老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

10戦没者追悼

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             至誠殉国之碑。


戦没者追悼 http://www.warbirds.jp/senri/08tubasa/02nisiyama/nisiyama.html

        10-13、16歳の特攻隊員

昭和20年3月18日の未明、西山ミサトさんは長男典郎君に抱きつかれ、そして一瞬にして姿を消し
去った夢を見たそうである。恐らく死出の旅路の途中、母親の胸に抱かれるため霊魂となって古里に
帰ってきたのであろう。

西山典郎君は、昭和18年7月30日、即ち予科練に入隊するため鹿児島へ旅立つ前夜、
「母ちゃんと寝たい……」。そう言って母親と一緒に寝たという。そして、「母ちゃん、元気でね……」と、
言いながら母親の手を静かに握ったそうである。その柔らかい手のぬくもりが、50余年経った今でも
まだ残っていると母親ミサトさんは話される。

筆者は6人兄弟の末っ子であった。だから甘やかされて育ち、小学校に入学するころまで母親と一緒
に寝ていたことを記憶している。典郎君は長男としての立場から、後に生まれた弟妹のため、日ごろは
母親に甘えるのを我慢していたのであろう。そして最後の別れに、母親に抱かれて精一杯甘えたかった
のではなかろうか。その夜、親子はどんな夢を見たのであろうか。

昭和20年3月18日、752空攻撃262飛行隊では、 神風特別攻撃隊菊水銀河隊を編成し、九州南東
海上に来襲した敵機動部隊に対し、必死必殺の体当たり攻撃を敢行した。 指揮官松永輝郎大尉機の
電信員に選ばれた、 西山典郎2飛曹は、 午前8時7分「全軍突撃必中セヨ」との電報を発信して以後
消息を断った。

西山典郎君は特攻戦死者の中で最年少であった。 17歳の誕生日を迎えることもできず、短い人生に
終止符をうったのである。 この「体当たり攻撃」で、敵の航空母艦エンタープライズとヨークタウンを撃破
したことが記録に残されている。

予科練時代の手紙

謹啓 段々と暮らしよくなり皆様御元気で御暮らしのことゝ思います。
祖父様
御元気で御暮らしの事と思います。帰郷中は色々と御世話になりました。私は毎日元気に
やっています。我々もやがて一生懸命に敵と一騎打ちが出来る日が来ると思います。家の
名誉にかけて働きます。どうか御大事に。

父上様
先日は有難う御座いました。無事御帰りになられた事と思います。私は元気一杯やってお
ります。父上の教訓を守って一生懸命にやってきます。幸郎の入学の事や其の他弟妹の事
はお願い致します。そして無事幼年学校にやって下さい。中学校時代の私の都合の悪い物
がないとも限りませんが、後で辱かしくない様に、ありましたら処理して下さい。
御別れしてから一寸も淋しくありませんでした。

母上様
先般の休暇で皆様の事もよくわかり、 又元気でいられる姿をみてすっかり安心しました。
弟妹達とも心のゆく限り遊べて何の悲しみや悩みも毛頭ありません。母上の心も日本晴れ
との事で、喜んでおります。今から実際に一騎打ちが出来るのです。考えただけでも愉快
です。又玉中から来た者も八名おります。山口も牧島も決して心配には及びません。思う
存分世の中を駆け廻ってきます。祖父も日露戦役の軍人、父上も軍人、それに私も軍人で
実際に役立つ、家門の名誉と思って下さい。どうか御病気になりませぬ様御祈り致します。

幸郎君
今眼前或は最中か。大難関を突破せよ。そして、先ず幼年学校に突撃されよ。一番大切な
のは体だ。体なくては何の用にも立たぬ。
一、父上母上に兄さんにかわって孝行すること。
二、兄弟は仲よくすること。決して洋光、紀光を泣かせるな。
三、身体を無理せぬ様勉強すること。但し一番にならなければ何にもならない。
四、家の手伝いをすること。

雅子ちゃん
お元気で勉強して下さい。母ちゃんの言われることをよくきいて一生懸命勉強し、洋光、
紀光と仲よく遊んでやりなさい。母ちゃんが心配せぬ様、お手伝いするんですよ。

洋光サン
ユビヲ五ツカゾエルト一年生デスネ。トウチャンヤカアチヤンノイウコトヲキイテ、ベン
キョウシテイルデショウ。ノリミツサントナカヨクアソンデクダサイ。
ソシテ、キユウチョウニナリ、カアチャンヲヨロコバセテクダサイ。オゲンキデサヨナラ。

ノリミツサン
ニイサントスモウヲトツテ、ニイサンヲナゲタノリミツサンハ、ナカナイデオリマスカ、
ニイチャンタチトナカヨクシテクダサイネ。マタニイサンガカエッテスモウヲトリマセウ。
コンドハアメリカノヒコウキヲモッテキマス。カアチャンヲコマラセナイヨウニ。

二伸
如何なる難事も最後まで沈着に、いつまでも体を無駄にせず、
思う存分落着いてやります故御安心下さい。又軍刀は脇差しで結構です。
先般司令官少将 朝融王殿下の□□□□□□□□□□隊内数名の練習生が選ばれ、
御前にて参謀より試問をうけたる光栄に浴しました。母上様どうか喜んで下さい。
この新たなる感激をうけ又一層頑張るつもりであります。では皆様お元気で。
私の事は一切心配されぬ様、呉々もお願い致します。
                                              典 郎
 御一同様
                  [筆者解説・□□□□は検閲で消去されている]

10-12、空中衝突事故

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              航空母艦「鳳翔」。


戦没者追悼 http://www.warbirds.jp/senri/11sensi/index.html

        10-12、空中衝突事故
         
昭和20年3月17日、210空の小林毅(新潟)中園利之(福岡)吉富昇(鹿児島)2飛曹が雷撃訓練中
に空中衝突事故を起こして殉職した。いずれも、艦上攻撃機の操縦訓練を受けた同期生である。
その日、同じ訓練に参加してこの事故を目撃した同期生がいる。平岡健哉2飛曹(長崎県出身)である。

彼の話によれば、当時210空艦攻隊は大分基地に移動して、航空母艦「鳳翔」を標的とした、魚雷の
実射と襲撃運動の訓練を実施していた。その日は、天山艦攻12機編隊で襲撃運動を実施するため、
隊長の佐藤大尉が指揮官となり、大分基地を離陸した。 編隊を組みながら高度をとり豊後水道に向
かった。間もなく、全速力で航行中の標的艦「鳳翔」を発見した。 1番機のバンクを合図に、突撃準備
隊形を作った。

突撃準備隊形とは編隊を解散して単縦陣になりながら、標的艦を中心にして、半径約10,000メートル
の円を描いて包囲する陣形を作るのである。 包囲陣が完成するのを見計らって、指揮官は「突撃」を
指令する。全機一斉に標的艦に向かって「突撃」を開始する。

魚雷の発射は高度20メートル以下で目標との距離は800メートル前後で行う。つまり、参加した全機
が標的艦前方の上空で一瞬に交差することになる。 その日の約束事は、右舷側から攻撃する機が
左舷側から攻撃した機の上を通過して衝突を避けることで統一されていた。

ところが同じ左舷側から攻撃する場合でも、 発射角は60度から120度とまちまちである。 そのうえ
同じ側から攻撃する機ごとの高度差は示されていなかった。だから、魚雷発射後の各機は思い思いの
高度で一点に集中することになる。

実戦に即した訓練のため安全は無視されていた。平岡機は右舷側から「突撃」を開始した。 ところが、
魚雷発射の直前に標的艦の艦首前方に突然水柱が上がり、飛行機の破片がバラバラと海上に落ちて
きた。これは左舷側から攻撃していた2機が、空中衝突して墜落したものである。すぐに訓練を中止して
基地に帰った。

衝突したのは橋本飛曹長機(乙飛7期)と同期生の小林2飛曹機であった。それにその後席に搭乗して
いた者を含め、6名の犠牲者を出したのである。小林機の後席には同期生の中園・吉富両2飛曹が搭乗
していたのである。これより6日前の3月11日、201空の艦攻隊が同じ場所で、同じような事故を起こし
てやはり6名の犠牲者を出したばかりであった。 訓練計画に反省すべき点はなかったのか悔やまれる
事故である。

平岡2飛曹は前年12月、百里原航空隊での空中衝突事故の際には、1番機の後席に同乗していてあ
の事故に遭遇した。尾翼を破壊され操縦不可能に近い飛行機で、九死に一生を得ての生還であった。
その彼が、再び眼前で衝突事故を目撃する巡り合わせとなったのである。

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             二式飛行艇。


戦没者追悼 http://www.warbirds.jp/senri/11sensi/index.html

        10-11、20年3月後半の戦没者

20. 3.16 公文  旻   (高知県・18歳)    13空
20. 3.16 浜口 雄彦  (高知県・17歳)    13空
 九六陸攻に搭乗、 哨戒を兼ねて夜間航法・通信訓練中、 飛行場西方海上に墜落戦死。(マレー方面)

20. 3.17 中園 利之  (福岡県・17歳)    210空
20. 3.17 吉富  昇   (鹿児島県・17歳)   210空
20. 3.17 小林  毅   (新潟県・19歳)    210空
 天山艦攻に搭乗し、 別府湾にて対実艦的雷撃訓練中、僚機と接触墜落殉職。 (大分灯台45度4・5浬)

20. 3.17 村田  茂   (京都府・18歳)    801空
 南西諸島東方海上索敵のため詫間基地発進。 哨戒中敵大部隊を発見。 以後消息を断つ。 戦死。 (二式飛行艇)

20. 3.18 細川  侃   (石川県・18歳)    801空
 2020詫間基地を発進、土佐沖の敵機動部隊に接触中、0340以後連絡を断つ。戦死。(二式飛行艇)

20. 3.18 西山 典郎  (熊本県・16歳)    762空攻撃262
 神風特別攻撃隊・菊水銀河隊員として築城基地発進。 九州東方海上の敵機動部隊に体当たり攻撃を敢行。

20. 3.19 山田 道夫  (愛知県・19歳)    901空
 筥崎丸に便乗、 海南島に転勤の途中。 東支那海において敵潜水艦の雷撃を受け交戦中、 戦死。

20. 3.19 山本 一考  (石川県・17歳)    801空
 夜間哨戒のため二式大艇に搭乗し、 詫間基地を発進。 都井岬沖の敵機動部隊に接触中敵戦闘機と交戦戦死。

20. 3.19 門前 吉夫  (石川県・17歳)    801空
 夜間哨戒のため二式大艇に搭乗、 都井岬沖において敵艦隊に接触中、 敵戦闘機の迎撃を受け戦死。

20. 3.20 岩倉 昭夫  (香川県・18歳)    951空
 東支那海において対潜哨戒を実施中、 敵機の攻撃を受け、 被弾戦死。(水偵)

20. 3.21 山口 昭二  (熊本県・18歳)    762空攻撃501
 神風特別攻撃隊・菊水銀河隊員として鹿屋基地発進、 九州東方海上の敵機動部隊に体当たり攻撃を敢行。

20. 3.21 高橋 幸太郎 (山形県・18歳)    721空攻撃711
 第一桜花特別攻撃隊・神雷部隊攻撃隊隊員として、 敵機動部隊攻撃のため鹿屋基地を発進。 未帰還。

20. 3.21 石橋 光男  (和歌山県・17歳)   131空攻撃254
 天山艦攻に搭乗、 東京湾において駆逐艦「矢風」を目標に雷撃訓練を実施中、 海面に墜落。 殉職。

20. 3.25 柏原 健次  (徳島県・17歳)    706空攻撃704
 硫黄島攻撃のため木更津基地を発進。 硫黄島上空において戦死。(一式陸攻)

20. 3.25 能勢 祐年  (岡山県・18歳)    706空攻撃704
 硫黄島爆撃のため木更津基地発進。 未帰還戦死。 (一式陸攻)

20. 3.27 才木 治明  (長崎県・17歳)    801空
 索敵のため詫間基地発進。 沖縄東方海上に敵戦艦を発見接触中、 敵機の攻撃を受け自爆戦死。(二式大艇)

20. 3.27 中村   修  (香川県・17歳)    701空攻撃251
 沖縄周辺の敵艦船群雷撃のため、 喜界島基地を発進。 雷撃実施後連絡を断ち未帰還戦死。(天山)

10-10、内地からの特攻

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          「梓特別攻撃隊」23号機ペア。
          左から(操)原田2飛曹・(電)葛佐2飛曹・(偵)松井飛長。


戦没者追悼 http://www.warbirds.jp/senri/10kaiko/12gotoo/gotoo.html

        10-10、内地からの特攻

762空攻撃262飛行隊では「丹作戦」に呼応して「菊水部隊『梓』特別攻撃隊」を編成し、初めて
内地からの特攻作戦を実施した。 早春の3月11日09:20、 鹿屋基地を発進した銀河24機は、
洋上長駆1,360カイリを飛翔して、 ウルシー岩礁内に停泊する敵機動部隊の攻撃に向かった。
そして、10時間に及ぶ飛行の末19:00過ぎ、夕闇せまる敵泊地に殺到して必死必殺の「体当たり
攻撃」を敢行したのである。

この攻撃に、葛佐真夫2飛曹(徳島)と原田照和2飛曹(佐賀)それに林栄一2飛曹(愛知)が参加し、
同期生として「体当たり攻撃」の魁となった。 バンドを締めた狭くるしい座席での長時間の飛行が、
どれほど肉体的な苦痛を伴うものであるか、まして、生還が許されない死出の旅路であってみれば、
その胸中は察するに余りある。

彼らは10時間にも及ぶ長い飛行中、何を思い何を語り合ったのであろうか。おそらく、遠ざかりゆく
故郷の山河に思いを残しながら、過ぎし日々の回想に耽っていたと想像する。 そして、体当たりの
瞬間、父母の面影を脳裏に焼き付けていたに違いない。

      辞  世

命下り振り返れば桜島 別れ惜しむか煙棚引く          林 栄一

御国のため盾となりけむ我は征く 修羅の巷はふたとあるまじ 林 栄一

大君に召されしわが家誉あれ 春きたらむと祈りつつ征く   葛佐 直人

御国のため盾になりしか若桜 散りにし後に誰かおしまむ   原田 照和

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          ダグラス輸送機。


戦没者追悼 http://www.warbirds.jp/senri/10kaiko/15ogaha/oga.html

        10-9、小河原正澄君の記憶

同期生の小河原正澄君(福岡県出身)の話を紹介する。彼は上海航空隊で飛練を卒業し、龍華基地
に所在する256空(雷部隊)所属となった。 そして、 昭和19年10月13日の、「台湾沖航空戦」が
彼の初陣である。

その後対潜哨戒や船団護衛などの任務に服していた。 戦艦を改造した空母「伊勢」及び「日向」が、
フィリピン方面の作戦に出勤した際は、その前路哨戒を実施した。

ある日、海軍のダグラス輸送機が上海南方の南翔に不時着したとの連絡を受けた。 これを救出する
陸軍に協力するため、零戦と九七艦攻が出動することになった。 彼も九七艦攻に搭乗してこの作戦
に参加した。だが、乗員の救出は成功しなかった。

この時ダグラス輸送機に乗っていたのは、フィリピンや台湾方面から内地に引揚げる、司令部関係の
お偉方と、翼を失った搭乗員たちであった。 そして、 901空所属の同期生、徳光・金井・村山の各
2飛曹も搭乗していたとの話である。
 
私の調査では、この事件は3月1日で、ダグラス輸送機の乗員は徳光武2飛曹(大分)で、村山泰視
(香川)金井二雄(愛媛)の両2飛曹は、 同じ目的で台湾の高雄基地から相前後して飛び立った、
一式陸攻に搭乗していた。 ところが、 彼らもまた同じように目的地に到着することなく消息不明と
なったのである。

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