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最盛期の三菱方城炭鉱。
特攻くずれ
4-11、弁城と伊方の由来
福智山系の峰続きで、私の生まれた集落の端に「シロヤネ」と呼ぶ竹林に覆われた山があります。
山城の跡をしめす礎石や空堀が今も残っています。古老の話を総合すると次のようになります。
この城は源平の昔(保元三年)、平家の手によって築城されました。そのとき、杵島姫の命(弁財天
厳島神社)を祀り、居城を「弁財天」を戴して「弁天城」と名づけました。そして、城主として
「永野新九郎貞恒」が派遣されました。
今でもベザイテン(弁財天)の地名があり、その近くには、ヤノドンやオコンドンなどの屋号が残っ
ています。ヤノドンは矢野殿の意味で、矢野伝左衛門宗冬という武将の屋敷跡と言われ、オコン
ドンは右近殿のことで、右近少監友房の屋敷跡と言い伝えられています。
永野新九郎貞恒は、平家が壇ノ浦で滅亡したとき、その落人を導いて匿くまったそうです。その
場所は平家屋敷と呼ぶ地名で今も残っています。
また彼の一族は平家の滅亡により武士を捨て、農民となって暮らすことにしました。その家系は
今も永野姓として弁城の地に残っています。また平家の落人も氏素姓を捨て、武具を農具に変え
て農民として生きる道を選びました。
当時「弁天城」と呼ばれたこの里も、のちの人々が地名に「天」は恐れ多いと「弁天城」から天を
抜いて「弁城」と呼ぶようになったそうです。
中哀天皇は熊襲の反乱を平定するため、九州に兵を進めました。そのときこの地に弓矢に長じた
者が多いと聞き、召し出されて先鋒の軍に加えました。そしてその強さを認められこの里から毎年
5名の「射方(イカタ)」を出させて国役に就かせることにしました。それからこの地は「射方の里」
と呼ばれるようになりました。それが「伊方」の地名のはじまりだそうです。
方城村は明治22年伊方村と弁城村が合併して誕生しました。当時の人口は 3,332人と記録され
ています。その後、筑豊炭田の一角であるこの地に、三菱が炭砿を開発しました。三菱方城炭砿
です。黒ダイヤと呼ばれた石炭景気に支えられて、人口も逐次増加しました。
戦後の昭和31年8月1日、町制が施行されました。当時の人口は16,783人に増加していました。
ところが、エネルギー政策の転換による廉価な石油の輸入に対抗することができず、石炭の生産
は激減し炭砿は次々に閉山しました。そして、さしもの石炭景気は鉱害のみを残して終わりを告げ
たのです。
炭砿が無くなれば農業以外には生計の道がない所謂過疎の村です。国の施策による鉱害復旧
工事が細々と続けられましたが、昭和32年の 17,016人をピークにして町の人口は激減しまし。
平成3年4月には8,209人までに半減し、その後も減り続けています。
私の育った上弁城区もご多分に漏れず、農業以外にこれと言った生産手段を持ちません。その
農業にしても、生産性の乏しい山間の段々畑での耕作では後継者が育つわけもなく、典型的な
過疎の村となりました。
戦後の核家族化と若者の都会への流出で、農村の衰退は目を覆うばかりです。ことある毎に帰省
していますが、老人ばかりが増えて子供の数は極端に少なくなりました。戸数こそあまり減った感
じはしませんが昔の面影はすでにありません。
方城町 http://www.simo3-gappei.jp/
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初めまして。ブログ拝見させていただきました。今、私たちが平和に暮らせているのは皆おじいちゃん、おばあちゃんのお陰と思っています。私たちは戦争をまったく知らなく、学校でも詳しく習ってなく、世の中の間違った情報だけで戦争とういう概念を捉えています。私の祖父も満州に出兵しました。祖父はすでになくなっておりますがよく戦争当時の話を聞いて、子供ながら心を躍らせていました。是非、このブログを通して今の若者たちに伝えて続けてほしいです!つたない文章でしたがこれで失礼します。
2005/10/3(月) 午後 0:54 [ - ]
お気に入り登録ありがとうございます。 遡って読まれるのは煩雑ですが、ごゆっくりお読みください。
2005/10/3(月) 午後 3:30
方城町といえばIkkoさんが有名ですよね?糸田町は井上陽水。田川にはいい人材もいるんですけど、悪いニュースで評判を落としてるのがもったいない。
2008/8/16(土) 午前 0:15
お城大好きなあごさんです。福智町の弁天城についての情報ありがとうございます。近いうち探索したいと思います。
2013/12/28(土) 午後 0:36 [ sasuke ]
私も故里を離れて永いのですが 新米の時期に帰って 古里のお米を食べています
2013/12/28(土) 午後 4:05