老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

14特攻隊時代

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              右田勇君の遺書。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/   
 
        14-32、「既に右田戦死し……」

伊東君の遺書の中に「既に右田戦死し……」と記されています。これは、601空攻撃
第1飛行隊所属の、右田勇2飛曹のことです。右田勇2飛曹は伊東君とおなじ大分県
の出身で、鹿児島空の予科練時代は彼と同じ第24分隊の6班に所属し、厳しい訓練
に耐えました。次に、上海航空隊に移り偵察専修の飛行術練習生として、共に技量の
錬磨に精進した仲です。

昭和20年4月17日早朝、「神風特別攻撃隊第3御盾隊」指揮官天谷中尉機の偵察員
として、 彗星艦爆に搭乗した右田2飛曹は、07:00 第1国分基地を発進。 喜界島
155度80浬付近の敵機動部隊に対し、 必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行しました。
写真は出撃の前日家族に宛てた、故右田勇君の絶筆です。

☆右田勇君の辞世☆
渡り鳥 帰らぬ身とは知りながら  一筆かきし文となりにし
 

14-31、十有七春秋

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          伊東宣夫君の遺書(母親の浄書)。


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        14-31、十有七春秋

    遺 書

十有七春秋 逝くものは將又何 
幼時濃藍の空に浮かぶ三日月を眺め 何を願ひしや 
悠久三千年 皇国の歴史は今日何をか語る
噫々時遂に来たる 粉骨以って皇国に報ゆる時は来たれり  
既に右田戦死し真島又沖縄に散る
われら貴様等の後をしたひて今日特攻の一員に加はる事を得
喜ぶべし 武人の本懐これに過ぐるものなし     
夫れ報恩の道 今日をおきて又何れの日にか求めむ

    三千とせの歴史守りて捨つる身と
         思へば軽きわが命かな

    いざ勇み我は出て征く琉球の
         空に散りにし友をしたひて

寸骨を埋むる豈青山を待たんや 
吾身北邙山頭一片の煙とならむとも 英霊とこしへに祖国を守らん
皇天后土 願はくば吾が機を守らしめ給へ 
古より曰く 一念石に立つ矢の験ありと 何ぞ一撃沈まざる敵艦やある
快なる哉壮なる哉この一挙 桜花の下いざ若桜勇躍征かん 
天皇陛下萬歳 帝国海軍萬歳 
最後に皇恩の萬分の一にも報ゆる事の出来ざるを詫び
又吾人をして今日まであらしめ給ひし 両親教官教員恩師に対し 
衷心より感謝申し上ぐ次第なり
    百里原空 特攻隊
             海軍二等飛行兵曹   伊 東 宣 夫 遺

     辞 世
  
  行く春に逢はで散りゆくますらおの
        心は常に楽しくありけり

  煙ふく桜が島に生ひたちて
          煙ふく日に桜散り行く


「北邙(ほくぼう)山頭…………」は、 唐の詩人劉庭芝の「百年同じく謝つ西山の日、
千秋萬古たり北邙の塵」が出典。 北邙は洛陽の北方にある山の名。「北邙の塵」
とは、死んで土にかえること。

この遺書は、伊東宣夫君が、特攻出撃に際して書き遺したものです。伊東君は昭和
18年8月1日、第12期海軍甲種飛行予科練習生として、鹿児島海軍航空隊に入隊。
朝な夕な、煙り噴く桜島の雄大な姿を眺めながら、8ヵ月に及ぶ猛訓練に耐え抜いた
のです。また、峨々たる桜島の山肌を見下ろしながらの初飛行も体験しました。

昭和19年3月、予科練を卒業して上海航空隊に転属。ここで、飛行術練習生として
技能の錬磨に励みました。昭和19年9月、飛行術練習生を卒業して台南航空隊に
配属され、艦上爆撃機の偵察員として錬成訓練を開始しました。

昭和19年12月、台南航空隊で艦上爆撃機の錬成訓練を受けていた伊東2飛曹は、
721空(神ノ池基地)へ転属の命令を受け内地に帰還しました。そして、昭和20年
3月、実施部隊に編成替えとなった百里原空へ転属となりました。

アメリカ軍の沖縄侵攻作戦が開始されると、百里原空においても「神風特別攻撃隊」
が編成され、 彼は「第2正統隊」の一員に選ばれた。桜花爛漫の春4月、出撃基地で
ある鹿児島県姶良郡の第2国分基地へ進出しました。若鷲誕生の地、鹿児島空を巣
立ってから1ヵ年が経過していました。 この基地で彼が 再び眺めた煙り噴く桜島が、
この世の見納めとなったのです。

晩春の国分基地を、総員の見送りを受けて発進した99式艦上爆撃機の偵察席には、
遅咲きの桜の花で飾られていました。 母親の写真を胸のポケットに納めて出撃した
伊東宣夫2飛曹に、いよいよ最期の時が訪れました。

「ワレトツニウス、テンノウヘイカバンザイ」。 彼はいかなる思いでこの決別の電報
を発信したのでしょうか。 続いて電鍵を押さえ放しにして、 「ツ ――――― 」と、
長符を発信しました。この符号が途切れたのは、昭和20年4月28日 午後7時で
した。享年17歳。

☆伊東宣夫君の辞世☆
逝く春に逢はで散り行く若桜 御国のためぞ心は楽し
 

14-30、低空飛行を断念

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              山根三男君遺影。


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        14-30、低空飛行を断念

山根1飛曹の古里もまた、飛行経路に近い広島県の尾道です。松木1飛曹とお互い
の古里に最期の別れを告げるため、訪問飛行することを相談したのであろうと推察
します。しなし、山根1飛曹が遺書を投下したという話は残されていません。 恐らく
地形などの関係で低空飛行を断念したのではないだろうか。しかし、生まれ育った
古里の家並みを上空から眺めながら過ぎし日を思い起こし、万感の思いを胸に秘め
て、陰ながらご両親に別れを告げたであろうと推察します。山根1飛曹は次の辞世を
遺しています。

 戦友と共に誓いし桜花
   九段の庭に咲きてあはなむ
          山 根 三 男

故海軍少尉松木学君(愛媛県・19歳)及び故海軍少尉山根三男君(広島県・18歳)
は、攻撃406飛行隊で編成した「神風特別攻撃隊第9銀河隊」の隊員として、昭和
20年5月11日05:21、宮崎基地を発進しました。 そして、沖縄周辺に蝟集する
敵艦船群に対して必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行して悠久の大義に殉じました。
その功績は、聯合艦隊告示第233号により全軍に布告されました。

☆第9銀河隊 搭乗割
2D−1 操縦 1飛曹 谷岡  力  (福井・丙飛10期)
      偵察 少 尉 山川 芳男  (東京・予備13期・中大)
      電信 1飛曹 杉野 三次  (三重・乙飛18期)

2D−2 操縦 1飛曹 松木  学  (愛媛・甲飛12期)
      偵察 1飛曹 山根 三男  (広島・甲飛12期)
      電信 1飛曹 伊東  勲   (大分・乙飛18期)

☆山根三男君の辞世☆
戦友と共に誓いし桜花 九段の庭に咲きてあはなむ
 

14-29、古里の空へ

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         松木1飛曹が目標として飛んだであろう、古里の山並み。


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        14-29、古里の空へ

あの当時、死を目前にしたわれわれは、遺書とはどのように書いたらよいのかその
内容に悩んでいました。 それと同時に、どうすれば他人に見られずに直接肉親に
手渡すことができるのか、その方法を求めて苦労していたのです。

故海軍少尉松木学君は、宇佐航空隊で艦上爆撃機の飛練を卒業し、同期の江藤君
や古小路君などと一緒に出水基地所在の762空に配属されました。ここで、最新鋭
爆撃機銀河による錬成訓練を開始しました。ところが、南九州地区が敵機動部隊や
B29の空襲を頻繁に受けるようになったため、飛行隊は原隊を離れて美保基地に
移動して錬成訓練を行うことになりました。

訓練終了とともに彼らは「特攻隊」に編入され、出撃基地である宮崎に移動すること
になりました。彼は、その移動途中に規則を無視し、編隊を離れて懐かしい生家の
上空へ飛びました。 そして、母親に宛てた遺書をマフラーに包んで投下するという
非常手段をとったのです。

終戦後聞いた話です。昭和20年5月10日、愛媛県宇摩郡長津村の上空に、突然
双発の飛行機が1機飛来して低空を旋回しはじめました。そして、白い布に包んだ
物を投下して翼を振りながら南西の空へと飛び去ったのです。

これを見ていた松木トキさんは、直感的にわが子が最期の別れを告げに来たのだと
確信しました。だから、この包みを拾って駐在所に届けたうえ、警察官に立ち会って
もらいその包みを開けました。

 謹みて生前の御礼申上候
 今は此の感激が何にか譬へられず候
 大日本帝国の繁栄を神仏賭けて御祈願申上候

   誰の手に 手折られけんか桜花
      ただ知るのみは 醜の御盾と

     攻撃四〇六飛行隊
            海軍一等飛行兵曹 松 木 学
  母上様


松木1飛曹の古里は愛媛県宇摩郡で、美保基地から宮崎基地へ移動する飛行経路
のやや東側にあります。そのうえ、下士官だけで編成されたペアで、偵察員が同期生
の山根一飛曹という好条件に恵まれました。 だからこのように飛行規律を無視して、
生家の上空を飛ぶという非常手段をとることができたのでしょう。

☆松木 学君の辞世☆
誰の手に 手折られけんか桜花  ただ知るのみは 醜の御盾と
 

14-28、若鷲の歌

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              江藤賢助君遺影。


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        14-28、若鷲の歌

 ことしも十二月となり初雪が降りそうな季節となりました。 日ごろはご無沙汰い
たしまして誠に申し訳なく心苦しく思っています。ご尊家皆様にはご健勝にて日々
お過ごしのことと心からお慶び申しあげます。

 先だってより遺稿集出版の趣意についてお知らせの手紙をいただきまして、誠に
ありがとうございます。 遺品や手紙などが残っていればとのことでしたが、家には
何も残ってないようです。

 昭和二十八年六月の筑後川の氾濫で、田も畑も家もひどい被害に遇ったために、
残っていないのでしよう。 いえ、 遺書など初めから送られて来なかったように思い
ます。ただ写真が二枚ありましたのでお送りいたします。

 昭和十九年十二月一日、大分県の宇佐航空隊にて訓練中の賢助さんに面会する
ため、母と早朝家を出ましたが、あの頃はとても寒くて毎朝霜が真っ白に降りていま
した。肩にはパラパラと小雪が舞っていました。

母と私は自分たちの食事とチマキなどを手土産に持って、久大線の吉井駅まで歩
いて行き、そこから汽車に乗り込み、 柳ケ浦駅に着いたのはもう夕方近くでした。
行った先は旧家のような大きな農家の二階でした。ここに着くまでの道も、水害に
でも遇ったように田も畑も洗い流されていました。そんなところを歩いて行った思い
出があります。

母は以前、父と二人で一度たずねており、間違えることもなく二階の薄暗い部屋に
着きました。 用意よく消し炭も持って行きましたので、早速暖をとって賢助さんが
来るのを待ちました。 しばらくすると賢助さんが来て、「あした宇佐神宮に一緒に
お参りに行こう、朝迎えにくるから……」。そう言ってすぐに帰ってしまいました。

 翌日十二月二日、お友達と二人で迎えに来てくれ、母と四人でお話しをしながら、
ゆっくり参道を歩きました。その時の母は笑顔でとてもうれしそうでした。

 本殿にお参りして「武運長久」でありますようにと、 心を込めてお願いしたことを
思い出します。お参りした後、近くの写真屋さんで撮った写真です。

向かって左から賢助(十七歳)連れのお友達、母親トヨ(四十九歳)私ミスヱ(二十四歳)
です。

 それから私たちは柳ケ浦駅に、賢助さんたちは航空隊へと別れました。それが永遠
の別れとなりました。後にも先にもない最後の写真です。

 昭和二十年になりますと、  賢助さんも鹿児島県の出水航空隊へ転勤したようで、
出水まで面会に来れないかだろうかとの便りもありましたが、空襲が激しくなり、また
汽車の切符を手に入れるのが大変でしたので、母も面会には行きませんでした。

 その後四月二十日ごろでした、佐賀県の原田文枝様から手紙が届き、四月十六日
に、賢助さんが搭乗した爆撃機が、 沖縄近海に出撃して翌日になっても帰ってこな
かったとのお知らせでした。 原田様がちょうど弟さんに面会に行って聞いたとのこと
でした。

 今思えば、五十二年前の悲しい知らせでしたがいまだに忘れることはありません。
それからの母は、夜になって静かになると仏壇の前で「若鷲の歌」を寂しい声で繰り
返し繰り返し歌っていました。私も毎晩お経を唱えながら慰め合っていました。

 それから六月に入り農繁期になって少しずつではありますが、ようやく落ち着きを
取り戻し、食料増産に努めたのです。なお、「若鷲の歌」は昭和十九年から終戦まで
に、二十三万枚売れた大ヒット曲だったそうです。

 父も昭和二十四年に亡くなり、母も昭和五十年に亡くなりました。私の主人も右半
身に障害が出まして、現在八十歳ですが町の福祉のお世話になりながら自宅療養
をしております。おかげさまで私は元気で頑張ることができ、二人で何とか暮らして
おります。

 主人は若いころ佐世保海兵団に志願兵として入り、戦争にも参加しております。
終戦の時は、「択捉」という海防艦に乗り組んで北の海で勤務しておりました。
無事生還したときは両親ともども、嬉し泣きしました。

 亡き母は四人の男子を育てながら三人も亡くし(二人戦死、一人戦病死)、心の
中はつらかっただろうと思います。 母の生前に出水基地の特攻碑(雲の墓標)の
除幕式に主人と参りましたが、その後も何度か訪れておりました。

 毎年四月十六日には、特攻顕彰会のもとで慰霊祭が行われ、ご案内をいただい
ております。平和公園の碑の前に立ちますとき戦争の昔が偲ばれます。これからも、
出水市のますますのご発展と、市民の皆様のご健康を心からお祈り申しあげます。

 また全国甲飛十二期生会のご一同様には、 心からお礼申しあげますとともに、
幾久しくご健康で長生きされますことをお祈り申しあげます。      合 掌
  平成九年十二月四日 
                     江 藤 ミ ス ヱ
☆「雲の墓標」の碑銘☆
雲こそわが墓標 落暉よ碑銘をかざれ
 


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