老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

7甲飛12期会

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7-122、遺詠 故郷の母

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             富士の姿は。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/  
        7-122、遺詠 故郷の母

奥中渉君は大分県下毛郡今津町の出身。 県立中津中学より甲種飛行予科練習生として、
昭和十八年八月、鹿児島航空隊に入隊。飛行術練習生は大井航空隊で、日夜富士の姿を
眺めながら飛行訓練を受けた。飛練卒業後は、八○一空偵察七○三飛行隊に所属した。

昭和二十年四月二十一日、一式陸攻に電探員として搭乗し鹿屋基地を発進。 索敵実施中
敵夜間戦闘機と交戦戦死。享年十七歳。

国の為 志願し吾も人なれば 故郷思えば心淋しき

兄鷲の 手柄聞くたび思うかな 早く征きたし決戦の空

あこがれの 七つ釦に身をかため 思ひ浮かぶは故郷の母

この次は 半年ぶりの今津駅 おどる心はも早や吾が家へ

茶畑の 続く彼方に富士の峰 故郷の母に見せたくぞある

大君に 捧げまつらん吾が命 嵐に向かう若桜花

かくあれと 諭す桜の押花を 文にしたため送りし吾が母

二つなき 命を忠と孝に分け いでや巣立たん南海の空

大空に 冴ゆる月夜は変わらねど 変われば変わる人の身の上

青空を 翔けて飛び行く索敵行 富士の姿は下に見えけり

7-121、吾子をしのびて

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           「桜花」を抱いた一式陸攻。


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        7-121、吾子をしのびて

昭和二十年五月十一日、 「第八桜花特別攻撃隊」 の攻撃隊員として一式陸攻に搭乗して、
〇六〇五鹿屋基地を発進。沖縄周辺の敵艦船群攻撃を決行して散華された、福岡県浮羽郡
吉井町出身 故海軍少尉菊池邦壽君のご母堂が、 ご子息を偲んで詠まれた和歌を紹介させ
ていただく。


     吾子をしのびて折々に          菊 池 ハ ル カ

いとし子のいさみたちたる晴れすがた またみるときのなきぞかなしき

特攻の重きつとめをかくごして 母にもつげずいでしますらお

永久の別れをひめてはらからと 笑いかわせしこころいじらし

あらわしのつばさもかろくはばたきて かけり行きたる姿なつかし

君のため國のためにと身はかろく とびたち行きし沖縄の海

はたとせを最後にきえしいとし子の 今日のしらせに涙つきせず

かつことをただ信じつついさぎよく 肉をくだいて艦をしずめし

いとし子のみたまむかえて今日ここに 何とたたへんたてしいさおを

國やぶれみだれる御代となりしとも いつか香らん靖國の花

7-120、ご遺族の願い

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              戦没同期生慰霊祭。


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        7-120、ご遺族の願い

戦後、戦没者の慰霊祭や同期生会などでの会合で、ご遺族の方とお話しする機会が多い。
ほとんどのご遺族は「戦死の証」がほしいと言われる。飛行兵だから、遺骨が帰らないこと
は理解されている。しかし、遺骨に代わる遺品や遺稿など、なにか戦死したことが納得でき
る証しを求めておられるご様子である。

また、  戦死したことの実感が得られないため、 まだどこかで生きているのではないかと
言われる方もおられる。 ご遺族にすれば表向きには戦死を認めていながら、内心では未だ
に生きていてほしいとの願いが強いのであろう。

あの当時われわれ下士官兵は、遺書などを書いたとしても、両親や兄弟に手渡す手段を
持たなかったのである。遺品や遺書などが届けられたご遺族はごく一部に限られている。
それも従来のように、 「海軍葬」にご出席して受け取るといった、正規の手続きによるもの
ではなく、つてを求めての幸便に託されたものがほとんどである。

昭和二十年代になると、 空襲による交通機関の混乱などから、 航空隊で行う「海軍葬」
もほとんど実施されない状態であった。だから、大多数のご遺族には「○○方面で戦死」
と記された、一片の通知書が渡されただけである。またその通知書にしても、人事管理の
混乱から時期を逸し、終戦後になって、やっと届けられた方も数多くおられる様子である。

ご遺族にすれば、どんな飛行機に乗っていたのか。いつどこの基地から飛び立つたのか。
どこの攻撃に行ったのか。そして、どんな状況で戦死したのかなど、最後の様子を知りた
いと思うのは人情であろう。幸い戦没同期生の最後の模様は、防衛研究所の資料や生存
同期生の協力でほぼ解明することができた。同期生として当然の勤めである。

慰霊祭にご出席されたある父親は、「もし代われるものであれば、自分が代わりに死んで、
息子には長生きして欲しかった」と、涙ながらに慨嘆された。またある母親は、空襲の激し
い中を、今生の別れに出撃基地を訪れた話をしておられた。手塩にかけて育てたご子息の
死の門出を、なす術もなく見送らねばならなかった母親の胸中は察するに余りある。

またある母親は、ご子息が無事に帰還することを願って、「茶断ち」「塩断ち」などの祈誓を
されたと話しておられた。あの当時、われわれが命に代えて護ろうとしていた肉親もまた、
自分の命を縮めてもと、わが子の無事を祈っていたのである。

「焼野の雉(きぎす)夜の鶴」 という諺がある。 野火に追われた雉は飛べない雛を庇って
一緒に焼け死ぬという。野鳥に教えられるまでもなく、 子を思う親の愛情がいかに深く断ち
難いものであるか、しみじみと感じさせられた。

子は親の安泰を願ってわが身を犠牲にすることを厭わず、 親はわが身を削ってまで子供
の無事を祈る。 この肉親相互の愛情が重なり合って、あの必死必殺の「体当たり攻撃」が
生まれたのだとすれば、 真に非情である。 「体当たり」の瞬間、彼らの脳裏には、慈愛に
満ちたご両親の面影が焼き付いていたに違いない。

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               春木一飛曹。


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        7-119、「ワレ今ヨリ突入ス」

「白菊特攻隊」の殿を務めて散華された、春木一飛曹の出撃の模様は次のとおりである。
沖縄はすでに玉砕し、「いまさら特攻とは」という気分が基地内に高まっていた。だから、
前日に出撃した三機は全機引き返している。

六月二十五日、「菊水第三白菊隊」は前日の三機を含めて、 五機の出撃を予定していた。
一九〇〇から一九三〇までに三機が発進した。ところが、この日も全機が引き返してきた。
春木一飛曹の操縦する機は潤滑油漏れのため止むを得ず引き返したのである。彼は整備
兵を督励して修理を急がせた。

「もう出なくてもよい!  このつぎの機会を待て!」。 そう言って制止する隊長を振り切る
ようにして、単機で離陸した春木一飛曹機は、何のためらいもなく沖縄の空へと飛び去って
行った。

春木一飛曹は予科練時代は私と同じ二十二分隊で、 隣の六班に所属していた。 正義感が
強く責任感も旺盛で、その行動は常に積極的であった。 分隊対抗や班対抗の競技などが
行われる場合の纏め役の中心で、 存在感のある人物であった。 その彼が「白菊特攻隊」
最後の突入者としてその名を残したのも、偶然とは思われないものがある。

昭和二十年六月二十五日、「菊水第三白菊隊」所属の、春木茂一飛曹は単機鹿屋基地を
発進、 沖縄周辺の敵艦船群に対して 「体当たり攻撃」を敢行した。 そして、この出撃を
最後にして、「白菊」による沖縄方面への「特攻作戦」は中止された。

六月二十六日〇〇一八、春木機から「ワレ今ヨリ突入ス、ユタ ユタ ユタ」との電信が発信さ
れた。これは、「輸送船ニ体当タリスル」を意味する略語である。 この決別の電信を打った
のは、彼のペアの偵察員である甲飛十三期出身の岩下武二飛曹であった。


☆菊水部隊 第三白菊隊 搭乗割

操縦 一飛曹 春木  茂 (愛知・甲飛12期)
偵察 二飛曹 岩下  武 (神奈川・甲飛13期)

7-118、 「戦藻録」

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            「徳島白菊隊」の勇士。

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        7-118、 「戦藻録」

第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将は、「戦藻録」に当時の状況を次のように記している。

五月廿五日 金曜日 曇
沖縄周辺艦船攻撃機亦出発せるが、中には練習機白菊を混用す。
敵は八五節―九〇節の日本機駆逐艦を追ふと電話す。幕僚の中には駆逐艦が八、九十節
の日本機を追いかけたりと笑うものあり。

特攻隊として機材次第に欠乏し練習機を充当せざるべからずに至る。夜間は兎も角昼間敵
戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり。従って、これが使用には余程制空を完うせ
ざるべからず、数はあれ共之に大いなる期待はかけ難し。

これが、「体当たり攻撃」を命令した宇垣長官の本音であろう。 練習機「白菊」までも
「特攻」に駆り出しておきながら、「数はあれ共之に大いなる期待はかけ難し」では、
必勝を信じ、わが身を捨てて国難に殉じた英霊は浮かばれない。

「菊水白菊隊」の増田幸雄一飛曹は、昭和二十年五月二十七日一九一〇、鹿屋基地を発
進し、嘉手納沖の敵艦船群に対して「体当たり攻撃」を敢行し、 祖国防衛の礎となった。

 宮崎県都城市に住む増田ミキさんのもとに、「白木の箱」が届いたのは、昭和二十一年
五月の始めであったという。長男幸雄君が戦死してから、すでに一年近くが経過していた。
箱の中には遺骨や遺品など何も入っていなかったそうである。

増田幸雄君は昭和十八年八月、旧制都城中学校から予科練に入隊した。予科練卒業後は
上海空に移って、偵察や通信などの技能を修得した。昭和十九年九月、飛練卒業と同時に
高知空に配属され、教員として後輩の指導に当たっていた。

明けて昭和二十年三月、高知空は実施部隊に編成替えとなり、「特攻隊」が編成された。
そして、練習機「白菊」を使っての特攻訓練が開始された。同年五月二十日、 作戦参加を
命ぜられて鹿屋基地へ進出した。

出撃命令を受けた、「菊水第一白菊隊」は五月二十七日夜半、鹿屋基地を離陸、沖縄の
空へ向け還らざる攻撃に飛び立つたのである。

出撃を前にして一時帰省を許された幸雄君は、「必ず敵を撃破してみせる。これが最後
の別れになるかも知れない」そう話しながら母親ミキさんには元気な表情を見せていたと
いう。彼は昭和二年十月二十日の生まれで、当時十七歳七ヵ月であった。

防衛庁戦史室の資料によれば、 川田茂中尉を指揮官とした「菊水第一白菊隊」は、五月
二十七日一八四八から一九三七の間に二十機が出撃した。そのうち十二機が「体当たり
攻撃」を敢行して、悠久の大義に殉じた。

戦後の調査によると、 駆逐艦ドレックスラーを撃沈、サウザード以下九隻の艦船に損害
を与えている。当夜の出撃は「菊水第一白菊隊」の白菊二十機のみであった。 だから、
すべて彼らの挙げた戦果に相違ない。

☆菊水部隊 第一白菊隊 搭乗割

1 操縦 中  尉 川田   茂 (北海道・予備13期・北海道師)
  偵察 一飛曹 増田 幸男 (宮崎・甲飛12期)

2 操縦 二飛曹 横山 誠雄 (大阪・特乙1期)
  偵察 一飛曹 橋本 隆夫 (大阪・乙飛18期)

3 操縦 一飛曹 今野 作蔵 (宮城・丙飛17期)
  偵察 二飛曹 島田 常次 (宮崎・甲飛13期)

4 操縦 二飛曹 畠中 政人 (広島・特乙1期)
  偵察 少  尉 渡世   保 (東京・予備13期・日大)

5 操縦 少  尉 岩崎 鉄也 (兵庫・予備13期・同志社大)
  偵察 二飛曹 河本 茂男 (山口・特乙2期)

6 操縦 少  尉 篠部 克巳 (兵庫・予備13期・大阪専)
  偵察 二飛曹 木藤 静雄 (佐賀・甲飛13期)

7 操縦 上飛曹 市原 重雄 (神奈川・予備練13期)
  偵察 中  尉 縄野 恭平 (東京・海兵73期)

8 操縦 一飛曹 佐藤 新四郎 (宮城・丙飛17期)
  偵察 二飛曹 安藤   弘  (静岡・甲飛13期)

9 操縦 少  尉 牧ノ内 幸雄 (東京・予備14期・早大14)
  偵察 二飛曹 後藤 春夫  (熊本・甲飛13期)

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