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常磐忠華隊の勇士。
特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/
14-45、全機突入
ある整備兵曹の回想(百里会々報に寄稿)
昭和二十年三月下旬から四月初旬にかけて、「菊水一号作戦」参加のため、練習航
空隊で編成された特別攻撃隊が串良基地に進出してきた。その使用機は九七式艦上
攻撃機で、出撃予定日は四月六日である。 第一陣は姫路航空隊。そして第二陣の
宇佐航空隊は早々に到着した。直ちに、垂水航空隊から派遣された魚雷調整班員の
手によって魚雷投下器の整備が施された。あとの一隊である百里原航空隊の進出日
は、四月四日とされていた。
その日、天山艦攻担当の整備員は一般の雷撃隊出撃に備え、その整備点検・雷装
作業に従事していた。当日薄暮の作業予定としては、百里原空より到着する九七艦
攻を掩体壕に収容した後、直ちに出撃する天山艦攻の列線を敷くことになっていた。
陽春の昼下がりは何となく眠気を催す。 作業を一段落した整備員たちは、それぞ
れの掩体壕で休息をとっていた。 そのとき百里原空の進出機から、「発動機不調の
ため、不時着指定飛行場である宇佐基地に着陸する……」との電報を基地通信室が
受信した。
他隊に遅れて串良基地に到着した、 百里原空の各搭乗員の面持ちには、「菊水一号
作戦の参加に遅れをとってなるものか……」 との強い気魄に満ちあふれ、出迎えの
整備員たちは思わず目を見張った。
使用機である九七艦攻は、 晴化粧をしたばかりなので、一見したかぎりでは逞しく
感じられた。 しかし、飛行科事務室の係員が、その来歴簿から判断したところによれ
ば、「まさにスクラップ寸前のしろもの」だとのことであった。
機体・発動機・プロペラそれぞれ別葉に備えられた来歴簿は、海軍軍人の考課表に
相当するものである。それには、製造会社名・製造番号・製造年月日・飛行時間・整備
記録その他の必要事項が細大漏らさず記録されていて、飛行機と共に移動することに
なっている。
艦攻担当の整備員が百里原空所属の機体のそばに近寄り、それに触れながらしみじ
みと語った。「昔の老武士が、白髪を染めて戦場に赴く姿にも似ている……」と。
四月六日、 「菊水一号作戦」発動。 串良基地から最初の特攻出撃が敢行された。
当日、在鹿屋基地の第五航空艦隊司令部から、 金ピカのお偉方をはじめ、金モール
の参謀や報道班員たちが、乗用車とバスを連ねて続々と来訪してきた。そして形ばか
りの出陣式を済ませるや、さっさと引き揚げてしまった。
この日、なぜか百里原空の九七艦攻には出撃の命令が出なかった。 そのことにつ
いて、整備員たちは例によっていろいろと憶測した。上層部にしてみれば「ポンコツ機」
に雷装は不適当だと判断した上でのことかもしれない。 だが、あれほど特攻の先陣
(九七艦攻隊での)を承りたいと願っていた百里原空の搭乗員たちは、その旨を告げ
られたときには、どんなにか悔しかったことだろう。
当時、「ガソリンの一滴は血の一滴に匹敵する」と、 燃料使用は厳しく監督されて
いた。 しかし、その厳しい中にも燃料担当の掌整備長からは、「搭乗員には決して
燃料の心配はさせるな、必要とあらば惜しみなく使用せよ」と、 申し渡されていた。
そのような話し合いができているところに、百里原空の中西中尉(海兵七十二期)
から、「基地の燃料供給並びに使用状況」についての質問を受けた。 彼はすでに、
基地の飛行長や整備長から大体のことを聞かされていたのであろうが、練習航空隊
で燃料の厳しい使用制限を受けていた体験から、基地の燃料係から直接に実情を聞
き知っておきたかったのであろう。
私は掌整備長からの指示もあったので、 「在庫は充分にありますから、いくらでも
使用してください」と答えた。 この時、 中西中尉には春原上飛曹が付き添っていた。
この先任搭乗員は、 南方戦域の経験が多く、 戦闘体験のない列機の若鷲たちに、
「基地外体験談」を面白おかしく物語り、彼らの心に安らぎを与えていた。
出撃の日(菊水二号作戦)、燃料作業員が燃料搭載作業を終えて、 飛行機から燃料
車に移ったとき、春原上飛曹は彼ら作業員に向かって、「有難う、有難う」と礼を言った。
彼はなにげなく言ったのかもしれないが、 作業員にしてみれば、燃料を積んだことで
礼を言われることなど、初めてのことだったので、少なからず感激していた。
この日も、串良基地総員が見送りの位置についた。ヒレのない特攻専用の爆弾を抱
いた、「老朽機九七艦攻」は短い滑走路を一杯につかい、少しばかりヨタヨタしながら
も雄々しく飛び立って行った。とかく思い出は遠ざかるものだが、この時の「帽振れ!」
の別離の感傷は今も忘れられない。
百里原空の出撃機は、二段、三段に構えたグラマンの警戒線を突破し、外周に配備
されている見張りの小型艦艇などには目もくれず、見事敵の本陣に向かって全機突入
を果たした。さすがに経験豊富な教官や教員を主体にして編成しただけのことはある。
その様子は戦果確認機によってつぶさに報告された。
串良基地に於いて、出撃全機が突入を果たしたのは、百里原空(常磐忠華隊)が初め
てであった。また、魚雷を改装した特攻専用爆弾使用の「爆装攻撃」も最初であった。
ただ惜しむらくは、使用機が余りにも老朽すぎた。
常磐忠華隊員の中で、ただ一人海兵出身の中西中尉。彼のことを基地のお偉方は、
「海兵精神の権化」と口にしながら連日祝杯? をあげていた。そして、「百里原空に
続け!百里原空を見習え!」と、口癖のように発言された。
一方、基地に展開した各飛行隊の若鷲たちは、お偉いさんの、おざなりのつぶやき
など意に介することなく、「百里原空に負けるな!」を合言葉にして、勇躍敵機動部隊
へ捨て身の殴り込みをかけたのである。
☆亡き戦友の辞世☆
海行かば水漬屍というけれど 空行く吾は白雲と散る
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