老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

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             「桜花」を抱いた721空の一式陸攻。


想いで話 http://www.warbirds.jp/senri/   

       13-59、「体当たり攻撃」開始

フィリピン方面における「神風特別攻撃隊」の「体当たり攻撃」については、まだ聞か
されていませんでした。(実際には10月28日に発表されていましたが、われわれ
が教官から説明を受けたのはその後です)ラジオは聞けない、新聞なども読む暇の
ない練習生の生活では、 教官や教員から戦況などの説明を聞く以外に、 正確な
社会情勢の知識などを得られる状態ではなかったのです。

忽然として眼前に現れた「人間爆弾」に、戦局の重大さをひしひしと感じました。そう
いえば8月下旬、「マル大」と呼ぶ「体当たり機」の乗員を募集しているとの噂があり、
一部の者が志願を申し出たことがありました。だが、訓練途中の練習生は対象外で、
お呼びではありませんでした。

ところが、「マル大」の飛翔する姿を眼前に見るに及んで、「体当たり攻撃」を現実の
ものとして、認識させられることになったのです。戦局はそれほど逼迫してきたので
しょうか。それにしても、「体当たり攻撃」とは狂気の沙汰です。

飛行場には垂直尾翼に斜めの白線を画いた、 721空の一式陸攻が翼を休めてい
ます。胴体の下には魚雷の投下器に似た形の、大きな懸吊装置が装着されています。
これに「マル大」を装着するとのことです。「マル大」の搭乗員は発射前に母機である、
一式陸攻の胴体から乗り移るそうです。                  

また、「マル大」には到達距離を延ばすため、 ロケットを装備しているとの話でした。
しかし、今回の投下試験ではそのロケットは使用していないとのことです。われわれ
が、ロケットの噴煙かと思ったのは、機体のバランスを保つため頭部の薬室に爆薬代
わりに充填していた水を、降下の途中で放出したものでした。

それなら、実際にロケットを噴射すれば大変なスピードになるはずです。そんな機体
を操縦して、 果たして目標に命中することが可能なのでしょうか。

更に重要なことは、例え命令だからといっても、爆弾そのものを操縦する「体当たり
攻撃」に、平気で出撃することができるのでしょうか。技術的な問題もさることながら、
精神的な問題の解決が必要ではないかと強く感じました。

寄ると触るとこれらの話で持ち切りとなりました。「体当たり攻撃」は、志願さえしなけ
れば直接自分には関係ないと思いながらも、せっかく2等飛行兵曹に任官したのに、
その喜びも半減した感じでした。

人間爆弾「マル大」は、投下試験の成功により「桜花」と命名されました。そして、編成
中の721航空隊は、数日後に神ノ池基地へ移動し、「神雷部隊」として本格的な実戦
訓練を開始したのです。

☆今日の一言☆
あたたかや石の祠の中の石 

閉じる コメント(7)

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はじめまして。
昨日初めて拝見し、「蒼空の果てに」と共に、読ませていただきました。私は43歳、北海道で小学校教員をしています。
とても膨大で詳細な記述とともに、ご健在で精力的に記録を残されていることに敬意を表します。
亡き父が陸軍少年飛行兵の振武隊であったことから、戦争についてはずっと興味を持っていました。
HPを詳細に見させていただきます。
(教育現場でも先の大戦をどのように呼称するかの議論があります。また、ご紹介します)
「桜花」登場時の、当時の搭乗員の方のお考えが興味深いです。
どうぞよろしくお願いします。

2007/11/3(土) 午前 7:22 [ say*r*911 ]

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「体当たり攻撃」という戦術を策定する参謀本部。

一体、どのような人たちで構成し、

どのような組織だったのか。

もちろん、そんな特別なものではなかったと思います。

現実の日本の色んな組織でも、かなり無謀な決定を

するときがあるのですから。

しかし、目の前にある若い命を消す命令を出す、

そのような戦術を考える。

とても想像できない。

あるテレビで見ましたが、命令を出した指揮官が

「ワシも続くぞ」と言ったが、戦後も生きていたとか。

私は、その指揮官を責めることもできません。

ただ、ただ、そのような無謀な戦術を

考える必要がある時代にだけは

してはいけないと思います。

2007/11/3(土) 午後 4:25 シカリ

「特攻の原点」をご一読ください。
http://www.warbirds.jp/senri/23ura/39/genten.html

2007/11/3(土) 午後 7:30 sen*i0*20

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コメントありがとうございます。

亡父は私が幼少の頃から、思い出話を色々としてくれました。
それでも、出撃待機の本当に苦しかった体験は聞けずじまいでした。
誰にも話したくなかったのだと思います。

父の死後、僚機の方にお話を聞きました。その時、初めて出撃待機の時の事を知りました。

しかし、その戦友とも苦しい思いを話し合ったのは戦後のことだったそうです。当時は、そのような心の内を話し合う雰囲気でも、社会情勢でもなかったと…

今3歳の長男の顔を見る度、父のような思いをさせたくないと感じます。でも、父は、空中勤務者(陸さんの呼称です)であることは大変誇りにしていました。操縦記章レプリカ(本物は捨てざるを得なかったそうです)を応接間に飾っていました。

2007/11/3(土) 午後 7:49 [ say*r*911 ]

皆さんのコメントを読んでいて私なりのコメントをかけません。
当初は戦争を終結させ講和を蒸す為の特別攻撃だった・・・
しかし、そこからがこうした攻撃兵器の引き金になった・・・
天皇もそれを認めた形にはなっていたんですね・・

2008/4/17(木) 午前 11:25 朱楽

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拝読させれ戴いている内容が戦場の「戦術」だとするなら、「戦略」を司った参謀(本部)の“振る舞い”や“在りよう”が多くの悲哀を生ませたことを歴史から学ぶ事ができます。
しかし、その議論が成り立つほど軍の統制が取れていたか否かは「東京裁判」で明らかにされた軍トップの事情を見聞すると、、、また空しくなります。

2008/5/6(火) 午後 1:48 [ 腰痛館もえ厚木整体院 ]

神雷部隊に所属した同期生、長浜君の手記をご覧ください。
http://www.warbirds.jp/senri/10kaiko/09nagahama/zinrai.html

2008/5/6(火) 午後 2:07 sen*i0*20


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