老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

14特攻隊時代

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全10ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]

[ 次のページ ]

富士山

私は鹿児島航空隊での予科練を卒業して茨城県で飛行訓練を受けました
谷田部航空隊で中間練習機を 百里原航空隊で艦上攻撃機の訓練でした
此処から一定の高度をとると 西方遥かに富士山を眺めることができました
飛行訓練を終えて最初に配置されたのが 館山航空隊でした 駿河湾を隔て
遥かに雪を被った富士山が最も印象的でした 次に静岡県の 大井航空隊に
転属しました 牧の原から 毎日富士山を眺めていました 此処では富士山
に斯かる雲の形から 天候を予測していました 戦後は九州に帰り 富士山
との縁も切れました

富士山に 斯かる雲から 雨予測

14-46、どんな思いで!

イメージ 1

              特攻隊員の絶筆。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-46、どんな思いで!

串良基地から出撃した特攻隊員の絶筆。
氏名の判読できた方の所属及び出身県。

常磐忠華隊(百里原空)
増子定正上飛曹(福島)は百里原空時代われわれの教員でした。

第二護皇白鷺隊(姫路空)
野元純候補生(長崎)・菅田三喜雄候補生(岩手)・福田茂男候補生(岡山)
森久2飛曹(香川)・古谷純男候補生(神奈川)・沢田久男2飛曹(大阪)
田中謙四郎2飛曹(東京)・加藤昭夫2飛曹(大阪)

第三護皇白鷺隊(姫路空) 
粟村敏夫候補生(広島)・原正候補生(千葉)・大谷康佳2飛曹(香川)
羽生国明2飛曹(茨城)・入江義夫2飛曹(島根)

白鷺赤忠隊(姫路空)
山田又市候補生(静岡)・後藤惇候補生(和歌山)

☆特攻隊員の絶筆☆  
散る桜残る桜も散る桜 

14-45、全機突入

イメージ 1

            常磐忠華隊の勇士。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-45、全機突入

                      ある整備兵曹の回想(百里会々報に寄稿)
 昭和二十年三月下旬から四月初旬にかけて、「菊水一号作戦」参加のため、練習航
空隊で編成された特別攻撃隊が串良基地に進出してきた。その使用機は九七式艦上
攻撃機で、出撃予定日は四月六日である。 第一陣は姫路航空隊。そして第二陣の
宇佐航空隊は早々に到着した。直ちに、垂水航空隊から派遣された魚雷調整班員の
手によって魚雷投下器の整備が施された。あとの一隊である百里原航空隊の進出日
は、四月四日とされていた。

 その日、天山艦攻担当の整備員は一般の雷撃隊出撃に備え、その整備点検・雷装
作業に従事していた。当日薄暮の作業予定としては、百里原空より到着する九七艦
攻を掩体壕に収容した後、直ちに出撃する天山艦攻の列線を敷くことになっていた。

 陽春の昼下がりは何となく眠気を催す。 作業を一段落した整備員たちは、それぞ
れの掩体壕で休息をとっていた。 そのとき百里原空の進出機から、「発動機不調の
ため、不時着指定飛行場である宇佐基地に着陸する……」との電報を基地通信室が
受信した。

 他隊に遅れて串良基地に到着した、 百里原空の各搭乗員の面持ちには、「菊水一号
作戦の参加に遅れをとってなるものか……」 との強い気魄に満ちあふれ、出迎えの
整備員たちは思わず目を見張った。

 使用機である九七艦攻は、 晴化粧をしたばかりなので、一見したかぎりでは逞しく
感じられた。 しかし、飛行科事務室の係員が、その来歴簿から判断したところによれ
ば、「まさにスクラップ寸前のしろもの」だとのことであった。

 機体・発動機・プロペラそれぞれ別葉に備えられた来歴簿は、海軍軍人の考課表に
相当するものである。それには、製造会社名・製造番号・製造年月日・飛行時間・整備
記録その他の必要事項が細大漏らさず記録されていて、飛行機と共に移動することに
なっている。

 艦攻担当の整備員が百里原空所属の機体のそばに近寄り、それに触れながらしみじ
みと語った。「昔の老武士が、白髪を染めて戦場に赴く姿にも似ている……」と。

 四月六日、 「菊水一号作戦」発動。 串良基地から最初の特攻出撃が敢行された。
当日、在鹿屋基地の第五航空艦隊司令部から、 金ピカのお偉方をはじめ、金モール
の参謀や報道班員たちが、乗用車とバスを連ねて続々と来訪してきた。そして形ばか
りの出陣式を済ませるや、さっさと引き揚げてしまった。

 この日、なぜか百里原空の九七艦攻には出撃の命令が出なかった。 そのことにつ
いて、整備員たちは例によっていろいろと憶測した。上層部にしてみれば「ポンコツ機」
に雷装は不適当だと判断した上でのことかもしれない。 だが、あれほど特攻の先陣
(九七艦攻隊での)を承りたいと願っていた百里原空の搭乗員たちは、その旨を告げ
られたときには、どんなにか悔しかったことだろう。

 当時、「ガソリンの一滴は血の一滴に匹敵する」と、 燃料使用は厳しく監督されて
いた。 しかし、その厳しい中にも燃料担当の掌整備長からは、「搭乗員には決して
燃料の心配はさせるな、必要とあらば惜しみなく使用せよ」と、 申し渡されていた。

 そのような話し合いができているところに、百里原空の中西中尉(海兵七十二期)
から、「基地の燃料供給並びに使用状況」についての質問を受けた。 彼はすでに、
基地の飛行長や整備長から大体のことを聞かされていたのであろうが、練習航空隊
で燃料の厳しい使用制限を受けていた体験から、基地の燃料係から直接に実情を聞
き知っておきたかったのであろう。

 私は掌整備長からの指示もあったので、 「在庫は充分にありますから、いくらでも
使用してください」と答えた。 この時、 中西中尉には春原上飛曹が付き添っていた。
この先任搭乗員は、 南方戦域の経験が多く、 戦闘体験のない列機の若鷲たちに、
「基地外体験談」を面白おかしく物語り、彼らの心に安らぎを与えていた。

 出撃の日(菊水二号作戦)、燃料作業員が燃料搭載作業を終えて、 飛行機から燃料
車に移ったとき、春原上飛曹は彼ら作業員に向かって、「有難う、有難う」と礼を言った。
彼はなにげなく言ったのかもしれないが、 作業員にしてみれば、燃料を積んだことで
礼を言われることなど、初めてのことだったので、少なからず感激していた。

 この日も、串良基地総員が見送りの位置についた。ヒレのない特攻専用の爆弾を抱
いた、「老朽機九七艦攻」は短い滑走路を一杯につかい、少しばかりヨタヨタしながら
も雄々しく飛び立って行った。とかく思い出は遠ざかるものだが、この時の「帽振れ!」
の別離の感傷は今も忘れられない。

 百里原空の出撃機は、二段、三段に構えたグラマンの警戒線を突破し、外周に配備
されている見張りの小型艦艇などには目もくれず、見事敵の本陣に向かって全機突入
を果たした。さすがに経験豊富な教官や教員を主体にして編成しただけのことはある。
その様子は戦果確認機によってつぶさに報告された。

串良基地に於いて、出撃全機が突入を果たしたのは、百里原空(常磐忠華隊)が初め
てであった。また、魚雷を改装した特攻専用爆弾使用の「爆装攻撃」も最初であった。
ただ惜しむらくは、使用機が余りにも老朽すぎた。

 常磐忠華隊員の中で、ただ一人海兵出身の中西中尉。彼のことを基地のお偉方は、
「海兵精神の権化」と口にしながら連日祝杯? をあげていた。そして、「百里原空に
続け!百里原空を見習え!」と、口癖のように発言された。

 一方、基地に展開した各飛行隊の若鷲たちは、お偉いさんの、おざなりのつぶやき
など意に介することなく、「百里原空に負けるな!」を合言葉にして、勇躍敵機動部隊
へ捨て身の殴り込みをかけたのである。

☆亡き戦友の辞世☆  
海行かば水漬屍というけれど 空行く吾は白雲と散る  

14-44、今出撃せんとす

イメージ 1

            串良平和公園慰霊塔。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-44、今出撃せんとす

鹿児島県串良町は、旧串良航空基地の跡地の一部を整備して「平和公園」としました。
更に昭和44年10月、 ここ串良基地より飛び立って、 祖国防衛のため散華された、
若桜4百有余柱の英霊を弔うとともに、 この事績を後世に伝えるために、 慰霊碑を
建立しました。そして、毎年10月に追悼式を行っています。

今出撃せんとす
 何も思い残すことなし
父母兄姉よ幸福であれ
 心爽やかにして大空の如し
こうしているのもあとしばらくです
           さようなら

  太平洋戦争末期斯くして串良
  航空基地より飛立ち 肉弾となりて
  帰らざりし三百有余の御霊よ
             安らかれ
  必ずや平和のいしずえとならん

   昭和四十四年十月十一日
    旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者
           慰霊塔建設期成会々長
             串良町長 佐 枝 潔


☆亡き戦友の辞世☆
命下り盾にならむと我はゆく 祈る心は後世の春陽 
 

14-43、特攻基地串良

イメージ 1

            穂坂信也君 遺影。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-43、特攻基地串良

串良基地は沖縄作戦の際に、艦上攻撃機の出撃基地として使用されました。 特攻
出撃や夜間雷撃と数多くの艦上攻撃機がここから発進し、沖縄周辺の敵艦船攻撃に
向かったのです。串良基地から発進して戦死した同期生は次の10柱です。

昭和20年4月6日
菊水天山隊 田中 和夫(石 川・17歳)131空攻撃256飛行隊
同       望月九州男(大 分・17歳)131空攻撃254飛行隊
八幡護皇隊 松木 昭義(愛 媛・18歳)宇佐航空隊

昭和20年4月12日
八幡護皇隊 堤   昭(福 岡・18歳)宇佐航空隊

昭和20年4月16日
八幡護皇隊 小河 義光(福 岡・17歳)宇佐航空隊

昭和20年4月28日
第一正気隊 弥永 光男(福 岡・18歳)百里原航空隊
八幡神忠隊 犬童憲太郎(鹿児島・18歳)宇佐航空隊

昭和20年5月11日
菊水雷桜隊 小野 静雄(佐 賀・17歳)953空攻撃251飛行隊
同       山岡 智明(高 知・18歳) 同

昭和20年7月22日
雷風雷撃隊 穂坂 信也(福 岡・18歳)931航空隊

穂坂信也1飛曹は福岡県嘉穂郡の出身です。鹿児島空の予科練から谷田部空の中練、
そして、百里原空の艦上攻撃機実用機教程まで、筆者と同じ道を進みました。飛練卒業
後は131空の攻撃254飛行隊に所属、天山艦攻による練成訓練を終了して串良基地
へ進出しました。そして、沖縄周辺の敵艦船群に対して夜間雷撃を繰り返していました。

その間、「特攻隊」として串良基地から出撃した、 百里原空時代の教官や教員それに
同期生を、断腸の思いで見送ったのです。沖縄作戦の終了にともない、攻撃254飛行
隊は香取基地へ移動しました。だが彼は、串良基地所在の931空に転属となり、引き
続き沖縄周辺の敵艦船に対する夜間雷撃に出撃していました。

昭和20年7月21日、その日の出撃は4機でした。 この出撃を同期生の宮本1飛曹が
見送っていました。操縦員穂坂信也1飛曹、偵察員湯川保郎中尉、電信員浅野義夫1飛
曹これは、攻撃254飛行隊が串良基地へ進出して以来の固有のペアでした。

22:30、彼らは最後に離陸しました。離陸の際《パンパンパン……》と排気管から異常
な音を発していました。 エンジンの調子がおかしい様子でした。先に離陸した3機が
左に旋回したのに、 彼だけは右旋回をはじめたので、引き返してくるものと思っていま
した。

ところが、彼の機はそのまま低く垂れ込めた暗雲の中へ爆音を残しながら、志布志湾の
方向へ姿を消し去ったのです。 そして翌朝、彼の飛行機だけは帰投時刻を過ぎてもつい
に帰還しませんでした。 彼もまた、教官や教員それに数多くの同期生の後を追うように
して、沖縄の海に消え去ったのです。

福岡県護国神社で例年行われている慰霊祭に、穂坂君の母親が彼のお姉さんを介添え
に参加されました。その時の話に、「偉い人はあの時期、 戦争が終わることはわかっていた
はず、無理に命令を出さなくてもよかったのに……」と、慨嘆されました。

命令を下す者。命令を受けて何のためらいもなく、危険を承知で攻撃に向かう者。 人それ
ぞれの運命というべきでしょう。最愛の息子を亡くされた母親の嘆きは、日時の経過で薄れ
るものではありません。何とお慰めすればよいのか、その言葉はみつかりませんでした。

☆亡き戦友の辞世☆
うつし世のみじかきえにし母と子が 今宵一夜を語りあかしぬ
 

全10ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]

[ 次のページ ]


.
sen*i0*20
sen*i0*20
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事