである。
 
(5)相手を思い通りに動かそうとするのは、問題の根本解決には至らない
外部の人との対立を、相手を自己に従わせて解決しようとしても、これはいつまでたっても本質的問題の解決には至らない。自分の意向に相手が従わないことが問題なのではなく、対立があること自体が問題なのであることを認識しないといけない。問題の解決とは対立を解消することであり、相手を自己に従わすことではないのである。したがって、相手を自己に従わそうとしても、相手も反抗して対立は解消しないので根本解決には至らない。むしろ対立の強化にしかならない。相手を懲らしめてやろうと攻撃を加えると、相手も反撃してくる。いつまでたっても対立は無くならない。人を自分の思い通りにしようとすることは、「思い通りに成ったら問題は解決する」というような問題解決に向けての努力ではなく、逆にそれが問題を発生させているのだということに気付かなければならない。対立があることが問題があるということなのである。問題解決とは、相手を思い通りに動かすことではなく、対立を無くすように和解することである。
 
(6)分裂の内面化
 人間関係の対立は最初は自己と外界の対立であるが、相手の立場を理解し受け入れることにより、自己の内面で相手の立場と自己の立場の分裂というのが生じる。自己と外界の間にあった分裂は、自己の内面の出来事となる。自己と外界の対立であったものを内面の分裂として引き受けるのである。これが弁証法的思考の本質である。分裂を自分の内面で引き受けるのである。それによって本質的問題を思考で解決できるのである。
 
(7)分裂の解消プロセス
 自己内で対立する立場を統合するには、各々の立場の本質的な点とそうでない点を区別し、両者の本質的な点を残し、非本質的な点は捨てることにより、対立を解消し、両者の立場を統合する立場を打ち立てることができる。
 
 
(8)思想家の仕事の本質
 思想家の仕事の本質は、人類の様々な思想対立を自己の内面の分裂として引き受け、その対立を内面で解消し、思想対立を解消する思想を発信することである。
 ある特定の思想の立場に立ち、他方を攻撃する思想家というのは優れた思想家ではない。それは分裂を内面で引き受けるという苦しい仕事をせず、一面的立場に立つ楽な仕事しかしない手抜きの思想家である。
 

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