老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

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             連絡船を見送る。

想いで話 http://www.warbirds.jp/senri/jasdf/ 
 
        13-436、 離島生活の寂しさ

その当時、下甑島には各集落の間を結ぶ道路などありませんでした。 早朝、下甑島
南端の手打港を出港した連絡船が、青瀬・長浜と次々に寄港しながら昼前に串木野
港に着きます。午後、この船が折り返して夕方近く手打港に帰ってきます。  
          
これとは別に、阿久根港を早朝に出港して昼頃に手打港に到着、午後「本土」へ引き
返す便がありました。 「本土」とは大袈裟な表現だと思いましたが、島の人々は九州
をそう呼んでいました (本土とは本島の聞き違いだったかもしれません)。  これらの
連絡船は、停泊する串木野港や手打港は別として、その他の寄港地には桟橋などは
ありません。

乗客は海岸の石垣や砂浜から伝馬船に乗り、沖泊りした連絡船に接舷して乗り移る
のです。 降りるお客や荷物なども同様です。 だから、波が荒いときは大変でした。
慣れるまでは少なからず緊張しました。
  
夕暮れが近づき連絡船が着く頃になると、外出中の隊員は申し合わせたように港に
集まってきます。誰か知人が来るとか、友人を見送るとか特別の目的があるわけで
はありません。 ただ何となくそんな気持ちになるから不思議です。 離れ島特有の
雰囲気でした。

そして、 「蛍の光」のメロディーを流しながら、静かに遠ざかりゆく連絡船を、いつ
までも寂しそうに見送るのでした。島で生まれ育った者はいざ知らず、われわれの
ように他所から来た者には、この寂しさは堪え難いものでした。 赴任して間もなく、
ノイローゼになった隊員が二人も出たことでもうなずけます。 望郷の念とでも表現
したらよいのか、 体験した者でなければ理解できない寂しくて、やるせない感情で
した。

さて、われわれの唯一の外出先である長浜は、半農半漁の小さな集落です。半農
と云っても水田が有るわけではありません。僅かばかりの段々畑に、陸稲や唐芋な
どの野菜を栽培している程度でした。

野菜にしても自家消費のために植えられたもので、当時30名程度の小所帯だった
自衛隊の需要を満たすほどの余裕もありませんでした。だから、野菜類などは「本土」
から送ってもらうことになります。ところが、ナスなどは汐をかぶればすぐに変色して
使い物にはなりませんでした。
 
☆今日の一言☆  
箸にも棒にもかからぬ
[AOZORANOHATENI]  

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