老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

17亡き戦友を偲ぶ

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17-2、空中衝突事故多発

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           飛行術練習生卒業記念。

亡き戦友を偲ぶ http://www.warbirds.jp/senri/ 
      
17-2、空中衝突事故多発

昭和20年3月17日、210航空隊の小林毅・中園利之・吉富昇2飛曹が雷撃訓練
中に空中衝突事故を起こして殉職しました。 いずれも、艦上攻撃機の操縦訓練を
受けた同期生です。その日、同じ訓練に参加してこの事故を目撃した同期生がいま
す。平岡健哉2飛曹(長崎県出身)です。

彼の話によれば、当時210航空隊艦攻隊は大分基地に移動して、航空母艦「鳳翔」
を標的とした、魚雷の実射と襲撃運動の訓練を実施していました。 その日は、天山
艦攻12機編隊で襲撃運動を実施するため、隊長の佐藤大尉が指揮官となり大分基
地を離陸しました。 編隊を組みながら高度をとり豊後水道に向かいました。間もなく、
全速力で航行中の標的艦「鳳翔」を発見しました。 一番機のバンクを合図に、 突撃
準備隊形を作りました。

突撃準備隊形とは編隊を解散して単縦陣になりながら、標的艦を中心にして、半径
約10,000メートルの円を描いて包囲する陣形を作るのです。包囲陣が完成するの
を見計らって、指揮官は「突撃」を指令します。全機一斉に標的艦に向かって「突撃」
を開始します。

魚雷発射は、高度20メートル以下で目標との距離は800メートル前後で行います。
つまり、参加した全機が標的艦前方の上空で一瞬に交差することになります。その
日の約束事は、 右舷側から攻撃する機が左舷側から攻撃した機の上を通過して
衝突を避けることで統一されてました。

ところが同じ左舷側から攻撃する場合でも、発射角は60度から120度とまちまち
でした。 そのうえ同じ側から攻撃する機ごとの高度差は示されていませんでした。
だから、魚雷発射後の各機は思い思いの高度で一点に集中することになります。

実戦に即した訓練のため安全は無視されていました。平岡機は右舷側から 「突撃」
を開始しました。ところが、魚雷発射の直前、標的艦の艦首前方に突然水柱が上がり、
飛行機の破片がバラバラと海上に落ちてきました。これは左舷側から攻撃していた
2機が、空中衝突して墜落したのです。すぐに訓練を中止して基地に帰りました。

衝突したのは橋本飛曹長機(乙飛7期)と同期生の小林2飛曹機でした。 そのうえ、
その後席に搭乗していた者も含め、6名の犠牲者を出したのです。 小林機の後席
には同期生の中園・吉富の両2飛曹が搭乗していたのです。

これより6日前の3月11日、201航空隊の艦攻隊が同じ場所で、 同じような事故
を起こしてやはり6名の犠牲者を出したばかりでした。 訓練計画に反省すべき点は
なかったのか悔やまれる事故でした。

平岡2飛曹は前年12月、百里原航空隊での空中衝突事故の際には、1番機の後席
に同乗していてあの事故に遭遇しました。尾翼を破壊され操縦不可能に近い飛行機
で、九死に一生を得ての生還でした。その彼が、再び眼前で衝突事故を目撃する巡
り合わせとなったのです。

☆今日の一言☆  
薄氷を踏むが如し 
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            上海空「白菊」の列線。

亡き戦友を偲ぶ http://www.warbirds.jp/senri/ 
      
17-1、「台湾沖航空戦」が初陣でした

昭和19年9月、上海航空隊及び大井航空隊で飛行訓練を受けていた同期の偵察員
が、第37期飛行術練習生を卒業して、実施部隊に配属されました。 次に操縦員が
機種別の実用機教程を卒業して偵察員の後を追いました。実施部隊においても更に
錬度の向上を図るため、実戦さながらの錬成訓練が実施されました。 そして、空中
衝突その他の事故により多くの犠牲を払いながら、 一人前の搭乗員として鍛え抜か
れたのです。

またこの間に、戦局は急激に推移していました。入隊当時の遠いソロモン群島方面で
の戦闘は、今や南洋群島から比島方面へ、更に台湾沖へと身近に迫っていたのです。
10月中旬に敵機動部隊が沖縄及び台湾方面へ来襲した際の戦闘、 即ち 「台湾沖
航空戦」がわれわれ同期生の初陣となりました。

そして最初の戦死者を出すに至ったのです。これ以降それぞれの所属部隊で、索敵
や哨戒、または雷撃や爆撃にと本格的な戦闘に参加することになり、戦死者は次第
に増加してきました。 明けて昭和20年、戦闘はますます激烈となり、戦線が内地に
近づくにつれて戦没者は急激に増加しました。

同期生の小河原正澄君(福岡県出身)の話を紹介します。彼は上海航空隊で飛練を
卒業し、 龍華基地に所在する256航空隊(雷部隊)所属となりました。 次に、昭和
19年10月13日の、「台湾沖航空戦」が彼の初陣です。

その後対潜哨戒や船団護衛の任務に服していました。戦艦を改造した空母「伊勢」
及び「日向」が、フィリピン方面の作戦に出勤した際には、その前路哨戒を実施しま
した。

ある日、海軍のダグラス輸送機が上海南方の南翔に不時着したとの連絡を受けまし
た。これを救出する陸軍に協力するため、零戦と九七艦攻が出動することになりま
した。彼も九七艦攻に搭乗してこの作戦に参加しました。だが、乗員の救出は成功
しませんでした。

この時ダグラス輸送機に乗っていたのは、フィリピンや台湾方面から内地に引揚げ
る、司令部関係のお偉方と、翼を失った搭乗員たちでした。 そして、 901航空隊
所属の同期生、徳光・金井・村山2飛曹も搭乗していたとの話です。
 
私の調査では、この事件は3月1日で、ダグラス輸送機の乗員は徳光武2飛曹で、
村山泰視、金井二雄の両2飛曹は、 同じ目的で台湾の高雄基地から相前後して
飛び立った一式陸攻に搭乗していました。 しかし、彼らもまた同じように目的地に
到着することなく消息不明となったのです。

昭和20年3月1日
徳光 武 (大分県・17歳) 901航空隊
      零式輸送機に搭乗、 高雄基地より上海基地へ向け転進中、揚子江河口
      三揚鎮附近に不時着、 匪賊と交戦中戦死。

山元 政親 (鹿児島県・17歳) 901航空隊
      一式陸攻に搭乗、 上海基地へ向け高雄基地を発進。 以後消息不明の処、
戦死認定。

浜田 敏夫 (鹿児島県・18歳) 901航空隊
同 前

村山 泰視 (香川県・18歳) 901航空隊
同 前

金井 二雄 (愛媛県・17歳) 901航空隊
同 前

☆今日の一言☆  
薄氷を踏むが如し 
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