老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

14特攻隊時代

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            遺骨・遺品もない“帰還”。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-27、慰霊の旅はまだ続く

 しょうちゅうとソウメンを遺影に供え、 彼岸から迎えた。 「あん子が生きちょれば、
六十八歳よ」。お盆の十四日、年老いた母親が小さな声でもらした。孫やひ孫を連れ
て集まった子どもたちは、押し黙るしかなかった。
 
 宮崎県都城市に住む増田ミキさん(八十九)のもとに、白木の箱が届いた。一九四六年
五月始め。長男幸雄さんの戦死の報から、すでに一年近くが過ぎていた。箱の中には、
遺骨も遺品も何も入っていなかった。 「びんた(頭)ん良か、むじ(可愛い)子じゃした。
今でん、夢を見もんど」

 幸雄さんは旧制都城中学から予科練を経て、鹿屋基地の練習機「白菊」隊に入った。
偵察・通信技術を学んでいたところを、特攻に駆り出された。 四五年五月二十七日、
沖縄の海に向けて二人乗り練習機で特攻出撃した。

 出撃一週間ほど前に帰宅したとき、ミキさんに元気な表情を見せた。 「必ず敵を
撃滅してみせる。これが最後の別れになるかもしれない」。 十七歳の若い命だった。

 練習機まで駆り出すことには当時、軍内部でも異論があった。 鹿屋を指揮してい
た、宇垣纏・第五航空艦隊司令長官は、幸雄さんたちに出撃を命じたときの日記に
「斃れても尚戦うのみ!」と書いている。 戦争の「狂気」をだれも止めることはでき
なかった。

 六年前に先だった夫との間に、 ミキさんは幸雄さんら男四人と女四人をもうけた。
孫は五人、ひ孫も十五人に増えた。 夫婦で米や野菜をつくり、牛馬を飼って生計を
立ててきた。今でも朝夕は、牛のエサを作ったりして体を動かしている。

 三年ほど前から足腰が痛み、鹿屋市の特攻慰霊祭に参列しなかった。 その代わり
にと今年四月初め、同居している三男の畜産業瞳さんに連れられ、 改築された鹿屋
航空基地史料館を初めて見学した。 特攻コーナーに飾ってある幸雄さんの遺影の前
に立ち「旧館の写真に比べ、 こも(小さく)なっさね、 写りがわるないもした」 と残念
がったという。

 沖縄県糸満市に、宮崎県出身の戦死者の慰霊塔が建っている。 元気なうちに一度、
沖縄の地を訪ねたい…… 。幸雄さんを失ったミキさんの慰霊の旅はまだ続く。

☆五木の子守唄☆
おどんが死んだちゅちだいが泣いちくりゅか 裏の松山蝉が鳴く
 

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             「殉国遺芳」の碑。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-26、折り折りかへれ故郷の山
 
この手記を寄せられた森佐智子さんは、英霊の長姉島田新子さんの三女です。
島田新子さんは、昭和五十五年に、亡くなられたご両親の意志を引き継いで、
山口昭二君の慰霊碑を建立しました。碑には遺書の一部と、次の事績が刻ま
れています。


   甲飛第十二期生
   海 軍 少 尉 山口昭二の霊に捧ぐ

 弟昭二は父山口喜格、母ソノの五男として小天村三八四〇
番地に出生 長じて熊本県立玉名中学校へと進んだ。   
 当時 大東亜戦争は激烈を極め 愛国至情に燃える昭二は
安閑と学業を続けるに偲びず 在学四年にして自ら意を決し
予科練習生を志願 昭和十八年八月一日鹿児島海軍航空隊に
入隊 日夜寝食を忘れ 海軍雷撃隊の一員として訓練又訓練
の日を送った。
 然し戦況は不利となり愈々決戦の重大局面を迎え九州東南
方海上の敵機動部隊撃滅の命下り勇躍暁闇をついて鹿屋基地
を発進 敵船団を捕捉し 之に壊滅的大損害を与え 自らも
魚雷を抱き愛機諸共玉砕し御国の華と散った時に昭和二十年
三月二十一日 弱冠十九歳であった。
父母は四階級特進の勲功を讚え その顕彰慰霊の碑の建立を
念じつつも果たさず 後事を私に託して此の世を去り 爾来
幾星霜 今茲に宿願のこの碑を建つ 切々の思い 感慨無量
碑成る今はただ 昭二の霊安らかなれと祈るのみ。

  靖国の宮にみ魂は鎮まるも
     折り折りかへれ故郷の山

 昭和五十五年十二月吉日
                  長 姉  島 田 新 子 建立

☆亡き戦友の辞世☆
特攻のいざ出陣や朝もやに 宝の写真胸におさむる
 

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            白いマフラー姿の山口君遺影。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/   
 
        14-25、決して犬死何かじゃなかった
 
 こうして彼は、爆弾を抱えた片道だけの飛行に旅立ち、父母の元には二十年三月
二十一日付の彼の戦死公報が届いた。 いつの頃からか鹿屋基地の近くで毎春、
特攻隊としてなくなった人々の慰霊祭が行われている。それは参加する遺族にとっ
ては大事な情報収集の場ともなっている。なぜなら、その隊の任務の性質上、隊員
の家族は具体的なことは何一つ知らされないままに「遺族」となってしまった人々ば
かりなので、関係する隊員のことを聞き回ってどんな些細な事でも知ろうとするから
である。

 彼の両親も、特攻隊の編成や最後となった基地も知らないままに若い息子を死な
せてしまったことが無念だったに違いない。色々とつてを手繰って調べたのである。
彼からの便りの発信地を追い、「〇〇にいたらしい」と推理し、あるいは、「〇〇さん
が一緒の隊におんなさったけん、あの子のこと何か知っとんなさるかもしれん」と、
生き残った同期の方々に話を聞き、また問い合わせの手紙を書いたりして、これを
根気よく何度も何度も繰り返しながら一つ一つの事実を積み重ねていった。

 そして「どうも最後は〇〇から飛び立ったんじゃないか」と、 出撃基地を絞ると
同時に、生存中の彼のことを客観的に知っていったようである。残された家族はせ
めてこの軌跡を辿ることで、一人の若者が確実にこの世に存在していたこと、そし
て一人前に、「御国のために」自身を役立てたこと等を明らかにしていった。「決し
て犬死何かじゃなかった、立派な生き方だった」 と信じることで、ほんの僅かでも
悲しみを減らしていたのかもしれない。

 「神風特別攻撃隊菊水銀河隊」の出撃基地調査依頼の回答が出たのは、実に終戦
三十五年後の昭和五十五年だった。その時初めて彼が所属していた特攻隊の全貌が
公になったと言えるかも知れない。

 その翌年、彼の姉が亡くなった両親の意志を継いで、慰霊碑を建立した。 その碑
には、彼の遺書とも言える文の一部が彼の筆跡そのままに彫り込まれている。

 手元に残る同期予科練習生の名簿で見る限りでは、「戦死」の二文字とその日付が
ある者がそれ程多いとは思わない。つまり特攻隊の一員だったのは、全体から見れ
ば一部にしか過ぎなかったということである。(志願しながらも目的を果たせなかった
者は当然この名簿からは判断できないが)限られた「世界」の中で家族を含む外部の
人間に相談することもできず、その一部の若者達がはたしてその意味を正しく理解し
ていたのか大きな疑問は残る。

彼がどんな思いで特攻隊入りを決意したのか、 今となっては確かめるすべは無い。
しかし、同じ特攻隊を志願しようとした友には、それを思い止まるよう説得したという
から、彼の場合は冷静に判断した結果だったのかもしれない。

 それにしても事の顛末は悲しすぎる。十八歳の若者に此処まで思い込ませた当時
の社会情勢は、やはり正常とは思えない。否、正常とは思えない社会だったからこ
そ、若者の純真な気持ちが身を呈して人々に「教えよう」としたのではないだろうか。

 鹿屋航空基地史料館に陳列された特攻隊員の遺影の中には彼の姿もある。首に
巻かれたマフラーは、祖母の手織りの正絹で仕立てられた、母の襦袢の袖だと聞い
ている。

極端に物資の不足した時代に、 白いマフラー一本といえども調達は大変だったら
しく、彼にとっては自慢の宝物だったようである。 その白いマフラーを着けた写真
の中の彼は、一体今何を考えているのだろうか。

 今息子は彼と同じ十八歳である。ごく普通の高校生として、「勉強しろ!」と尻を
叩かれながらも、極めてのんびりとした毎日を送っている。それは修羅場を生き抜
いてきた、「昔の若者」から見れば歯痒いものとして写るだろう生き方である。現代
のそんな十八歳の若者は、今の私達に何を「教えよう」としているだろう。

☆亡き戦友の辞世☆
嵐吹き散りにし桜惜まるる またくる春に咲くをまたなむ
 

14-24、姉さんのお陰で

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            山口昭二君遺書の一部。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        14-24、姉さんのお陰で 
 

                       森 佐智子(熊本市在住)

 わたしは「戦争を知らない子供達」世代の一人である。だが、わたしの記憶がはじ
まる昭和三十年代の初めは、人々の間ではまだ戦争が共通体験として日常的に語
られていたし、「遺族の家」と書かれたプレートを玄関先に貼っている家もあった。

 しかし、今の時代の大多数は、日本が戦争したことなど、ワンサポナタイムの話の
ように感じている。 中には戦争を「戦闘ごっこ」として、フアッションの一部のように
捉えている若者がいるかも知れない。

 数年前の事である。「あの戦争は間違いよ。お国のためという大義名分があった
かもしれないけど、結局は人殺しじゃないの」と言ったわたしに対し、母は「それじゃ
あの子は犬死にだって言うの?」と言ってわっと泣き出した。

 五十年前、国を愛し家族を愛し、そのため自らの命を桜の花のように散らせてし
まった一人の若者がいる。それは私の叔父であり、私の母つまり彼の姉をいまだに
悲しませ、涙させる若者である。

 ここでは戦争の是非について論ずることが目的ではないので、そのことについて
言及するものではない。 私が問題にしたいのは、十八歳の若者の行動が、いや
純粋な若者がしたことだからこそ、 周囲に大きな悲しみと禍根を残し、 いまだに
関係者がそれを引きずり続けていることにある。

 彼は昭和二年、県北の小さな村の比較的裕福な商店の五男坊として生まれた。
五男坊と言っても三人の兄は幼い頃に亡くなっており、実質次男坊として成長した。
年のわりには落ち着いて思慮深く、 周囲に対してもよく気配りし、 また真面目で
几帳面な性格をもち、頭の良い子として皆に信頼されていたようである。

 やがて昭和十年代になると、小さな村と言えども身近にきな臭いものが漂ったに
違いない。自身の兄は出征し姉の夫も戦地に赴いたまま行方は知れず、姉は幼子
を抱えて苦労していた。 そして周囲の若い男たちが次々と姿を消して行くなかで、
まだ年若い彼は悶々とした毎日を送っていたのではないだろうか。

 このような状況のもとで、旧制中学の卒業を目前にしていた十六歳の彼は、甲種
飛行予科練習生として入隊した。

 入隊後も母や姉や弟たちには度々便りを出していたようである。検閲がある中で
それらの便りにどこまで本心を書いていたかは疑わしいが、彼の生家に残された
過去帳には次のような記載もある。

一九、一一、一〇、母への手紙
「父へのタバコ代一〇〇円にそえて、移動中の満員列車の中で揺られながら書きつ
づった、古里を偲び母を思い肉親のたれかれに思いを馳せ、また国を思ふ切なる心
を書きつづった便りが大村様を通して届けられる。 幼いまでに純真な昭二の心が
分かり、涙なしでは居られない。」

 彼がいつ頃に特別攻撃隊を志願したのかは定かでない。しかし、一月二十七日の
日付で日記帳の余白に書かれた文面(暗闇の中で書かれたらしく、上下逆さまだっ
たという)は、まさしく遺書である。

母上へ
十八年間色々厄介ばかりかけました 
元気で御国の為に何思ひ残りなく征きます 母上も元気で

姉さんへ
男として国家の危難に 喜んで死ねる私にしてくださった姉様へ 
何と御礼申して良いかわかりません 此処に私の私有全財産を送ります
此の前トランクは送ったですがあれは着きましたですか 
明人叔父さんも戦死されたけど そちらもがっかりせずにいて下さい
此の戦争で私達一族の男が皆死んでも 姉さんは落胆する事なく
雅州の養育に勉められる事と確く信じています
私の頼りはたとへ他所に行ったとはいえ 今迄通り父母の面倒をみて呉れる
姉さんのみです 私が居なくなっても決して嘆かないで下さい
此の国難に海軍雷撃隊の一員として 私は死んで行く事を無上の光栄と
思っています 父母上の事は呉々も宜しくお願いします 
私が死んだら夜空の星を私の遺牌と思って せめて幼い頃の思い出を偲んで
姉さんのお陰で 男らしく死ねた弟を思ひ出して下さい 
雅州を強くそだてゝ下さい                    左様なら
                                  1、27 香基地にて

☆亡き戦友の辞世☆
志願して故郷はなれ姉上に 負担かけしを詫びる我なり 
 

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           菊水銀河隊の碑(築城基地)。


特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/   
 
        14-23、小坂分隊長の弔慰文
     
拝啓 暑さ厳しき折から尊家ご一同いかがおすごしでございますか お伺い申し
上げます。私は典郎君が上海航空隊飛行術練習生当時の分隊長でありました。

典郎君ら同期生は鹿児島航空隊から上海に参りました。私は新任の中尉の頃で、
分隊長勤務は初めてで、百四拾余名の練習生一人一人の名前と顔を覚えるのに
一週間かかりました。

優秀なる練習生茶目な練習生、いろいろな性格の持主で主として九州地方出身
で、初めの頃は時々わからない言葉もありましたが、何といっても最初で私として
は最後の教官生活ですから大変印象にあります。

典郎君は大変な頑張り屋でした。勉強にもスポーツにも熱心でした。私は末弟が
昭和六年生まれで、当時中学生でしたので、丁度弟を見るようで皆可愛く思いま
した。

上海には四個分隊きていましたが、 幸い私の分隊はスポーツでも飛行訓練でも
常にトップの成績でした。

私も最初の勤務で、 士官室での起居よりも練習生の兵舎での時間が多く、それ
こそ朝から晩まで二十四時間生活を共にしました。

卒業して特に温厚なる優秀者を、 後輩指導の教員として数名指名致しました。
典郎君はその中の一名に選ばれました。練習生時代に引続き、今後は教官教員
の同僚として、同じ航空隊につとめることになりました。

戦局が推移して次々と実戦部隊に転勤になりました。
典郎君が当時海軍の最新鋭機銀河の搭乗員となりました。 弱冠十七歳、 花と
散ったことは国の為とはいえ私は現在、ご家族の方々に何と申してよいのかその
言葉も容易に見出せません。只々ご冥福をお祈り申しあげます。

先の神戸での慰霊祭の当日、 混雑にとりまぎれお会いできなかった事は、
かえすがえすも残念に思います。

次回は昭和四十七年夏との事であります。 どうぞご自愛され、名古屋大会にて
おあい致すことが出来ることを祈っております。      
                                            敬 具

 昭和四十五年八月六日
                                      小 坂 美 智 雄
  西 山  巽 様     

☆亡き戦友の辞世☆
我はゆく御国のための人柱 永久に栄えのあれと念じつ 
 


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