老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

7甲飛12期会

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7-112、三十七期百里会

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              田中和夫君遺影。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/  
        7-112、三十七期百里会

昭和三十年代になると戦後の混乱も少しずつ治まり、 同期生の消息もだんだんと判明して
きました。 そして、甲飛十二期(三次)の戦没者慰霊祭及び同期生会が計画され、地区持ち
回りで盛大に実施されるようになりました。また航空隊ごとの会合や機種別の集いなどがしば
しば行われるようになり、旧交を温める機会が多くなりました。

この中に「三十七期百里会」と名付けた会があります。百里原空で艦上攻撃機の実用機教程
を一緒に受けた、飛練三十七期のクラス会です。 定期的に会合して、戦没された教官、教員
それに同期生のお墓参りや慰霊の行事を行っています。
                           
田中和夫君の母親はこの会合や全国同期生会の慰霊祭にも度々参加されていました。その
際、亡き和夫君に代わって母親に孝養を尽くされている妹さんが、介添えとして一緒に参加
されていまし。 しかし、最近はご高齢のためお体が不自由らしく、参加されなくなりました。

過日、同期生の平岡健哉君が久しぶりに田中君のお墓参りに伺いました。ところが、応対に
出た妹さんから、「平岡さん、申し訳ないけど母には会わずに帰ってください」と言われました。
不審に思った平岡君にその理由を次のように説明しました。

母親千代子さんは、和夫君の予科練時代の写真や中学校時代に書いた絵画などを見ては、
「和夫! 和夫! 」と、呟きながら嘆き悲しむそうです。 だから、兄を思い出すような品物は
極力目に付かないようにしているのですが、 それでも探し出しては、涙を流しながら見入って
いるというのです。これを宥めるのに一苦労するそうです。 だから、平岡さんに会えば必ず
兄を思い出して、収拾つかなくなるから、会わずに帰ってほしいとの願いでした。

悲しみは時間が解決すると云います。しかし、五十余年経った今でも最愛の一人息子を亡く
した悲しみは、 増すことはあっても薄れることはないのです。 千代子さんの胸の中には、
十七歳で童顔のままの和夫君が今でも生き続けているに違いありません。

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           特攻隊員の絶筆。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/  
        7-111、増子教員の名前がありました

串良基地から出撃した特攻隊員の絶筆。氏名の判読できた方の所属及び出身県。
常磐忠華隊(百里原空)
増子定正上飛曹(福島)
第二護皇白鷺隊(姫路空)
野元純候補生(長崎)・菅田三喜雄候補生(岩手)・福田茂男候補生(岡山)・森久2飛曹(香川)
古谷純男候補生(神奈川)・沢田久男2飛曹(大阪)・田中謙四郎2飛曹(東京)・加藤昭夫2飛曹(大阪)
第三護皇白鷺隊(姫路空) 
粟村敏夫候補生(広島)・原正候補生(千葉)・大谷康佳2飛曹(香川)・羽生国明2飛曹(茨城)
入江義夫2飛曹(島根)
白鷺赤忠隊(姫路空)
山田又市候補生(静岡)・後藤惇候補生(和歌山)


増子上飛曹は百里原空で、われわれ第三十七期飛行練習生の教員でした。われわれが飛練卒業後、
常磐忠華隊に編入され、四月十二日串良基地発進、 蒼空の果てに旅立ちました。

7-110、全機突入

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             忠華隊の勇士。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/  
        7-110、全機突入

                    ある整備兵曹の回想(百里会々報に寄稿)
昭和二十年三月下旬から四月初旬にかけて、「菊水一号作戦」参加のため、練習航空隊で
編成された特別攻撃隊が串良基地に進出してきた。 その使用機は九七式艦上攻撃機で、
出撃予定日は四月六日である。第一陣は姫路航空隊。そして第二陣の宇佐航空隊は早々
に到着した。直ちに、垂水航空隊から派遣された魚雷調整班員の手によって魚雷投下器の
整備が施された。あとの一隊である百里原航空隊の進出日は、四月四日とされていた。

その日、天山艦攻担当の整備員は一般の雷撃隊出撃に備え、その整備点検・雷装作業に
従事していた。当日薄暮の作業予定としては、百里原空より到着する九七艦攻を掩体壕に
収容した後、直ちに出撃する天山艦攻の列線を敷くことになっていた。

陽春の昼下がりは何となく眠気を催す。作業を一段落した整備員たちは、それぞれの掩体
壕で休息をとっていた。そのとき百里原空の進出機から、「発動機不調のため、不時着指定
飛行場である宇佐基地に着陸する……」との電報を基地通信室が受信した。

他隊に遅れて串良基地に到着した、 百里原空の各搭乗員の面持ちには、「菊水一号作戦
の参加に遅れをとってなるものか……」との強い気魄に満ちあふれ、出迎えの整備員たち
は思わず目を見張った。

使用機である九七艦攻は、晴化粧をしたばかりなので、一見したかぎりでは逞しく感じられ
た。 しかし、 飛行科事務室の係員が、 その来歴簿から判断したところによれば、
「まさにスクラップ寸前のしろもの」だとのことであった。

機体・発動機・プロペラそれぞれ別葉に備えられた来歴簿は、海軍軍人の考課表に相当す
るものである。それには、製造会社名・製造番号・製造年月日・飛行時間・整備記録その他
の必要事項が細大漏らさず記録されていて、飛行機と共に移動することになっている。

艦攻担当の整備員が百里原空所属の機体のそばに近寄り、それに触れながらしみじみと
語った。「昔の老武士が、白髪を染めて戦場に赴く姿にも似ている……」と。

四月六日、「菊水一号作戦」発動。 串良基地から最初の特攻出撃が敢行された。 当日、
在鹿屋基地の第五航空艦隊司令部から、 金ピカのお偉方をはじめ、金モールの参謀や
報道班員たちが、乗用車とバスを連ねて続々と来訪してきた。そして形ばかりの出陣式を
済ませるや、さっさと引き揚げてしまった。

この日、なぜか百里原空の九七艦攻には出撃の命令が出なかった。 そのことについて、
整備員たちは例によっていろいろと憶測した。上層部にしてみれば「ポンコツ機」に雷装は
不適当だと判断してのことかもしれない。だが、あれほど特攻の先陣(九七艦攻隊での)
を承りたいと願っていた百里原空の搭乗員たちは、その旨を告げられたときには、どんな
にか悔しかったことだろう。

当時、「ガソリンの一滴は血の一滴に匹敵する」と、 燃料の使用は厳しく監督されていた。
しかし、その厳しい中にも燃料担当の掌整備長からは、「搭乗員には決して燃料の心配は
させるな、必要とあらば惜しみなく使用せよ」と、 申し渡されていた。

そのような話し合いができているところに、 百里原空の中西中尉(海兵七十二期)から、
「基地の燃料供給並びに使用状況」についての質問を受けた。彼はすでに、基地の飛行長
や整備長から大体のことを聞かされていたのであろうが、練習航空隊で燃料の厳しい使用
制限を受けていた体験から、基地の燃料係から直接に実情を聞き知っておきたかったので
あろう。

私は掌整備長からの指示もあったので、 「在庫は充分にありますから、いくらでも使用して
ください」と答えた。この時、中西中尉には春原上飛曹が付き添っていた。この先任搭乗員は、
南方戦域の経験が多く、戦闘体験のない列機の若鷲たちに、「基地外体験談」を面白おかしく
物語り、彼らの心に安らぎを与えていた。

出撃の日(菊水二号作戦)、燃料作業員が燃料の搭載作業を終えて、 飛行機から燃料車に
移ったとき、 春原上飛曹は彼ら作業員に向かって、「有難う、有難う」と礼を言った。 彼は
なにげなく言ったのかもしれないが、作業員にしてみれば、燃料を積んだことで礼を言われる
ことなど、初めてのことだったので、少なからず感激していた。

この日も、 串良基地総員が見送りの位置についた。 ヒレのない特攻専用の爆弾を抱いた、
「老朽機九七艦攻」は短い滑走路を一杯につかい、 少しばかりヨタヨタしながらも雄々しく
飛び立って行った。とかく思い出は遠ざかるものだが、この時の「帽振れ!」の別離の感傷
は今も忘れられない。

百里原空の出撃機は、二段、三段に構えたグラマンの警戒線を突破し、外周に配備されて
いる見張りの小型艦艇などには目もくれず、見事敵の本陣に向かって全機突入を果たした。
さすがに、 経験豊富な教官や教員を主体にして編成しただけのことはある。 その様子は
戦果確認機によってつぶさに報告された。

串良基地に於いて、 出撃全機が突入を果たしたのは、 百里原空(常磐忠華隊)が初めて
であった。また、魚雷を改装した特攻専用爆弾使用の「爆装攻撃」も最初であった。 ただ
惜しむらくは、使用機が余りにも老朽すぎた。

常磐忠華隊員の中で、ただ一人海兵出身の中西中尉。彼のことを基地のお偉方は、「海兵
精神の権化」 と口にしながら連日祝杯?  をあげていた。 そして、「百里原空に続け!
百里原空を見習え!」と、口癖のように発言された。

一方、基地に展開した各飛行隊の若鷲たちは、お偉いさんの、おざなりのつぶやきなど意
に介することなく、「百里原空に負けるな!」を合言葉にして、勇躍敵機動部隊へ捨て身の
殴り込みをかけたのである。

7-109、 特攻基地串良

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          平和公園慰霊碑。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/  
        7-109、 特攻基地串良


串良基地は沖縄作戦の際に、艦上攻撃機の出撃基地として使用されました。特攻出撃や夜間
雷撃と数多くの艦上攻撃機がここから発進し、 沖縄周辺の敵艦船群攻撃に向かったのです。
串良基地から発進して戦死した同期生は、次の10柱であす。

昭和20年4月6日
神風特別攻撃隊菊水天山隊 田中 和夫 (石 川・17歳) 131空攻撃256飛行隊
同                  望月九州男 (大 分・17歳) 131空攻撃254飛行隊
神風特別攻撃隊八幡護皇隊 松木 昭義 (愛 媛・18歳) 宇佐航空隊

昭和20年4月12日
神風特別攻撃隊八幡護皇隊 堤   昭 (福 岡・18歳) 宇佐航空隊

昭和20年4月16日
神風特別攻撃隊八幡護皇隊 小河 義光 (福 岡・17歳) 宇佐航空隊

昭和20年4月28日
神風特別攻撃隊第一正気隊 弥永 光男 (福 岡・18歳) 百里原航空隊
神風特別攻撃隊八幡神忠隊 犬童憲太郎 (鹿児島・18歳) 宇佐航空隊

昭和20年5月11日
神風特別攻撃隊菊水雷桜隊 小野 静雄 (佐 賀・17歳) 953空攻撃251飛行隊
同                  山岡 智明 (高 知・18歳) 同

昭和20年7月22日
雷風雷撃隊            穂坂 信也 (福 岡・18歳) 931航空隊

穂坂1飛曹は福岡県嘉穂郡の出身です。鹿児島空の予科練から谷田部空の中練、そして
百里原空の艦上攻撃機での実用機教程まで、筆者と同じ道を歩きました。 飛練卒業後は
131空の攻撃254飛行隊に所属、天山艦攻による練成訓練を終了して串良基地へ進出し
ました。そして、沖縄周辺の敵艦船群に対して夜間雷撃を繰り返していました。

その間「特攻隊」として串良基地から出撃した、百里原空時代の教官や教員それに同期生を、
断腸の思いで見送ったのです。沖縄作戦の終了にともない、攻撃254飛行隊は香取基地へ
移動しました。だが彼は、串良基地所在の931空に転属となり、引き続き沖縄周辺の敵艦船
に対する夜間雷撃に出撃していました。

昭和20年7月21日、 その日の出撃は4機でした。 この出撃を同期生の宮本1飛曹が
見送っていました。操縦員穂坂信也1飛曹、偵察員湯川保郎中尉、電信員浅野義夫1飛曹、
これは攻撃254飛行隊が串良基地へ進出して以来の固有のペアでした。

2230、彼らは最後に離陸しました。離陸の際《パンパンパン……》と排気管から異常な音を
発していました。エンジンの調子がおかしい様子でした。 先に離陸した3機が左に旋回した
のに、 彼だけは右旋回をはじめたので、引き返してくるものと思っていました。

ところが、彼の機はそのまま低く垂れ込めた暗雲の中へ爆音を残しながら、志布志湾の方向
へ姿を消し去ったのです。そして翌朝、彼の飛行機だけは帰投時刻を過ぎてもついに帰還し
なかったのです。彼もまた、教官や教員それに数多くの同期生の後を追うようにして、沖縄の
海に消え去ったのです。

福岡県護国神社で例年行われている慰霊祭に、 穂坂君の母親が彼のお姉さんを介添えに
参加されました。その時の話に、「偉い人はあの時期、 戦争が終わることはわかっていたはず、
無理に命令を出さなくてもよかったのに……」と、慨嘆されました。

命令を下す者。 命令を受けて何のためらいもなく、危険を承知で攻撃に向かう者。 人それ
ぞれの運命というべきでしょう。 最愛の息子を亡くされた母親の嘆きは、日時の経過で薄れる
ものではありません。何とお慰めすればよいのか、その言葉はみつかりませんでした。

鹿児島県串良町は、 旧串良航空基地の跡地の一部を整備して「平和公園」としました。更に、
昭和44年10月、ここ串良基地より飛び立って、祖国防衛のため散華された、若桜400余柱
の英霊を弔うとともに、 この事績を後世に伝えるため、 慰霊碑を建立しました。 そして、
毎年10月に追悼式を行っています。

今出撃せんとす
 何も思い残すことなし
父母兄姉よ幸福であれ
 心爽やかにして大空の如し
こうしているのもあとしばらくです
          さようなら

太平洋戦争末期斯くして串良
航空基地より飛立ち 肉弾となりて
帰らざりし三百有余の御霊よ
          安らかれ
必ずや平和のいしずえとならん

 昭和四十四年十月十一日
  旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者
  慰霊塔建設期成会々長
     串良町長 佐 枝  潔

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          上等飛行兵曹桐畑小太郎。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/  
        7-108、桐畑上飛曹の遺書

4月下旬のある日、攻撃254飛行隊の穂坂2飛曹が夜間雷撃の命令を受け、 早めの夕食
を済ませて掩体壕に向かっていました。 すると、 懐かしい97艦攻が駐機していました。
尾翼のマークを見れば、間違いなく百里原空所属の機体です。

使い古したはずの飛行機なのに、 新造機と見間違えるようにきれいに塗装されていました。
源平合戦の昔、討ち死にを覚悟して出陣した平家の老将、斎藤別当実盛が、白髪を染めて
戦場に赴いた故事に倣い、整備の連中が徹夜で化粧を施したものです。

穂坂信也2飛曹は去る4月12日、飛行術練習生時代に飛行訓練に使用していた97艦攻に、
西森大尉を指揮官として中西中尉や先任教員横山上飛曹をはじめ、春原上飛曹、高尾上飛
曹それに増子上飛曹らの教官や教員が乗り組んで、魚雷を改造した、 特攻機専用の爆弾を
抱えて、次々に出撃するのを断腸の思いで見送ったばかりでした。

引き続き4月16日には、吉池上飛曹が皆の後を追うようにして出撃しました。今度はだれが
出撃するのだろう。 待機している搭乗員の中に、知った顔はいないかと探しました。すると、
桐畑上飛曹がいました。そしてその横には、同期で福岡県出身の弥永光男2飛曹と千葉県
出身の菅沢健2飛曹が控えていました。

半年前まで教員として雛鷲を手取り足取り教え育てていた親鷲が、いよいよ死期を迎えよう
としているのです。巣立ったばかりの若鷲が、新鋭機天山艦攻で雷撃を繰り返しているのに、
経験豊富な教官や教員に、 使い古しの97艦攻で1回限りの体当たり攻撃を実施させるとは、
矛盾も甚だしいと思いました。

その後の百里原空の様子など、聞きたいことや話したいことが山ほどありながら、いたたまれ
ない気持ちになって、早々とその場を離れました。

神風特別攻撃隊第1正気隊、海軍上等飛行兵曹桐畑小太郎氏(大分県国東郡国見町出身)
の遺書を紹介させていただきます。桐畑上飛曹は、百里原空の操縦教員として、 われわれの
操縦訓練を担当していました。そして、われわれが飛練を卒業した後、「特攻隊」に編入され、
串良基地へ進出、昭和20年4月28日1600、沖縄に向かって出撃したのです。


戦場へ臨む前に一筆書残す
生を享けてより二十五年 過去何の孝行も為さず 誠に申訳ありません
然し 小生帝国海軍の軍人として 立派に敵艦を屠ることが出来て
皇国の為めに死す事が出来たら 小生は本望です
最後に臨んで くよく詳しく言ふ事はありませんが
御国の為めには にっこり笑って自爆した事を お察し下さい 
尚幼い弟等へも良く小生の意志をつぐ様 言ひきかせ下さい
最後に 母上を始め皆々様の御健闘を祈る では御機嫌よう 

 二伸 遺品は後程整理される筈ず 近所の方によろしく
     もう一つ 之が届いたら 大上先生へよろしく

   四月二十一日                小 太 郎 拝
 母上様    
    返信無用


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