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練習機「白菊」までも。
航空自衛隊 http://www.warbirds.jp/senri/jasdf/
5-167、神風特別攻撃隊員の精神基盤について(5)
四、特攻作戦の経過
私は、昭和二十年四月、菊水作戦開始と同時に特別攻撃隊に編成された。「発進」「接敵」
「攻撃(体当たり)」の飛行訓練と同時に精神的には生に対する執着と、 死に対する恐怖
と闘いながらこれを克服してきたのである。 誰れでも一時の感情に激して死を選ぶことは
できるかも知れない。 しかし、理性によって自分の死を肯定し、その心境を一定期間継続
するのがいかに大変なことか、体験した者でなければ理解できないであろう。
当時でも日ごろ大言壮語していた者が、 特別攻撃隊の編成に際してこれを免れるために、
仮病を使ってこそこそと逃げ隠れした事例からも判断できる。 見方を変えればそれが本来
の人間の姿であったのかも知れない。 当時の状況でなお死から逃れる努力をする者には、
それ相当の勇気が必要であったと思う。われわれの同期生は当時十七、八才の若さでこの
世の未練を断ち切り、還らざる攻撃に飛び立って、次々に散華したのである。
鈴鹿空・大井空・徳島空・ 高知空で構成された第十三聯合航空隊は、 練習機「白菊」に
よる特攻隊を編成した。そして、五月二十四日の菊水七号作戦から、 遂に第五航空艦隊に
編入され、 鹿屋基地や串良基地に進出し、 次々と「体当たり攻撃」を敢行した。 そして、
六月二十六日の菊水十号作戦までに、 百十八機が未帰還となり二百三十余名が大空に
散華したのである。
今日は人の身、明日は我が身という状況のもとで、 さらに死ぬための訓練が続けられた。
飛行訓練が終り、 宿舎(当時基地外の林の中に分散されていた)に帰る途中、なにげなく
道端で見かけた蓮華草の花に故郷の野辺を偲び、夜中にふと目ざめて父母(長兄は戦死、
次兄も出征中)の行末を案じ、 一度は決心したものの果たしてこれでよいのかと煩悶した
ことも度々であった。
その間も戦局は推移し、六月末の菊水十号作戦をもって沖縄周辺に対する特攻作戦は打
ち切られた。これに伴い私は特攻待機を解かれ、鈴鹿基地の田中部隊に派遣された。鈴鹿
基地では、偵察員の練成訓練を担当することになった。機上作業練習機の操縦教員という
地味な配置に対する不満と、特攻待機から解放された安堵感の入り混った複雑な気持ちで
あった。
しかし、アメリカ軍の本土侵攻が予想され再び特別攻撃隊が編成され、 八月五日を目途に
特攻待機となった。 そして、沖縄戦の戦訓から今度は夜間攻撃のみを対象にして昼夜入れ
替えの訓練が実施された。 即ち、飛行訓練は夜間のみ実施し、昼は横穴式の防空壕の中
で寝るといった変則的な生活が続いた。 単に死ねばよいという安易な考えでなく、 いかに
して有効に死ぬかということに日夜努力を重ねたのである。
戦後の特別攻撃隊に対する評価には、戦果(結果)のみを対象としたものが見受けられる。
しかし、真にこれを評価するなら、 二十歳にも満たない若者が、いかなる理由にせよ死を
もって任務を遂行するという境地に至った精神状態、即ち特攻精神こそ評価すべきである。
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賛否両論ありますが、少なくともそのような過酷な状況を過ごされた方々の犠牲の上に今日の日本があるように思えます。米国煙草の「ラッキーストライク」の包装紙のデザインは日の丸(白地に赤丸、緑地に赤丸の2種)訳せば「まぐれ当たり」にでもなるのでしょうか。初めて聞いた時は米国人の日本人に対する敵意に思え、気分が悪かったのですが、よくよく考えたら日本人に対する恐怖心と思えば、先人の魂を感じて誇らしく思えます。
2006/10/18(水) 午後 3:16 [ さとる ]
賛否はさて置き、最後までお読みください。
2006/10/19(木) 午前 6:28
大変なご苦労の上に今の日本があるのですね、私はただ怖いばかりの生活のきおくしかありませんが、
今あることを感謝いたします、
2009/5/12(火) 午後 3:31