老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

17亡き戦友を偲ぶ

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17-17、白菊特攻隊出撃

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            徳島空白菊特攻隊の勇士。

亡き戦友を偲ぶ http://www.warbirds.jp/senri/12-3/ 
      
        17-17、白菊特攻隊出撃

藤岡 義貴 君(宮崎市出身)の手記を紹介致します。

昭和20年5月20日20:42、 徳島航空隊に対し次の出撃命令が伝達されました。
「徳島空司令は明二十一日、 白菊三十機(昼間組十五機・夜間組十五機)をひき
いて、串良基地に進出すべし。」

更に5月22日01:08、次の命令を受信しました。
「一、進出期日を二十二日に改む。
二、徳島空司令は五月二十二日一三〇〇までに、更に昼間組二十、夜間組十五の
   進出準備を完了すべし。」

続いて5月22日02:14、次の命令が伝達されました。
「X日攻撃のため、二十二日中に残余の白菊特攻隊昼間組全機を、作戦基地に進出
 せしめられたし。」

かくして私は、 第1陣昼間組の一員として、串良基地に進出することになりました。
昼間組とは、午前3時前後に発進して夜間進撃し、黎明時に敵陣に到着して攻撃を
実施する訓練を行った組です。これに対して夜間組とは、午後7時から8時にかけて
発進し夜間攻撃を行う組です。いずれにしても、夜間飛行が主体となるので攻撃に
は月明の夜が選ばれることにっていました。

出撃命令を受けた21日の夜は、搭乗員による壮行会とも送別会ともつかない飲み
方が明け方まで続きました。翌朝飛行指揮所前に集合して、司令川元大佐の訓示
を受ける際には立っていながら上体が揺れている者もいました。

やがて次々に離陸を開始しました。 整備科その他各科の連中や、隣接した航空廠
に動員されている女子挺身隊員に見送られての出陣でした。途中、築城基地に着陸
して燃料を補給しましたが、ここに到着するまでが大変でした。 編隊を組んでいても
二日酔いの操縦する機は右に左に揺れて、今にも翼が接触するのではないかと心配
の連続でした。

だが、築城基地を離陸してからは整然と編隊を組み見事な飛行ぶりでした。 コース
をやや西側にとり、阿蘇や天草上空を飛んで霧島と桜島の間を抜けて、串良基地へ
到着しました。 ところが、いざ着陸する段になると、 どの機もみんな異常に高度が
低くすぎてやり直しの連続でした。

着陸して高度計を見てやっと気づいたことは、串良基地は築城基地より標高が高い
ということです。普段離陸して同じ飛行場に着陸する場合には、地上で高度計の針
をゼロに規正しておけば飛行場の標高を気にする必要はありません。ところが別の
飛行場に着陸する場合は標高差を考慮しないと失敗します。標高がゼロメートルの
飛行場を離陸し、標高20メートルの飛行場に着陸する場合は、誘導コースは計器
表示270メートルで回る必要があります。

5月24日、菊水7号作戦に伴い遂に出撃が下令されました。沖縄周辺の敵艦船に
対する「体当たり攻撃」です。私は第1次攻撃隊の昼間組でした。つまり最初の黎明
攻撃を実施することになりました。 24日の夜は、夜間組の発進を帽子を振っての
見送りでした。 その後、 串良小学校跡の仮兵舎に移って仮眠しました。 ところが、
毛布にくるまって横になっても感情が昂ぶってなかなか寝付かれませんでした。

午前3時に起床。指揮所の前には白布に覆われたテーブルが準備されていました。
川元司令の「ご成功を祈る」との訓示を聞いて盃を交わしました。 終わってそれぞ
れ自分の飛行機が置かれている掩体壕へ急ぎました。すでに燃料が積まれ、25番
(250キロ爆弾)2発が両翼に装着されていました。

そして直ぐに出発できるよう整備員によって暖機運転も完了していました。 操縦席
に乗り込み試運転を行い地上滑走で掩体壕から離陸地点に向かいました。ところが、
「攻撃中止」の指示が伝えられてきたのです。 「何事ならん!」と元の掩体壕に引き
返しました。

この時期南西諸島方面はすでに梅雨であり、目的地の天候が悪く攻撃目標が視認
できない恐れがあるための中止でした。恐らく先に進撃した夜間組の通報を受けた
のでしょう。それとも後でわれわれが想像したのですが、90ノットそこそこの「白菊」
が、5時間もかけて沖縄に着くころには、すでに夜は明け放れていまする。これでは
被害のみ多く、戦果が期待できないと判断されたのでしょう。なぜなら、第1次から
第5次までの攻撃はすべて夜間組によって実施され、昼間組は出撃しなかったから
です。

そしてなぜかその日、昼間組のわれわれは原隊に帰還を命ぜられました。後ろ髪を
引かれる思いで串良基地を離陸したのです。そして、再び眺めることもないと諦めて
いた懐かしい故郷宮崎の上空を飛んで、直接徳島航空隊へ向かいました。

昼間組は新たに転入してきた艦攻や艦爆の操縦員が主力である第31分隊で編成
されていました。 だから、われわれを本土決戦に備えて温存したのではないかとの
噂が囁かれました。しかし、真偽は不明です。

徳島白菊隊は、 昭和20年5月24日の第1次から、 6月25日の第5次にわたり、
61機が出撃しました。 その内29機が攻撃成功と認められ、井上中尉以下57名
の者が「特攻戦死」と認められ、その功績が全軍に布告されました。

http://www.warbirds.jp/senri/22tokuko/205/toku.html徳島白菊隊戦死者名簿。

☆今日の一言☆  
残り物に福がある 
[AOZORANOHATENI] 

17-16、白菊特攻隊編成

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            徳島空所属の「白菊」。

亡き戦友を偲ぶ http://www.warbirds.jp/senri/ 
      
        17-16、白菊特攻隊編成

藤岡 義貴 君(宮崎市出身)の手記を紹介致します。

今年もまた6月がやってきました。毎年この季節になると、私には特別な感情が湧
いてきます。それは名状しがたいものです。今生きていることが不思議に思えるこ
とです。生きていることが何だか申し訳ないような気持ちと、生きていてよかったと
思う気持ちと、これらが交錯した複雑な感情です。

今を去る60数年前、 私は甲飛12期生として鹿児島航空隊に入隊しました。予科
練を卒業した後は谷田部航空隊に移り、第37期飛行術練習生を命じられ、中間練
習機での操縦訓練を受けました。引き続き姫路航空隊において、艦上攻撃機によ
る訓練をけ、一人前の搭乗員として実施部隊へと巣立ちました。

大分県佐伯基地所在の第931航空隊に赴任したのは、昭和19年の年末でした。
ここでは九七艦攻に搭乗し、航空母艦の発着艦訓練その他の錬成訓練が実施さ
れました。また、日向灘や豊後水道の対潜哨戒なども実施していました。

昭和20年3月、徳島航空隊へ転属命令が発令されました。徳島航空隊には、第1、
第11、第21の飛行分隊がありました。 ところが、 今度私のように各地の航空隊
から転任してきた者は、これらの分隊に編入されずに新たに第31分隊が編成され
ました。この分隊は、戦闘機それに艦攻や艦爆など比較的経験豊富な操縦員だけ
で構成されていました。変わり種としては水上機から陸上機に機種転換した者もい
ました。

私の所属した第31分隊は、海兵出身で艦攻操縦員の小柳津中尉が分隊長でした。
分隊士は殆ど予備学生の出身者で、 それに下士官兵を含めた約50名で編成され
ました。 そして、これらの4個分隊を統括する飛行隊長は田中少佐(海兵67期)で
した。

皆の話を聞いてみると、練習航空隊の教員配置のつもりで赴任した者が大部分で
した。 ところが古くからいる隊員の話では、学生や練習生を対象にした教務飛行
は燃料不足のため既に中断しているとのことでした。そのうえ、特攻隊を編成する
という噂が囁かれていました。それが本当なら、第31分隊は特攻要員として集め
られたことになります。不安は増すばかりでした。

4月始め、総勢約250名の全搭乗員が集められました。ここで、航空隊司令川元
大佐から「特攻隊員を命ず」と宣告されました。不安は的中しました。 「神風特別
攻撃隊・白菊隊」の編成命令が出されたのです。この時期、特攻隊は志願者を募
るのではなく、飛行分隊の所属搭乗員を命令によってそのまま編入されたのです。

早速特攻訓練が開始されました。 第31分隊は各基地の実施部隊から集められた、
操縦員ばかりで、「白菊」に乗るのは初めての者ばかりでした。 そのため、地上で
エンジンの性能や飛行諸元などの説明を受けて、 操縦員同士が乗り込んで打っ付
け本番の離陸着陸の訓練から始めました。「白菊」は艦上攻撃機に比較して操縦の
やさしい飛行機でした。

そして、離着陸の訓練が終わると次は昼間の計器飛行に移りました。これは、極端
に速度の遅い「白菊」で沖縄特攻を行うには、敵機に発見されにくい夜間攻撃が有利
と考えられたからです。飛行眼鏡に黒い紙を貼りつけ計器盤だけが見える小さな穴
をあけ、淡路島から和歌山そして姫路の上空へと計器だけを頼りの航法訓練を実施
しました。

本来このような飛行訓練は操縦員と偵察員がペアになって行うのが普通です。だが、
私たちが正式にペアを編成したのは、出撃が決まり串良基地へ進出する直前でした。

そのうち訓練は夜間飛行が主体となりました。昼間は就寝し夜間に飛行作業を実施
するという昼夜逆転の生活がはじまったのです。また飛行作業の合間には、種子島
から沖縄本島に至るまでの喜界島や奄美大島それに与論島などの位置と、島の形
を覚えることに専念しました。

これが終わると、次は艦形識別です。写真やスライドなどを使って、アメリカ海軍の
戦艦・巡洋艦・航空母艦などの形式を記憶するのです。 これらの訓練は、夜間は
アメリカ軍のレーダーを避けるため、高度100メートル以下の低空で進撃しテ確実
に沖縄本当にたどり着くことともに、体当たりの目標である敵艦船の識別を主眼と
したものでした。当時は戦果確認のための友軍機などは飛びません。だから、自ら
目標を識別して体当たりを敢行し、直前にこれを基地に報告しなければならないの
です。

戦艦に体当たりする場合は「セタ セタ セタ」と打電し、 最後は電鍵を押しっ放しに
し「ツ ―――――――」 と長符を送信します。この電波が途切れた時が即ち体当
たりの時刻であると同時に戦死の時間なのです。「ホタ ホタ ホタ」は敵空母に体当
たりするとの意味で、 「ユタ ユタ ユタ」は敵輸送船に体当たりするという予め決めら
れた通信略語です。

ところが、 電信機を積んでいる飛行機は少なく、殆どの飛行機は電信機を降ろして
いました。 これは500キロ相当の爆弾を積むために機体重量を軽くする目的もあ
りましたが、 体当たりして消耗する飛行機に電信機はもったいないと言うのが本音
でした。

また、たとえ電信機を積んでいても暗闇では出合い頭に集中砲火を浴びて、初めて
敵に気づくような状況のなかで、艦形を確かめて発信する余裕などない場合が多い
のです。 いきなり撃ってきた対空防禦砲火に向かって突っ込むことになるからです。
だから、どんな艦種に体当たりしたのか誰にも確認できないのです。

☆今日の一言☆  
「もしもし」と声かけられて振り向けば携帯電話の話中 
[AOZORANOHATENI] 

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             九三式中間練習機。

亡き戦友を偲ぶ http://www.warbirds.jp/senri/ 
      
       17-15、「第三龍虎隊」の奮戦

虎尾航空隊では、操縦訓練に使っていた九三式中間練習機による、「特攻隊」が編成
されました。中でも特筆すべきは、7月29日に出撃した、「第三龍虎隊」の活躍です。

この隊は赤トンボと呼ばれた鈍足の練習機にも拘わらず、アメリカ海軍の駆逐艦キャ
ラガンを撃沈したのです。そのうえ、ブリチェット、キャッシンヤング、ボレース・バイに
も損害を与えました。これはアメリカ側の記録にも残されています。

第三龍虎隊は7月28日深夜宮古島基地より8機発進。29日01:30より02:20の
間に攻撃を実施。故障及び煙幕展張のため4機帰還、4機未帰還。
29日深夜3機発進。30日02:30ら03:30の間に攻撃を実施、全機未帰還。
未帰還機7機を、聯合艦隊告示第256号で「第三龍虎隊」として布告。

未帰還者。7名のうち5名は甲飛12期出身者(三重空)。
132空。7月29日 1飛曹 川平 誠    1飛曹 近藤 清忠  
              1飛曹 原   優    1飛曹 松田 昇三
     7月30日  1飛曹 佐原 正二郎

第三龍虎隊の戦果。(大塚好古氏の資料)
米側の作戦記によると、 7月28日にCallaghan (DD-792) が沖縄南西水域で沈没。
Callaghanを救援中のPrichett(DD-561)も神風により損傷。Callaghanに損害を与え
たのは複葉の練習機Willowという記載もあります。

なお、Cassin Young(DD-793)とHorace A. Bass(APD-124)が沖縄周辺水域で損傷
したのは、7月29日の事になっています。

ただし、7月30日の03:26時にCassin Young(DD-793)に対して神風が突入したと
する資料がありますので、これは日付の記載が、7月29日〜30日夜間という意味で
書かれているのか、もしくは米時間及び現地時間表記による差異かもしれません。

☆今日の一言☆  
泥中の蓮 
[AOZORANOHATENI] 

17-14、台湾の思い出

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            神風特別攻撃隊 忠誠隊の勇士。

亡き戦友を偲ぶ http://www.warbirds.jp/senri/ 
      
        17-14、台湾の思い出

川口 武 君(福岡県出身)の手記を紹介致します。

虎尾航空隊は昭和19年5月15日、台南州に開隊した陸上機操縦の教育部隊です。
予備生徒1期生・飛練39期・飛練40期が在隊していました。 台中派遣隊は永康と
後龍に分かれ、飛練38期と飛練39期それに飛練41期(各期とも甲飛13期生)が
在隊していました。

昭和20年2月15日、 操縦訓練の中止にともなって、 虎尾空は解隊されました。
内地へ引き揚げに際し、練習生は無事帰還できたのですが、「南京丸」に乗船した
約50名の士官(ほとんど13期予備学生)と教員約20名、それにわれわれの衣嚢
などの荷物は、 基隆を出港した3月17日夜、 アメリカの潜水艦により撃沈されま
した。

護衛の海防艦に便乗していた、同期生の小深田君と前田君の話によれば、生存者
は殆どいなかったそうです。

私たち教員20名は、 新竹基地からダグラスに便乗し内地に帰ることができました。
他の15名の教員は台北基地から帰る予定でした。 ところが、迎えに来たダグラス
が給油を終了した途端、グラマンにやられて飛べなくなり、 再び虎尾空に帰ったの
です。この中に、柴田君や福元君がいました。

彼らは残務整理に残っていた者と合流して、台南空へ行きました。そこで、「忠誠隊」
に編入されて「特攻作戦」に参加して、大空に散華されたのです。その後、虎尾空は
解隊され、私たちが訓練に使っていた九三中練による、「特攻隊」が編成されました。

12空はサイゴン郊外のツドウモ基地にあり、 上海航空隊の飛練を卒業した多数の
同期生が配属されました。その後、台湾に移り「神風特別攻撃隊振天隊」が編成され、
宜蘭基地や新竹基地から沖縄周辺へ出撃し、 大空に散華されました。

★写真説明
前から2列目、左から2人目柴田1飛曹。右端、福元1飛曹。

宜蘭基地及び新竹基地から特攻出撃した同期生は次のとおり。
            
5月 3日  振 天 隊 九九艦爆 (新 竹) 高辻 萬里 (福岡・18歳)
        振 天 隊 九九艦爆 (新 竹) 田中 良光 (宮崎・18歳)

5月 7日  振 天 隊 九九艦爆 (新 竹) 石田 儀進 (宮崎・17歳)

5月 9日  振 天 隊 九九艦爆 (宜 蘭) 鳥居  信  (熊本・17歳)☆
        振 天 隊 九九艦爆 (宜 蘭) 黒岩 芳人 (福岡・17歳)☆

5月13日  振 天 隊 九七艦攻 (新 竹) 大曲 重賢 (福岡・18歳)
        忠 誠 隊 九六艦爆 (宜 蘭) 福元 清則 (鹿児島・18歳)☆
        忠 誠 隊 九六艦爆  (宜 蘭)  柴田 昌里 (高知・18歳)☆

5月15日  振 天 隊 九七艦攻 (新 竹) 島元 義春 (鹿児島・18歳)
        振 天 隊 九七艦攻  (新 竹)  小原 辰夫 (鹿児島・18歳)

5月29日  振 天 隊 九七艦攻 (新 竹) 伊藤 信照 (福岡・18歳)

☆今日の一言☆  
百歳の童七歳の翁 
[AOZORANOHATENI] 

17-13、同期の友を偲ぶ

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           九六式陸上攻撃機。

亡き戦友を偲ぶ http://www.warbirds.jp/senri/ 
      
        17-13、同期の友を偲ぶ

藤田 袈裟雄君(佐賀県大和町出身)の手記を紹介致します。
    
ジャワ島スラバヤ基地から、九六陸攻が1機日没を待って出撃しました。夕暮れの
空へ青白い排気を引きながら飛び立つのを見送りました。 これが井上保夫君との
最期の別れとなりました。共に出撃するものと思っていたのに、なぜか見送る立場
になってしまったのです。飛び立った九六陸攻の機影は、今も脳裏に焼き付いてい
ます。好青年だった彼の笑顔を思い出します。

381航空隊(旧13空)は一式陸攻と九六陸攻を装備していました。 マレー半島の
中部、 ペナン島を望む海岸の椰子林の中にある、アエルタール基地を使用してい
ました。そして、哨戒や訓練など平穏な日々を送っていました。ところが戦局も次第
に厳しさを増し、航空隊でも陸戦隊を編成して、敵の上陸に備えての訓練が行われ
るようになりました。

昭和20年7月、 ボルネオ島バリックパパンに、 アメリカ軍の上陸が始まりました。
これに対して、381航空隊空に夜間攻撃の命令が出されました。基地では、可動
全機でジャワ島のマデオンに進出し、スラバヤの飛行場から出撃することになりま
した。全機がジョホール飛行場で爆弾を搭載し、ジャワ島に向け長途の洋上飛行と
なりました。途中引き返す機が多く、無事に着いたのは、一式陸攻2機と九六陸攻
は井上君の搭乗機と私の搭乗した2機のあわせて4機だけでした。

私の機も決して順調な飛行ではありませんでした。島影も見えない洋上で、左エン
ジンが首を振りだして不調になってしまいました。 引き返すこともできずに、片舷
飛行という最悪の状態で飛び続けました。予定時刻に遅れ、夕焼けの中にジャワ
島を見付けることができました。

初めての土地で、進入路を探して飛び廻り、飛行場に着いたのはすでに暗くなって
いました。エンジン不調の状態で着陸のやりなおしをやって、隊長に大目玉を食ら
いました。無事に着けたのが不思議なほどです。

出撃時刻は一式陸攻は深夜、九六陸攻は日没時と決まり機には消炎装置が着け
られ整備されました。だが、私の機のエンジンは直らず出撃は不能となりました。

井上機の出撃を見送ってからは、無事帰投を信じて待ちました。翌朝の明け方に、
一式陸攻2機は帰投しました。しかし、九六陸攻は明るくなっても姿を見せません
でした。爆音に耳をすまし、空を見上げては機影を探しました。不時着でもしたの
ではと、無事を願って連絡を待ちました。

その日のうちだったと思います。現地地上軍から、昨夜の攻撃で日本軍機が一機
撃墜されたとの通報がありました。近郷に当時一式陸攻で出撃した搭乗整備員が
おられますが、対空砲火は花火を見るようで、物凄い弾幕の中を飛んだとのことで
した。酸素マスクも積んではいたが、思うように高度もとれず、速力も遅い九六陸攻
には無理な出撃だったようです。

一式陸攻2機は、2晩連続して出撃しましたが無事に帰投しました。私の機は修理
不能の状態で、ついに出撃できませんでした。井上君達が身代わりになってくれた
のではないかと思うこともあります。 命日は昭和20年7月23日。井上君の冥福を
お祈り致します。享年18歳。

また13空当時の3月16日、アエルタール基地で同期の浜口雄彦君(高知・17歳)
と公文旻君(高知・18歳)が九六陸攻による夜間航法通信訓練中、急激な天候の
悪化により、飛行場西側海上に墜落したことを思い出します。 当時を回想しながら、
自分が今この世に生きているのが、不思議に思えることがしばしばです。  合掌。

☆今日の一言☆  
百歳の童七歳の翁 
[AOZORANOHATENI] 

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