老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

7甲飛12期会

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             雷装した天山艦攻。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/  
        7-107、雷撃隊串良基地へ

第五航空艦隊の司令部が置かれていた鹿屋基地は、鹿児島県大隅半島の中央部にあります。
その東方志布志湾に面して串良基地がありました。ここは沖縄決戦に際して、艦上攻撃機の
出撃基地として使用され、特攻に雷撃にと数多くの艦上攻撃機がここを基地として戦いました。

その当時、戦闘機は第1国分基地、艦上爆撃機は第2国分基地、銀河は宮崎基地そして鹿屋
基地は陸上攻撃機というようにして、出撃基地が指定されていました。 作戦参加を命ぜられた
各航空隊の艦上攻撃機はこの串良基地に進出し、第5航空艦隊の指揮下に入り、沖縄周辺の
敵艦船に対して雷撃及び爆撃を敢行していました。

神風特別攻撃隊の編成を命ぜられた、 第10航空艦隊隷下の百里原空・宇佐空・名古屋空・
姫路空所属の97艦攻も、ここ串良基地から次々に発進しました。また、特攻出撃を命ぜられ、
131空で編成された「菊水部隊天山隊」も、ここを出撃基地として、沖縄周辺の敵機動部隊に
対して還らざる攻撃に飛び立ったのです。

「特攻機」として沖縄作戦に使用された天山艦攻は39機(突入確実と認められたもの28機)で
す。零式戦闘機の630機や彗星艦爆の120機に比較すれば極端に少ない。これは夜間雷撃
や黎明薄暮に肉薄雷撃を反復実施することで、「体当たり攻撃」以上の戦果が期待されていた
からです。

ところが、レーダーに誘導された夜間戦闘機の襲撃や、猛烈なる対空砲火による被害は甚大で、
無事に帰還できる確率はきわめて少なかったのです。だから、体当たり攻撃にも劣らぬ200機
を越える未帰還機をだしたのです。

このような状況下で、沖縄作戦に参加した艦上攻撃機の搭乗員は、日時に多少のずれがあり
ましたが、大部分の者がここ串良基地に展開して戦ったのです。131空攻撃254飛行隊には、
穂坂信也・上原俊一・福迫満の各2飛曹が所属し、 この基地から魚雷を抱いて出撃を重ねて
いました。

また131空攻撃256飛行隊では、平岡健哉・出直敏・石川繁・島原芳高・田中和夫・酒井知通
の各2飛曹がそれぞれ練成訓練を終了し、 やはり串良基地に進出して戦っていました。彼らは
いずれも、百里原空で艦上攻撃機の実用機教程を筆者と一緒に卒業した同期生です。

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          戦没者慰霊祭。(串良基地跡)


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        7-106、残る桜もまた散る桜

父上母上様、愈々私の出撃の日は参りました。
私も栄ある神風特攻隊八幡護皇隊の一員として、先輩兄鷲達の後に続く事が出来るのです。
父上、母上、皆喜んで下さい。私もニッコリ笑って出撃します。
今や沖縄の戦局は益々熾烈と成り、此の時我々が立たずんば誰がやりましょう。
大いに頑張ります。大いにあばれて敵の空母若しくは戦艦に体当たりします。
私の戦果を楽しみに待って居て下さい。私も十八才の春を迎へ、此の間何ら孝行というこ
とも成すことなく散って行くのですが、之が私の最初の孝行で最後の孝行であります。
又母上には、家に居る時は何時もわがまゝな事ばかり言って、何と言ってお詫びして良い
かわかりません。靖秀、ソミ子の事は呉々も宜しくお願いします。
ソミ子は一生懸命勉強せよ。靖秀も人に負けぬ様に頑張れ。
私もこの時に当たりて、母上の丹精こめられて作って下された千人針を、固くく巻いて
行きます。家の裏で四人で撮ったの写真と、兄上の写真を持って突込んで行きます。
兄上も靖秀も立派な軍人になって下さい。兄上もすぐに兵隊と思いますが、いくら上官に
なっても、常に下士官、兵の労を忘れてはいけません。軍隊は上と下とが一致してはじめ
て強い軍隊が作られると思います。最後まで私の分まで孝行を盡くして下さい。

 散る桜 残る桜もまた散る桜 我は征く

大日本帝国に生まれた事をつくづく感謝します。
又小学校時代、中学校時代の先生方にも宜しく。近所の方々や親類の方々には呉々も宜し
く。私は上海に居る時も、敵の戦闘機P51の為に顔に負傷しました。 益々敵愾心を旺盛に
したのです。
上海から一年振に内地に帰りましたが、一週間ぐらいで攻撃命令が下り、面会も出来たの
ですが、もし面会して未練でも残り、立派な働きができない様な事があっては申し訳ない
と思ったのです。どうぞ悪しからず。
出撃に当たっては、宇佐神宮に参拝しました。又佐鎮長官との握手や訓辞等を受け、恩賜
の煙草まで頂戴しました。必ず日本は勝つのです。最後の一人までが頑張り抜けば良いの
です。私は神州の不滅を信じて飛び立って行きます。
父上、母上、兄上、靖秀、ソミ子の多幸を祈って已みません。
御身体は呉々も大事に御働き下さい。
亡き母も亡き兄上も冥土で待って居られる事でしょう。有り難う御座居ました。
遺骨は残らぬ故、遺髪を送ります。
出撃の日は宇佐八幡神忠隊の指揮官機の電信員です。敵艦目がけて突込む時の電信を皆に
聞かせたいです。予科練、飛練と鍛へられた攻撃精神で全力を振るいます。
絶対人に後れはとりません。同乗される方は、操縦員大石少尉。偵察員小野寺少尉。
四月二十八日午後三時二〇分発進。沖縄周辺の敵艦目がけて突込むのは、午後六時三〇分
頃です。抱いて行く爆弾は八百瓩の爆弾です。これ一つあれば如何なる敵艦でも、一発で
轟沈するのです。上海でお世話に成った下宿の人にも知らせて下さい。
宇佐より送った金子と小荷物は受けとられましたか、あれは上海土産です。小波津君等の
仇を討ちます。日本人なら最後まで頑張れ。
神州不滅 必中轟沈 これで何も思い残すことはありません。 元気で 佐様奈良
ニッコリ笑って行きます。兄上達の御健闘を祈ります。
二十年四月二十七日
串良基地にて 憲 太 郎



聯合艦隊告示第一四五号

      布 告

神風特別攻撃隊第三草薙隊、第二正統隊、八幡神忠隊、第一正気隊及白鷺赤忠隊員トシテ、
昭和二十年四月二十八日相続イテ勇躍出撃、敵ノ至厳ナル哨戒網並ニ猛烈ナル防禦砲火ヲ
冒シ沖縄周辺ニ蟠居セル敵艦船群ニ対シ、必死必中ノ軆当リ攻撃ヲ決行シ克ク其ノ精華ヲ
発揚シテ悠久ノ大義ニ殉ス、忠烈萬世ニ燦タリ、仍テ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス

  昭和二十年八月七日
                     聯合艦隊司令長官 海軍中将 小 澤 治 三 郎



資料によると、聯合艦隊告示第一四五号の対象となった「神風特別攻撃隊」は第十航空艦隊で
編成した次の諸隊である。[防衛研究所資料]

 隊 名   航 空 隊   機 種  機 数   指 揮 官   戦死者  出撃基地
第三草薙隊 名古屋空  九九艦爆 14機  中 尉 永尾  博  28名  第二国分
第二正統隊 百里原空  九九艦爆  6機  中 尉 後藤 俊夫 12名  第二国分
八幡神忠隊 宇 佐 空   九七艦攻  3機  少 尉 清水 吉一  9名  串 良
第一正気隊 百里原空  九七艦攻  2機  少 尉 須賀 芳宗  6名  串 良
白鷺赤忠隊 姫 路 空   九七艦攻  1機  候補生 後藤  惇  3名  串 良

☆八幡神忠隊編成表(宇佐航空隊)

一番機 操縦 少 尉 大石 政則   (佐賀・予備14期・東大)
      偵察 少 尉 清水 吉一   (東京・予備13期・立大)
      電信 2飛曹 犬童 憲太郎 (鹿児島・甲飛12期)

二番機 操縦 少 尉 十川 正澄  (大阪・予備14期・東農大)
      偵察 少 尉 上保  茂   (東京・予備13期・明大)
      電信 2飛曹 三島  昭   (香川・甲飛13期)

三番機 操縦 2飛曹 山西 富三郎 (岡山・乙飛18期)
      偵察 少 尉 旗生 良景   (福岡・予備14期・京大)
      電信 2飛曹 赤堀 彰司   (静岡・甲飛13期)

7-105、縁(えにし)の糸

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            休暇帰省中の弥永君。


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        7-105、縁(えにし)の糸
   
拝啓 突然お手紙を差しあげる失礼をお許しください。
私は神風特攻隊員だった、弥永光男の姪にあたる者でございます。

去る八月十五日の夕方のことだったと思います。見るともなくつけ放しにしていたテレビ
から特攻隊という言葉が聞こえて思わずテレビをみつめました。

父の弟が特攻隊員であったことから、幼いときから特攻隊と聞くだけで敏感になっており
ました。

画面に永末様の年齢が七十歳と出ておりましたので、「あゝ光男さんも生きておられたら
ちょうど同じ七十歳だなあ」と思いながら見ておりました。

ところが次の瞬間、弥永光男と書いた遺書が画面に映り、私はあっと息をのみました。
光男さんは私の父の末弟です(三男で末っ子)。

私たち兄妹にとりましては叔父にあたりますが、四人兄妹のうち昭和十三年生まれの兄と
十五年生まれの私だけはその面影を覚えており、「お兄ちゃん」と呼んでいた気がします。
私たちは光男さんのことを、「叔父さん」ではなく、「てるおさん」と呼んで、その生涯
を話したりしてその若い遺影をしのんでいました。

八月二十五日に西鉄久留米駅の書店で御著書、 「かえらざる翼」を買い求め、二十九日
の深夜読み終えました。その間、いくたびか訓練の苛酷さを思い涙をふいたことでしょう。
志願なんかされなかったらよかったのに……。

いっそ試験に合格などされなかったらよかったのに……。
病気にでもなって帰郷されていたらよかったのに……。
そんなことが何度も私の胸裡をよぎりました。

入隊から最期の日までの歳月、何か楽しいことのひとつもあっただろうかと思うのです。
光男さんの遺書は、どのような経路で届いたのか、幼少であった私にはわかりませんが、
三井郡山本村の生家にたしかに届いておりました。

母親ハルエにとりましては覚悟をしていたとはいえ、目に入れても痛くない末の男の子の
戦死は、どんなにかつらかったでありましょう。長男である私たちの父もまた、それまで
妻子と共に台湾にあり、精糖会社に勤務しておりましたが、昭和十八年召集により出征し
ました。

母は五才の兄と三才の私をつれて、はるばる台湾から引き揚げてきて父の生家に落ちつき
ました。祖母と母と私たち幼い兄妹という、いわゆる女子供だけの明け暮れの続くなかに、
光男さんの戦死の公報が入ったのでした。

父が光男さんの戦死を知ったのは、昭和二十二年、ジャワ島から復員してのことでした。
長兄である父は、年齢の離れた弟光男さんが可愛いくて、またふびんでならなかったので
しょう。ことあるごとに特攻隊の記事があれば切り抜いて保存したり、また本を買ってき
ては光男さんを偲んでおりました。光男さんの話になると胸が塞がる様子でした。その父
は昭和五十六年、他界いたしました。

母もまた「光男さんはほんとに愛らしい顔をしてあったのよ」と、よく私たちに話をしました。
光男さんの遺書は祖母亡きあと母が大事に保管し、またいろいろな資料をアルバムに
整理したりして今も山本の生家にあります。その母も、光男さんの五十年忌の法要を
ねんごろに営ました二年後の平成七年に八十歳の生涯を閉じました。

三井郡山本村であった村は、昭和三十三年に久留米市に合併して、今は久留米市山本町
となっています。

両親なき後の生家は現在兄が守っていますが、ふだんは福岡市に在住のため、週末を山本
に来て過ごすという往ったり来たりをくりかえしています。私は小郡市に住み、主人と娘と
私の三人家族の生活です。すぐ隣りの太刀洗町は、昔太刀洗飛行場があった所です。

JR基山駅から甘木市まで、第三セクターによる甘木鉄道にはレールバスが走っていて、
いつも利用する松崎駅から三つ先の太刀洗駅に平和記念館があります。

まだ一度も行ったことがありませんのでこの機会に行ってみょうと思います。
永末様「かえらざる翼」を出してくださってほんとうにありがとうございました。

またあの日のテレビ放送にも感謝の念でいっぱいです。あの放送を見なかったら、御著書
に出合えることもなく、光男さんの飛行機が発進した串良基地のことも、また現在平和公園
となったその地に、昭和四十四年に戦没者慰霊塔が建立され、毎年十月十五日に追悼式が
行われていることも、全く知らずじまいになるところでした。

知らなかったとはいえ、長い間身内の者の訪れもなく、光男さんはどんなに淋しかったで
しょう。旅なれない私ではありますが、お教えいただいてぜひその地を訪れたく存じます。
本文を読んで涙し、またあとがきに「長い歳月の流れに拘わらず若くして大空の彼方に消
えた同期生の面影が事ある毎に今も眼前に彷彿とする」とお書きになった永末様のお心を
思い涙がとまりませんでした。

私ごとを長々と書きそのうえ悪筆にてわずらわしかったと思いますが、どうしてもお便りを
差しあげたく、出版社に電話してご住所を教えていただきました。
失礼の段はどうぞお許しくださいませ。

永末様におかれましては御身をたいせつにくれぐれもお元気にお暮らしのほど切にお祈り
申しあげます。                             敬 具

  平成九年九月一日         
                              楢 崎 マ サ 子


平成9年8月15日、私の特攻隊時代の体験談が、「終戦特別番組」としてテレビで放映され
ました。楢崎様はたまたまこれを見られてお手紙を書かれたと言われます。それにしても、
単なる偶然とは思われないものを感じました。
http://www.platon.co.jp/~senri/14TV/FBS.mpeg FBS 出演録画

7-104、出撃の朝

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        神風特別攻撃隊 第一・第二・第三正気隊の勇士。
後列、山田2飛曹・前田2飛曹・桐畑上飛曹・星野2飛曹・弥永2飛曹・上田候補生・岩崎少尉・江名少尉。
中列、有池上飛曹・根岸2飛曹・正久上飛曹・須田少尉・小田切少尉・須賀少尉・菅沢2飛曹。
前列、分隊長 ・ 飛行隊長 ・ 副 長 ・ 司 令 ・ 飛行長 ・ 五十嵐中尉 ・ 安達少尉。


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        7-104、出撃の朝

故海軍少尉弥永光男君は、 昭和20年4月28日1600、 「神風特別攻撃隊第1正気隊」
1番機の電信員として、 97式艦上攻撃機に搭乗して串良基地を発進、沖縄周辺の敵艦船
に対して、わが身を犠牲にした「体当たり攻撃」を敢行して大空に散華されました。

私は、弥永君の絶筆を拝読する度に、その行間に隠された彼の心情を感じ取り、涙を止め
ることができません。当時われわれ下士官兵の営舎内での生活は、すべての面で束縛され、
自由など存在しませんでした。 1枚のハガキを出すにも、分隊士に提出して検閲を受けな
ければならず、自分の思いをそのまま書ける雰囲気ではなかったのです。

「特攻隊」に編入されて遺書を書こうとしても、「特攻は軍の機密だ、部外に漏らしてはなら
ない」と言われ、手紙に書くことさえ禁止されていました。また、遺書を書いたとしても確実に
肉親に渡してもらえる保証もなかったのです。そのうえ、検閲などで他人の目に触れること
を考えれば、心の中をそのまま書くことなど思いもよらないことでした。

恐らく弥永君も、死を目前しながら遺書を書くことで悩んでいたに違いありません。 まず
検閲を受けずに、確実に母親に届ける方法はないものかと模索したことでしょう。 それが
できれば、最期の想いをそのまま書き残すことができるからです。

次に、自分の胸のうちをどのように書き表すか思案したことでしょう。もし他人に読まれても
おかしくない文章で、肉親には本心を読み取ってもらえるような表現を模索したのではない
でしょうか。しかし、そんな器用な文章など書けるものではありません。

あの当時、一般の家庭には電話などありません。仮にあったとしても長距離の市外通話は、
ほとんど聞き取れないのが実情でした。電話の発達した現在では想像もできないことです。
私もその時期、大井空で「特攻隊」に編入され、彼と同じ境遇にありました。 だから、彼の
胸中を推察することができるのです。 あれも書きたい、これも残したいと思いながら、うま
く当てはまる言葉が見つからず、結果的には通り一遍の文章になったものと思います。

彼は、この数行の遺書を書くのに、 恐らく一睡もできずに呻吟したのではないでしょうか。
そのため、この遺書を書き終わったのは「出撃の朝」となったのに違いありません。

「いさぎよく」この5文字に、彼の胸中が凝縮されています。書きたいことが山ほどありなが
ら一晩中かかっても文章がまとまらず、万感の思いをこの5文字に託したのでしょう。この
世の未練や肉親との哀惜の情を、 いさぎよく断ち切って、命令に従って敵艦に「体当たり」
するという彼の決意は、 だれに読まれても決して恥ずかしくない立派なものです。 しかし、
伝えたい事の万分の一も書けない焦燥に、打ち拉がれていたのではないでしょうか。

また出撃に際しては、 同期生万善東一君に託した遺書が、無事に母親の許に届くことを念じ
ていたことでしょう。 そして、「体当たり」の瞬間、彼の脳裏には優しく微笑む母親の面影が
焼き付いていたに違いありません。


    ☆神風特別攻撃隊 第一正気隊 搭乗割。

1番機 操縦 少 尉 須賀 芳宗 (東京・予備14期・立大)
     偵察 少 尉 岩崎 久豊 (山口・予備14期・中大) 
     電信 2飛曹 弥永 光男 (福岡・甲飛12期)

2番機 操縦 上飛曹 桐畑小太郎 (大分・丙飛4期)
     偵察 少 尉 安達 卓也 (兵庫・予備14期・東大)
     電信 2飛曹 菅沢  健  (千葉・甲飛12期)

7-103、いさぎよく

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             弥永光男君の遺書。


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        7-103、いさぎよく

昭和20年7月3日、福岡県三井郡山本村に住む弥永ハルヱさんのもとに、一通の封書が
届けられました。 ここしばらく音信が途絶えていた、光男君から来たのだろうと裏を返しま
した。ところが、差出人は「茨城県東茨城郡百里原海軍航空基地 万善東一」と、見知らぬ
人の名前が書かれていました。胸騒ぎを覚えながら封を切りました。     

 母上様長い間色々とお世話になりました
 いさぎよく敵空母に突込んで行きます
 皆々様どうか御身体に充分注意されん事を
 お祈り致します
                       出撃の朝
  母上
      様
  姉上  
         神風特別攻撃隊
             海軍二等飛行兵曹 弥永光男 

 
私は戦後ある機会にこの遺書を拝読致しました。出撃の朝とあるのは、串良基地を出撃した日
ではなく、百里原基地を出発した日のことです。するとこの遺書は、4月22日前後に書かれた
ことになります。万善東一君がどのような経緯でこの遺書を預かったのか、そして、発送までに
なぜ2ヵ月もかかったのか、その間の事情は想像する以外にはありません。

万善東一君は、当時同じ百里原基地に所在した、601空攻撃第1飛行隊に所属していました。
部隊こそ違っていましたが、彼も予科練時代には弥永君と同じ23分隊で共に訓練を受けた仲
でした。恐らく同じ基地での再会を喜ぶとともに、同期生の誼みで遺書の発送を引き受けたの
でしょう。

「特攻隊」という同じ境遇を体験していた私には、ある程度その間の事情を推察することができ
ます。当時われわれが家族や友人に出す手紙などは、機密保全という名目で開封のまま一括
して分隊士に提出し、検閲を受けなければ発送できませんでした。 各自が勝手に手紙を出す
ことは禁止されていたのです。 だから、「元気に軍務に服しておりますから、 ご安心ください」
などの、建前の文章しか書けなかった時代です。「特攻隊」に編入され、今生の別れに母親宛
てに遺書を送るのも例外ではありません。

恐らく弥永君も、遺書を分隊士に読まれるのが嫌だったに違いありません。だから、同期生の
万善君に相談し、母親の住所を教えて発送を依頼したものと思います。しかし、万善君も当時
帝国海軍では自他共に認める精鋭部隊、601空攻撃第1飛行隊の一員です。いつ「特攻隊」に
編入され、 出撃するかわからない立場にありました。「特攻待機」の境遇では外出もままならず、
預かった遺書をどうして発送しようかと機会を窺っているうちに、日時ばかりが経過したものと
思はれます。そして、彼にも最期の時が刻々と迫っていたのです。

昭和20年8月9日、万善東一1飛曹は、「神風特別攻撃隊第4御盾隊」の一員として彗星艦爆
に搭乗し百里原基地を発進しました。そして、金華山東方海上に来襲した敵機動部隊に対して、
必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行し、17年の短い生涯に終末を告げたのです。終戦を1週間
後に控えての出来事でした。

鹿児島県姶良郡横川町在住の万善君の母親シズさんの許には、東一君から遺書や手紙など
届けられていないと云います。恐らく敵機動部隊本土接近の報に接し、急遽「特攻隊」が編成さ
れて直ちに出撃したため、遺書を書く暇もなかったのであろと推察します。

それとも、遺書を書いてだれかに預けていたのが、 発送の機会がないうちに終戦となり、あの
混乱の中で散逸したのかも知れません。 いずれにしても、 間もなく戦争が終結することなど
夢にも知らず、遠い古里の母親に今生の別れを告げることもできずに、命令に従ってただひた
すら、敵艦に向かって突撃したのであろうと想像します。母親シズさんにとって、この1週間の
差は、100年にも相当する惜しみて余りある痛恨事だったと思います。   

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