老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

14特攻隊時代

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          神風特別攻撃隊 正気隊の勇士。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-37、特攻は軍の機密だ!

故海軍少尉弥永光男君は、昭和20年4月28日16:00「神風特別攻撃隊第1正気隊」
1番機の電信員として九七式艦上攻撃機に搭乗して串良基地を発進、沖縄周辺の敵艦
に対して、わが身を犠牲にした「体当たり攻撃」を敢行し大空に散華されました。

私は、弥永君の絶筆を拝読する度に、その行間に隠された心情を感じ取り、涙を止める
ことができません。当時われわれ下士官兵の営内での生活は、すべての面で束縛され、
自由などありませんでした。一枚のハガキを出すにしても、分隊士に提出して検閲を受
けなければならず、自分の思いをそのまま書ける雰囲気ではなかったのです。

「特攻隊」に編入され遺書を書くにしても、「特攻は軍の機密だ、部外に漏らしてはなら
ない」と言われ、手紙に書くことさえ禁止されていました。また、遺書を書いたとしても
確実に肉親に渡してもらえる保証もなかったのです。 そのうえ、検閲などで他人の目
に触れることを考えれば、心の中をそのまま書くことなど思いもよらないことでした。

恐らく弥永君も、 死を目前しながら遺書を書くことで、 悩んでいたに違いありません。
まず検閲を受けずに、 確実に母親に届ける方法はないものかと模索したことでしょう。
それができれば、最期の想いをそのまま書き残すことができるからです。

次に、自分の胸のうちをどのように書き表すか思案したことでしょう。 もし他人に読ま
れても恥ずかしくない文章で、肉親には本心を読み取って貰えるような表現を模索した
のではないでしょうか。だが、そんな器用な文章など書けるものではありません。

あの当時、一般家庭には電話などありませんでした。仮にあったとしても長距離の市外
通話は、ほとんど聞き取れないのが実情でした。電話の発達した現在では想像もできな
いことです。私もその時期、大井空で「特攻隊」に編入され、彼と同じ境遇にありました。
だから、彼の胸中を推察することができるのです。 あれも書きたい、これも残したいと
思いながら、うまく当てはまる言葉が見つからず、結果的には通り一遍の文章になった
のでしょう。

彼は、この数行の遺書を書くのに、恐らく一睡もできず呻吟したのではないでしょうか。

「いさぎよく」この五文字に、彼の胸中が凝縮されています。書きたいことが山ほどありな
がら一晩中かかっても文章がまとまらず、万感の思いをこの五文字に託したのでしょう。
この世の未練や肉親への愛情を、いさぎよく断ち切った、命令に従って敵艦に「体当たり」
するという彼の決意は、だれに読まれても決して恥ずかしくない立派なものです。しかし、
伝えたい事の万分の一も書けない焦燥に、打ち拉がれていたのではないでしょうか。

また出撃に際しては、 同期生万善東一君に託した遺書が、無事に母親の許に届くことを
念じていたことでしょう。そして、「体当たり」の瞬間、彼の脳裏には優しく微笑む母親の
面影が焼き付いていたに違いありません。

正気隊の勇士 写真説明
後列、山田2飛曹・前田2飛曹・桐畑上飛曹・星野2飛曹・弥永2飛曹・上田・岩崎少尉・江名少尉。
中列、有池上飛曹・根岸2飛曹・正久上飛曹・須田少尉・小田切少尉・須賀少尉・菅沢2飛曹。
前列、分隊長 ・ 飛行隊長 ・ 副 長 ・ 司 令 ・ 飛行長 ・ 五十嵐中尉 ・ 安達少尉。

☆亡き戦友の辞世☆
千早振る神の子我と誇りもち 君につくさむ万世までに
 

14-36、いさぎよく!

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             弥永光男君 遺書。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-36、いさぎよく!

昭和20年7月3日、福岡県三井郡山本村に住む弥永ハルヱさんのもとに、一通の
封書が届けられました。 ここしばらく音信が途絶えていた、光男君から来たのだろ
うと裏を返しました。 ところが、差出人には「茨城県東茨城郡百里原海軍航空基地
万善東一」と、見知らぬ人の名前が書かれていました。胸騒ぎを覚えながら封を切り
ました。     

 母上様長い間色々とお世話になりました
 いさぎよく敵空母に突込んで行きます
 皆々様どうか御身体に充分注意されん事をお祈り致します
                              出撃の朝
  母上
  姉上 様 
         神風特別攻撃隊
                 海軍二等飛行兵曹 弥永光男 

  
私は戦後のある機会にこの遺書を拝読しました。 出撃の朝とあるのは、串良基地を
出撃した日ではなく、百里原基地を出発した日のことと思います。するとこの遺書は、
4月22日前後に書かれたことになります。 万善東一君がどのような経緯で、 この
遺書を預かったのか、そして、発送までになぜ2ヵ月もかかったのか、その間の事情
は想像する以外にありません。

万善東一君は当時同じ百里原基地に所在した、601空攻撃第1飛行隊に所属して
いました。部隊こそ違っていましたが、彼も予科練時代には弥永君と同じ23分隊で
共に訓練を受けた仲でした。恐らく同じ基地での再会を喜ぶとともに、同期生の誼み
で遺書の発送を引き受けたのだと思います。

「特攻隊」という同じ境遇を体験していた私には、ある程度その間の事情を推察する
ことができます。当時われわれが家族や友人に出す手紙は、機密保全という名目で
開封のまま一括して分隊士に提出して、検閲を受けなければ発送できませんでした。
各自が勝手に手紙を出すことは禁止されていたのです。だから、「元気に軍務に服し
ておりますから、 ご安心ください」などの、 建前の文章しか書けなかった時代です。
「特攻隊」に編入され、今生の別れに母親宛てに遺書を送るのも例外ではありません
でした。

恐らく弥永君も、遺書を分隊士に読まれるのが嫌だったに違いありません。 だから、
同期生の万善君に相談し、母親の住所を教えて発送を依頼したのでしょう。 しかし、
万善君も当時帝国海軍では自他共に認める精鋭部隊、第601空攻撃第1飛行隊の
一員です。いつ「特攻隊」に編入され、 出撃するか分らない立場でした。「特攻待機」
の境遇で外出もままならず、預かった遺書をどうして発送しようかと機会を窺ってい
るうちに、日時ばかりが経過したものと想像します。そして、彼にも最期の時が刻々と
迫っていたのです。

昭和20年8月9日、万善東一1飛曹は、「神風特別攻撃隊第4御盾隊」の一員とし
て彗星艦爆に搭乗し百里原基地を発進しました。そして、金華山東方海上に来襲し
た敵機動部隊に対して、必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行し、17年の短い生涯に
終末を告げたのです。終戦を1週間後に控えての出来事でした。

鹿児島県姶良郡横川町の万善君の母親シズさんの許には、東一君からの遺書や
手紙などは届けられてはいないといいます。恐らく敵機動部隊本土接近の報に接し、
急遽「特攻隊」が編成されて直ちに出撃したため、遺書を書く暇もなかったのであろ
と推察します。

それとも、遺書を書いてだれかに預けていたのが、発送の機会がないうちに終戦と
なり、あの混乱の中で散逸したのかも知れません。いずれにしても、間もなく戦争が
終結することなど夢にも知らず、遠い古里の母親に今生の別れを告げることもでき
ずに、命令に従ってただひたすら、敵艦に向かって突撃したのであろうと想像します。
母親シズさんにとって、 この1週間の差は、100年にも相当する惜しみて余りある
痛恨事だったと思います。 
  
    ☆神風特別攻撃隊 第1正気隊 搭乗割。

1番機 操縦 少 尉 須賀 芳宗 (東京・予備14期・立大)
     偵察 少 尉 岩崎 久豊 (山口・予備14期・中大) 
     電信 2飛曹 弥永 光男 (福岡・甲飛12期)

2番機 操縦 上飛曹 桐畑 小太郎 (大分・丙飛4期)
     偵察 少 尉 安達 卓也 (兵庫・予備14期・東大)
     電信 2飛曹 菅沢  健  (千葉・甲飛12期)

☆亡き戦友の辞世☆
身はたとへ敵艦船と砕くとも 七度生きむあかきこころは
 

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             小野義明君 遺影。


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        14-35、まだ死にたくない!

父上様 母上様 姉上様、 在世中は色々と有難う御座いました。
此の度、醜敵米鬼に断固反攻すべく、沖縄へと選ばれて征く事になりました。
かへりみれば、私在世中は思い出深い事ばかりでした。
在世中十八年の間、父上母上様の御慈愛により、私も空の特攻として
短い十八年を立派に散る事が出来て、誠に本懐に堪へませぬ。
私も台湾沖航空戦に死場所を得たにもかゝはらず、おめおめと生き延びて、
先に逝った先輩に対して、誠に申訳ないと存じて居ましたが、今度破格にも
漸く立派な死場所を得て此れで先輩にも、父上母上様にも申訳が出来て、
何の未練も無く敵艦に突っ込んで行く事が出来ます。
故郷の友達諸君も職場に学窓に又野良に、元気で一生懸命頑張って居る事と
存じますが、私から宜しく言ったと御言傳下さい。
中村の叔父様にも、その外知人にも宜しく。
今生の御別れに一筆記して、一生の離別の辞と致します。ではお体を大切に。
 父上様、
 母上様、
 姉上様、  御機嫌よう              義 明
    二〇、四、一五、


新春お健やかにお迎えの事とお慶び申し上げます。
弟からは、上海より二回ハガキが来ただけです。それと遺書だけが残されています。
昭和二十年四月二十五日の朝、福田さんのお母様がおみえになり、「今鹿児島より
面会しての帰りですが、今すぐに行かれたらまだ息子さんに会えるかも知れません」
と、知らせに来て下さいました。

早速切符を手に入れて、母と二人で夜行列車で久留米を発って、翌早朝西鹿児島駅
に着きました。 すぐに、空襲警報にあい、 昼ごろまで足止めされました。 日豊線も
不通となり、困りましたが、午後四時ごろ開通。隼人駅まで行き、歩いて夕暮れせまる
なか、日当山温泉に着き、その夜は温泉に泊まりました。

翌朝早く出発。歩いて基地に向かう途中、またも空襲警報に会い、ここでもまた足止め
させられました。 昼ごろ解除になり、やっと山にたどり着き、二十七日の午後一時ごろ
面会することが出来ました。農家の庭先で三時間ぐらいの短い別れの一刻でした。

母が折角作って持って行った「おはぎ」も、暑さと長い時間が経った為に、味が変わって
食べられませんでした。残念でなりませんでした。

母が苦心して手に入れた白絹のマフラーと交換に、 自分の首に巻いていたマフラーを
はずして私達に渡しました。これが唯一の形見となりました。

いよいよ別れるという時に「まだ死にたくない」と、唯一言呟やいたことが胸にジーンと
きました。これが最後の言葉となりました。弟から渡されたマフラーには、寄せ書がして
ありました。

  散れ彗星の花吹雪     鹿島二飛曹
  九州男子大いにあばれよ 原島一飛曹
  悠久の大義に死す     本川上飛曹


遺書の上書には「百里空」と書いていましたが、 破損がひどく複写出来ませんでした。
遺書と写真をお送り致します、宜しくお願い致します。 寒い折りからお身体を大切に
お暮らし下さいませ。    
                               小 野 陸 子

小野義明君は遺書を書いたものの、 どうして家族に渡そうかと思案していたと思われ
ます。そこえ幸運にも同期生福田君の母親が面会に来られたので、これ幸いとことづ
けたのでしょう。福田君の母親は、 面会の帰りに久留米市の小野君の家に立ち寄って、
遺書を届けられたそうです。

あの当時、戦死は最高の名誉とされていました。とは言っても、必ず死ぬと分かって
いる「特攻隊」にわが子を送り出す母親の胸中はいかばかりだったのでしょう。いくら
名誉だと言われても、わが子の死を願う親はいません。 母親の苦衷が痛いほど感じ
られます。

筆者も経験したことですが、人間の感情には起伏があります。「特攻隊」に編入された
際には、「よし、やるぞー」と、決心を固めていても、時間が経つにつれて「まだ死にた
くない」との思いが募ってくるものです。 だから、小野君が遺書に書き残した決意も
本音ですが、母親と面会して、今生の別れに漏らした言葉こそ本心であった思います。

「世間の人は、特攻隊だ、特攻隊だと称えて下さるけれど、本当はまだ死にたくない」
これが死を翌日に控えた、小野君の偽らざる本心だったと思います。だが、そう打ち
明けられても、なす術のない母親の苦衷を察すると、胸が張り裂ける思いです。

☆亡き戦友の辞世☆
いざさらば我は御國の山桜 母の身元にかえり咲かなむ
 

14-34、母親の願い

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        神風特別攻撃隊第2正統隊の勇士。


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        14-34、母親の願い

毎日御暑うございます 毎度お便りを戴きまして誠に有難う存じます
日毎にはげしくなります空襲 まして御当地はどんなにかお困りの事と
御察し申上げます こちらはおかげ様で今のところ空襲は受けましても
少しの被害もうけませず今日まで過ごして居ります 

さて先達ってからわざわざお便りを戴きましたのに
何やかにやに取りまぎれついに返事さえも差上げませず誠に失礼致しました
何とぞ悪しからず思召し下さいませ

今日又おなつかしきお便りを戴き ほんとうにありがとう存じました
おおせの通り私の方でも今度の発表をほんとうに待って居りましたのに 
何度新聞を見ましても 子供の名前がありませんものですから 
家中もうがっかり致しております 実は私面会に参りました折
久留米のお方からもお手紙をあづかって来て居りましたので
今度の発表がありましてからすぐに久留米までお尋ねに参りましたところ 
やっぱりあちら様も発表のないのにほんとうに落胆していらっしゃる
模様でございました やっぱり子を思う親心に変わりはありません 

丁度四月二十四日 あの空襲のはげしい鹿児島の基地にたどりついて 
久し振りに我が子に面会を致しましたが あの時は八幡のお方と二人 
面会所まで出て来ましたので 外の方とはお目にかからず 
たゞ子供にことづけてあったお便りを私があづかって参りましただけで
お宅の宣夫様ともお目にかゝっては居りません

基地は鹿児島県の国分と云う所で ほんとうに高い山の上にありました 
二時間程話して汽車の時間もありますものですからすぐに山を下りました
その時子供が申して居りましたが 今度原隊を立って来ます時には
桜の花で身体中いっぱい 皆さんからかざって戴いて 
とても もてなされた様に申して居りました

所がその後なんの音沙汰もありませんでしたが 五月中旬ごろ
鹿児島のある人から 四月二十八日に立ちました様に申して参りました 
それから二十日もたってから又右の人からのお便りに 
私の子供たちと一しょにお立ちになったお方が エンジンの故障で途中から
引返してお出になりましたさうです そしてその御二人の方のお話しに
「福田君たちの最期は、 二十八日十九時〇〇分です」とはっきりおっしゃつた
そうです それを私の方まで知らせて戴きました

右のお方と言うのは まだ子供等が基地に居ります時に 
特攻隊を慰問に行って下さったお方だそうです この様な次第で
どうしても四月二十八日には鹿児島を立っております事は間違いありません
そして 後は一機も帰らなかったさうでございますから
もうとても生きては居ないものとあきらめては居りますものの 
発表一つ見らぬ間はどうしても心が落ちつきません

私も丁度御宅様にお尋ねして見ようかと思って居りましたところでした 
本当にどうしたのかさっぱり分かりません 私の方でも隊名は分かりません
面会に行きました折も何一つくはしい話は致しませずに
ほんの会ったばかりでございました

実は早く御返事差上げねばなりませんでしたけれども
つい今までも差上げませず 何とぞ悪しからずお許し下さいませ
先ずは乱筆にて御返事まで                    かしこ
                                周 幸 母 輝 子
  伊 東 と も 様


この手紙は福田周幸君の母親福田輝子さんが、同じ「神風特別攻撃隊・第2正統隊」
で出撃した、伊東宣夫君の母親宛てに書かれたものです。激しい空襲の最中に、死を
目前にした最愛のわが子と面会し、最後の別れにどんな言葉を交わしたのでしょうか。
わが子の身の上を案じ、消息を尋ね合う母親の不安な気持ちが伝わってきます。

手紙の中に八幡の方とあるのは、同じ正統隊で出撃した同期生、漆谷康夫君(旧八幡
市出身・17歳)のことです。

息子は既に戦死したのであろうと不安を感じながらも、正式な発表がないためもしやと
の思いで、同じ立場にある母親がお互いに消息を確かめ合う気持ちが痛いほど感じら
れます。遺書にもひとしい手紙が届けられているのに、戦死の連絡もないままに終戦を
迎えたのです。この間の母親の不安や心痛は察するに余りあります。

彼らが所属した「第2正統隊」の功績は、 8月7日付聯合艦隊告示第145号によって
全軍に布告されています。しかるに、いかなる怠慢か! その氏名は公表されず、戦死
の通知がご遺族へ届けられたのは、昭和20年10月のことでした。         

第2正統隊の勇士写真説明。
中列左から2人目、鹿島昭雄。
前列左から、小野義明・伊東宣夫・福田周幸・右端漆谷康夫。(以上同期生)

☆母親のかなしみ☆
散る花のいさぎよきをめでつつも 母の心はかなしかりけり 
 

14-33、最後の親孝行

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           福田周幸君遺影。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-33、最後の親孝行

拝啓 永らく御無音に打ちすぎ相済みません
皆様には 御無事で御暮らしの事と思います
私も希望の特攻隊に入り
桜の花と散ることが出来る様になりました
今日までの御恩は死しても忘れません    
私の最後の親孝行は必中攻撃でありませう
必ず敵の艦船に体当り攻撃を行ひます
お母さん御元気で暮らして下さい 
弟妹の事はしっかり御願ひ致します
村の皆々様にもよろしく御礼を言って下さい
ではお先に失礼致します 又靖国の庭で会ひませう
  若桜今を盛りと咲きにほふ 
     共に散り行く琉球の空
 お母様へ                  周幸 より



村御一同様
遂に肉嗅相別る 心中亦空し 再び相接するの期あらんや
唯靖国の庭に会ふことを期す 邦家の為完爾として散らん
戦局まさに危急 国家存亡の秋 雲染む屍
大空以外 誰か他に散らんと欲せん
悠久三千年の歴史を顧み 唯大義に生くるのみを本分とす
国を思ふまにまに 一命敢て論ずるに足らず
見敵必殺の意気に 沈まざる敵空母なしと信ず
終りに在世中の御厚意を深く謝し 御多幸を御祈りします
                         福 田 周 幸


この手紙は、出撃を目前にして母親と、福岡県三井郡三国村の村長宛てに出され
たものです。母親に最後の別れを告げるとともに、 生まれ育った古里三国村に思い
を馳せ、出征に際してお見送りくださった方々の面影を瞼に浮かべながら書いたの
でしょう。

当時の憲法では、国民の三大義務として兵役の義務が男子に課せられていました。
そのうえ、出征は一族一家の名誉に止まらず、郷土の誉れとして称賛されていまた。
また、戦死すれば村民あげての「村葬」が行われました。 そして門口には「誉の家」の
標識が掲げられて、その栄誉が称えられていた時代です。

☆福田周幸君の辞世☆
若桜今を盛りと咲きにほふ 共に散り行く琉球の空
 


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