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山口昭二君遺書の一部。
特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/
14-24、姉さんのお陰で
森 佐智子(熊本市在住)
わたしは「戦争を知らない子供達」世代の一人である。だが、わたしの記憶がはじ
まる昭和三十年代の初めは、人々の間ではまだ戦争が共通体験として日常的に語
られていたし、「遺族の家」と書かれたプレートを玄関先に貼っている家もあった。
しかし、今の時代の大多数は、日本が戦争したことなど、ワンサポナタイムの話の
ように感じている。 中には戦争を「戦闘ごっこ」として、フアッションの一部のように
捉えている若者がいるかも知れない。
数年前の事である。「あの戦争は間違いよ。お国のためという大義名分があった
かもしれないけど、結局は人殺しじゃないの」と言ったわたしに対し、母は「それじゃ
あの子は犬死にだって言うの?」と言ってわっと泣き出した。
五十年前、国を愛し家族を愛し、そのため自らの命を桜の花のように散らせてし
まった一人の若者がいる。それは私の叔父であり、私の母つまり彼の姉をいまだに
悲しませ、涙させる若者である。
ここでは戦争の是非について論ずることが目的ではないので、そのことについて
言及するものではない。 私が問題にしたいのは、十八歳の若者の行動が、いや
純粋な若者がしたことだからこそ、 周囲に大きな悲しみと禍根を残し、 いまだに
関係者がそれを引きずり続けていることにある。
彼は昭和二年、県北の小さな村の比較的裕福な商店の五男坊として生まれた。
五男坊と言っても三人の兄は幼い頃に亡くなっており、実質次男坊として成長した。
年のわりには落ち着いて思慮深く、 周囲に対してもよく気配りし、 また真面目で
几帳面な性格をもち、頭の良い子として皆に信頼されていたようである。
やがて昭和十年代になると、小さな村と言えども身近にきな臭いものが漂ったに
違いない。自身の兄は出征し姉の夫も戦地に赴いたまま行方は知れず、姉は幼子
を抱えて苦労していた。 そして周囲の若い男たちが次々と姿を消して行くなかで、
まだ年若い彼は悶々とした毎日を送っていたのではないだろうか。
このような状況のもとで、旧制中学の卒業を目前にしていた十六歳の彼は、甲種
飛行予科練習生として入隊した。
入隊後も母や姉や弟たちには度々便りを出していたようである。検閲がある中で
それらの便りにどこまで本心を書いていたかは疑わしいが、彼の生家に残された
過去帳には次のような記載もある。
一九、一一、一〇、母への手紙
「父へのタバコ代一〇〇円にそえて、移動中の満員列車の中で揺られながら書きつ
づった、古里を偲び母を思い肉親のたれかれに思いを馳せ、また国を思ふ切なる心
を書きつづった便りが大村様を通して届けられる。 幼いまでに純真な昭二の心が
分かり、涙なしでは居られない。」
彼がいつ頃に特別攻撃隊を志願したのかは定かでない。しかし、一月二十七日の
日付で日記帳の余白に書かれた文面(暗闇の中で書かれたらしく、上下逆さまだっ
たという)は、まさしく遺書である。
母上へ
十八年間色々厄介ばかりかけました
元気で御国の為に何思ひ残りなく征きます 母上も元気で
姉さんへ
男として国家の危難に 喜んで死ねる私にしてくださった姉様へ
何と御礼申して良いかわかりません 此処に私の私有全財産を送ります
此の前トランクは送ったですがあれは着きましたですか
明人叔父さんも戦死されたけど そちらもがっかりせずにいて下さい
此の戦争で私達一族の男が皆死んでも 姉さんは落胆する事なく
雅州の養育に勉められる事と確く信じています
私の頼りはたとへ他所に行ったとはいえ 今迄通り父母の面倒をみて呉れる
姉さんのみです 私が居なくなっても決して嘆かないで下さい
此の国難に海軍雷撃隊の一員として 私は死んで行く事を無上の光栄と
思っています 父母上の事は呉々も宜しくお願いします
私が死んだら夜空の星を私の遺牌と思って せめて幼い頃の思い出を偲んで
姉さんのお陰で 男らしく死ねた弟を思ひ出して下さい
雅州を強くそだてゝ下さい 左様なら
1、27 香基地にて
☆亡き戦友の辞世☆
志願して故郷はなれ姉上に 負担かけしを詫びる我なり
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