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江藤賢助君遺影。
特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/
14-28、若鷲の歌
ことしも十二月となり初雪が降りそうな季節となりました。 日ごろはご無沙汰い
たしまして誠に申し訳なく心苦しく思っています。ご尊家皆様にはご健勝にて日々
お過ごしのことと心からお慶び申しあげます。
先だってより遺稿集出版の趣意についてお知らせの手紙をいただきまして、誠に
ありがとうございます。 遺品や手紙などが残っていればとのことでしたが、家には
何も残ってないようです。
昭和二十八年六月の筑後川の氾濫で、田も畑も家もひどい被害に遇ったために、
残っていないのでしよう。 いえ、 遺書など初めから送られて来なかったように思い
ます。ただ写真が二枚ありましたのでお送りいたします。
昭和十九年十二月一日、大分県の宇佐航空隊にて訓練中の賢助さんに面会する
ため、母と早朝家を出ましたが、あの頃はとても寒くて毎朝霜が真っ白に降りていま
した。肩にはパラパラと小雪が舞っていました。
母と私は自分たちの食事とチマキなどを手土産に持って、久大線の吉井駅まで歩
いて行き、そこから汽車に乗り込み、 柳ケ浦駅に着いたのはもう夕方近くでした。
行った先は旧家のような大きな農家の二階でした。ここに着くまでの道も、水害に
でも遇ったように田も畑も洗い流されていました。そんなところを歩いて行った思い
出があります。
母は以前、父と二人で一度たずねており、間違えることもなく二階の薄暗い部屋に
着きました。 用意よく消し炭も持って行きましたので、早速暖をとって賢助さんが
来るのを待ちました。 しばらくすると賢助さんが来て、「あした宇佐神宮に一緒に
お参りに行こう、朝迎えにくるから……」。そう言ってすぐに帰ってしまいました。
翌日十二月二日、お友達と二人で迎えに来てくれ、母と四人でお話しをしながら、
ゆっくり参道を歩きました。その時の母は笑顔でとてもうれしそうでした。
本殿にお参りして「武運長久」でありますようにと、 心を込めてお願いしたことを
思い出します。お参りした後、近くの写真屋さんで撮った写真です。
向かって左から賢助(十七歳)連れのお友達、母親トヨ(四十九歳)私ミスヱ(二十四歳)
です。
それから私たちは柳ケ浦駅に、賢助さんたちは航空隊へと別れました。それが永遠
の別れとなりました。後にも先にもない最後の写真です。
昭和二十年になりますと、 賢助さんも鹿児島県の出水航空隊へ転勤したようで、
出水まで面会に来れないかだろうかとの便りもありましたが、空襲が激しくなり、また
汽車の切符を手に入れるのが大変でしたので、母も面会には行きませんでした。
その後四月二十日ごろでした、佐賀県の原田文枝様から手紙が届き、四月十六日
に、賢助さんが搭乗した爆撃機が、 沖縄近海に出撃して翌日になっても帰ってこな
かったとのお知らせでした。 原田様がちょうど弟さんに面会に行って聞いたとのこと
でした。
今思えば、五十二年前の悲しい知らせでしたがいまだに忘れることはありません。
それからの母は、夜になって静かになると仏壇の前で「若鷲の歌」を寂しい声で繰り
返し繰り返し歌っていました。私も毎晩お経を唱えながら慰め合っていました。
それから六月に入り農繁期になって少しずつではありますが、ようやく落ち着きを
取り戻し、食料増産に努めたのです。なお、「若鷲の歌」は昭和十九年から終戦まで
に、二十三万枚売れた大ヒット曲だったそうです。
父も昭和二十四年に亡くなり、母も昭和五十年に亡くなりました。私の主人も右半
身に障害が出まして、現在八十歳ですが町の福祉のお世話になりながら自宅療養
をしております。おかげさまで私は元気で頑張ることができ、二人で何とか暮らして
おります。
主人は若いころ佐世保海兵団に志願兵として入り、戦争にも参加しております。
終戦の時は、「択捉」という海防艦に乗り組んで北の海で勤務しておりました。
無事生還したときは両親ともども、嬉し泣きしました。
亡き母は四人の男子を育てながら三人も亡くし(二人戦死、一人戦病死)、心の
中はつらかっただろうと思います。 母の生前に出水基地の特攻碑(雲の墓標)の
除幕式に主人と参りましたが、その後も何度か訪れておりました。
毎年四月十六日には、特攻顕彰会のもとで慰霊祭が行われ、ご案内をいただい
ております。平和公園の碑の前に立ちますとき戦争の昔が偲ばれます。これからも、
出水市のますますのご発展と、市民の皆様のご健康を心からお祈り申しあげます。
また全国甲飛十二期生会のご一同様には、 心からお礼申しあげますとともに、
幾久しくご健康で長生きされますことをお祈り申しあげます。 合 掌
平成九年十二月四日
江 藤 ミ ス ヱ
☆「雲の墓標」の碑銘☆
雲こそわが墓標 落暉よ碑銘をかざれ
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