老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

5航空自衛隊

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            神雷部隊の出陣「非理法権天」


航空自衛隊 http://www.warbirds.jp/senri/jasdf/
       5-169、神風特別攻撃隊員の精神基盤について(7)  


      結 論

われわれ自衛隊員は、入隊に際し服務の宣誓を行っている。その服務の宣誓には「事に
臨んでは危険を顧みず身をもって責務の完遂に努め……」とある。この身をもってとは即
ち、死を意味するものと解する。自衛隊員は任務を放棄しない限り、いつ死に直面するか
分からないのである。

しかし、現在の自衛隊員で死について真剣に考えたことのある者が、果たして何人いるだ
ろうか。 恐らく前述したドライバーの心理と同じで「そのような非常事態は絶対に起こら
ない」と、 有利に考えることで故意にこの問題から逃げているのではないだろうか。だが、
幹部自衛官は部下隊員を教育指導する立場として、果たして自分が宣誓のとおりに、身を
もって責務の完遂ができるかどうか、反省してみる必要があると思う。

昔は小学校からすでに「忠君愛国」の教育が行われていた。そして、一般社会教育その他
で帝国臣民としての精神基盤が醸成されていた。だから、軍隊での精神教育は単に仕上
げの場でしかなかった。ところが、現在の社会情勢をみると、学校教育でも一般社会教育
でも昔とは反対の教育が行われている感じがする。 だから、隊員に対する精神教育は
旧軍隊以上に徹底しなければならないはずである。

特別攻撃隊員の死をもって任務を遂行する精神基盤が、肉親との愛情に立脚した信頼関
係にあることを述べた理由は、自衛隊の隊員指導の根本理念と相通じるものがあると信ず
るからである。

現在の世相は親が我が子を殺し、妻がその夫を殺すという断絶の世の中である。われわ
れが生まれ育った時代のように、貧しくても暖かい親子の愛情とか、厳しい中にも信頼感
溢れる師弟の交わりなど、正しい人間関係は失われている世の中である。

ここにおいて、真に役立つ隊員を育成するためには、われわれ幹部自衛官が隊員の両親
や教師を兼ねた人間になることが必要である。日常の勤務や、営内生活を通じて同じ生活
基盤にたち、家庭生活を通じて醸成される肉親の愛情にも勝る信頼関係を確立することが
急務である。

旧海軍に通称「芙蓉部隊」と呼ばれる部隊があった。 飛行隊長は美濃部正少佐である。
数年前まで航空自衛隊に在職されていたので面識のある方も多いと思う。「全機特攻」が
至上命令のあの時期に、自らの信念をまげずに特攻を拒否した指揮官である。この部隊
は「必死」の特攻を行わない代わり、「決死」の夜間襲撃に徹した部隊であった。

指揮官が特攻を否定したことで、隊員の士気はいやがうえにも高揚した。その根底にある
のは部下に対する深い愛情である。また部下もこの愛情に報いるため、特攻にも劣らぬ
多大な犠牲を払いながらも最後まで勇戦力闘したのである。
 
これとは別に、「野中一家」と呼ばれた部隊があった。 「桜花特別攻撃隊」 として有名な
七二一空隷下の野中五郎少佐率いる、攻撃七一一飛行隊の別名である。軍紀風紀の厳
しい旧軍隊ではちょっと想像もできない、型破りで、やくざまがいな性格の部隊であった。
 
隊長の部下を可愛がることは肉親以上であり、 真に同じ釜の飯を食うといった気概に徹
し、必要とあれば隊長自ら規則を無視する反面、やるべきことは理屈抜きで先頭にたって
実行し、真に「野中一家」を形成していた。

ここの隊員は、野中少佐の部下であることを誇りとし、 野中少佐と生死を共にすることを
悦びとしていた。もちろん、親分子分にあやかった彼の統率方法については異論もあるが、
短期間にあれだけの信頼関係を確立したことは敬服に値する。             

以上述べたとおり、 隊員指導の要諦は「愛情」の一言につきる。 父親ならばこう言うで
あろう、 母親ならばこうするであろうことを親に代わって実行することである。 祖国愛や
民族愛などを理論的に納得させることを無駄とは言わないが、愛とは主観的、一方的かつ
献身的な行為であり、理屈ではないことを認識すべきである。 そして、深い愛情で結ばれ
た信頼関係こそが、 有事に際して思いもよらない力を発揮する原動力であることを銘記
すべきである。                        −終−

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          息子の思い出を語る母親。

航空自衛隊 http://www.warbirds.jp/senri/jasdf/
       5-168、神風特別攻撃隊員の精神基盤について(6)  

    五、遺族の心境について

すでに述べたとおり、特別攻撃隊員は両親や弟妹など自分に関係深い大切な人の身替わり
になるという考え方で死を肯定するのである。もちろん、指揮官に人を得て、その統率のもと
にこれと生死を共にするという場合もある。しかし、その根底には肉親との愛情に裏打ちされ
たものがあるはずである。

たしかに肉親とのつながりは理屈では説明できないほど切実なものがあった。 検閲のため
思うことの万分の一も表現できない数行のハガキの文面からその胸中を察して、 わざわざ
遠い所を面会に来た親の例を含めて、いろいろと見聞している。

近ごろ慰霊祭などでご遺族の方とお話しする機会がある。 ある遺族は「もし許されるなら、
息子に替わって自分が死ねばよかった。息子には長生きして欲しかった……」と、涙ながら
に述懐された。

吉田松陰も「親思う心にまさる親心、今日のおとずれ何ときくらん」と、 最後まで親に思を
はせている。当人も恐らく死の瞬間まで、瞼の裏に両親の面影を焼付けていたのではない
だろうか。

また別の遺族は息子の無事を祈って「茶断ち」「塩断ち」の祈誓をしたと、 当時を回想して
おられた。 ともあれ、 われわれが命に代えて護ろうと考えた両親もまた、 息子の安否を
気遣い、自分の命を縮めてもと、息子の無事を祈っていたのである。この心の繋がりこそが、
特別攻撃隊員の精神基盤そのものである。 これは理屈を抜きにした肉親との愛情以外の
何ものでもない。

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           練習機「白菊」までも。

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       5-167、神風特別攻撃隊員の精神基盤について(5)  

    四、特攻作戦の経過

私は、昭和二十年四月、菊水作戦開始と同時に特別攻撃隊に編成された。「発進」「接敵」
「攻撃(体当たり)」の飛行訓練と同時に精神的には生に対する執着と、 死に対する恐怖
と闘いながらこれを克服してきたのである。 誰れでも一時の感情に激して死を選ぶことは
できるかも知れない。 しかし、理性によって自分の死を肯定し、その心境を一定期間継続
するのがいかに大変なことか、体験した者でなければ理解できないであろう。

当時でも日ごろ大言壮語していた者が、 特別攻撃隊の編成に際してこれを免れるために、
仮病を使ってこそこそと逃げ隠れした事例からも判断できる。 見方を変えればそれが本来
の人間の姿であったのかも知れない。 当時の状況でなお死から逃れる努力をする者には、
それ相当の勇気が必要であったと思う。われわれの同期生は当時十七、八才の若さでこの
世の未練を断ち切り、還らざる攻撃に飛び立って、次々に散華したのである。

鈴鹿空・大井空・徳島空・ 高知空で構成された第十三聯合航空隊は、 練習機「白菊」に
よる特攻隊を編成した。そして、五月二十四日の菊水七号作戦から、 遂に第五航空艦隊に
編入され、 鹿屋基地や串良基地に進出し、 次々と「体当たり攻撃」を敢行した。 そして、
六月二十六日の菊水十号作戦までに、 百十八機が未帰還となり二百三十余名が大空に
散華したのである。

今日は人の身、明日は我が身という状況のもとで、 さらに死ぬための訓練が続けられた。
飛行訓練が終り、 宿舎(当時基地外の林の中に分散されていた)に帰る途中、なにげなく
道端で見かけた蓮華草の花に故郷の野辺を偲び、夜中にふと目ざめて父母(長兄は戦死、
次兄も出征中)の行末を案じ、 一度は決心したものの果たしてこれでよいのかと煩悶した
ことも度々であった。

その間も戦局は推移し、六月末の菊水十号作戦をもって沖縄周辺に対する特攻作戦は打
ち切られた。これに伴い私は特攻待機を解かれ、鈴鹿基地の田中部隊に派遣された。鈴鹿
基地では、偵察員の練成訓練を担当することになった。機上作業練習機の操縦教員という
地味な配置に対する不満と、特攻待機から解放された安堵感の入り混った複雑な気持ちで
あった。

しかし、アメリカ軍の本土侵攻が予想され再び特別攻撃隊が編成され、 八月五日を目途に
特攻待機となった。 そして、沖縄戦の戦訓から今度は夜間攻撃のみを対象にして昼夜入れ
替えの訓練が実施された。 即ち、飛行訓練は夜間のみ実施し、昼は横穴式の防空壕の中
で寝るといった変則的な生活が続いた。 単に死ねばよいという安易な考えでなく、 いかに
して有効に死ぬかということに日夜努力を重ねたのである。

戦後の特別攻撃隊に対する評価には、戦果(結果)のみを対象としたものが見受けられる。
しかし、真にこれを評価するなら、 二十歳にも満たない若者が、いかなる理由にせよ死を
もって任務を遂行するという境地に至った精神状態、即ち特攻精神こそ評価すべきである。

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            特攻の先駆者、関大尉。

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       5-166、神風特別攻撃隊員の精神基盤について(4)  

   三、特攻隊員の心情について

先年まで航空自衛隊に在職されていた、中島正氏(当時海軍少佐)が「神風特別攻撃隊」
という本を出版されている。 フィリピンで「体当たり攻撃」を初めて採用した、二〇一空の
飛行長を勤め、以後第十航空艦隊及び第五航空艦隊の司令部付として、終始特攻作戦
を指導され、その間の状況がよく記述されている。

特に特別攻撃隊員の心情については、非常に鋭い観察をされている。 しかし、特別攻撃
隊員の心の底に秘められていた内面的なものについては、やはり理解できなかったので
はないだろうか。理解していても、立場上無視せざるを得なかったのかも知れない。

命令する側の者と、命令を受けて死を実行する者との立場の相違からくる物事の受け止
め方の差であろう。だから、特別攻撃隊員の心情については、体当たりを実行した当人と、
彼らと同じ境遇を体験した者にしか理解できない面があるのではなかろうか。

遺書一つを書くにしても、 男としての意地があり見栄もある。 だから、必ずしも本心を
そのまま書けるとは限らない。文面の裏に隠されているものを感じとることができるのは、
当時同じ立場にいた者だけではないだろうか。

数年前、十四期飛行予備学生出身者の手記をもとにしたテレビ映画「あゝ同期の桜」が
放映された。毎回のように女性との関係が題材となって戦争映画というよりも、恋愛映画
のように感じた人が多かったのではなかろうか。しかし私は、さすがに死んでいった者が
残した手記を忠実に映画化しただけあって、俳優の言動のぎここちなさは仕方がないとし
て、当人の心情をまざまざと感じとることができた。それは、彼らと心理的に共通の立場   
を経験していたからである。

人間が死に直面して考えることは、最も身近かな人のことである。 即ち、親や兄弟など
肉親のことである。 自分が犠牲になることで、親や兄弟が無事に暮らせるならばという、
切羽詰まった考え方で自分の死を納得するのである。「あゝ同期の桜」における予備士官
は年齢的に最も身近な者が、最愛の女性であったのであのような手記となったのであろう。

近ごろ、特別攻撃隊関係者の手記や遺書などが整理保管され、または収録出版されてい
るので読む機会が多い。その大部分は予備学生出身者のもので、割合に思ったことがその
まま書かれていると思う。 これに反して、予科練出身者の手記などは非常に少ない。また 
残っている遺書なども至って単純である。 これは表現力の問題もさることながら、 手紙や
日記などはすべて検閲されていた下士官、兵の生活では本心など書ける状態ではなかった
からである。その場に至って、遺書さえも書かなかった心理が理解されるであろう。

「雲流れる果てに」「あゝ同期の桜」 に続いて、予科練を主題とした映画を計画した東映が、
関係者の日記や遺書などがほとんどないために、 生存者の話を集めフィクションとして
「あゝ予科練」 のシナリオを書かざるを得なかったのも、 その間の事情を物語っている。
私自身も二度の特別攻撃隊編成に際して、遺書を書いた記憶がない。だからと言ってそ
れだけ立派な覚悟ができていたのでは決してない。人並み以上に生に対する執着もあり、
死に対する不安をもっていた。   

近年同期生の会合で旧友と話す機会がある。同じ基地に居合わせて、出撃する同期生の
最期の面倒をみた者が、「身の回りのことは俺が片づけてやるから、 ご両親に手紙でも
書け」と、勧めても、「手紙など出すとかえって親に心配をかけそうだし、 またせっかくの
決心が乱れそうな気がする……」と言って、 何も書き残そうとせず、 万感の思いを胸に
秘めたまま出撃して征った様子を今にも泣き出しそうな顔をして話すのを聞き、また当時
の私自身の心境をかえりみて感慨深いものがあった。

昭和十九年十月二十五日、神風特別攻撃隊敷島隊の関行男大尉以下五名がスルアン
島沖のアメリカ空母に体当たり攻撃を実施したのを皮切りとして、終戦当日の八月十五日
までに海軍関係だけでも二、三六七機が出撃し、二、五二四名の貴い命がはかなくも消え
去ったのである。

彼ら特別攻撃隊員の大部分の者は、恐らく父母や弟妹など最も身近な人の無事を願うこ 
とによって、自分の死を肯定し、未練を断ち切ったであろうと推察する。 関大尉の当時の
様子について中島少佐は、『……自室に戻った関大尉の思いはたゞ一人の母親へ、そして、
新婚間もない愛妻のもとへ幾度か去来したことであったろう……』と、記している。
そして、一握りの髪を副長玉井中佐に託して出撃したのである。

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            靖国神社昇殿参拝。


航空自衛隊 http://www.warbirds.jp/senri/jasdf/
       5-165、神風特別攻撃隊員の精神基盤について(3)  


   二、特別攻撃隊員の死を解決する要素について

特別攻撃隊員となった場合、覚悟が決まるというか、死に対する気持ちの整理ができる
のに二〜三日かかるのが普通である。中には一週間程度も悩み続ける者もいる。そして、
一週間を過ぎても気持ちの整理ができなければ脱落する。

それでは特別攻撃隊員はいかにして死に対する気持ちを整理し、覚悟を決めたのであろ
うか。一般的に考えられるのは宗教である。私の家は真宗の信者であった。子供のころか
「正信偈」などのお経をあげたり、 蓮如上人の「御文章(おふみ)」に感銘を受ける程度の
関心は持っていた。

ところが、 いくら極楽浄土を信じても(実際には殺生をするのだから地獄に落ちる結果と
なるのだが……)それだけでは死に対する解決は得られなかった。だからといって宗教を
否定するつもりはない。 今考えると、意識の底では宗教心が働いていたのだが、当時の
年齢では信心といっても程度が知れていて、死の教義を理解し得なかったのである。

次に、「悠久の大義に生きる」 という国家神道的な考え方である。 当時の精神教育は、
これに集約されていた。 しかし、前述の宗教と同じように、真にこれを理解して死を肯定
するには至らなかった。

日ごろ友達同志の会話で、「靖国神社で逢おう」 とか「軍神になるんだ」 などの言葉を
使うことがある。 ところが、本心からこれで死を解決できた者は恐らくいなかったと思う。
どうせ死ぬのなら多少とも後世に名を残したいと願うのは人情である。 だから、結果とし
ての軍神や靖国神社には意味があるが、これを目的とするのは神に対する冒涜であろう。

われわれは国家神道を概念的には理解しても、それは結果を納得するためで、死を解決
する手段としては別に何かを求めていたのである。

また他の考え方として、 何事も運命として諦める方法がある。 確かに人の運命は予測し
難い。九〇三空から特攻要員として転属したわれわれが生き残り、残った連中が串良基地
に進出して夜間雷撃を敢行してほとんど全滅した。また幸運に恵まれ苛酷な戦闘を生き抜
き、死神に見放されたと信じていた同期生で、戦後の航空事故で死亡した例もある。

昭和三十七年九月、T6練習機で夜間飛行訓練中墜落殉職した某三佐(彼は六〇一空当
時に、特攻隊員として二度まで沖縄に出撃して奇跡的に生還している)や、血清輸送中に
名瀬市に墜落した、海上自衛隊P2Vの機長。さらに、昭和四十一年羽田沖で原因不明の
墜落事故を起こした全日空727の機長などである。確かに人間の生死は運命に左右され
る面がある。 しかし、これは結果からいえることで、運命そのものと死を納得する手段と
では、考え方の次元が違うと思う。

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