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不時着 新人物往来社。
私の本箱 http://www.warbirds.jp/senri/23ura/43/sinzitu.html
校正についての疑問
校正についての疑問。
原稿を出版社に渡した後、校正はどのようになされたのでしょうか?
誤植は出版社の責任ですが、校正を怠った著者にも責任はあると思います。
主要参考文献の「神風は吹かず」「かえらざる翼」の著者は「永末千里」なのに
「永松千里」となっています。
185頁
全国九千五百余名の市街舎から厳選された七十九名が・・・
★全国九千五百余名の志願者から厳選された七十九名が・・・
でないと、文章にならないと思います。 典型的な誤植。
212頁
予科練資料館と同県の大分県行橋市で、・・・
★行橋市は福岡県です。これは原稿そのものが間違っていたのでは?
不時着 桑原敬一氏
83頁
土浦、第二郡山、姫路の海軍航空隊、前線基地である串良基地、百里原海軍航空隊を
経て台湾虎尾航空隊にて終戦を迎える。
☆土浦(予科練)郡山(飛練・中練)までは分りますが、 私の資料では、乙飛十八期の
艦攻の実用機教程は宇佐航空隊と台南航空隊で行っています。姫路航空隊迄の経緯
が分りません。次に、百里原航空隊を経て台湾の虎尾航空隊空にて終戦とありますが、
虎尾空は昭和20年2月15日に解隊して存在しません。
84頁 172頁
☆5月11日に、串良基地から九七艦攻が出撃した記録は見当たりません。
98頁
串良基地から10機飛んだ「白鷺揚武隊」の一員とありますが、
☆当日串良から出撃した九七艦攻は次のとおりです。
( )内は編成した部隊と出撃機数及び未帰還数です。
第二正気隊(百里原空・3-2)八幡振武隊(宇佐空・4-3)白鷺揚武隊(姫路空・3-1)
104頁
姫路空に転出した数ヶ月後の20年2月。
☆数ヶ月前、何処の航空隊から転勤して来たのでしょうか?
実用機教程の卒業は19年12月のはずです。辻褄が合いません。
116頁
経験豊富な予備生徒・・・
☆予備練習生の間違いでは?
予備生徒出身の士官と下士官との間で駄弁るような内容の話ではありません。
117頁
☆富士絹のマフラーは本来私物です。支給品ではありません。
123頁
☆編隊飛行の場合の偵察員は、後続機航法を行ない常に機位を把握しています。
でないと、一番機が故障等で離脱した場合には機位を失します。
瞑目したまま、とは不自然だと思いませんか?。
131頁
☆玉井中佐は副官ではありません。
137頁
台湾の虎尾海軍航空隊に配属された。
☆ここでは百里原空経由とはなっていません。83頁と矛盾します。いずれにしても、
既に解隊された航空隊へ配属されるとは考えられません。
不時着 船川睦夫氏
160頁
☆4月28日特攻出撃とありますが、特攻隊の名称は?
この日出撃した九七艦攻も百里原空、姫路空、宇佐空で編成した1号艦攻です。
第一正気隊(百里・3-2)八幡神忠隊(宇佐・6-3)白鷺赤忠隊(姫路・3-1)性能の
違う、一号艦攻と三号艦攻が編隊を組んで同時に出撃するとは考えられません。
質問して再確認すべきでした。
161頁
☆百里原航空隊に帰り・・・ とあるので、百里原空で編成した第一正気隊と思って
調査しました。私のHP6−5に正気隊の写真と名簿があります。船川睦夫に該当す
る者は見当たりませんでした。
★船川睦夫。調査の結果。
土浦空(予科練乙飛18期)。郡山空(飛練・中練教程)。宇佐空(飛練・実用機教程)。
宇佐空編成の特攻隊(八幡神忠隊)。種子島不時着帰還。その後百里原空へ転属。
八月十五日の記憶
336頁〜337頁
いっぱしの特攻隊員生活が始まった。「特攻」の名を出せばたいていのわがままは
通った。・・・
特攻隊員はもてた。・・・
★701空大分派遣隊は「特攻待機」ではなく通常の配置でした。
特攻隊が編成されたのは、8月15日以降のことです。特攻隊員ではないことは、
巡邏隊も当然承知していたはずです。終戦までは、軍の規律は保たれていました。
347頁
午後四時半過ぎ――。
飛行場に黒塗りの車三台が到着した。
「中都留大尉、三機だけでよいと命じていたのに、これはどうしたことか」
「長官が特攻をかけるというのに、三機だけとはもっての外、私の部下一一機、
全員がお供します」
349頁
訓示が終わると、指揮所前に準備されたテーブルの上にスルメ一匹ずつが置かれ、
幕僚の参謀たちが隊員一人一人にコップを握らせた。酒は白鹿の一級酒。(以下略)
★酒は白鹿の一級酒。――この表現は疑問。時代考証無視。
当時われわれも「白鹿」は飲んでいました。但し、一級酒・二級酒の区分はありま
せんでした。戦後の昭和28年「酒税法」が制定され、アルコール度数により課税
されるようになりました。その際、度数によって一級酒・二級酒に区分されるよう
になったと記憶しています。
349頁
攻撃目標と飛行コースは以下の通りであった。(中略)
午後五時。出発の時が来た。
★午後四時半過ぎ―。長官が到着。中都留大尉との編成のやり取り。長官訓示。
攻撃目標と飛行コースの指示。スルメを置いての別杯。
これだけの行事が、僅か三十分間に実行可能でしょうか?
★私の著書を参考にしながら、創作とはいえ、これは酷過ぎます。
☆今日の一言☆
玉を衒いて石を売る
[AOZORANOHATENI]
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ひどいですね。私ならばと
お気持ちお察し致します。
ご苦労様です
2009/6/19(金) 午前 7:16 [ - ]
本当のことを伝え続けてください。
2009/6/19(金) 午後 8:27 [ はまさん ]
何を信じて子供達に、「特攻」を
伝えたらいいのか判らなくなりますね。
2009/6/20(土) 午前 1:47 [ NOMU ]
桑原さんは土浦、第二郡山、姫路空、宇佐空、串良、百里原、そして虎尾空で終戦を迎えたそうです。
>性能の違う、一号艦攻と三号艦攻が編隊を組んで同時に出撃すると>は考えられません。
三号艦攻は一号二号とは比較にならないほど性能が良かったそうですね。しかし、巡航速度等の性能、各種緒元が異なっていても少々無理すれば編隊は組めると思うのですが。もちろん同じ機種、同じ性能の飛行機と編隊を組む方が効率は良いと思いますが、飛行機不足のその当時そこまでの余裕がなかったのではないでしょうか?
燃費が悪くなったり合理的ではない事もある程度出てくるのは止むを得ない気もします。元々特攻自体合理性など無視した作戦だと思いますし、80番を抱かせる時点で効率、合理性など完全に無視されていると思います。
燃料消費量等を計算して〜まで針度何度で行く、高度〜で行く、巡航何ノットで行く等、事前の航法計画の打ち合わせはすると思います。ただ編隊と言っても密集隊形で目的地まで編隊を組み続ける必要があったのでしょうか?巡航に移ってしばらくしたら密集隊形を解いて各機の間隔をある程度開けたりとかしなかったのでしょうか
2015/4/21(火) 午後 2:15 [ るぱん ]
仮に攻撃目標上空まで密集隊形だとしても、自爆すること、片道攻撃が前提ですから通常の航法とは異なり、燃料消費率、燃料消費量を効率を徹底して求める必要はないように思います。(それとも特攻にまで燃料を勿体ぶっていたのか分かりませんが)敵機が来れば80番を抱いた状態では編隊を組んだまま退避しようとしても、あっという間に撃墜されると思います。1番機が相当技量優秀で上手く僚機を引っ張ってくれるなら意地でも編隊は解かないよう僚機も努力すると思いますが。皆、自分だけは喰われてなるものか、かならず逃げ切って目標に体当りしてやるぞという思いになると思います。だとすると敵が襲いかかってきた時点で各機バラバラで急降下、退避行動に移りませんか?
そう考えると攻撃目標上空または敵機に襲われるまでの間の巡航の時だけ編隊を組めばよいということにはならないでしょうか?
2015/4/21(火) 午後 2:16 [ るぱん ]
荒木新平氏の手記によれば、
「出撃するどの特攻隊にも、もう護衛戦闘機が付くことはなく、桜島を越えたら編隊を解き、単機行動によって突入することを指示されていた。編隊のままで敵戦闘機に見つかろうものなら全滅は必至であった。」
とあります。沖縄戦末期のことですが。
2015/4/21(火) 午後 2:45 [ るぱん ]
>既に解隊された航空隊へ配属されるとは考えられません。
戦争末期の敗色濃くなった日本でもそういったことはなかったのでしょうか?
同じく荒木新平氏の手記からです。
串良で5月12日に艦攻による特攻隊が解散となり原隊復帰命令が出た時の手記です。
「帰着した宇佐空、あの懐かしいかつての面影はどこにもなかった。壊滅とはまさにこのような惨状を言うのであろう。施設の整った歴史のある航空隊であっただけに、その感はなおさらであった。航空隊としての機能は完全に失い、生存隊員のほとんどは山手の防空壕に移っていた。宇佐空串良派遣隊員の私たちにとって、こんな状態の中に帰ってきても、まさしく身のおきどころがなかった。それに輪をかけたのが次のような言辞であった。「あなた方は、もう宇佐空に籍はありませんよ」そのむなしい言葉の響きに茫然としながら「なるほど、そうだったのか」特攻派遣要員の一身を、どのような見解で処していたのか、その実態の一部を垣間見た思いがした。」
2015/4/21(火) 午後 2:59 [ るぱん ]