老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

7甲飛12期会

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             艦上爆撃機 彗星33型。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/
        7-92、海軍機の機種について

海軍の飛行機にはいろいろな種類がありました。これは、 一定の基準によって区分され
ていました。先ず陸上機と水上機です。 また艦上機と艦載機にも分けられます。 次に、
小型機・中型機・大型機との区別もありました。 その上、使用目的によっては、戦闘機・
爆撃機・攻撃機・偵察機・哨戒機などと区別されていました。

陸上機と水上機は誰にでも区別できると思います。ならば、艦上機と艦載機の区別はで
きますか。陸上機の中で、航空母艦に発着できる機種を艦上機と呼びます。艦上戦闘機
・艦上爆撃機・艦上攻撃機・艦上偵察機などです。 艦載機とは、 戦艦や巡洋艦それに
水上機母艦に搭載する水上機です。主に観測機・水上偵察機などをこう呼んでいました。

小型機(単発)・中型機(双発)・大型機(4発)と区別することもありました。中型攻撃機(中攻)
・大型飛行艇(大艇)などです。 但し間違えないでください。 一式陸攻を、 一式中攻とは
呼びません。 しかし、二式飛行艇は二式大艇と呼びます。 また単発機でも小型戦闘機
や小型爆撃機とは呼びません。

次に、同じ爆弾攻撃をしても、急降下爆撃が可能な機種を爆撃機と呼び、水平爆撃や緩
降下爆撃しかできない機種を攻撃機と呼びました。 急降下爆撃とは 、降下角度が45度
以上の爆撃です。 だから、「銀河」は陸上爆撃機の範ちゅうです。 「瑞雲」も水上爆撃機
と呼んでいました。

魚雷攻撃を行う機種を、雷撃機とも呼んでいました。艦上攻撃機や陸上攻撃機などです。
「銀河」や「流星」も雷装すれば雷撃機です。

以上、ほんの一部分を簡単に解説致しましたが、戦記など読む場合はこれ以外にもいろ
いろな表現に遭遇すると思います。些かでも参考になれば幸いです。

7-91、同期の友を偲ぶ

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             雷装した九六陸攻。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/03kaiko/kaiko.html  
        7-91、同期の友を偲ぶ

堀五郎君と南里勇君は、中学の同窓で一緒に予科練に入隊した。学友二人を失った悔しさ
は終生忘れることができない。堀五郎君は昭和二十年一月十二日、哨戒飛行から帰投中、
敵グラマン戦闘機の襲撃を受けて仏印の空に散った。堀君のことでは、偶然とは思われな
い不思議な因縁を体験した。

私は昭和二十年三月、アエルタール基地の中攻隊に転属した。 ある日、九九艦爆が一機
飛来した。若年兵の私には、どこから、何しに来たかのかなど知る由もなかった。 艦爆の
操縦員は兵曹長(氏名失念)で、顔には酷い火傷の跡が残った人であった。「飛行機乗りの
顔の傷は勲章」と聞いていたので、歴戦の勇士とみていた。機会を得て、顔の傷の話を聞く
ことができた。

それによれば、昭和二十年一月十二日、仏印のツドウモ基地から九九艦爆で哨戒に出た。
そして帰投中グラマンの襲撃を受けた。 一撃目をかわし後席に、 「堀! グラマンだ」と
伝えたら、 「ハイッ」と元気な返事があった。 二撃目に被弾して、 機は火災を起こした。
座席は炎に包まれ、飛行服が燃えだした。

「堀! 堀!」 と呼んだが返事がない。 後席を覗くと頭を座席の中に垂れている 更に
呼んだが返事はなかった。 陸地の上空だったので、火だるまとなって落下傘で脱出した。
機上で戦死した偵察員は、甲飛十二期の堀兵曹だったと言う。

間違いなく学友で同期で入隊した、堀五郎君(十七歳)であることを知り大変なショックを
受けた。 「明日は我が身か」と、 改めて自分の置かれている立場を自覚した。 そして、
あの広い戦域の中で、あの搭乗員に出会って、堀君の最期の様子を聞けたことは、単なる
偶然とは思われないものを感じた。

艦爆がただ一機、基地に居続けることも不思議であった。 この艦爆が、試験飛行中海に
墜落して、大騒ぎとなった。だが数時間後に、搭乗員二人が指揮所の階段を登って行った
のを覚えている。

ジャワ島のスラバヤ飛行場から、九六陸攻が一機日没を待って出撃した。 夕暮れの空へ
青白い排気を引きながら飛び立って行くのを見送った。これが井上保夫君との最期の別れ
となった。 共に出撃するものと思っていたが、なぜか見送る立場になってしまった。 飛び
立った九六陸攻の機影は、今も脳裏に焼き付いている。好青年だった彼の笑顔を思い出す。

三八一空(旧十三空)は一式陸攻と九六陸攻を装備していた。マレー半島中部、ペナン島を
望む海岸の椰子林の中にあるアエルタール基地を使用していた。そして、哨戒や訓練など
平穏な日々を送っていた。 ところが戦局も次第に厳しさを増し、航空隊でも陸戦隊を編成
して、敵の上陸に備えての訓練が行われるようになった。

昭和二十年七月、ボルネオ島バリックパパンに、アメリカ軍の上陸が始まった。これに対し
て、三八一空に夜間攻撃の命令が出た。基地では、可動全機でジャワ島のマデオンに進出
し、スラバヤの飛行場から出撃することになった。全機がジョホール飛行場で爆弾を搭載し、
ジャワ島に向けて長途の洋上飛行となった。 途中引き返す機が多く、 無事に着いたのは、
一式陸攻二機と九六陸攻は井上君の搭乗機それに私の搭乗した二機のあわせて四機だけ
であった。

私の機も決して順調な飛行ではなかった。 島影も見えない洋上で、左エンジンが首を振り
だして不調になってしまった。 引き返すこともできずに、片舷飛行という最悪の状態で飛び
続けたのである。予定時間に遅れ、夕焼けの中にジャワ島を見付けることができた。

初めての土地で、 進入路を探して飛び廻り、 飛行場に着いたのはすでに暗くなっていた。
エンジン不調の状態で着陸のやりなおしをやって、隊長に大目玉を食らった。無事に着けた
のが不思議なほどである。出撃時刻は一式陸攻は深夜、九六陸攻は日没時と決まり機には
消炎装置が着けられ整備された。だが、私の機のエンジンは直らず出撃は不能となった。

井上機の出撃を見送ってからは、 無事帰投を信じて待った。 翌朝の明け方に、一式陸攻
二機は帰投した。しかし、九六陸攻は明るくなっても姿を見せなかった。爆音に耳をすまし、
空を見上げては機影を探した。不時着でもしたのではと、無事を願って連絡を待った。

その日のうちだったと思うが、現地の地上軍から、昨夜の攻撃で日本軍機が一機撃墜され
たとの通報があった。近郷に当時一式陸攻で出撃した搭乗整備員がおられるが、対空砲火
は花火を見るようで、 物凄い弾幕の中を飛んだとのことであった。 酸素マスクも積んでは
いたが、思う高度もとれず、速力も遅い九六陸攻には無理な出撃だったようである。

一式陸攻二機は、二晩連続して出撃したが無事に帰投した。 私の機は修理不能の状態で、
ついに出撃できなかった。井上君達が私の身代わりになってくれたのではと思うこともある。
命日は、昭和二十年七月二十三日。井上君の冥福をお祈りする。享年十八歳。

また十三空当時の三月十六日、 アエルタール基地で同期の浜口雄彦君(高知・十七歳)と
公文旻君(高知・十八歳)が九六陸攻による夜間航法通信訓練中、急激な天候の悪化により、
飛行場西側海上に墜落したことを思い出す。当時を回想しながら、 自分が今この世に生きて
いるのが、不思議に思えることがしばしばである。               合掌。

★今から62年前の昭和20年、我々は海軍飛行機搭乗員として戦塵の渦中にありました。
同期の友を失った、 藤田 袈裟雄君(佐賀県大和町)の手記を紹介致します。

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          犬童君の旧所属、256空の勇士。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/02tubasa/12inudoo/index.html  
         7-90、犬童憲太郎君の遺書

    遺  書 
 
父上母上様、愈々私の出撃の日は参りました。
私も栄ある神風特攻隊八幡護皇隊の一員として、先輩兄鷲達の後に続く事が出来るのです。
父上、母上、皆喜んで下さい。私もニッコリ笑って出撃します。
今や沖縄の戦局は益々熾烈と成り、此の時我々が立たずんば誰がやりましょう。
大いに頑張ります。大いにあばれて敵の空母若しくは戦艦に体当たりします。
私の戦果を楽しみに待って居て下さい。私も十八才の春を迎へ、此の間何ら孝行というこ
とも成すことなく散って行くのですが、之が私の最初の孝行で最後の孝行であります。
又母上には、家に居る時は何時もわがまゝな事ばかり言って、何と言ってお詫びして良い
かわかりません。靖秀、ソミ子の事は呉々も宜しくお願いします。
ソミ子は一生懸命勉強せよ。靖秀も人に負けぬ様に頑張れ。
私もこの時に当たりて、母上の丹精こめられて作って下された千人針を、固くく巻いて
行きます。家の裏で四人で撮ったの写真と、兄上の写真を持って突込んで行きます。
兄上も靖秀も立派な軍人になって下さい。兄上もすぐに兵隊と思いますが、いくら上官に
なっても、常に下士官、兵の労を忘れてはいけません。軍隊は上と下とが一致してはじめ
て強い軍隊が作られると思います。最後まで私の分まで孝行を盡くして下さい。

 散る桜 残る桜もまた散る桜 我は征く

大日本帝国に生まれた事をつくづく感謝します。
又小学校時代、中学校時代の先生方にも宜しく。近所の方々や親類の方々には呉々も宜し
く。私は上海に居る時も、敵の戦闘機P51の為に顔に負傷しました。 益々敵愾心を旺盛に
したのです。
上海から一年振に内地に帰りましたが、一週間ぐらいで攻撃命令が下り、面会も出来たの
ですが、もし面会して未練でも残り、立派な働きができない様な事があっては申し訳ない
と思ったのです。どうぞ悪しからず。
出撃に当たっては、宇佐神宮に参拝しました。又佐鎮長官との握手や訓辞等を受け、恩賜
の煙草まで頂戴しました。必ず日本は勝つのです。最後の一人までが頑張り抜けば良いの
です。私は神州の不滅を信じて飛び立って行きます。
父上、母上、兄上、靖秀、ソミ子の多幸を祈って已みません。
御身体は呉々も大事に御働き下さい。
亡き母も亡き兄上も冥土で待って居られる事でしょう。有り難う御座居ました。
遺骨は残らぬ故、遺髪を送ります。
出撃の日は宇佐八幡神忠隊の指揮官機の電信員です。敵艦目がけて突込む時の電信を皆に
聞かせたいです。予科練、飛練と鍛へられた攻撃精神で全力を振るいます。
絶対人に後れはとりません。同乗される方は、操縦員大石少尉。偵察員小野寺少尉。
四月二十八日午後三時二〇分発進。沖縄周辺の敵艦目がけて突込むのは、午後六時三〇分
頃です。抱いて行く爆弾は八百瓩の爆弾です。これ一つあれば如何なる敵艦でも、一発で
轟沈するのです。上海でお世話に成った下宿の人にも知らせて下さい。
宇佐より送った金子と小荷物は受けとられましたか、あれは上海土産です。小波津君等の
仇を討ちます。日本人なら最後まで頑張れ。
神州不滅 必中轟沈 これで何も思い残すことはありません。     元気で 佐様奈良
ニッコリ笑って行きます。兄上達の御健闘を祈ります。

    二十年四月二十七日
                                串良基地にて   憲 太 郎


★この度、犬童憲太郎君のご遺族の訃報に接しました。 犬童君は、昭和20年4月28日、 
「神風特別攻撃隊 八幡神忠隊員」として串良基地を発進。 沖縄周辺の敵艦船に「体当たり
攻撃」を敢行して散華されました。昔日を偲んで、憲太郎君の遺書を紹介させて頂きます。

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7-89、神風は吹かず

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           広島の惨状。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/
       7-89、神風は吹かず

翌朝、しばらく親戚の家に滞在して、今後の様子をみると言う石井兵曹と別れて、今度は一人
で汽車に乗りました。広島駅で乗り換えのため下車したついでに、街に出て市内の様子を見て
回りました。 「70年間は草木も生えない」と言われるように、一面瓦礫の山です。 「体当たり
攻撃」などでは太刀打ちできない化学兵器の破壊力を、まざまざと見せ付けられた感じでした。

夕方、下関駅に着きました。故郷九州はもう目の前です。関門海峡を見渡すと、おびただしい
数の沈没船が、 マストや船体の一部分を海面にさらしていました。 この光景を眺めながら、
フト以前歴史の教科書でみた挿絵が頭に浮かびました。それは「弘安の役」で、博多湾に押し
寄せてきた蒙古軍の大船団が、「神風」に吹き寄せられて、折り重なるようにして沈没する様子
を描いたものでした。

今眼前にみる情景が、本土上陸を目指して、関門海峡に押し寄せた敵の艦船群が、「神風」に
よって壊滅した残骸であればとの願いが、一瞬脳裏を掠めました。 しかし、現実にはB29の
投下した機雷による、わが方の被害でした。

われわれが、心密かに必ず吹くと期待していた「神風」は、ついに吹かなかったのです。 また、
源平の昔、都を追われ壇之浦の合戦に敗れた平家の落人が、九州各地の山奥深く隠れ住ん
だ故事を偲びながら、先行き不安な敗戦を現実のものとして認識させられました。 その反面、
生きて再び故郷の土を踏むことのできる喜びを、全身に感じていました。

7-88、復員の旅

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            八坂神社。


甲飛12期会 http://www.warbirds.jp/senri/12-3/
       7-88、復員の旅

いよいよ復員できる日がきました。 復員証明書といくばくかの旅費を受け取り、思い出深い
「湖畔の宿」を後にして、堀之内駅から汽車に乗りました。私は石井勝美兵曹(長崎県壱岐郡
出身)と一緒に帰ることにしました。 汽車はすし詰めで、おまけに鈍行です。乾パンなどの
食糧は準備していたのですが、最悪の旅となりました。

京都駅で途中下車して、石井兵曹の親戚宅に一泊することにしました。浜松、名古屋、岐阜
と焼け野原ばかり見てきた目には、数回の空襲を受けて、相当数の死傷者を出したにしても、
比較的被害の少なかった、古い京都の街のたたずまいは、妙に落ち着いた雰囲気を醸してい
ました。

それにしても、街には店らしい店は開いていません。八坂神社の前で氷屋が一軒店を開けて
いるのを見つけて、氷を一角買いました。蜜や砂糖など有るはずがありません。オガ屑を拭き
とって、タオルに包んで玉垣に打ち付けて、カチ割りにしました。 そして、石段に腰を降ろして
カリカリと噛みました。 暮れなずむ京都の街並みを眺めながら、 物を食べるという事で満ち
足りた気分になり、戦争が終わった喜びをしみじみと感じました。


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