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叙位叙勲証書。
戦没者追悼 http://www.warbirds.jp/senri/08tubasa/15hyakuri/index.html
10-19、田中和夫君碑銘
石川県金沢市出身、故海軍少尉田中和夫君の碑銘を紹介させていただく。彼は百里原空で
艦上攻撃機の実用機教程を筆者と一緒に卒業した。実施部隊は、131空攻撃256飛行隊
(香取基地)に配属された。
ここで天山艦攻による錬成訓練を行い、訓練終了とともに出撃基地串良へ出陣した。
昭和20年4月6日、「神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊」 第3小隊2番機の操縦員として、
喜界島180度78浬付近の敵機動部隊攻撃のため、 1535串良基地を発進、敵戦艦に
対して必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行して大空に散華された。 同日付で海軍少尉に
任じられ、功4級勲6等に叙せられた。 その功績は、聯合艦隊告示第91号により全軍に
布告された。
事 歴
故海軍少尉功四級勳六等田中和夫君ハ昭和二年十月十七日金澤市大桑町二十三番地
田中家長男トシテ生ル 四代勇作ヲ父トシ千代子ヲ母トス 性俊敏沈毅ニシテ頴悟夙ニ
郷黨ニ推稱サレ 石川縣立第二中學校ニ學ヒ其ノ將來ヲ嘱目セラル 大東亞戦争酣トナ
ルヤ年齒漸ク十八歳勉學半ニシテ 甲種飛行豫科練習生ヲ志願シ 毅然筆ヲ棄テゝ銃劍
ヲ把リ 鹿児島海軍航空隊ニ入ル 同十九年三月右航空隊ヲ卒業シ進ンテ茨城縣谷田部
百里原航空隊ニ於テ艦上攻撃機教程ヲ卒ヘ 其ノ奥義ヲ究メ 實戦部隊香取航空基地ニ
猛訓練ニ從事シ其ノ技神ニ入ル 時恰モ沖繩ノ戦局芳シカラス 俊鷲永ク翼ヲ休ムヘキ
秋ニ非ス 君大命ヲ奉シテ 南九州串良航空基地ニ進出シ 艦上攻撃機特攻隊ノ編成ヲ
見ルヤ拔カレテ 神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊ニ属ス 時ニ昭和二十年三月三十一日
ナリ カクテ君ハ擧國一億民衆ノ期待ニ應ヘテ沿岸防備中 四月六日 南西諸島喜界島
一八〇度七八浬ニ游弋中ノ 敵空母竝戦艦及支援部隊ニ特攻ノ命ヲ受ケ 十五時三十分
串良基地ヲ発進ス 同十七時五十分 遙カニ敵戦艦ノ炎上セルヲ認メ得タリシカ 十七時
五十九分 我レ戦艦ニ躰當リスノ壯烈ナル長符連送ノ打電ヲ最後トシテ 永ク消息ヲ絶ツ
噫乎 君能ク神鷲ノ精華ヲ發揚シ 身ヲ殺シテ以テ悠久ノ大義ニ殉ス 大和男児ノ本懐
豈ソ之ニ過ルモノアルヘキ厥ノ忠烈ハ洵ニ萬世ニ燦タリ
事畏クモ上聞ニ達シ 昭和二十年四月六日 君カ忠誠ヲ嘉賞シ 二階級特進ノ榮ヲ賜ヒ
海軍二等飛行兵曹ヨリ 海軍少尉ニ任セラル 家門之ヲ譽トシ 郷閭擧ツテ之ヲ稱フ
父勇作 思慕ノ念熄ミ難ク 茲ニ事歴ヲ認メ 石ニ鐫シ以テ後昆ニ傅ヘントス 衲乃チ
需ニ應シ 同年五月廿一日付 香取航空隊分隊長ノ報告ニ基キ 英魂ヲ偲ヒ茲ニ録ス
昭和二十四年五月
眞宗大谷派金澤別院 輸 番 安 藤 専 哲 誌
過日、同期生の平岡健哉君が久しぶりに田中君のお墓参りに伺った。ところが、応対に
出た妹さんから、
「平岡さん、申し訳ないけど母には会わずに帰ってください」と言われた。
不審に思った平岡君にその理由を次のように説明した。
母親千代子さんは、和夫君の予科練時代の写真や中学時代に書いた絵画などを見ては、
「和夫! 和夫! 」 と、呟きながら嘆き悲しむそうである。 だから、兄を思い出すような
品物は極力目に付かないようにしているのだが、 それでも探し出して、 涙を流しながら
見入っているという。 これを宥めるのに一苦労するそうである。 だから、平岡さんに会え
ば必ず兄を思い出して、収拾つかなくなるから、会わずに帰ってほしいとの願いであった。
悲しみは時間が解決するという。しかし、50余年経った今でも最愛の一人息子を亡くした
悲しみは、増すことはあっても薄れることはない。千代子さんの胸の中には、17歳で童顔
のままの和夫君が今でも生き続けているに違いない。
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