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珊瑚海からは生きて帰れたのに!
白菊特攻隊
22、海 軍 葬
収容した遺体は一カ所の火葬場だけでは処置できず、 私たちは一部の遺体を水戸市まで
運んで荼毘に付した。翌早朝、遺骨を納めて帰隊した。そして、早速役割を分担して海軍葬
の準備が始められた。
私は酒保係をしていた関係で主計科に顔が効くとでも思ったのか、遺族係に指定された。
主計科から茶菓子などを受け取り、ご遺族の接待に当たった。だが、ご遺族の方々は突然
の事故の知らせで様子も分からず駆けつけられ、接待を受ける余裕などなく、事故の様子
を詳しく説明して欲しいとの発言ばかりであった。
しかし、操縦していた者と後席に同乗していた者、それに、衝突の原因に直接関係した者
と衝突された者などのご遺族が同席している場所での説明には、憚られるものがあった。
だから、
「墜落の原因はただ今調査中ですから……」
と言葉を濁す以外に方法はなかった。
堅田飛曹長の父親が、遺骨に取りすがって、
「珊瑚海からは生きて帰れたのに、なんでこんなことで死んだ……」
と慨嘆された。甲飛四期の先輩である堅田飛兵曹長は、珊瑚海々戦に雷撃機操縦員として
出撃し、敵空母ヨークタウンに肉薄雷撃を敢行して嚇々たる戦果を挙げられた方である。
しかし、 訓練中の殉職では、昇任や叙位叙勲などはない。
「こんな事故で死ぬくらいなら、珊瑚海々戦で戦死して欲しかった」
というのが、父親の願いであろう。
また、遠く長崎から駆けつけられた同期生浅井君の父親が、
「なんとか戦死にしてください、殉職では遺骨を持って故郷には帰れません……」
と、涙ながらに訴えられる姿に貰い泣きした。
当時の世相としては、戦死は軍人の最高の名誉であるに反し、事故による殉職はややも
すると身の不始末と考えられ、恥辱とされた時代である。立派な飛行兵となって故郷に錦
を飾って欲しかったのに、志し半ばに倒れ、親が遺骨を引き取ることになろうとは……。
*
海軍葬は厳粛にしかも簡素に実施された。格納庫の中に黒白の幕を張り巡らし、その奥
に祭壇が設けられた。そして、遺骨が安置され遺影が飾られた。関係者の整列が終わると、
ご遺族が入場され最前列に着席された。そして、司令をはじめ飛行隊長及び分隊長が次々
に弔辞を述べた。
同期生を代表しての弔辞は江藤練習生が読み上げた。鹿児島航空隊の予科練入隊から、
谷田部航空隊の飛練と、共に猛訓練に耐え抜いた過去の思い出などが切々と述べられた。
そして、卒業を目前にしての別離に、同期生一同ただただ頭を垂れるのみであった。
次に、礼式曲「水漬く屍」が吹奏され、整列した衛兵が弔銃を発射した。空包ではある
が格納庫の内部に反響し轟音となって響き渡った。
終わって士官バスに遺骨を抱いたご遺族が乗車された。格納庫から隊門までの道路に、
総員が整列して見送る中、礼式整列した衛兵の「捧げ銃」の礼を受け、ラッパ「葬送行進
曲」の調べに送られて寂しく離隊された。初めて体験する事故処理や厳粛なる海軍葬に、
改めて飛行機搭乗員としての身の処し方に自覚を求められた思いであった。
*
事故の起きる数日前のことである。私は堅田分隊士に呼ばれた。そこで長兄が戦死した
との公電があったことを知らされた。そして「兄貴の仇を討て」と激励された。 その時は
その意味を深く考えなかった。ところが、飛練卒業直前に発表された実施部隊の配属先が、
九○三航空隊であったので、分隊士のご配慮を理解した。それは長兄が敵潜水艦の攻撃
を受けて戦死したので、対潜水艦部隊に配属させるから「仇を討て」という意味であった。
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