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大彰丸を襲撃した潜水艦ドラム。
特攻隊時代 http://www.warbirds.jp/senri/
14-12、第127飛行場大隊
昭和19年10月初旬のことだったそうです。出征した長兄が船待ちのため門司港
の旅館に分宿しているとの情報を人伝えに聞きつけて、 母親が末の姉を連れて
面会に行きました。 運よく旅館を探し当てて、面会することができました。 翌日
今度は父親が旅館を訪れました。 ところが、部隊は既に乗船して出港した後で、
会うことができませんでした。
父親は長兄との最後の面会ができなかったのを、 心残りにしていたと思われます。
だから、私のハガキを見て、この機会を逃したら永遠に会えないと判断して、遠路
はるばる面会に来たのでしょう。そして、去り行く私の後ろ姿に長兄の面影を重ね
合わせ、今生の別れと見送っていたに違いありません。
第127飛行場大隊
戦後私の知り得た資料では、長兄の所属部隊の行動概要は次のとおりです。
昭和19年4月 西部第100部隊(太刀洗)に召集入隊。
同5月27日 第5航空教育隊(太刀洗)内で、
第127飛行場大隊編成。 隊長楠田武治大尉以下403名。
同5月31日 第4飛行師団より第14方面軍隷下に入り比島派遣を命ぜらる。
編成完結式及び出陣式を挙行。
同6月6日 乗船予定が変更され、太刀洗にて待機。
同9月17日 午前8時、太刀洗駅を出発。
同9月18日 午後2時、門司港着。乗船待ちのため旅館や民家に分宿。
同10月7日 大彰丸 (大阪商船・6886総トン) に乗船(乗船総人員約3千名)。
同10月8日 門司港出港。敵機動部隊来襲の情報により伊万里湾に退避仮泊。
同10月16日 伊万里湾を出港。五島列島付近で船団編成(モマ05船団)。
輸送船12隻・護衛艦6隻。
同10月24日 台湾の高雄に入港。水及び食料を搭載して、即日出港。
同10月26日 船団は午前3三時56分、アメリカ潜水艦アイスフイッシュ(SS367)
及びドラム(SS228)の雷撃を受ける。
午前5時大彰丸沈没。地点バリタン海峡カラヤン島西40キロ。
船団被害、沈没3隻 (大彰丸・大博丸・泰洋丸)。人員の約半数が
救助され、ラボック湾で他船に分乗。
同10月31日 コレヒドール島沖で潜水艦の雷撃により2隻沈没。空襲により2隻沈没。
同11月1日 マニラに上陸(マニラ到着6隻)。
第127飛行場大隊の生存者は約200名。(約半数が海没戦死)
大隊は、リパー東飛行場に展開。以後ルソン島各地を転戦。
昭和20年3月5日人員を消耗して解隊、他の部隊に統合された。
編成当初からの隊員は殆ど全員が戦死、終戦後復員した者は数名。
長兄の戦死公報では、昭和19年10月26日戦死となっています。恐らく大彰丸
が沈没した際に死亡したものと認定して、戦死公報が出されたものと推察します。
ラボック湾での生存者の中には含まれていなかった模様です。比較的早い時期に
戦死公報が出されたのも、そのためであろうと想像します。
この時期、長兄の親友青木1飛曹も戦死しました。2座水偵から陸上機へ転換され、
戦闘機の操縦員となった青木1飛曹は、昭和19年10月13日、零式戦闘機に
搭乗して南西諸島上空において、来襲した敵艦上機と交戦し壮烈なる戦死を遂げら
れました。享年25歳、私の長兄に先立つこと13日でした。
青木二三氏と長兄は、入隊前同じ職場で働いていた関係で、生前よく一緒に遊んで
友情を深め合っていました。
「人生50年、ただし軍人は半分の25年だ!」とは2人のよく口にした言葉です。
奇しくも25歳で、時を同じくして戦死したのも、何らかの因縁でしょう。
☆亡き戦友の詠☆
くるしみに たえし後こそ桜花 色も香もあり人に賞でらむ
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