老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

2白菊特攻隊

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2-32、B29の爆撃

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                   空の要塞 B29爆撃機


白菊特攻隊
          32、B29の爆撃
   
 サイパンやテニアンがアメリカ軍に占領され、B29が本土上空に姿を現すようになった。
たしか、一月下旬のことだったと思う。南方向から高々度を真っ白な飛行雲を引きながら、
B29一機が侵入してきた。いつものように、東京方面の偵察に来たのだろうと、皆な作業
の手を休めて指揮所付近から見上げていた。

 すると、二十センチの双眼鏡を覗いていた見張員が、
「弾倉が開いているぞ!」
と、 叫んだ。敵機の軸線は飛行場西側の海上を真北に向っていると思われた。まさか単機
で何を爆撃する積もりなのかと、タカをくくってのんびり見上げていた。ところが、上空は
相当の西風が吹いているらしく、だんだんと敵機の軸線がこちらに向かってくる様子である。

《キューン……》と、一種独特のうなりが響き始めた。
アアッ! やはり爆弾を落としたのだ。慌てて防空壕に、折り重なるように飛び込んだ。
《ダダーン……》と、さく裂音が轟き渡った。少し離れているようである。すぐに防空壕
から出てみると、洲崎航空隊の兵舎方向に噴煙が上がっている。あの高度から見事な爆撃
である。洲崎航空隊は、射撃・爆撃関係兵器の整備兵を教育する航空隊で、兵舎と講堂だ
けで飛行場は持たない。

 どこの世間にも野次馬はいるものだ。早速二、三の者が作業を放って駆け出して行った。
帰ってきての話では、ちょうど兵舎の間を縫うように弾着があり、直撃弾はなかったそう
である。それでも、付近の窓ガラスなどはすべて破壊され、惨たんたる有り様だったとの
ことである。

「飛行場を狙ったのが、ショートしたんだ」
「いやいや! 初めから兵舎を狙ったんだ!」
「まぐれだよ、まぐれ。基地は広いんだから何処かに当たるさ……」
と、盛んに議論された。それにしても、九千メートル以上の高々度から見事に命中させた
ものである。

2-31、S作戦

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               アメリカ潜水艦 SS212


白菊特攻隊
         31、S作戦
 
 毎日同じコースを飛ぶことによって、その日の変化を発見することができる。例えば、
前日に無かった「油紋」を発見すれば、昨夜その付近を潜水艦が行動したものと推察でき
る。この方法を日施哨戒と呼んでいた。またこれ以外に、艦隊や船団が航行する場合は、
その前路哨戒や直接護衛も行っていた。そして「S作戦」と呼ばれる対潜水艦制圧作戦も
しばしば実施された。

 当時の潜水艦は蓄電池に充電したり圧搾空気を補充するために、夜間に浮上する特性が
あった。この浮上中の潜水艦を電探を装備した索敵機で捜索し、次に、磁探装備機で潜没
位置を確認する。最後に、潜爆隊によって徹底的に爆撃する総合作戦である。主として、
館山の本隊が中心になって実施していた。

 夜間発進した索敵機は、指定された索敵線を飛行しながら、電探で敵の浮上潜水艦を捜
索する。電探に感度があれば、その位置まで急行して目標弾を投下する。索敵機が敵潜水
艦の上空に到達するまでに、敵潜水艦も飛行機をレーダーでキャッチして潜航する。とこ
ろが、当時の潜水艦は水中速力に限度があり、あまり遠くへ移動することができなかった。

 次に、索敵機からの電報で、待機していた磁探搭載機が発進する。現場に到着した磁探
隊は、大きく横に開いた隊形を作り、海面すれすれまで降下する。そして、索敵機が投下
した目標弾を中心にして、磁探を使って捜索を開始する。磁探の感度によつて、次々に投
下される目標弾により、敵潜水艦の潜没位置を策定する。

 その頃には、それぞれ異なった深さで爆発するようにセットした、対潜水艦用の特殊爆
弾(二号爆弾と呼んでいた)を搭載した潜爆隊が、編隊を組んで到着する。この爆弾は普通
の爆弾と異なり、あらかじめ爆発する深さをセットすることができる。

 また、弾頭が普通の爆弾のように流線形ではなく、丸太を切ったように平らになってい
る。弾頭が尖っていると、着水の際にその突入角度によって水中を走る。だから、 着水地
点から離れた所で爆発する。弾頭を平らにしておくと着水地点から真下に沈み、調定され
た深度で爆発する。

 潜爆隊は、磁探隊の投下した目標弾の輪の中心部に向かって、一機ずつ緩降下爆撃を行
う。潜水艦を爆撃するのに照準器など使わない。高度約五百メートルで接近し距離千五百
メートルぐらいから緩降下に入る。

 エンジンカウリングの中心に目標を見通しながら突込み、高度百メートルで爆弾を投下
し直ちに引き起こす。すべて勘である。爆撃は向い風で実施するのが一番やさしい。横風
だと、流されて目標を外す恐れがある。追い風だと、降下角度がだんだんと深くなり過ぎ
て失敗する。

 潜没潜水艦に対する爆撃は、通常の爆撃と異なり、敵艦を直接照準することができない。
そのため、推定海面に爆弾をバラ撒く感じで実施される。だから、一発必中を期すような
困難な爆撃ではない。また、対空砲火などを受ける心配もない。そのため、もっぱら新前
搭乗員の役目である。そして、前述のように勘による爆撃を行う。

 これに対して、主に夜間飛行を任務とする電探搭載の索敵機や、海面を低空で這い回る
磁探搭載機には、比較的古参の搭乗員が割り当てられていた。ただし、このS作戦も電探
や磁探などの、機材の性能が十分でなく、その上故障なども多いため、担当者が苦労した
割には成果が上がらなかったように思う。

2-30、実戦配置に付く

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               爆装した天山艦攻。


白菊特攻隊
          30、実戦配置に付く
 
 錬成訓練を終了したわれわれは、一人前の搭乗員としての勤務が始まった。九○三空の
日課は、対潜哨戒と船団護衛である。対潜哨戒機は、対潜水艦用の特殊爆弾を搭載して、
それぞれ指定されたコースを飛行し、敵潜水艦を捜索して制圧する。ところが、敵の潜水
艦は昼間は水中深く潜没し、肉眼で発見することは不可能である。

 ある日、味方潜水艦を三浦半島の西側に回航して潜航させ、これを目標にした、捜索と
潜水艦爆撃の訓練を実施したことがある。所属の全搭乗員が、搭乗割に従ってそれぞれの
飛行機に演習用の発煙弾を搭載して参加した。

 上空の混雑を避けるため、各機は時間割りに従って指定された海面を飛行して、 捜索訓
練を実施した。潜水艦を発見した機は、これに対して発煙弾で爆撃することになっていた。
潜水艦の方も心得たもので、潜望鏡を出し入れしたり、艦橋すれすれまで浮上したりして
訓練に協力した。

 ところが当日は風が強く、海面には白波が立っていた。そのため、潜望鏡特有の三角波
も、なかなか発見することができなかった。古参偵察員の指導を受けてどうにかそれらし
きものを視認できても、爆撃コースに入ろうとして、ちょっと目を離すともう見失なって
しまい、惨々な結果であった。          

あの狭い海域に必ずいると分かっていながら、潜航中の潜水艦を発見できた者は、一人
もいなかったと思う。潜望鏡が波を切るためにできる三角波にしても、長時間出し放しで
航行すれば発見できるが、短時間に操作を繰り返せば、恐らく発見は困難であったと思わ
れる。

 南洋方面では、ある程度の深さまで肉眼で透視できるとの話であるが、日本近海では余
程の条件が揃わなければ、肉眼による発見は不可能であろう。対潜哨戒には、電探(電波
探信儀)を装備した飛行機も使用される。ところが、潜没した潜水艦からは反射波は返っ
てこない。だから、その能力には限界がある。

 しかし、潜水艦にも弱点があった。それは「油紋(ゆもん)」である。乗組員の排せつ
物その他の艦外投棄や、航行中に発生する廃油などが、海面に浮いて「油紋」となる。哨
戒機はこの「油紋」を重視する。「油紋」を発見すると、その原因が味方艦船によるもの
かどうかを確認する。味方艦船の航行は、すべて通報を受けて掌握しているので、結果は
すぐに判明する。

 「油紋」が味方艦船のものでないことが分かれば、付近に敵潜水艦が潜没していると判
断して捜索を開始する。基地では、状況に応じて、磁探(磁気探知機)を搭載した飛行機
を派遣してこれに協力させる。磁探装備機が敵潜水艦の上を低空で通過すると、その磁気
を感知し、磁探の針が振れてブザーが鳴る仕掛けになっている。反応があれば、直ちに目
標弾(銀粉が水面に浮く)を投下する。次に、変針してこれと直角に交差する方向から進
入する。そして、感度があれば再び目標弾を投下する。

 これを繰り返すことで、海面に目標弾による輪ができあがる。この輪の中に潜水艦が潜
んでいると推定される。だが、深さは分からない。だから、百メートルとか百五十メート
ルとか、それぞれが別々の深さで爆発するようにセットした、対潜水艦用の爆弾を次々に
投下して制圧することになる。

 磁探での捜索で問題になるのが、過去に沈没した船の磁気である。この沈没船が磁探に
反応するため、潜水艦と混同する恐れがある。だから、常に沈没船の情報を収集して、そ
の位置をチヤート(海図)に記入し、この問題に対処していた。

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               電探を装備した天山艦攻の列線。


白菊特攻隊
          29、実施部隊の錬成訓練始まる

 昭和十九年十二月二十五日、空中衝突事故の後始末も終わり、残った同期生二十四名は、
第三十七期飛行術練習生の全教程を終了することができた。これで練習生生活ともお別れ
である。予科練時代からお馴染みの「七つ釦」の制服を返納し、下士官の軍装一式が支給
された。そして、通称「左マーク」と呼ばれる八重桜の特技章が付与された。

 これで、一人前の搭乗員として巣立つのである。微々たる戦力ではあるが、艦上攻撃機
操縦員二十四名が、ようやく戦列に加わることになった。鹿児島航空隊に入隊以来、一年
五ヵ月にわたり、予科練そして飛練と鍛え抜かれ、晴れて実施部隊の一員として実戦配置
に就くのである。搭乗員の養成が、いかに効率の悪いものであるか、身を持って体験した。

 実施部隊の配属先は、九○三航空隊であった。吉田・近野・内田・梶山の同期生五名と
一緒に赴任した。夕食時間になり、デッキで皆が食卓についたところで廊下に整列して、
「お食事中一言ご挨拶を申しあげます。二等飛行兵曹吉田実以下五名の者は、百里原航空
隊から転属して参りました。宜しくお願い致します」

 これは海軍の伝統的な転任挨拶の要領である。飛練卒業に際して教員から、 実施部隊に
おける各種の仕来りや口上などを伝授されていたので早速役にたった。 また一日遅れで、
姫路航空隊から、天野・山本・前田・外村・中川の同期生が赴任してきた。

 九〇三空は横須賀鎮守府の隷下で、海上護衛部隊である、館山航空隊が改編されたもの
で、対潜水艦哨戒や船団護衛などを主任務としていた。本隊は千葉県の館山にあり、広範
な海域を担当する関係で各地に派遣隊が置かれていた。美幌(陸)大湊(水陸)山田(水)
松島(陸)筑波(陸)八丈島(陸)父島(水)大井(陸)串本(水)などである。

 装備機は水上偵察機と艦上攻撃機が主体であった。館山の本隊は、艦攻隊と水偵隊に分
かれ水陸双方が装備されていた。艦攻隊には天山艦攻や九七艦攻をはじめ、何に使用する
のか、九○式機上作業練習機までが、あのおどけた姿で並べられていた。

 新入隊のわれわれは、明けて昭和二十年の正月早々から宮城県の松島派遣隊に移動した。
ここで、柏原飛曹長の指導により、錬成訓練を実施することになった。館山基地は二五二
空の戦闘機隊が連日錬成訓練を実施していたので、混雑を避けるためである。

 松島基地に居候している、 九〇三空松島派遣隊は保有機わずか三機の小所帯で、太平洋
沿岸の対潜哨戒や船団護衛を任務としていた。ここの派遣隊には古い下士官もいないので、
飛行作業さえ終われば雑用に追い回されることもなく、自由な時間を持つことができた。
新入りの隊員にとってここは天国であった。

 ある日、夕食も終わり後片付けも済まして、四、 五人連れ立って風呂に行くことにした。
浴場にきてみるとまだだれもいない、海軍に入隊して初めての一番風呂である。ワイワイ
騒ぎながら久しぶりの命の洗濯である。やがて仕切りの戸が開いて、一見して古参の下士
官と思われる人物が入ってきた。連れてきた当番の兵隊に背中を流させながら悠然と瞑想
している。シマッター、 これはまずい、そーっと上がり支度を始めた。

 「お前らどこの部隊か知らんが、善行章は右腕に付けるもんだぞ! 尻っぺたに青い線
を二、三本付けた分際で、一番風呂とは十年早い!」
と、罵声が飛んだ。これは正に至言である。練習生時代のバッター制裁の痕が「蒙古斑」
のようにまだ残っていたのである。ちなみに海軍における入浴の指示は、
「等級順風呂に入れ」であった。

「おい、危なかったなー、あれは基地の先任伍長かも知れんぞ……」
「あの様子じゃ、善行章の五本ぐらいは付けてるだろうよ」
「飛練の教員も、一番風呂は遠慮せよとは教えんかったぞー」
「桑原々々、一番風呂はもう懲々だ」
「なーに、 怒鳴られただけで済んだんだから、おんの字だよ」

 またここでは下士官待遇としての半舷上陸が許可されていた。夕食後から翌日の朝食ま
での間、一日置きに外出できた。早速吉田兵曹と二人で羊羮や缶詰などの加給食を持って
外出した。これには訳がある。前年十二月初旬、敵機動部隊の空襲を避けるため、百里原
航空隊から松島基地へ飛行機で退避して二、三日滞在したことがる。

 着いた初日は、飛行服のまま兵舎にごろ寝だったが、最後の日に外出が許されたので、
数名の同期生と石巻市に遊びに行った。灯火管制をした薄暗い町を歩いていると料理屋と
いった感じの店があったので入り込んだ。そして、酒は持っているから何か肴を作って欲
しいと頼み込んだ。しかし、これはわれわれの認識不足であった。

 その当時は、料理店などが営業できる状態ではなかったのである。この店も廃業して、
「北上無線」の社員寮になっていたのである。仕方がないので帰ろうとしていたら、
「兵隊さん、とにかく上がってください。他所を探しても開けている店はありませんから、
うちでできるだけのことを致しますから……」
そう言って呼び止められた。それではと、遠慮なく上がり込んで大変お世話になったので
ある。

 今度はその時のお礼を兼ねての訪問であった。上品な婦人と娘さんの二人暮らしである。
お土産持参だから前回以上に歓待を受けたのはもちろんである。寮とは名目だけなのか、
部屋は空いているのに同居人がいる様子はなかった。

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           ここに百里原航空隊ありき 記念に桜を植え その栄光を伝う


白菊特攻隊
         28、ここに百里原航空隊ありき

 われわれが卒業した後の百里原航空隊は、実施部隊に改編され、教務飛行は中止された。
そして、われわれを教え育てていた教官や教員が中核となって、「特攻隊」が編成された。
また、訓練に使用していた使い古しの飛行機に、最後のご奉公の機会が与えられのである。
 
 昭和二十年四月以降、艦爆隊(第一飛行隊)は第二国分基地へ、艦攻隊(第二飛行隊)
は串良基地へそれぞれ進出し、沖縄周辺の敵艦船に対して、還らざる「体当たり攻撃」に
飛び立ったのである。

出撃月日 特攻隊名    機種   機数  戦死数   指揮官       出撃基地
4月 6日 第一正統隊 九九艦爆10機 20名 大  尉 桑原   知  国分
4月12日 常磐忠華隊 九七艦攻 6機 18名 大  尉 西森 秀夫  串良
4月16日 皇花隊    九七艦攻 4機 12名 中  尉 畑   岩次  串良
4月28日 第二正統隊 九九艦爆 6機 12名 中  尉 後藤 俊夫  国分
4月28日 第一正気隊 九七艦攻 2機  6名 少  尉 須賀 芳宗  串良
5月 4日 第二正気隊 九七艦攻 2機  6名 中  尉 五十嵐正栄  串良  
5月12日 第三正気隊 九七艦攻 1機  3名 少  尉 堀江 荘次  串良
5月25日 第三正統隊 九九艦爆 1機  2名 上飛曹 安斉 岩男  国分
6月 3日 第四正統隊 九九艦爆 3機  6名 中  尉 關島   進  国分

 昭和五十一年三月、当時の第二飛行隊長、後藤仁一氏が関係有志に呼びかけ、百里原空
の跡地の一角に桜を植えて記念碑を建立した。そして、戦死者及び殉職者の名簿を軍艦旗
に包み、三吋砲薬莢に収めて碑の下に埋めた。形は歴史を語り継ぐ記念碑だが、われわれ
の真の願いは慰霊碑である。

 当時航空自衛隊百里基地には、予科練の同期生が二名勤務していた。司令部総務部長の
鶴田守治二等空佐と、整備補給群補給隊長の江藤光總二等空佐である。江藤君は私と同じ
百里原空で艦上攻撃機の訓練を受けた飛練三十七期の卒業生である。彼ら両名をはじめ、
航空自衛隊百里基地隊員の献身的なご支援を受け、五月八日有志八十余名が集い、除幕式
を行った。

今後とも桜の花の咲く頃にはここに集まって、祖国防衛の礎となり、蒼空の果てに散華
された若者たちを偲んで戴ければ幸いである。


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