老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

8かえらざる翼

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           百里原基地を発進する第二正統隊の九九艦爆。

本日、ブログ開設一周年を前にアクセス数が36,500件(1日平均100件)に達しました・・・・・

かえらざる翼
          8-22、まだ死にたくない!  


父上様 母上様 姉上様、 在世中は色々と有難う御座いました。
此の度、醜敵米鬼に断固反攻すべく、沖縄へと選ばれて征く事になりました。
かへりみれば、私在世中は思い出深い事ばかりでした。
在世中十八年の間、父上母上様の御慈愛により、私も空の特攻として
短い十八年を立派に散る事が出来て、誠に本懐に堪へませぬ。
私も台湾沖航空戦に死場所を得たにもかゝはらず、おめおめと生き延びて、
先に逝った先輩に対して、誠に申訳ないと存じて居ましたが、今度破格にも
漸く立派な死場所を得て此れで先輩にも、父上母上様にも申訳が出来て、
何の未練も無く敵艦に突っ込んで行く事が出来ます。
故郷の友達諸君も職場に学窓に又野良に、元気で一生懸命頑張って居る事と
存じますが、私から宜しく言ったと御言傳下さい。
中村の叔父様にも、その外知人にも宜しく。
今生の御別れに一筆記して、一生の離別の辞と致します。ではお体を大切に。
 父上様、
 母上様、
 姉上様、  御機嫌よう                     義 明
    二〇、四、一五、


新春お健やかにお迎えの事とお慶び申し上げます。
弟からは、上海より二回ハガキが来ただけです。それと遺書だけが残されております。
昭和二十年四月二十五日の朝、福田さんのお母様がおみえになり、「今鹿児島より面会し
ての帰りですが、今すぐに行かれたらまだ息子さんに会えるかも知れません」と、知らせ
に来て下さいました。

早速切符を手に入れて、母と二人で夜行列車で久留米を発って、翌早朝西鹿児島駅に着き
ました。すぐに、空襲警報にあい、昼ごろまで足止めされました。日豊線も不通となり、
困りましたが、午後四時ごろ開通。隼人駅まで行き、歩いて夕暮れせまるなか、日当山温
泉に着き、その夜は温泉に泊まりました。

翌朝早く出発。歩いて基地に向かう途中、またも空襲警報に会い、ここでもまた足止めさ
せられました。昼ごろ解除になり、やっと山にたどり着き、二十七日の午後一時ごろ面会
することが出来ました。農家の庭先で三時間ぐらいの短い別れの一刻でした。

母が折角作って持って行った「おはぎ」も、暑さと長い時間が経った為に、味が変わって
食べられませんでした。残念でなりませんでした。

母が苦心して手に入れた白絹のマフラーと交換に、自分の首に巻いていたマフラーをはず
して私達に渡しました。これが唯一の形見となりました。

いよいよ別れるという時に「まだ死にたくない」と、唯一言呟やいたことが胸にジーン
ときました。これが最後の言葉となりました。弟から渡されたマフラーには、寄せ書がし
てありました。

  散れ彗星の花吹雪     鹿島二飛曹
  九州男子大いにあばれよ 原島一飛曹
  悠久の大義に死す     本川上飛曹


遺書の上書には「百里空」と書いていましたが、破損がひどく複写出来ませんでした。
遺書と写真をお送り致します、宜しくお願い致します。寒い折りからお身体を大切にお暮ら
し下さいませ。    
                                       小 野 陸 子



小野義明君は遺書を書いたものの、 どうして家族に渡そうかと思案していたと思われます。
そこえ幸運にも福田君の母親が面会に来たので、これ幸いと託けたのでしょう。福田君の
母親は、 面会の帰りに久留米市の小野君の家に立ち寄ってこの遺書を届けたそうです。

あの当時、戦死は最高の名誉とされていました。 そうは云っても、必ず死ぬと分かってい
る「特攻隊」にわが子を送り出す母親の胸中は如何ばかりだったでしょう。 いくら名誉だと
言われても、わが子の死を願う親はいません。母親の苦衷が痛いほど感じられます。

筆者も経験したことですが、人間の感情には起伏があります。「特攻隊」に編入された際
には、「よし、やるぞー」と、決心を固めていても、時間が経つにつれて「まだ死にたくない」
との思いが募ってくるものです。 だから、小野君が遺書に書き残した決意も本心であり、
母親と面会して、今生の別れに漏らした言葉もまた本音でしょう。

「世間の人は、特攻隊だ、特攻隊だと称えて下さるけれど、本当はまだ死にたくない」。
これが死を翌日に控えた、小野君の偽らざる本心だと思います。しかし、そう打ち明けられ
ても、なす術のない母親の苦衷を察すると、胸が張り裂ける思いです。

8-21、第二正統隊の勇士

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          第二正統隊の勇士。
中列左から二人目、鹿島昭雄。
前列左から、小野義明・伊東宣夫・福田周幸・右端漆谷康夫。(以上同期生)
前列中央は、後藤中尉。中列右端は山下少尉。
 
かえらざる翼
          8-21、第二正統隊の勇士

百里原航空隊で編成した「神風特別攻撃隊・第二正統隊」は、昭和20年4月28日
第二国分基地を発進、沖縄本島周辺の敵艦船に壮烈な体当たり攻撃を敢行。

  ☆第二正統隊 搭乗割 ★同期生。

1D−1  操縦 中 尉 後藤 俊夫  (鹿児島・海兵73期)
       偵察 少 尉 山下 久夫  (兵庫・予備14期・関大)

1D−4  操縦 一飛曹 阿部 一之 (島根・乙飛17期)
       偵察 二飛曹 漆谷 康夫 (福岡・甲飛12期)★

2D−1  操縦 上飛曹 緒方 忠幸 (福岡・丙飛10期)
       偵察 少 尉 久保 強郎 (福岡・予備14期・明治専)

2D−2  操縦 少 尉 小野 喜市 (東京・予備13期・慶大)
       偵察 二飛曹 伊東 宣夫 (大分・甲飛12期)★

2D−3  操縦 少 尉 熊井 常郎 (群馬・予備14期・慶大)
       偵察 二飛曹 福田 周幸 (福岡・甲飛12期)★

2D−4  操縦 一飛曹 片寄 従道 (福島・甲飛11期)
       偵察 二飛曹 小野 義明 (福岡・甲飛12期)★

8-20、母親のお手紙

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               十三塚原「特攻慰霊碑」。  


かえらざる翼

          8-20、母親のお手紙

毎日御暑うございます 毎度お便りを戴きまして誠に有難う存じます
日毎にはげしくなります空襲 まして御当地はどんなにかお困りの事と
御察し申上げます こちらはおかげ様で今のところ空襲は受けましても
少しの被害もうけませず今日まで過ごして居ります 

さて先達ってからわざわざお便りを戴きましたのに
何やかにやに取りまぎれついに返事さえも差上げませず誠に失礼致しました
何とぞ悪しからず思召し下さいませ

今日又おなつかしきお便りを戴き ほんとうにありがとう存じました
おおせの通り私の方でも今度の発表をほんとうに待って居りましたのに 
何度新聞を見ましても 子供の名前がありませんものですから 
家中もうがっかり致しております 実は私面会に参りました折
久留米のお方からもお手紙をあづかって来て居りましたので
今度の発表がありましてからすぐに久留米までお尋ねに参りましたところ 
やっぱりあちら様も発表のないのにほんとうに落胆していらっしゃる
模様でございました やっぱり子を思う親心に変わりはありません 

丁度四月二十四日 あの空襲のはげしい鹿児島の基地にたどりついて 
久し振りに我が子に面会を致しましたが あの時は八幡のお方と二人 
面会所まで出て来ましたので 外の方とはお目にかからず 
たゞ子供にことづけてあったお便りを私があづかって参りましただけで
お宅の宣夫様ともお目にかゝっては居りません

基地は鹿児島県の国分と云う所で ほんとうに高い山の上にありました 
二時間程話して汽車の時間もありますものですからすぐに山を下りました
その時子供が申して居りましたが 今度原隊を立って来ます時には
桜の花で身体中いっぱい 皆さんからかざって戴いて 
とても もてなされた様に申して居りました

所がその後なんの音沙汰もありませんでしたが 五月中旬ごろ
鹿児島のある人から 四月二十八日に立ちました様に申して参りました 
それから二十日もたってから又右の人からのお便りに 
私の子供たちと一しょにお立ちになったお方が エンジンの故障で途中から
引返してお出になりましたさうです そしてその御二人の方のお話しに
「福田君たちの最期は、 二十八日十九時〇〇分です」とはっきりおっしゃつた
そうです それを私の方まで知らせて戴きました

右のお方と言うのは まだ子供等が基地に居ります時に 
特攻隊を慰問に行って下さったお方だそうです この様な次第で
どうしても四月二十八日には鹿児島を立っております事は間違いありません
そして 後は一機も帰らなかったさうでございますから
もうとても生きては居ないものとあきらめては居りますものの 
発表一つ見らぬ間はどうしても心が落ちつきません

私も丁度御宅様にお尋ねして見ようかと思って居りましたところでした 
本当にどうしたのかさっぱり分かりません 私の方でも隊名は分かりません
面会に行きました折も何一つくはしい話は致しませずに
ほんの会ったばかりでございました

実は早く御返事差上げねばなりませんでしたけれども
つい今までも差上げませず 何とぞ悪しからずお許し下さいませ
先ずは乱筆にて御返事まで                      かしこ
                                  周 幸 母 輝 子
伊 東 と も 様


この手紙は福田周幸君の母親福田輝子さんが、 同じ「神風特別攻撃隊・第2正統隊」で
出撃した、伊東宣夫君の母親宛てに書かれたものです。 激しい空襲の最中に、死を目前
にした最愛のわが子と面会し、最後の別れにどんな言葉を交わしたのでしょうか。わが子
の身の上を案じ、消息を尋ね合う母親の不安な気持ちが伝わってきます。

手紙の中に八幡の方とあるのは、同じ正統隊で出撃した同期生、漆谷康夫君(旧八幡市
出身・17歳)のことです。

息子は既に戦死したのであろうと不安を感じながらも、 正式な発表がないためもしやとの
思いで、同じ立場にある母親がお互いに消息を確かめ合う気持ちが痛いほど感じられます。

遺書にもひとしい手紙が届けられているのに、戦死の連絡もないまま終戦を迎えたのです。
この間の母親の不安や心痛は察するに余りありです。

彼らが所属した「第2正統隊」の功績は、8月7日付聯合艦隊告示第145号によって全軍
に布告されました。 しかるに、いかなる怠慢かその氏名は公表されず、 戦死の通知が
ご遺族へ届けられたのは、昭和20年10月のことでした。         

鹿児島県溝辺町は、沖縄作戦で艦上爆撃機の出撃基地であった、旧海軍第2国分基地を
見下ろす上床公園の一画に、昭和54年4月6日に「特攻慰霊碑」を建立しました。
百里原空をはじめ名古屋空や宇佐空それに951空で編成された特攻隊は、ここを基地と
して、帰らざる攻撃に飛び立つたのです。

福田君をはじめ伊東君や小野君それに漆谷君など、大勢の若き特攻隊員が祖国に最後の
別れを告げた場所です。

   鎮 魂

 白雲にのりて    
    君還りませ   
   さくらのそよ風
  菊のかおり
   あなたの守り給える
   ふるさとは  いま 
   平和に
   満ちています 
昭和五十四年四月六日

8-19、最後の親孝行

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                福田周幸君遺影。  


かえらざる翼
          8-19、最後の親孝行

拝啓 永らく御無音に打ちすぎ相済みません
皆様には 御無事で御暮らしの事と思います
私も希望の特攻隊に入り
桜の花と散ることが出来る様になりました
今日までの御恩は死しても忘れません    
私の最後の親孝行は必中攻撃でありませう
必ず敵の艦船に体当り攻撃を行ひます
お母さん御元気で暮らして下さい 
弟妹の事はしっかり御願ひ致します
村の皆々様にもよろしく御礼を言って下さい
ではお先に失礼致します 又靖国の庭で会ひませう
  若桜今を盛りと咲きにほふ 
     共に散り行く琉球の空
 お母様へ              周幸 より



村御一同様
遂に肉嗅相別る 心中亦空し 再び相接するの期あらんや
唯靖国の庭に会ふことを期す 邦家の為完爾として散らん
戦局まさに危急 国家存亡の秋 雲染む屍
大空以外 誰か他に散らんと欲せん
悠久三千年の歴史を顧み 唯大義に生くるのみを本分とす
国を思ふまにまに 一命敢て論ずるに足らず
見敵必殺の意気に 沈まざる敵空母なしと信ず
終りに在世中の御厚意を深く謝し 御多幸を御祈りします
                      福 田 周 幸


この手紙は、出撃を目前にして母親と、福岡県三井郡三国村の村長に宛てて出されたも
のです。 母親に最後の別れを告げるとともに、 生まれ育った三国村に思いを馳せ、出征
に際してお見送りくださった、古里の方々の面影を瞼に浮かべながら書いたのでしょう。

当時の憲法では、 国民の三大義務として兵役の義務が日本男子に課せられていました。
そのうえ、出征は一族一家の名誉に止まらず、郷土の誉れとして称賛されたのです。また、
戦死すれば村民あげての「村葬」が行われました。 そして門口には、「誉の家」の標識が
掲げられて、その栄誉が称えられ時代です。

筆者も予科練に合格して鹿児島航空隊に入隊するに際し、友人や親族が集まり壮行会を
開いて頂きました。出立の日には親戚縁者と連れ立って氏神様に参拝して、「武運長久」
を祈願しました。 そして、「祝入隊」の幟を先頭にして小学校の音楽隊が軍歌を吹奏しな
がら最寄りの駅まで、 先輩や友人から激励を受けたり、 お別れの言葉を交わしながら歩き
ました。

駅前の広場ではお見送りくださった皆様方を前にして、入隊の決意とお別れの挨拶それに
お見送りのお礼を述べました。 そして、万歳三唱に送られながら列車に乗り込んだのです。
線路沿いには近郷の方々が総出で、日の丸の小旗を打ち振っての、盛大な見送りを受けて
古里を後にしたのです。この見送りの風景は、支那事変が勃発して以来、次々に出征する
軍人を送り出す儀式として定着していました。

8-18、右田勇君の絶筆

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            渡り鳥 帰らぬ身とは知りながら。


かえらざる翼
          8-18、右田勇君の絶筆

伊東君の遺書の中に「既に右田戦死し……」と記されているのは、601空攻撃第1飛行隊所属の、
右田勇2飛曹のことです。 右田2飛曹は大分県宇佐郡の出身で、 鹿児島空の予科練時代は、
彼と同じ24分隊の6班に所属し、  厳しい訓練に耐えました。 次に、上海空に移り偵察専修の
飛行術練習生として、共に技量の錬磨に精進した仲です。

昭和20年4月17日早朝、「神風特別攻撃隊第3御盾隊」指揮官天谷中尉機の偵察員として、彗星
艦爆に搭乗した右田2飛曹は、0700 第1国分基地を発進。喜界島155度80浬付近の敵機動部隊
に対して、必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行しました。

  渡り鳥 帰らぬ身とは知りながら  一筆かきし 文となりにし

   これは出撃の前日に家族に宛てた、故右田勇少尉の絶筆です。

 第三御盾隊 搭乗割(彗星)

 中 尉 天谷 英郎 (福井・予備13期・福井高工)
 二飛曹 右田  勇 (大分・甲飛12期)

 飛 長 飯村 清一 (京都・特乙1期)

 中 尉 岡田 敏男 (東京・予備13期・東大)
 中 尉 和田守圭秀 (島根・予備13期・島根師)

 二飛曹 真島  豊 (佐賀・特乙2期)

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