|
精神原理と物質原理の統合としての宇宙の進化
(1)はじめに
宇宙の進化の構造がくっきりと見えてきた。宇宙は、4次元物理宇宙がすべてではなく、五感に見える空間のほかに異次元空間が存在し、それらすべてを含めた高次元宇宙が進化をしていて、それは、精神原理と物質原理の二極が存在し、その両者を宇宙の進化する意志が統合を推し進めるプロセスが宇宙の進化であると認識した。4次元時空も精神原理と物質原理の相互作用の結果形成されたと思われる。
(2)高次元宇宙の構造
宇宙の構造は上図の通りである。図の上側は心の内側を探求したときに認識される内面宇宙である。内面の根底には、知情意に応じてそれぞれの原理がある。
思考の原理のことを理性の神と呼び、それは思考の源泉である。すべての人類、動物の思考はそこから発せられる。それを肉体がキャッチして個体が思考しているかのごとき現象が生じる。
感情は好き嫌いであるが、嫌いを克服して、受容するように努力して、好きに変えていくと、感情は深くなり、その極限では万象万物を受け入れることができ、その極限で愛の神に到達する。
欲求は生理的欲求と精神的欲求があるが、精神原理は精神的欲求であり、それは欲求が本能的ではなく、観念的になり、思考する欲求と愛する欲求になり、結局奉仕する欲求になり、その極限は人類やすべての生命を育む欲求である。それを精神意志の神と呼んでいる。
理性の神、愛の神、精神意志の神、つまり宇宙の知情意を束ねる原理が宇宙の精神原理であり、それは和の精神と呼ばれる。それは日本民族の民族精神であるが、それは今後人類を導く世界精神として、復興拡大されるべきものとして、非常に価値のある精神である。
そして、外界の背後の根底に物質原理が存在し、理性が物質原理に向かって働いた結果、理性と物質原理が結合したものが、物理の法則であり、これは物理の法則の統一理論として、やがて完成されるものとして期待される。科学者は物理の法則のことを神だと思っているので、それは法則の神とも呼べる。
愛(感情)が物質原理に向かったとき、形成されるものが美醜であり、その時創造されたものが芸術である。芸術の創造の源泉として美神が存在するといえる。
生理的欲求の根源は生命意志の神と呼べる。欲求は精神的欲求の極限においては一つになり、生命意志の極限においても一つであるが、個体においては多として現れ、肉体自我が存在する。肉体自我は精神的意志と生命意志の統合である。自我は他と区別される自己である。
(3)精神原理への遡源の方法
意識は宇宙の精神原理から発せられて、個人の肉体が受信し、個人の意識のごとく現れるのであるが、逆に個人の意識が精神原理の源泉にさかのぼることを、遡源(そげん)と呼んでいる。
思考が理性の神に近づいていく方法、つまり思考の遡源の方法は、物事をより多面的に認識し、それをそれと受け取るのではなく、多面的な見方を無矛盾に統一的に認識する努力をすることによってである。その方法はヘーゲルが確立し弁証法と呼ばれている。それは自分が真理だと思い込んでいるのに反することを真理だと主張する人が現れた場合、それを否定して自分こそ真理だと言い張るのではなく、一度自分の確信を抑え込み相手の主張を本気で受け入れ、その後自分の確信を復活させ両者を統合する視点を確立することによってである。すべての視点を自分より次元の低い部分的見方であると認識できた時が、人類最高の認識であるといえる。つまり、自分と違っているから間違っていると否定しただけで、相手の視点を理解できていないうちは、逆に相手から見れば自分が間違っているかもしれないのである。
感情の遡源の方法は、相手を嫌いと感じた時、それは我執があるから相手を排除したくなっているので、我執を取り除いて相手を心のうちに受容する努力をすれば、好きに変わる。そうすると感情が愛の神に近づいていくことができる。
次元の低い欲求は、他人に迷惑をかけてでも自分の欲求を満足したいというものであるが、みんなのためと思う欲求が次元が高い。欲求の遡源は、ある欲求を究極的欲求とみなすのではなく、その欲求は何のためかと高次の欲求を探求することによって精神意志の神へと遡源できる。例えば科学的発明の欲求は科学者の自己実現の本能だが、それは次元が低いと原爆のような人類を不幸にすることに使われてしまう。発明は何のためかと問えば人類の幸福に貢献するためというように、欲求の次元を上げれば、人類の幸福に貢献するものを発明するようになる。欲求の遡源は、自分の欲求を無条件に肯定するのではなく、常づね「何のため」と問うことによってできる。
(4)精神原理の獲得
精神原理の獲得とは「すべてはひとつ」と感じれるようになっていくことである。あなたと私は肉体は別々であるが、本来は一体であると体得していくことである。それこそが本当の愛である。それがすべての宗教の究極の目的である。
宗教の問題解決の原理は、すべての、人類、動物、植物、鉱物は本来一体であることを悟り、運命共同体としての自覚を広めることである。
(5)物質原理の獲得
物質原理とはつまり分けることである。精神原理が「一」であるならば、物質原理は「多」である。
物理学は分けてから、相互の関係を認識することによって真理を追究する。
生命意志においては物質原理は自我として現れる。魂の進化においては自我はこの世の事業を遂行することによって鍛えられる。主体的に自分と区別される対象を捉え操作することによって自我意識は鍛えられる。つまり、自分を明確に他人と異なる自己と認識できるようになる。つまり精神原理は自己と他人は一体であるという自覚であったが、物質原理の獲得は自分は明らかに他人と異なる自己であるという認識である、物質原理の獲得の向上は、自他の肉体レベルでの区別ではなく、意識の在り方の区別の認識である。自分の意識と他人の意識は違っていることの認識である。より深いレベルでの自分の意識が他人の意識と違うと区別できればできるほど物質原理を吸収したといえる。
(6)魂の進化
魂の進化とは、より精神原理を体得し、より物質原理を体得していくことである。つまり、自他は本来一体であると認識できるようになりつつ、自他は肉体が別であるだけでなく、意識も異なっていると違いを峻別できるようになっていくことである。
この逆向きのベクトルを共に深める方向が魂の進化であることが、これまで人類の存在理由、人類の究極目的がなんであるかがわからなかった原因である。
つまり、人類の進化の目標は、すべての人が、自他の区別意識を保持したままで、人類全体と一体であるという意識を獲得することである。
それは科学の進歩のみを人類の究極目標としたり、人間に自我がなくなり漫然とした一体感を得ることを究極目標とする軽薄なものではない。あくまでも自他の区別をどこまでも明確にしつつも、同時に万人と自己の一体感を追求するものである。それが宇宙自体の精神原理と物質原理が統合されていくことなのである。
|
神科学
[ リスト | 詳細 ]
|
三つの空間とその相互作用
(1)はじめに
物理学的には存在するのは、唯一外界の物理空間だけだと思われているが、私の提唱する三神論の原理に則ると、外的物理空間は「生命意志空間」であり、それとは別に異次元の空間として「理性空間」と「愛空間」があり、それら三つが相互作用をしているということを主張したい。
(2)生命意志空間
人間以外の動物でも何らかの形で外界を認識して生きている。哺乳類や両生類、魚類は当然として、植物や単細胞生物も何らかの形で外界を認識しているだろう。つまり、生物は外界と相互作用して生命を維持しているのであり、それは外界が生命意志の対象ということになる。そしてそれは主に電磁相互作用を通してであり、電磁相互作用は電子を通して働くのである、ゆえに物理空間は生命意志空間とも呼べるし、電子空間とも呼べる。
(3)理性空間
理性空間とはだれでも分かるように言うと、思考するときの内的意識の空間である。目を瞑って何かを想起するとき、内的空間を体験するだろう。それが理性空間である。思考とは感覚の束縛から脱することであり、それは意識を生命意志空間を離れて理性空間に没入させることである。通常は想起内容は恣意的で、自分で作っていると思っているから、理性空間は客観的ではなく主観的と思うかもしれないが、プラトンの言うようなイデアの認識になると理性空間に客観的に存在するイデアを認識しているのである。
では物理の法則は何であるかというと、理性空間の理性を生命意志空間へ投影したものである。それが思考内容と外的経験の合致である。
外界を理性的に認識するということは、理性空間の理性を生命意志空間に投影することである。
ちなみにいうと、理性空間の理性が理性空間に向かったのがヘーゲルの論理学である。
(4)愛空間
純粋な愛だけというのは神の境地なので、憎しみや嫌いも含めて感情空間と呼んでも良いかもしれない。
外界に他人がいて、それに対して好き・嫌いの感情が生じるが、それは外的生命意志空間を客観的に認識したわけではない。他人の意識と交流する愛空間というのが異次元に存在し、それを生命意志空間に投影して外界に他人を感じているのである。他人を愛するとは愛空間の愛を生命意志空間に投影することである。
(5)脳とは何か
脳とは理性空間にある高度な理性と愛空間にある高度な愛を受信する装置である。理性と愛を受信した分、外界の対象に理性と愛を見出すことができるようになる。
(6)宇宙の進化
生命が下等だったころ、生命意志空間には低レベルの理性と低レベルの愛しかなかった。高度な理性は理性空間にだけ存在し、高度な愛は愛空間にだけ存在していた。しかし、生命が進化し、人類が出現し、文明が発展すると、理性空間にしかなかった高度な理性が生命意志空間に投影され、愛空間にしかなかった高度な愛が生命意志空間に投影されるようになった。それが宇宙の進化である。
つまり、宇宙の進化とは生命意志空間と理性空間と愛空間が結合を高めていくことである。
|
|
私の三神論の思想史的位置づけ―研究構想―
(1)はじめに
私は神には「理性の神」と「愛の神」と「生命意志の神」の三者が存在し、そしてそれらの背後に三者を束ねる「宇宙の進化する意志」という神が存在すると主張している。そこで、この考えを思想史的にどう位置づけられるのかを明らかにしたいと思っている。しかし、これには膨大な研究が必要なのであるが、本稿では、現時点でこういう位置づけにあるのではないかという研究構想を提示したい。
(2)神とは意識の究極原因である。
何かを「思う」にはその「思い」を支えている一段と深い「思い」が必要である。深い思いがそれより浅い思いを支えているのである。
それは思考の場合もそうなのである。深い思考がそれより浅い思考を支えているのである。深く思考するとは、より思考の原因に遡って考えるということである。そしてどんどん深く思考すると、思考が個我を超えて、宇宙の根源理性に到達する。この根源理性が分かれて個人の思考になるのである。この宇宙の根源理性のことを「理性の神」と私は呼んでいるのである。
感情にも深い感情と浅い感情がある。あまり知られていないが、感情を純化すると愛になる。憎しみは愛が拒否されたときの反動であり、嫌いは自我の器が狭く、対象を受容できない時の反応である。愛に徹すれば憎しみも愛に変わるし、自我の器を広げれば、嫌いなものも好きに変わる。
感情を純化したら深いところではそれはすべて愛になるし、これらの愛の根底には個我を超えた宇宙の根源愛が存在する。これを私は愛の神と呼んでいるのである。
欲求には精神的欲求と生理的欲求がある。精神的欲求を突き詰めれば宇宙の根源的精神意志に到達するし、生理的欲求を突き詰めれば宇宙の根源的生命意志に到達する。精神意志とは愛と理性を働かせようとする意志であり、意志の対象は意識である。生命意志とは肉体に作用する意志のことである。精神意志と生命意志の関係は生命意志に愛と理性が加わって次元が上がって、その極限が精神意志と言えると思う。
精神意志と生命意志のうち純粋なのは生命意志であり、精神意志は生命意志に愛と理性が添加されたものである。
そこで神としては理性の神と愛の神と生命意志の神の三者の神を考える。
(3)理性の神の思想
世界の根底的実在を理性であると最初に主張したのは古代ギリシャの哲学者アナクサゴラスである。この時は「ヌース」という言葉を用いている。ヌースが世界の実体(本当に実在するもの)であると言ったのである。
近代的世界観では思考は脳が産み出す主観的なものであり、実在するのは物質であると考えているが、古代はそうは考えずに世界の根底には客観的理性が潜在して、それが世界の秩序の原因になったと考えたのである。私はその点は近代よりも古代の方が正しいと思っている。
世界の根底的実在は理性であるとする理性の哲学の流れは、アナクサゴラスの後ソクラテス、プラトン、アリストテレスと続く。近代ではカントヘーゲルが理性を中心とした哲学者である。
理性の哲学の集大成をしたのがヘーゲルであり、ヘーゲルの言う神(=絶対者)は理性の神である。
(4)意志の神の思想
ヘーゲルの登場後理性の神の思想に反逆者が出た。ショーペンハウエルである。彼は世界の根底的実在は理性ではなく意志であるとしたのである。しかも、その意志は盲目的生存意志であるとしたのである。この認識は実は宇宙の唯一の根源生命意志までは遡っていず、個体の意志の認識にとどまっている。
その次に出た意志の哲学者はニーチェである。理性の哲学や愛の宗教であるキリスト教が本能的生の欲求を抑圧するものとして非難し、生の肯定を主張した。これが権力への意志の思想である。彼も宇宙の根源的生命意志の認識までは到達していない。個人が権力への意志をなぜか持っているというまでで、個人の意志が宇宙の根源的意志から分かれてきたものであることを認識していない。
次に生命意志の神を認識した哲学者はベルクソンである。宇宙の根底的実在を生命力とみなし、それをエラン・ヴィタール(生の飛躍)と呼んだ。宇宙の根底の生命力が爆発して、生命が誕生し進化したと考えたのである。
最後に精神意志の神を認識した哲学者として西田幾多郎があげられる。西田哲学の方法は自己否定であるが、それは生命意志を否定して精神意志を肯定するものではないかと思っている。彼の絶対自由意志は、生命意志ではなく精神意志ではないかと思う。この究極が西田の絶対無であり、これは精神意志の神と言えると思う。
(5)愛の神の思想
「神は愛なり」と主張しているのは、言うまでもなくキリスト教である。そしてそれは宇宙の根源愛であり、これから万象万物が創造されてきたと考えるのである。神とは愛の神であると主張している代表はキリスト教である。
最近では愛の神を認識していると表明している思想家にはジャンポルスキーが居る。彼は「許し」を自ら実践し広めている。
哲学ではないが愛の思想に近いものとしてアドラー心理学があげられる。決して怒らない心理学なので、エッセンスは愛であると思う。
(6)三神を束ねる宇宙の進化する意志
理性の神から思考が生まれ、愛の神から感情が生まれ、生命意志の神から欲求が生まれ、このようにして人間は知情意を持っているが、三者を束ねる力は宇宙の進化する意志から湧き出している。理性と愛と生命意志は三者が互いに対立・葛藤しながら、三者の次元が上がっていく。つまり三者が相互否定しながら個人は進化していく。
(7)私の思想のオリジナリティー
従来の思想は神とは「理性の神」であるか、「愛の神」であるか、「生命意志の神」であるかのどちらかであり、同時に二つまたは三つの神の存在を認める思想は無かった。しかし、私は三つの神が同時に存在し、それらがおのおの知情意の源泉であるとしたのである。そして三つの神がバラバラに存在するだけでなく、三者を束ねる神として宇宙の進化する意志を導入し、理性と愛と生命意志は相互否定しながら個人の魂は進化しているという認識に到達した。
(8)今後の課題
ここに書いたのは詳細な研究結果ではなく、思想史を俯瞰して、自分の思想と対応付けただけのアウトラインに過ぎない。まだ着想段階である。
私の三神論の思想史的位置づけという研究テーマで、今後詳細な研究をしていきたい。精神意志の神については仏教も考慮しなければならないだろう。
そして理性、愛、生命意志の相互否定の論理である「進化の論理」というものを論理学として構築したい。その論理学に基づいて、「物質―生命―意識の統一理論」を完成させたい。それと同時に進化の論理に基づいた歴史哲学も構築したい。
|
|
魂の進化の三つの側面
(1)はじめに
前記事「進化の論理」
で進化とは何かを説明した。つまり、生命意志、愛、理性が相互否定しながら、その統合の次元を高めていくプロセスが進化であるということを説明した。進化とは人間はもちろん、すべての生物、あるいはすべての物質で起こっていることであると推測した。
そこで本稿では、話を人間に限定して、人間にも魂の進化は起こっているのだが、魂の進化とは人間にとってどういうことなのかを、魂の進化の三つの側面についてそれぞれ説明した。
(2)魂の進化の三側面
魂の進化には三つの側面があった。
① 魂の進化の第一の側面
愛と理性の相互否定により、自他は区別されながら一体であるという境地に進む。
② 魂の進化の第二の側面
生命意志と愛の相互否定により、自分のためとみんなのためが一致する境地に進む。
③ 魂の進化の第三の側面
生命意志と理性の相互否定により、しなければならないこととしたいことが一致する境地に進む。
(3)魂の進化の第一の側面
愛と理性が相互否定をし、自他は明瞭に区別されながらも一体であるという境地に進むのが、魂の進化の第一の側面であった。
愛と理性の相互否定があることに気付く人は少ないかもしれない。私は思考タイプの人、哲学や科学を好む人は、他人との一体感を感じる本当の愛に疎いように思っている。そういう人たちは他人を客観的に物みたいに観察し、評価する傾向にある。他人と心を共有し一体感を感じるのを理性を失うことのように思い、人との一体感を避け、常に理性を働かせ、他人を外から客観的に観察する傾向にある。そういう人たちは、心の共有は論理的コミュニケーションが主であり、心情のコミュニケーションは苦手である。
私は逆に愛の傾向性の強い人は、他人との一体感を強く感じ、他人を客観的に観察することが苦手なはずだと思っている。科学的態度で人間を客観視することが無く、心情的一体感でのみ人を見る。そういう傾向性が愛を唱えるキリスト教徒にはあるのではないだろうか。
愛と理性を高度に両立するのは、困難なことであり、理性を究めれば愛を欠き、愛を究めれば理性を欠くのが普通である。しかし、愛と理性の相互否定を繰り返し、両者の葛藤を克服すれば、理性と愛が両立し、自他は明確に区別されながらも、自他一体の境地になる。これが魂の進化の方向の一つの側面である。
(4)魂の進化の第二の側面
生命意志と愛の相互否定により、自分のためがみんなのためと一致するのが、魂の進化の第二の側面であった。
それは子供は誰でも利己的であるが、思いやりを持つように教育される。最初は親の愛情を得るために親の言うことに従って、他人に配慮することを覚える。つまり、最初の愛は本物ではなく「べき」なのである。それはエゴを抑えて他人を思いやるのである。そのときは愛とエゴ(生命意志)は対立している。そして時々はエゴが愛に反逆し暴れることもある。そういうことを繰り返しながら、次第に本当の自分の為とみんなのためが一致してくる。それは貢献すること自体を喜びと思えるようになってのことである。自分の利益にしかならないことはつまらないと感じるようになってくるからである。
仕事を選ぶ時も単に自分の収入を増やすという利己的目的の側面のみからではなく、自分は何をして世の中に貢献できるかという他人を利する本音の欲求を持てたときが生命意志と愛の高度な両立の始まりである。
(5)魂の進化の第三の側面
生命意志と理性が相互否定を繰り返し、次第にしたいこととしなければならないことが一致してくるのが、魂の進化の第三の側面であった。
世界を客観化し、冷静に認識し、自分の目的を理性で判断して合理的に実現しようと対処するとき、本能的欲求は抑え込むので、それは理性による生命意志の否定である。したがって、それは生命意志と理性の対立である。つまり、目先の欲求を抑圧し、しなければならないことをしているのである。しかし、理性偏重になってくると、生命意志を抑圧しているので次第に生命エネルギーが枯渇してくる。
そこである時は生命意志が理性に反旗を翻し、本能が爆発することがある。あるいは生命エネルギーが枯渇して鬱になることも多いだろう。実際鬱になる人は「したい」で何をするかを決めずに、「すべき」で何をするかを決める傾向にあることが知られている。つまり、理性的には合理的に判断することが良いように思えても、心の健康のためには生命意志を肯定し「欲す」に従う必要があるのである。
そして、生命意志と理性が相互否定を繰り返すうちに、生命意志と理性に矛盾が無くなって、すべきこととしたいことが一致してくる。
それは境地としては創造欲求が出てくる境地である。現実に立脚した問題解決の努力に意欲的になり、困難な問題にチャレンジングに取り組むことに喜びを感じる境地である。
(6)三つの側面をトータルに観る
進化の三つの側面をトータルに観ると先ず、自他を区別しながら一体であるという境地になり、そしてそれを前提に、他人と自分は一体なので、他人のために奉仕することが自分の幸福であるという境地になり、そしてそれを前提に奉仕しするためにしなければならないことが、自分のしたいことと一致するという境地になる。
これが魂の進化の行き着く理想的な心境である。
(7)魂の進化は神になる道である
神の境地を想像してみると、神にとってすべては自分の心の一部であり、神はそれを外的に客観視しながらも自分の一部だと思っている。つまり、神にとってすべては自己と区別されながらも自己の一部なのである。そしてそれらに尽くすことは、文字通りの意味で自分に尽くすことなのであり、そしてそれらに尽くす行為自体も自分のしたいことなのである。
つまり神の境地とは、一切の存在を自分とみなす境地であり、それを土台に生命意志と愛、生命意志と理性の矛盾を解消した境地である。それは魂の進化の究極的な姿である。
|
|
進化の論理
(1)はじめに
人間の精神は生命意志と愛と理性の統合体である。その観点から、人間の魂の進化のメカニズム、進化の論理を捉えるならば、それは生命意志と愛と理性が相互否定をしながら、その統合の次元が上がる過程、レベルアップする過程だと認識できる。この進化の論理は、精神だけではなく、物質をも貫いていて、電子とアップクォークとダウンクォークを通して働いて生物を進化させているはずであり、人間の魂も物質でできた肉体を進化の原理が貫くことにより進化できるというのが私の直観である。
(2)人間とは何か
人間とは何かは次の記事に書いてある。
「人間とは何か」
「人間とは何か」を簡単に言えば、異次元宇宙にある生命の根源から分かれてきた生命意志と、異次元宇宙にある愛の根源から分かれてきた愛と、異次元宇宙にある理性の根源から分かれてきた理性をあるレベルで統合しているのが人間であり、それは同時に生命意志から分かれてきた電子と愛の流れから分かれてきたアップクォークと理性の流れから分かれてきたダウンクォークの集まりとして肉体を構成している。上の記事は人間が精神としては知情意統合体でありながら物質でできた肉体でもあることを整合的に説明できる理論である。
(3)進化の論理
人間の魂の進化の論理とは生命意志と愛と理性が相互否定を繰り返しながら、統合の次元がレベルアップする過程であるというものである。細かく言うと理性と生命意志が相互否定して統合の次元がレベルアップしたり、愛と生命意志が相互否定して統合の次元がレベルアップしたり、愛と理性が相互否定して統合の次元がレベルアップする過程である。これらを一つずつ説明しよう。
(4)生命意志と愛の相互否定
ここで生命意志とはエゴのことで愛とは他人を思いやる気持ちで、場合によると自己犠牲的に他人に奉仕をする思いのことである。
愛とは何かと言うと、エゴつまり自己の生命意志という本能を抑圧して、他人のために努力することである。それは愛が生命意志を否定することであると言える。逆にいざというとき他人を犠牲にしてでも自己のエゴを貫徹することもある。それは道徳的に良くないことであると言われても、エゴを完全に否定できる人は居ない。それは生命意志による愛の否定という意識の運動である。
相互否定を繰り返すうちに自分の本当にしたい生命意志から湧き出す意志と他人への奉仕の思いが一致してくる。自分の為とみんなのためが一致してくる。生命意志と愛が無矛盾になってくる。これが魂の進化の一側面である。
(5)生命意志と理性の相互否定
ここでも生命意志とはエゴのことと思ってよい。目先の欲望を満足したいという思いである。理性とは現実に立脚した合理的思考をする態度のことである。子供は理性が劣っているので、目先の欲望を満足しようと本能的生命意志に基づいて行動する。そこへ理性が出てくると、例えば将来の仕事のために勉強しなければならないと現実に立脚した理性的判断で行動できるようになる。それは理性による生命意志の否定である。しかし、将来のために今やりたいことはすべて我慢するとなると、生命エネルギーが枯渇してきてやる気が無くなってしまう。すると、将来の目標はあきらめて、今やりたいことを今やる欲求というのが出てくる。これは生命意志による理性の否定である。このように生命意志と理性が相互否定を繰り返すと次第に、生命意志から出てくる今やりたいことと、理性で判断した将来の目標のために今やらねばならないことが合致してくる。つまり、今やりたいことをやりつつ、それが将来の目標のためになっている。これは生命意志と理性の統合である。これも魂の進化の一側面である。
(6)愛と理性の相互否定
ここで愛とは他人と自己の一体感のことで、自他の境界があいまいになっている、あるいは自他の区別がなくなる思いのことである。理性とは対象化することである。他人を自己と区別して対象化する思いであり、さらには自己の意識も対象化して認識する態度である。理性が働けば他人と自己を明確に区別するようになる。
例えば幼児はまだ自己と母親の区別が明瞭ではなく、母親を自己の延長のように錯覚している。しかし、自我が芽生えれば自分と母親は区別された存在であると認識するようになる。これは親との一体感という愛を理性によって否定したということになる。さらに親と区別された自己を確立しようとして、反抗期というものが出てくる。これは親と異なる自己の主体性を確立しようとする努力である。つまり自己発見・自己確立の努力であるが、それは理性のなす業である。理性による愛の否定である。
さらには自己を確立できると、自己を否定して他人との一体感を得るように努力する。確立できた自己でもって他人に奉仕する。これは愛による理性(自他の区別)の否定である。
こうして愛と理性が相互否定していくと、自分と他人は区別されつつ一体であるという境地になる。確かに自分は自分、他人は他人でありながら、他人の中に自己を見出す。
仏教的に言うならば、理性による自己の発見とは自己の中に仏性を発見することである。そして愛とは他人の中に仏性を発見することであり、これが他人の中に自己を見出すということの仏教的意味である。
(7)まとめ
生命意志と愛は相互否定しながら、自分のためと人のためが一致してくる。生命意志と理性は相互否定しながら、今やりたいことと将来のためにやらねばならないことが一致してくる。愛と理性は相互否定しながら、自他は区別されつつ一体であるという境地になってくる。これが進化の論理である。
(8)進化の論理は物質も貫く
異次元宇宙にある生命意志の分化の末端は電子であり、異次元宇宙にある愛の分化の末端はアップクォークであり、異次元宇宙にある理性の分化の末端はダウンクォークである。そして物質はすべて電子とアップクォークとダウンクォークからできている。
そうすると物質の進化、生物の進化は上に述べた生命意志と愛と理性の相互否定である進化の論理に基づくものではないかと推測される。
物質を貫く進化の論理を科学的に捉えることが、科学の最重要課題ではないかと私は思っている。何故なら宇宙の根源の神の意志は宇宙の進化を意志していて、それが物質を貫いて働いていることの証明は神の存在証明になるからである。
つまり、現時点における科学の最重要課題は素粒子レベルで進化の論理が働いていることの実証であり、これは物質世界を神の意志が貫徹していることの証明である。
|





