老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

15昔日を偲んで

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

              茶畑から富士山を望む。


昔日を偲んで http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        15-22、運命の8月15日

その当時、空襲の被害を少なくするため、兵舎をはじめ基地の施設は、飛行場から
離れた場所に分散されていました。金谷の町から南側へ坂道を登り、牧之原台地を
飛行場へ向かう道路の両側は一面の茶畑でした。その西側の林の中にバラック建
ての小さな病室が設けられていました。ここには、30名程度の外傷患者が収容され
ていました。

この患者の中に、飛行隊の搭乗員が2名含まれていました。過ぐる日、敵機動部隊
の空襲の際に交戦中負傷した者です。彼らを看護するために、同じ分隊から交替で
付き添いに行くことになっていました。

看護と言っても別に仕事らしいものはありません。 空襲やその他の非常に際して、
彼らを安全な場所へ退避させる手助けをするのが目的です。だから、航空食などを
持ち込んで食べながら、囲碁や将棋などで遊んでいればよかったのです。

8月15日、その日私がその病室当番に当たっていました。 朝食を終えて暑くなら
ないうちにと思って、早めに病室に行きました。 先日の空襲で負傷した関戸兵曹
(乙飛十七期出身)と雑談していると、《総員集合! 格納庫前》の指示が出たので、
患者以外の者は飛行場へ行くようにと、看護科の当直下士官から伝達されました。

私は、せっかくの休養を兼ねた病室当番に当たっているのに、暑い最中を30分も
かけて飛行場まで歩くのが厭なので、横着を決め込んで、空いたベッドに寝転んで
雑誌を読んでいました。

やがて、午後も遅くなって、看護科の兵隊が総員集合から帰ってきました。 そして、
何やらヒソヒソと話し合っています。 どうも、戦争が終わったなどと言っているよう
です。

「オイ! 総員集合で何があったんだ?」
「ハイ、天皇陛下がラジオで直接放送されました。 雑音がひどくて、よく聞き取れ
ませんでしたが、分隊長の話では戦争は終わったらしいです!」
「エェッ! それ本当かっ?」

半信半疑です。一刻も早く事実を確かめなければ。こんな所でぐずぐずしている訳
にはいきません。 すぐに「湖畔の宿」に向かって急ぎました。これが本当なら、もう
死ななくて済むのです。今まで胸につかえていた重苦しいものが一遍に消し飛んで、
浮き立つような気持ちで茶畑の中の小道を走りました。

兵舎に帰ってみると、  皆も興奮して今後のことについて議論を交わしていました。
やはり戦争は終わったのです。 だが、戦争に負けたとは思いたくありませんでした。
同僚の話では、一度 《総員集合》 が伝達されのですが、搭乗員は兵舎でラジオを
聞けと指示され、総員集合には参加しなかったそうです。ならば私の不参加は当を
得たものでした。

☆今日の一句☆  
碑銘朱の日付をのこす秋の雨 

15-21、無駄な犠牲者

イメージ 1

              航法の基点御前崎。


昔日を偲んで http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        15-21、無駄な犠牲者

「リギン」の機上では恐らくB29の上空通過を知って、 その対応策を練っている
のでしよう。それとも帰投したのが飛行場の上空ではなく、機位を失した(自分の
飛行機の現在位置が分からなくなること)と思い、御前崎の上空まで引き返えして、
位置の再確認をしているのかも知れません。

後席の偵察員は1人で航法と通信を担当することになっています。しかし、夜間は
航法に重点をおくため、電信機を積んでいない飛行機もありました。 例え積んで
いたとしても、 すぐに使用できる状態にあるとは限りません。

何れにしても、オルジスによる発光信号が唯一の連絡手段です。ところが、指揮所
から飛行機を目標に発光信号を送れば、上空を通過しているB29にも見られるこ
とになります。だから、指揮官は発信を躊躇っている様子です。

要は御前崎などの、 自分の位置が確認できる場所の上空で旋回しながら待機して、
《空襲警報》の解除を待つ以外に、適当な方法はなさそうです。 例え飛行場を探し
当てたとしても、「夜設」なしでの着陸は危険を伴います。

次に問題になるのが燃料です。満タンでも、480リットルしか積めない「白菊」では、
朝まで飛び続ける量は残っていないはずです。 既に、200浬以上を飛んでいるの
です。だから、あと1時間半が限度でしょう。 夜明けまでには、 まだ3時間以上も
あります。

その後も一度、 「白菊」の爆音を聞きましたが、 ついに消息を絶ってしまいました。
いくら消耗品と呼ばれた搭乗員の命であっても、 これではあまりにもひど過ぎます。
まさに犬死です。当時の戦況から、空襲は予測できることであり、事前に対策を講じ
て置くべきでした。飛行場の場所は、昼間に何度も空襲を受けているので、敵も十分
承知しているはずです。だから、いまさら隠す必要などないのです。

また、夜間訓練の実施を秘匿したいのであれば、飛行場から遠く離れた茶畑の中か、
大井川の河原にでもバッテリーやオルジスなどの機材を運んで、飛行機と交信させ
る手段もありました。 夜明けが近づいたので、飛行訓練は中止されました。そして、
後味の悪い思いで飛行場を後にしました。どこかで不時着していれば、生死にかか
わらず、 何らかの連絡が入るはずです。 ところが、その後どこからも情報は入りま
せんでした。

百里原航空隊での空中衝突事故もそうであったように、訓練計画の不備などによる
事故があまりにも多すぎました。指揮官の無為無策のために喪失した人命や機材は、
相当な数にのぼると推察されます。運が悪かったと言えばそれまでですが、人知れず
この世を去った彼らの胸中は、察するに余りある痛恨事でした。

☆今日の一言☆  
備えあれば憂いなし 

イメージ 1

              B29爆撃機の編隊。


昔日を偲んで http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        15-20、「空襲警報」発令

8月10日前後の出来事でした。大井航空隊に最後まで残って「特攻待機」を命じ
られていた、  われわれ第3八洲隊(第3中隊をこう呼んでいました)は、引き続き、
夜間飛行訓練を実施していました。その夜、私は前段での夜間接敵訓練を終了し、
指揮所の近くで休憩していました。すでに夜半も過ぎて、後段で出発した飛行機が
次々に帰投し始めていました。

その時、突然《空襲警報》が発令されました。B29による夜間爆撃です。 上空まで
帰っていた飛行機を急いで着陸させ「夜設」が消されました。 整備員は着陸した
飛行機を地上滑走ではなく手で押して、飛行場の周辺に設けられている掩体壕に
搬入しました。ところが、「搭乗割」の黒板を見ると、まだ一機だけ帰投していない
飛行機があります。

B29の編隊は東の方向から御前崎の上空まで来て、ここで南方に変針して飛び
去って行きます。静岡方面を空襲しての帰りでしょう。高度は夜間空襲のためか、
5,000〜6,000メートル程度で、昼間の空襲に比較してやや低くめの高度です。
コースは飛行場の南東方向で、十分見通しのきく距離です。

10機前後の敵編隊は、一定の間隔を置いて、次々に上空を通過します。地上で
は、タバコも吸えない厳重な灯火管制を実施し、 息をひそめてこれを見詰めて
います。その時、B29とは別の爆音が近づいてきました。 御前崎よりやや東側、
大井川の河口方向から飛行場の南側を通過しながら、味方識別のために舷灯を
つけました。そして、
「― ― - ― ― - (リギン帰投しました、着陸準備されたし)」
との合図を発光信号で送ってきました。間違いなく味方の「白菊」です。

「リギン、帰投しまーす!」
見張員が弾んだ声で叫びました。

指揮所をみると、 飛行隊長と分隊長が何やらヒソヒソと打ち合わせをしている
様子です。夜設係はいつでも「夜設」に点火できる準備をして、指示の出のるを
待っています。ところが、「夜設点灯」の指示がなかなか出されません。

帰投した飛行機は、 そのまま飛行場上空を通り過ぎてしまいました。 しばらく
すると、 また爆音が近づきました。 「リギン」が引き返してきたのです。盛んに
発光信号を送ってくるのですが、 応答の指示が出ません。 そのまま御前崎の
方向へ飛び去りました。

☆今日の一言☆  
船頭多くして船山へ登る 

15-19、死ぬための訓練

イメージ 1

              特攻機「白菊」。


昔日を偲んで http://www.warbirds.jp/senri/ 
   
        15-19、死ぬための訓練

大井航空隊では、再び死ぬための訓練が開始されました。先に沖縄周辺に出撃した、
高知航空隊や徳島航空隊の戦訓に基づき、昼間の攻撃は不可能と判断されました。
だから、夜間攻撃の訓練に専念することになりました。

日暮れとともに「湖畔の宿」を出て、飛行場に向かいます。 そして、終夜飛行訓練を
実施して夜明け前に、「湖畔の宿」に帰って就寝するのです。 昼と夜とを入れ替えた
生活が始まったのです。兵舎には窓に暗幕を張って暗くしています。作業などで止む
を得ず明るい所に出る際は、色眼鏡を着用するように申し渡されていました。闇夜に
慣れるための処置です。

ところが、昼間はなかなか熟睡できるものではありません。 窓が小さいうえに暗幕
を張っているので、風通しが悪くて蒸し暑いのがその原因です。 更に、死に対する
恐怖や生に対する未練など、 人生経験の浅い18歳の身には解決すべき問題があ
まりにも多くて、ベッドに横になっても、いろいろな妄想が浮かんで、肉体的疲労とは
裏腹になかなか寝つかれませんでした。

そのうえ、度重なる敵機の来襲などにより、食事の時間も不規則となり、睡眠時間も
不足がちでした。 ある日、朝昼晩と3食続けて、豚汁が配食されました。主計科が
残飯で飼育していた豚が、前日の空襲で被弾したそうで、思わぬ大御馳走にありつ
いたのでした。

またある日の空襲で、烹炊所に爆弾が命中したため炊事が出来ず、乾パンと缶詰し
か配食されない事もありました。搭乗員には、特別に航空食などが支給されていた
ので、何とか喰いつなぐ事ができました。この時期、精神的にも肉体的にも、極限の
生活が続いたのです。

☆孫子曰く☆  
守れば足らず 攻むれば余あり 

イメージ 1

              湖畔の宿。


昔日を偲んで http://www.warbirds.jp/senri/   
 
        15-18、明日の運命を模索

たび重なる空襲で、基地の建物は破壊され、兵舎などの施設は飛行場外に分散さ
れていました。飛行場のある牧之原台地を西に下り、堀之内へ通じる道路の南側に、
大きな農業用の溜池がありました。 その周辺の松林の陰に、小さなバラック兵舎が
建てられていました。われわれはこれを、ある種の感慨をもって「湖畔の宿」と呼んで
いました。

夕暮れに、水面に映る風景を眺めながら、遥かに故郷の山河を偲び。灯火管制され
た薄暗い裸電灯のもとで、肉親への手紙をしたためたり、トランプ占いやコックリさん
(占いの一種)のお告げに一喜一憂して、明日の運命を模索する生活を続けていた
のです。

限りある生命だから、一日一日を大切に生きなければと思いながらも、この未来に
希望を持つことのできないその日暮らしの生活を、当時流行していた高峰三枝子の
歌う、「湖畔の宿」の歌詞に重ね合わせて、己が運命の儚なさを思い、感傷に耽って
いたのです。

☆「湖畔の宿」の思い出☆  

‥‥‥この静けさ、この淋しさを抱いて、私ひとり、旅をゆく。
   みな昨日の夢とあきらめて、幼な児のような清らかな気持ちで‥‥‥

水にたひがれ せまる頃 
岸の林を 静かに行けば  雲は流れて むらさきの
薄きすみれに ほろほろと  いつか涙の 陽がおちる
 


.
sen*i0*20
sen*i0*20
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事