老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

4特攻くずれ

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               神林炭砿職員一同と積出港付近の風景。

特攻くずれ
        4-5、炭鉱職員として働く
    
終戦後の内地では、復員した軍人や外地からの引揚者などで、町には人が満ち溢れていました。
それに引き換えて生活物資などは極端に不足し、おまけにインフレで物価は上がる一方でした。
そのうえ、働きたくても、生産設備は空襲で壊滅状態となり仕事らしい仕事はありませんでした。
その中で、戦後復興の原動力である鉄と石炭は、その生産が重点的に推進されていました。

復員船の乗員を諦めた私は、親戚筋を頼って長崎県のある小さな炭砿に経理係として就職する
ことができました。その当時、石炭は「黒ダイヤ」と呼ばれ、掘れば掘るほど売れた時代です。
そして炭砿の従業員に対しては、食糧や衣料品なども優先的に配給されていました。

戦争中の統制機関であった「石炭統制会」は敗戦により解散しました。そして民間の自主的統制
機関として「日本石炭鉱業会」が設立されました。ところが、この鉱業会は、GHQ(連合国総司令
部)から閉鎖を命じられました。これに代わって、石炭の一手買い取り一手販売を行う公的機関
として「配炭公団」が発足しました。これによって石炭の価格は再び統制されました。戦後の自由
経済に反する特別な処置です。

私の仕事は原価計算係です。毎月「原価計算書」を作成して関係機関に提出していました。当時
は石炭の価格は品質だけではなく、生産原価を加味して決定していたのです。だから、能率の悪
い炭鉱でも、出炭さえすれば原価に見合うだけの儲けが確保される仕組みになっていました。

ところが、世の中が段々と落ち着くにしたがって、石炭の価格も品質本位に変わってきました。
そして、昭和24年9月、「配炭公団」は解散となり石炭の統制価格が撤廃されました。そのうえ、
安い石油の輸入による「エネルギー革命」が進み、品質の悪い石炭は売れなくなりました。だか
ら、品質が低くて能率の悪い炭砿は赤字経営となり、さしもの石炭景気も終末を告げたのです。

4-4、復員船

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          謎の爆発で沈没した戦艦陸奥。


特攻くずれ
         4-4、復員船

私が復員して遊び回っていた頃、復員船の乗組員を募集していました。元海軍の軍人であれば
終戦時と同じ待遇で採用するというのです。それなら上等飛行兵曹と同じ俸給がもらえます。
航空手当はなくなるにしても、代わりに航海手当が支給されるはずです。こんな好条件の就職
口は、当時の田舎では決して見付かりません。さっそく応募しました。

「採用通知」が届いたので、早速佐世保市の「援護事務所」に出頭することにしました。当時の
佐世保の町はアメリカの兵隊で満ち溢れていました。いまいましいけれど、戦争に負けたのだ
から仕方がありません。

昔の記憶をたどりながら岸壁に出ました。海上を見渡すと、ここはアメリカの艦船で埋まって
いました。復員船はどれかと見回しましたが、それらしい船は見当りません。旧海軍の第3種
軍装を着た、乗組員らしい者が通りかかったので、事務所の所在を確かめようと思って話しか
けました。

彼の話によれば、復員船は沈没を免れた軍艦から大砲などの武装を撤去して、船室を増設す
るなどの改装を行い、乗組員が確保でき次第に配船していると言うことでした。

「大きな船から手をつけたので、今残っているのはあれですよ」そう言いながら指さしました。
見ると、海防艦か駆潜艇か知らないが、ちっぽけな船が繋留されていました。
「今日は遅いから、担当者は帰ったと思いますよ、明日出直した方がよいでしょう」
そう言って彼は立ち去りました。         

もう一度その船を見直しました。いくら小さくても駆逐艦程度の船を想像していたのに、どうみ
ても小さ過ぎます。速力だって10ノットも出ないでしょう。これでは機雷が1発当たれば轟沈
です。その時期、関門海峡をはじめ至る所に、アメリカ軍のB29が投下した機雷が、未処理の
ままで放置されていました。そのうえ、掃海などはいつ終わるか見当もつかない状態でした。

また、行き先がどこであるにしろ、海上を航行する以上は浮遊機雷の危険もあります。昼夜を
問わず、いつ爆発するか分からないのです。当時はまだ安全な海など存在しなかったのです。
戦争中、死に直面していたので度胸はついていると自負していた私も、途端に命が惜しくなり
ました。   

先ほどまでは、衣食住付きでいくら貰えるなど、いい条件ばかりを考えて悦に入っていたのに、
今度は不安で胸が一杯になりました。あんなに小さな船だと揺れも大きいだろう、船酔いする
かも知れない。また飛行機の経験はあっても船のことは皆目見当もつかないのに、どんな仕事
をするのだろうか……。

われわれは搭乗員といつても、海軍の軍人です。だから、予科練の教育課程には「艦務実習」と
呼ぶ訓練項目があり、一定の期間を軍艦に乗せて、艦内実務の訓練を実施することになってい
ました。ところが、われわれ甲飛(海軍甲種飛行予科練習生の略)12期生からはこの制度が
取り止めになりました。その代わり「軍港見学」という名目で軍港や軍艦を見学する程度の内容
になっていました。ところが、われわれのクラスは教育期間短縮のために、この「軍港見学」さ
えも中止になってしまいました。

それは、1期先輩に当たる甲飛11期生が「艦務実習」で乗り組んだ戦艦「陸奥」が、瀬戸内海
で謎の爆沈事故を起こし、多数の死傷者を出したのが影響したのかも知れません。それとも、
当時われわれを乗せて訓練する軍艦など、一隻も残っていなかったのが真相かも知れません。
そのような事情で、海軍の軍人でありながら軍艦には一度も乗ったことがなかったのです。

思案し始めると際限がありません。考えてみれば、この程度のことは志願する前に当然考慮し
ておくべきことです。いまさら引き返すこともできません。とは言っても、戦争中死の直前から
生還できた、せっかくの幸運を捨て去るのはもったいないような気もします。しばし、呆然と立ち
尽くしていました。

4-3、卒業認定

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              卒業証書と経緯説明書。


特攻くずれ
          4-3、卒業認定

復員後しばらく経って、予科練(飛行予科練習生の略)入隊に際して退学したはずの学校から卒業証書が
送られてきました。この中に、文部省の指示により卒業を認定するとの経緯説明書が同封されていました。

これは、予科練でも普通学として国語、漢文、数学などの授業が行われていたので、学校教育に通算して
卒業させるという趣旨なのか、それとも復員した大勢の若者が一度に復学する混乱を避けるための特別な
措置なのか、いずれかの理由と思われます。

5年生在学中からの入隊者は卒業と認定されました。しかし、4年生以下からの入隊者は卒業を認められ
ずに復学しました。私の場合は、旧制中学校5年生の1学期を終了した時点で退学して予科練に入隊して
いたので、卒業を認定されたのです。(当時は予科練を始め陸士・海兵など軍の学校に進学した場合、
休学の制度などはなくすべて退学扱いでした)私の同級生は、同年12月末、2学期終了時点で繰り上げ
卒業していました。 

もし、この特例による卒業認定の処置がなければ、小学校卒業の資格しか残らないので、私も進学につい
て真剣に考えたと思います。あの時代、私の田舎では、2〜3割程度の者しか中等学校へは進学しません
でした。また、今日のような高学歴社会になるとは夢想にも出来ない時代です。だから、中等学校卒業の
資格があれば当時の田舎では大威張りでした。
 
私の生家は平均的な農家で必ずしも裕福ではなく、 そのうえ、兄二人姉三人の六人兄弟でした。末っ子
に生まれた私は、母親からは特にかわいがられていました。
「親との関わり合いが一番短い子だから……」
と、いうのがその理由でした。また農家の三男坊には分けてやるだけの田畑などありません。だから、
「借金してでも、上の学校に行かせる」と、言っていました。兄や姉が高等小学校しか卒業していないの
に異例のことです。

話によれば、2番目の姉は特に勉強がよくできたそうです。担任の先生はその才能を惜しんで、師範学校
に行くことを勧めました。わざわざ家庭訪問して、学資は不要だから進学させるようにと熱心に説得したそ
うです。それでも親の許しは得られませんでした。これが昭和初期の不況時代における農村の実態です。

そんな時代に育った者として、《特攻くずれ》がいまさら大学に進むなんて、お門違いも甚だしいと、母親
の助言なども無視して相変わらず遊び回っていました。しかし、復員の際に戴いたお金もだんだん心細く
なり、おまけに物価は日一日と上昇します。そこで、何とか将来の事を考えなければとは思っていました。  

4-2、復員はしたけれど

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                飛行機搭乗員の成れの果て。


特攻くずれ
         4-2、復員はしたけれど

昭和20年8月15日、天皇陛下のご聖断にり、大東亜戦争は終結しました。大井航空隊で
「神風特別攻撃隊・八洲隊」の一員として、特攻待機の状態に置かれていた私は、任務を解
かれて懐かしの故郷へ復員しました。

当時《特攻くずれ》という言葉が囁かれていました。終戦にによって復員してきた特攻隊の
生き残りで、社会的な規範を無視したり、平気で常識外れの行動をとる連中をこう呼んでい
ました。

戦争の生き残りの証しとして持ち帰った、軍服に飛行靴を履き、富士絹のマフラーを首に巻
いたのが「特攻くずれ」の代表的なスタイルでした。帽子は飛行帽ではなく、黒線1本の艦
内帽が幅を利かせていました。

戦争中は、 国民から畏敬の念をもって迎えられていた特攻隊員も、敗戦によってその霊験
を失い、「特攻隊員は犬死であった」としか評価されない世の中へと急変したのです。その
鬱憤を晴らすかのように、非社会的な言動をしたり、進駐してきたアメリカ兵や警察などに
対して反抗的な態度をとることで、自らを誇示していたのです。

これは、一度死の瀬戸際を体験した者の開き直りです。     
「俺たちは、死ぬことなんか怖くないんだ! 矢でも鉄砲でも持ってこい!」
そう言った強がりです。 当時の私は、 正真正銘の《特攻くずれ》でした。弱冠18歳といえ
ども、帝国海軍の飛行機搭乗員の成れの果てです。だから、男一通りの遊びは経験して
います。毎日のように隣の町まで出かけては、夜遅くまで遊び回っていました。

私の出身地である方城村は、福岡県田川郡の北西部に位置する山村です。そして、隣り
の金田町は郡内でも古くからの町として栄えていました。ここには「大和舘」という映画舘と
「敷島座」と呼ぶ芝居小屋があり、娯楽施設の少なかった近隣町村の中では、唯一の盛り
場として賑わっていました。
 
また、駅前には撞球場や飲食店などもあり、遊び場所にはこと欠きません。当時の飲食店に
は、まともな食べ物や飲み物などはありませんでした。どこで仕入れてくるのか「マッコリ」
や「どぶろく」その他得体の知れないアルコール類が売られていました。        
 
最も危険とされていた、飛行機搭乗員に志願し「特攻隊」として戦死したものと諦めていたのに、
無事に帰還したことを喜んで、初めのうちは家業の手伝いもせずに遊び回るのを黙認していた
母親も 、私の行状を見兼ねて、
「上の学校へ行かんね……、お金の事なら何とか都合できるから……」
そう言って、事あるごとに進学を勧めました。

4-1、故郷の土

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            故郷の山。

特攻くずれ
         4-1、故郷の土
 
昭和20年9月、私は生きて再び故郷の土を踏むことが出来ました。そして戦後の混乱期
が始まりました。そこで海軍時代のお話は一応打ち切りにして、「特攻くずれ」と題して、
荒廃した戦後生活の話題や私の生まれ育った、方城村の今昔に舞台を移したいと思います。

「特攻くずれ」と呼ばれた終戦当時の荒んだ生活や子供の頃の思い出話などを、思いつく
ままに書き綴りたいと思います。

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