老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

8かえらざる翼

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8-17、区民一同様

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           伊東宣夫君 叙位叙勲証書。

かえらざる翼
          8-17、区民一同様


伊東宣夫君は、郷里の区長宛てに次のような決意を書き送っています。出撃を目前にして、
入隊に際してお見送りくださった、郷里の皆様方の面影を瞼に浮かべながら、 別れの言葉
を書き残したのでしょう。
     
 一筆申し上候 
 沖縄方面作戦愈々緊迫せるとき 大死一番 特攻の一員に加はるを得候事は
 無上の本懐 今日をおきてまた いづれの日にか是れ求め候はん
 一途に 皆々様の御鞭撻のお陰と深く感謝申上候  思へば一昨年夏八月 
 皆々様に 山崎の広場にてお別れして以来 幾度か念願致し居り候事 
 勿論 生還は期しておらず…………
 末筆乍ら 区民一同様の御多幸のほどを 御祈り申上候

     逝く春に 逢はで散り行く若桜 
          御国のためぞ 心は楽し 
                 鹿児島県姶良郡 第二国分基地 伊 東 宣 夫 遺

8-16、母親の手紙

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            伊東宣夫君 遺影。


かえらざる翼
          8-16、母親の手紙
       
  久部山の紅葉も日毎に色増して 秋深く相成申し候
  その後は久しく御消息絶えしも 定めし御軍務御多端の事と御察し申し上げ候
  当方も皆々達者にて 稲の収穫に励み居り 御安心下され度く
  さて先般 八月三十日発送の小包(千人針)本日還送され申し候
  誠に残念に存じ居り候

  九月には御卒業の御事と 怱々にこさえてお送り申し候に 最早御不在の由
  弾除けも持参させず戦地に出向致させ 私の不注意かへすがへすも口惜しく
  申し訳なき事よと 何卒御許し下され度く 此の上は 御在所の知れる迄は
  御写真の前にて御守り申す可く 御便り御待ち申居候

  昨夜父が御身の夢を見て 明日は必ず御便りあることを噂さ致し候処
  小包の還送意外に存じ候
  さあれ御身様には この度一人前の搭乗員となられし事 御慶び申し上げ候
  この上は充分に其の真価を発揮され あっぱれなる御働きを神に祈り居り候

  申すまでもこれなく候も その功を争いて卑怯なる行いに出ざる様
  功は人に御ゆずり申し 上官の命によく服し自分の任務はあくまで決行致す可く
  散るとも美しく男らしき事こそのぞましき事に候

  只今当地は収穫の最中にて近年になき豊作にて 誠に国家の慶事と皆々喜び居り候
  先はこれにて 何卒御自愛専一に祈り居り候              かしこ

     十月三十日
                                            母より
     宣 夫 殿 御 許 へ


あの当時、敵潜水艦の跳梁による船舶の被害などによって、 外地向けの郵便物に遅延や喪失
が出はじめていました。 母親がわが子の武運長久を祈り、 心を込めて縫い上げた千人針を
入れた小包が、 上海航空隊へ着いた時には、 不運にも彼らは既に飛行術練習生を卒業して
実施部隊へと巣立った後でした。

発送してから2ヵ月後、返送されてきた小包をみて、 息子の行き先を案じながら不安を感じたで
あろうと想像します。転属先からの便りがあるのを待ちきれずに、宛て先不明のまま書き置いた
ものと思われます。巻紙に毛筆で丁寧に書かれています。

伊東宣夫君は文学的才能があり漢詩にも造詣が深く、友人には将来小説家になりたいと漏らし
ていたそうです。 佐伯中学時代から、 詩や小説などをたくさん書き残しています。その中から
予科練入隊を前にして書かれた一編の詩を紹介致します。

ほたる (昭和十八年六月十九日 二條にて 宣夫しるす)

 草露踏んで川べりの 柳のかげに来て見れば
 夢にまよへる蛍が くろき闇夜を流れけり
 消えては点じ又消えて くらき彼方に流れ行く
 かぼそき光のぬし蛍 いづくの果てに行くや君
 われが心のほたるも さまよいながら流れ行く
 あまつゆ宿るまちなかの こひしき家のかどべまで

8-15、十有七春秋

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             母親が浄書した伊東宣夫君の遺書。


かえらざる翼
          8-15、十有七春秋


    遺 書

 十有七春秋 逝くものは將又何 
 幼時濃藍の空に浮かぶ三日月を眺め 何を願ひしや 
 悠久三千年 皇国の歴史は今日何をか語る
 噫々時遂に来たる 粉骨以って皇国に報ゆる時は来たれり  
 既に右田戦死し真島又沖縄に散る
 われら貴様等の後をしたひて今日特攻の一員に加はる事を得
 喜ぶべし 武人の本懐これに過ぐるものなし     
 夫れ報恩の道 今日をおきて又何れの日にか求めむ

    三千とせの歴史守りて捨つる身と
         思へば軽きわが命かな

    いざ勇み我は出て征く琉球の
         空に散りにし友をしたひて

 寸骨を埋むる豈青山を待たんや 
 吾身北邱山頭一片の煙とならむとも 英霊とこしへに祖国を守らん
 皇天后土 願はくば吾が機を守らしめ給へ 
 古より曰く 一念石に立つ矢の験ありと 何ぞ一撃沈まざる敵艦やある
 快なる哉壮なる哉この一挙 桜花の下いざ若桜勇躍征かん 
 天皇陛下萬歳 帝国海軍萬歳 
 最後に皇恩の萬分の一にも報ゆる事の出来ざるを詫び
 又吾人をして今日まであらしめ給ひし 両親教官教員恩師に対し 
 衷心より感謝申し上ぐ次第なり
     百里原空 特攻隊
                海軍二等飛行兵曹   伊 東 宣 夫 遺

     辞 世
  
  行く春に逢はで散りゆくますらおの
        心は常に楽しくありけり

  煙ふく桜が島に生ひたちて
          煙ふく日に桜散り行く




「北邱(ほくぼう)山頭……」は、唐の詩人劉庭芝の「百年同じく謝つ西山の日、千秋萬古たり北邱の塵」
が出典。北邱は洛陽の北方にある山の名。「北邱の塵」とは、死んで土にかえること。

この遺書は、故海軍少尉伊東宣夫君が特攻出撃に際し書き遺したものです。この遺書が実家に届いた
のは昭和20年4月23日のことでした。差出人の住所には、「姶良郡日当山郵便局、伊東宣夫」と記され、
「書留」の印が押されていたてうです。ところが、このような遺書まで届いているのに、戦死の通知書が
正式に届けられたのは、既に戦争が終わりを告げた昭和20年10月11日のことでした。

伊東宣夫君は昭和2年11月14日、大分県南海部郡上堅田村にて出生。昭和18年8月1日、第12期海軍
甲種飛行予科練習生として、鹿児島海軍航空隊に入隊しました。朝な夕な、煙り噴く「桜島」の雄大な
姿を眺めながら、8ヵ月に及ぶ猛訓練に耐え抜いたのです。 また、峨々たる「桜島」の山肌を見下ろし
ながらの初飛行も体験したのです。

昭和19年3月、予科練を卒業して上海空に転属。ここで、飛行術練習生として技能の錬磨に励みました。
昭和19年9月、飛行術練習生を卒業して台南空に配属され、艦上爆撃機の偵察員として錬成訓練を開始
しました。

昭和19年12月、台南空で艦上爆撃機の錬成訓練を受けていた伊東2飛曹は、721空(神ノ池基地)へ転属
の命令を受け内地に帰還しました。更に、昭和20年3月、実施部隊に編成替えとなった百里原空へ転属
となったのです。

アメリカ軍の沖縄侵攻作戦が開始されると、百里原空においても、「神風特別攻撃隊」が編成され、 彼は
「第2正統隊」の一員に選ばれました。桜花爛漫の春4月、出撃基地である鹿児島県の第2国分基地へ進出。
若鷲誕生の地、鹿児島空を巣立ってから1ヵ年が経過していました。この基地で彼が再び眺めた煙り噴く
「桜島」が、 この 世の見納めとなったのです。

晩春の国分基地を、総員の見送りを受けて発進した、99式艦上爆撃機の偵察席は、遅咲きの桜の花で飾
られていたといいます。母親の写真を胸のポケットに納めて出撃した伊東2飛曹に、いよいよ最期の時が
訪れました。

「ワレトツニウス、テンノウヘイカバンザイ」。彼はいかなる思いでこの決別の電報を発信したのでしょうか。
続いて電鍵を押さえ放しにして、「ツ ――――― 」と、長符を発信しました。この符号が途切れたのは、
昭和20年4月28日 午後7時でした。 享年17歳。

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           山根三男君遺影。


かえらざる翼
          8-14、神風特別攻撃隊第9銀河隊

松木1飛曹の偵察員、山根1飛曹の古里もまた、飛行経路に近い広島県の尾道です。松木1飛曹
とお互いの古里に最期の別れを告げるため、郷土訪問飛行することを相談したのであろうと推察
します。だが、山根1飛曹が遺書を投下したという話は残されていません。恐らく地形などの関係
から低空飛行を断念したのではないかと思います。しかし、生まれ育った古里の家並みを上空か
ら眺めながら過ぎし日を思い起こし、万感の思いを胸に秘め、陰ながらご両親に別れを告げたで
あろうと想像します。山根1飛曹は次の辞世を遺しています。

   戦友と共に誓いし桜花
       九段の庭に咲きてあはなむ
                山 根 三 男

故海軍少尉松木学君(愛媛県・19歳)及び、故海軍少尉山根三男君(広島県・18歳)は、攻撃406
飛行隊で編成した「神風特別攻撃隊第9銀河隊」の隊員として、昭和20年5月11日0521、宮崎基地
を発進しました。そして、沖縄周辺に蝟集する敵艦船群に対し必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行
して悠久の大義に殉じました。その功績は、聯合艦隊告示第233号により全軍に布告されました。


☆第九銀河隊 搭乗割
2D−1  操縦 一飛曹 谷岡  力   (福井・丙飛10期)
       偵察 少 尉  山川 芳男  (東京・予備13期・中大)
       電信 一飛曹 杉野 三次  (三重・乙飛18期)

2D−2  操縦 一飛曹 松木  学  (愛媛・甲飛12期)
       偵察 一飛曹 山根 三男  (広島・甲飛12期)
       電信 一飛曹 伊東  勲   (大分・乙飛18期)

8-13、古里の空へ

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            離陸直前の762空の「銀河」


かえらざる翼
          8-13、古里の空へ

故海軍少尉松木学君は、宇佐空で艦上爆撃機の飛練を卒業し、同期の江藤君や古小路君
などと一緒に出水基地所在の762空に配属されました。 ここで、最新鋭爆撃機銀河による
錬成訓練を開始しました。 ところが、南九州地区が敵機動部隊やB29の空襲を頻繁に受け
るようになったため、飛行隊は原隊を離れて美保基地に移動して錬成訓練を行うことになり
ました。

訓練終了とともに彼らは「特攻隊」に編入され、 出撃基地である宮崎に移動することにりま
した。 彼は、その移動途中に規則を無視し、 編隊を離れて懐かしい生家の上空へ飛びま
した。そして、母親に宛てた遺書をマフラーに包んで投下するという非常手段をとったのです。

終戦後聞いた話です。昭和20年5月10日、愛媛県宇摩郡長津村の上空に突然双発の飛行機
が一機飛来して低空を旋回しはじめました。 そして、白い布に包んだ物を投下して翼を振り
ながら、南西の空へと飛び去って行きました。 これを見ていた松木トキさんは、 直感的に
わが子が最期の別れを告げに来たのだと確信しました。だから、この包みを拾って駐在所に
届けたうえ、警察官に立ち会ってもらいその包みを開けました。

謹みて生前の御礼申上候
今は此の感激が何にか譬へられず候
大日本帝国の繁栄を神仏賭けて御祈願申上候

誰の手に 手折られけんか桜花
ただ知るのみは 醜の御盾と

攻撃四〇六飛行隊
海軍一等飛行兵曹 松 木 学
母上様


松木1飛曹の古里は愛媛県で、美保基地から宮崎基地へ移動する飛行経路のやや東側にあ
ります。 そのうえ、下士官だけで編成されたペアで、 偵察員が同期生の山根1飛曹という
好条件に恵まれていました。だからこのように飛行規律を無視して、生家の上空を飛ぶという
非常手段をとることができたのでしょう。

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