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神風特別攻撃隊第2正統隊の勇士。
特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/
14-34、母親の願い
毎日御暑うございます 毎度お便りを戴きまして誠に有難う存じます
日毎にはげしくなります空襲 まして御当地はどんなにかお困りの事と
御察し申上げます こちらはおかげ様で今のところ空襲は受けましても
少しの被害もうけませず今日まで過ごして居ります
さて先達ってからわざわざお便りを戴きましたのに
何やかにやに取りまぎれついに返事さえも差上げませず誠に失礼致しました
何とぞ悪しからず思召し下さいませ
今日又おなつかしきお便りを戴き ほんとうにありがとう存じました
おおせの通り私の方でも今度の発表をほんとうに待って居りましたのに
何度新聞を見ましても 子供の名前がありませんものですから
家中もうがっかり致しております 実は私面会に参りました折
久留米のお方からもお手紙をあづかって来て居りましたので
今度の発表がありましてからすぐに久留米までお尋ねに参りましたところ
やっぱりあちら様も発表のないのにほんとうに落胆していらっしゃる
模様でございました やっぱり子を思う親心に変わりはありません
丁度四月二十四日 あの空襲のはげしい鹿児島の基地にたどりついて
久し振りに我が子に面会を致しましたが あの時は八幡のお方と二人
面会所まで出て来ましたので 外の方とはお目にかからず
たゞ子供にことづけてあったお便りを私があづかって参りましただけで
お宅の宣夫様ともお目にかゝっては居りません
基地は鹿児島県の国分と云う所で ほんとうに高い山の上にありました
二時間程話して汽車の時間もありますものですからすぐに山を下りました
その時子供が申して居りましたが 今度原隊を立って来ます時には
桜の花で身体中いっぱい 皆さんからかざって戴いて
とても もてなされた様に申して居りました
所がその後なんの音沙汰もありませんでしたが 五月中旬ごろ
鹿児島のある人から 四月二十八日に立ちました様に申して参りました
それから二十日もたってから又右の人からのお便りに
私の子供たちと一しょにお立ちになったお方が エンジンの故障で途中から
引返してお出になりましたさうです そしてその御二人の方のお話しに
「福田君たちの最期は、 二十八日十九時〇〇分です」とはっきりおっしゃつた
そうです それを私の方まで知らせて戴きました
右のお方と言うのは まだ子供等が基地に居ります時に
特攻隊を慰問に行って下さったお方だそうです この様な次第で
どうしても四月二十八日には鹿児島を立っております事は間違いありません
そして 後は一機も帰らなかったさうでございますから
もうとても生きては居ないものとあきらめては居りますものの
発表一つ見らぬ間はどうしても心が落ちつきません
私も丁度御宅様にお尋ねして見ようかと思って居りましたところでした
本当にどうしたのかさっぱり分かりません 私の方でも隊名は分かりません
面会に行きました折も何一つくはしい話は致しませずに
ほんの会ったばかりでございました
実は早く御返事差上げねばなりませんでしたけれども
つい今までも差上げませず 何とぞ悪しからずお許し下さいませ
先ずは乱筆にて御返事まで かしこ
周 幸 母 輝 子
伊 東 と も 様
この手紙は福田周幸君の母親福田輝子さんが、同じ「神風特別攻撃隊・第2正統隊」
で出撃した、伊東宣夫君の母親宛てに書かれたものです。激しい空襲の最中に、死を
目前にした最愛のわが子と面会し、最後の別れにどんな言葉を交わしたのでしょうか。
わが子の身の上を案じ、消息を尋ね合う母親の不安な気持ちが伝わってきます。
手紙の中に八幡の方とあるのは、同じ正統隊で出撃した同期生、漆谷康夫君(旧八幡
市出身・17歳)のことです。
息子は既に戦死したのであろうと不安を感じながらも、正式な発表がないためもしやと
の思いで、同じ立場にある母親がお互いに消息を確かめ合う気持ちが痛いほど感じら
れます。遺書にもひとしい手紙が届けられているのに、戦死の連絡もないままに終戦を
迎えたのです。この間の母親の不安や心痛は察するに余りあります。
彼らが所属した「第2正統隊」の功績は、 8月7日付聯合艦隊告示第145号によって
全軍に布告されています。しかるに、いかなる怠慢か! その氏名は公表されず、戦死
の通知がご遺族へ届けられたのは、昭和20年10月のことでした。
第2正統隊の勇士写真説明。
中列左から2人目、鹿島昭雄。
前列左から、小野義明・伊東宣夫・福田周幸・右端漆谷康夫。(以上同期生)
☆母親のかなしみ☆
散る花のいさぎよきをめでつつも 母の心はかなしかりけり
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