老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

5航空自衛隊

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5-124、教官コンクール

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               褒賞状を戴きました。


自衛隊うら話    
          5-124、教官コンクール          


第3術科学校では、第1教育部が第1科から第5科まで、 第2教育部が第6科から第10科までに
別れ、それぞれの術科教育を担当していました。教育部所属の教官は幹部空曹を含め200名を
越えていました。これに学生隊の区隊長や区隊付などを合わせた教官の、教育技術の向上という
名目で、毎年「教官コンクール」が実施されていました。

これは、教育部各科及び学生隊の各大隊からそれぞれ代表者を選出して「教育展示」を行なって、
その優劣を競うものです。教育技術課程も卒業し天皇問題も解決しました。さーあこれから遊びに
精を出そうとしていた矢先、この「教官コンクール」に第3科の代表として参加してほしいとの要請で
す。教官経験の長い者が大勢いるのに、なんで着任早々の新人を代表にするのかと、腹を立てて
みましたが、先輩連中に頭を下げて頼まれれば厭とも言えません。

失敗して恥をかくなら早い方がましだと覚悟を決めました。 入校後間もない「会計員課程」を対象
に準備を始めました。教育課題には旅費計算を選びました。その頃「OHP」と呼ばれる視覚教材が
導入されていました。これを活用しない手はありません。旅費計算の基礎となる出発地から目的地
までの各種の経路と方法を説明するため「OHP」を利用した一時限分のシナリオを作成しました。

先輩連中はリハーサルをやれと勧めましたが断わりました。他の科では、あらかじめ質問する学生
や質問内容までも決めて、その回答要領などを練習しているというのです。しかし、そんな事をすれ
ば、本番で学生の興味は半減するでしょう。私は教育技術の評価は、教官に弁舌の優劣を競はせ
るのでなくて、学生がいかに反応するかに重点を置いて評価すべきだと考えていました。 だから、
リハーサルなど行わずに、出たとこ勝負を予定していたのです。   

ほどなく「一般命令」で実施要領が発表されました。みると審査委員長には研究部長の沖津1佐が
任命されています。「ヤッター! 」もう何の心配もいらない、これで今までの貸しを返してもらえる
のだ。

案の定、私と学生隊第2大隊の区隊長西口隆2尉(脊振山サイト時代のバーテンダー)が、評価さ
れ、学校長石原空将補から、全校朝礼の場で「優秀教官」として褒賞状を戴きました。 こんなに
早く、研究部長からのお返しがあるとは思いませんでした。世の中は相身互いです。 

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            教育技術課程を受講しながら。


自衛隊うら話    
          5-123、「航空団運用基準」の作成

研究部長からの要請を受けて、一応の相談が纏まりました。課題作業は研究部の所管ですが、
教育部所属の私が個人的に研究を行い、その成果は直接研究部長に提出する。その代わりに、
研究部長から、私の所属する第1教育部長と第3科長との了解のもとに、作業に必要な時間的
な余裕を確保していただく。ということで話がつきました。
 
ところが結果的には、第1教育部長や第3科長から特別な時間など全く与えられませんでした。
そのうえ転属と同時に「教育技術課程」の受講を命じられていました。だから学生として授業を
受けながらその余暇を利用して、天皇が3年間も温めていた研究課題を、たったの3ヵ月の間
に仕上げなければならなかったのです。   

これは大変な作業量でした。お陰でマージャンやブリッヂそれにゴルフなどの遊びは、当分の
間断念するしかなかったのです。 そのうえ、皆が楽しみに見ている、 メキシコオリンピックの
テレビ放送までも犠牲にして、連日連夜この「運用基準」作成に専念したのです。

この作業実施に当たり、幹部学校普通課程の課題研究が非常に役立ちました。また、航空自衛
隊の全体的視点からの部隊運用と、航空団会計隊の所掌任務についての研究は、個人的にも
良い勉強になりました。 

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           朝鮮動乱の再発に備えての研究。


自衛隊うら話    
           5-122、「三矢研究」の後遺症  

昭和40年2月、 防衛庁の実施していた「三矢研究」が、衆議院の予算委員会で問題となる事件
が起きました。「三矢研究」とは、第2次朝鮮動乱が勃発したとの想定で、これの対応処置を研究
したものです。 ところが紛争が起きた場合の行動において、現行法規では対応できない問題点
にまで踏み込んで研究していたことが仇となったのです。

これに懲りた自衛隊は、以後この種の研究には非常に消極的になりました。そのため現行法規
の範囲内との条件付きで、有事に際していかに部隊を運用すべきかの研究が始められました。
その研究の一部を担当していたのが、第3術科学校の研究部です。

「有事における部隊運用」が研究の主題でした。紛争が起きた場合の部隊運用のうち、後方支援
部門について、 編制単位部隊ごとの運用を研究し、その対応策を纏めることになっていのです。
「有事における、航空団会計隊の運用基準」。これが天皇に与えられた研究課題でした。 

私が赴任した当時の研究部長は、沖津1佐でした。沖津1佐は、元幹部候補生学校業務部長の
職にあり私の上司であった方です。数ヵ月前に第3術科学校研究部長として着任し、前任者から
引き継ぎをうけました。ところが、補給、施設、輸送、給養など他の後方支援部門の研究はすで
に完成している時期に、ひとり会計隊部門のみが、ほとんど手付かずの状態であることに気づき
ました。

そこで天皇を督励して、 完成を急がせていたのです。ところが、温厚な研究部長の手に負える
ような天皇ではありません。ほとほと困り果てていた所に私が着任したというわけです。これ幸い
と私に助力を求めてきたのです。さーて困ったことになりました。天皇の誇りを傷付けるわけには
いきません。さりとて、研究部長の窮状を見過ごすこともできません。進退ここに極まりました。

5-121、天皇の責任問題

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           会計一家にも、天皇が居ました。


自衛隊うら話    
           5-121、天皇の責任問題

赴任当時の楽しさも長続きはしませんでした。降って湧いたような問題が起こったのです。またまた、
天皇に絡んだ事件です。会計職域にも天皇がいたのです。彼は昭和29年に陸上自衛隊から転換し、
航空自衛隊の草創期、会計教官の配置にいた人物です。私も「会計空曹課程」と「会計幹部課程」の
2回にわたってその薫陶を受けました。

個性が強く、決して妥協しない性格で階級以上に君臨していました。その頃からすでに、天皇の称号
で呼ばれていました。この称号は陸上自衛隊時代からの申し送りかも知れません。はったりが強く、
会計法規などはすべて暗記しているといった態度でした。

会計空曹課程での出来事です。何かの試験で○×式の出題がありました。解いて行くとほとんどが
○です。しかし、こんな筈はない、○×式の試験での正誤の割合は普通半々です、偏っても3分の1
まででしょう。半信半疑ながら無理に幾つかに×をつけました。ところが、やはり全部○が正解でした。
一般の常識が通用しないのが彼の本領です。

その天皇が、第16飛行教育団(築城基地)の会計隊長に配置されました。口先だけなら、航空幕僚
監部の会計課長でも勤まる人物です。ところが、現実は厳しいのです。理屈どおり行かないのが世の
常です。部下の出納係が、金銭を着服する事故を起こしたのです。金額はたいした額ではありません
でしたが、長期間にわたって収入金を帳簿に計上せずに横領していたことが発覚しました。 当人は
即刻「懲戒免職」の処分を受けたのはもちろんです。

次に天皇の監督責任が問題となりました。長期間この不正を発見できなかったのですから当然です。
ところが天皇は、自分に落度はないと主張して譲りません。確かに監督責任の範囲については判断
が困難です。   

天皇の責任問題は紆余曲折の結果、とりあえず空幕の監理課に配置されました。次に第3術科学校
の研究部に転属となりました。 ところが、それ以後停年までの9年間、どこの部隊からも貰いの口は
かかりませんでした。

栄枯盛衰は世のならい。 天皇の名声も落ちれば落ちたものです。 第3術科学校では、古巣である
教官室に行っては無駄話をしたり、会計課に顔を出しては暇を潰したりで、 特に仕事らしい仕事を
している様子は見受けられませんでした。第3術科学校では会計課は課長の羽谷3佐を始め、隊員
の殆どが彼の教え子です。教官室の教官も同様です。だから誰に遠慮もいらない立場でした。

私が赴任した時期、こんな状態がすでに7年間も続いていたのです。 本人の精神状態はともかく、
他人から見れば、真に羨ましい存在でした。 ところで仕事がないどころか、3年も前から研究課題
が与えられ、その提出期限が目前に迫っていたのです。

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              ゴルフを始めました。


自衛隊うら話    
           5-120、「キャンプ・ブレディー」

第3術科学校には「教育技術課程」という特別な課程があります。 教官の資格を取るためには、
8週間のこの課程を履修しなければなりません。 8月中旬から10月初旬にかけて、同課程の
履修を命じられました。教材の作り方や試験問題の作成要領など、盛り沢山な教育内容でした。

私は子供の学校の都合で単身赴任していました。幹部宿舎に居住して、土曜日の午後家に帰り
月曜日の早朝に家を出ます。幹部宿舎では、毎晩マージャンやブリッジで暇を潰していました。
そのうえ、学生と云う立場ですから責任を伴いません。気分的にも楽な毎日でした。

またゴルフを始めたのもこの時期です。当時西戸崎にあったアメリカ軍「キャンプ・ブレディー」
に、9ホールのゴルフコースがりました。平日は1弗、週末には2弗で利用することができました。
勿論、キャディーなど付きません。バッグを担いでのプレーです。土曜日の午後、帰宅途中に
ここに立ち寄ってゴルフを楽しむことにしていました。

「キャンプ・ブレディー」は、元西戸崎飛行場を米軍が接収して、無線傍受の基地にした所です。
飛行場跡地に高い鉄柱のアンテナを十数本立て、その下の空き地をゴルフ場にしていたのです。
練習用グリーンと打ち放し場も併設されていました。

このゴルフ場の特別ルールは、打球が鉄柱に当たった場合、ノーペナで打ち直しが可能でした。
ところが、鉄柱に当たって跳ねた打球がかえって良い位置に収まることがあります。悲喜交々の
面白さがありました。

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