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溝口和彦君 遺影。
戦没者遺影 http://www.warbirds.jp/senri/11sensi/20-7/207.html
11-70、溝口和彦君事績
601空攻撃第1飛行隊所属の溝口和彦1飛曹は、「神風特別攻撃隊 第4御盾隊」の
一員として、昭和20年8月15日1050百里原基地を発進、関東沖の敵機動部隊に
体当たり攻撃を敢行。 (彗星) (佐賀県・18歳)
忘れ得ぬ同期の桜
西部 博俊(福岡県田川市出身)
昭和十九年十月十二日未明から十五日までの四日間、猛烈な航空戦が展開された。
台湾沖航空戦である。 飛練を卒業して台南空に配属され、九九艦爆と九七艦攻を
使って錬成訓練中であったわれわれが、 初めて実戦を体験したのである。 そして、
急遽台南空の東約五キロにある帰仁基地に根拠を移して訓練を再開した。
こうした中、十一月一日付で半人前ながら海軍二等飛行兵曹に任命され、台南市の
海仁会館で盛大な任官祝が催された。 ところが、 任官の喜びにひたる暇もなく、
特別攻撃隊が編成されることになった。この時は、命令によるものではなくて、希望者
を募っての編成であったと記憶している。
小生も特攻を希望していたのだが、艦攻分隊長砂原大尉に呼ばれ、「貴様は長男だ
から駄目だ!」と一喝され、転属準備を言い渡された。さて、どこへ転属させられるの
だろう思っていると、再度呼び出され、「編成上もう一機ほしい、強制はしないが
どうだ」との話で、特攻隊への編入が決まった。
この時の編成は、操縦員は予備学生の十三期生と乙飛十七期生それに特乙一期生で、
偵察員の殆どが上海空で飛練を卒業したばかりのわれわれ甲飛十二期生であった。
帰仁基地では、日中の空襲を避けて、夜間の特攻訓練が開始された。特に夜間洋上
飛行が重視された。夜間洋上航法の成否は、迅速確実な偏流測定にある。投下した
航法目標灯を追って測定器を操作する。後方に流れる目標灯をプリズムで戻してそ
の角度を測定するのだが、マゴマゴしていると目標が測定器から外れてしまう。
これでは、偏流は測定できない。別に何か目標になるものをと探しても、その当時
は漁火なども皆無であった。更に地上では灯火管制が実施されて、真っ暗闇で何も
見えない。下手をすると機位を失し、自分が今どこを飛んでるのか分からなくなる。
回数を重ねて少し自信がついたある日。居眠り防止用の抹茶を固めた錠剤をかじり
ながら、九七艦攻の電信席に乗り込んだ。操縦員は原嶋久仁信一飛曹(乙十七期)
で偵察員が福田周幸二飛曹(甲十二期)それに私のペアである。
地上における点検を終えて、チョークを外し滑走路に向かう。私は後ろ向いて座席
に跨がって、背もたれに腕を乗せ、指揮所に向かってオルジス信号を送っていた。
離陸地点に着いたらしく、「左右後方ヨロシイ」「離陸目標ヨーシ!」と福田兵曹の
声が聞こえ、続いて、「前方ヨーシ」と原嶋兵曹。本来ならこの時点で座席を座り
直し、座席バンドを締めて離陸態勢を整えるのである。だがこの日限って、横着を
決め込んで後ろ向きに座ったまま、「離陸準備ヨーシ」。
原嶋兵曹の「離陸スルー」との元気な声でいよいよ離陸発進だ。ところが、スピード
が増すにつれ指揮所の見え具合が普段と違う? と、思う間もなく、機体がバウンド
して尾輪がコンコンと跳ねだした。ブレーキ音が軋む。背もたれにしっかりとしがみ
ついた。どうやら滑走路を外れているようだと思った瞬間、グワッグワッという轟音
と同時に機はキリキリ舞をして、ドスーンと止まった。……一瞬静寂の暗闇……
我に返って恐る恐るオルジスで付近を照らして見ると、あたり一面は濛々たる砂塵
である。偵察席を照らしながら、「福田!」と声をかけると、「グッグゥ」と声になら
ない声だ。
「原嶋兵曹、原嶋兵曹! 大丈夫ですか?」と声をかける。何度目かに「オーウ」と
声が返ってきた。どうやら放心状態にある様子だ。
指揮所に向けて「・・・ ━ ━ ━ ・・・(SOS)」と、発光信号を繰り返した。
ところが、既に異変を察したらしく、救難の車らしきものがこちらに向かって来てい
るようだ。翼の上に出て福田兵曹の様子を窺うと、両手で顔面を覆って俯している。
手袋の間から血が流れ出ている様子だ。
原嶋兵曹にその旨を伝えて、早く救難隊に知らせなければと翼の上から一気に地上へ
跳んだ。イチニッサンと拍子をとって跳び降りたつもりだが、ギクッと左足首に激痛
が走って、その場に座り込んでしまった。何のことはない、飛行機の脚が折れていた
ので翼は地面と殆ど変わらない高さだったのである。泡を食った時はこんなものか?
早速台南の海軍病院に運ばれ精密検査を受ける羽目になった。原嶋兵曹は異常なし。
小生は軽い足首捻挫ですんだのだが、福田兵曹は眉間の下部打撲切創で入院となった。
福田兵曹は退院後も、横約二センチの傷痕が残ることになり、貫録をつけていた。
事故の原因は連日の訓練の疲れで、列線の危険表示のランプを離陸目標灯と見誤って、
これに向かって滑走を始めたのである。そのため列線にあった飛行機も一部破損した。
だが、なぜか叱責されることはなかった。
それから間もなくわれわれは、七二一空(神ノ池)に転属が発令され、内地に帰還す
ることができた。神ノ池基地は神雷部隊の訓練基地である。どんな配置を与えられる
かと思っていたら、新たに艦爆隊が編成されて、新鋭機彗星による錬成訓練が開始さ
れた。
この間、福田兵曹とはなぜか気が合って、同じ家に下宿し隊の内外を問わず常に行動
を共にしていた。一升瓶をラッパ飲みしたり、ウイスキーの飲み比べをした、懐かし
い思い出ばかりである。また、外出のたびに鹿島神宮に参拝したものである。
次に、百里原空に転属となった。ここでは、また九九艦爆と九七艦攻に逆戻りである。
一部の者は彗星の経験を生かし、同じ基地に所在していた、六〇一空攻撃第一飛行隊
に配属され、別れ別れとなった。
アメリカ軍の沖縄侵攻が始まり、「菊水作戦」が開始されると、次々に「特攻隊」が編成
された。 福田兵曹は早々と九九艦爆の「神風特別攻撃隊第二正統隊」に編入されて、
第二国分基地へ進出した。そして、還らざる攻撃に飛び立ったのである。
更に痛恨の極みは、終戦当日即ち八月十五日一〇五〇、百里原基地を発進して、関東
東方海上の機動部隊に対し、帰らざる攻撃を敢行した「神風特別攻撃隊 第四御盾隊」
に、溝口和彦及び田中喬の両同期生が含まれていたことである。運命の日、祖国防衛
の礎ならんと、何のためらいもなく出撃し、自らの命を断った御霊よ、永遠に安らかなら
んことを。
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