老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

5航空自衛隊

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              映画撮影の真っ最中 。


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           5-119、トラ・トラ・トラの語源


撮影を見ていると、 T6練習機の外観を、97式艦上攻撃機や零式戦闘機に似せて改造して、
これを飛ばしながらいろいろな情景を撮影していました。そして自衛隊も全面的にこれに協力
していました。

ここで映画の題名に使われた「トラ・トラ・トラ」の語源を初めて知りました。「トラ・トラ・トラ」 とは
「我、奇襲ニ成功セリ」との隠語です。真珠湾攻撃に際して第1次攻撃隊の指揮官淵田中佐が、
機動部隊指揮官に宛てて発信した有名な電文です。

聯合艦隊司令長官山本大将はブリッヂの名手であったと聞きます。ブリッヂで「スリーノートラ
ンプ」というコールがあります。 これは切札を決めずに、9トリックを獲得するという宣言です。
成功すれば一発で勝負を決めることができます。普通これを「スリートラ」と略してコールします。
この「スリートラ」が隠語「トラ・トラ・トラ」発想の元であるということです。 真偽の程は明らかで
はありません。

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              戦艦長門の実物大セット。


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           5-118、映画「トラ・トラ・トラ」

幹部候補生学校での勤務も5年に及び、次の配置について空幕から打診が始まりまし。 北海道
の千歳基地か北陸の小松基地所在の戦闘航空団勤務が濃厚となりました。どちらも寒い所です。
九州育ちの私には寒さが苦手です。何とか暖かい九州へ帰りたい一心で、教官配置を希望して
いました。幸運にも7月10日付で第3術科学校勤務が発令され、故郷に近い芦屋基地に赴任す
ることができました。        
 
昭和43年1月には、 原子力空母エンタープライズの佐世保入港反対運動が始まり、 全国的に
学園紛争が続発し、 東京大学の安田講堂が学生に占拠されるという事件もありました。 そして
6月2日には、 九州大学工学部に建設中の電算機センターに、 アメリカ空軍板付基地所属の、
F4ファントム戦闘機が墜落し、ここでも基地反対運動が盛り上がっていました。

第3術科学校に着任してみると、 アメリカの20世紀フォックス社と日本の東映との合作で、
帝国海軍の真珠湾攻撃を映画化した、「トラ・トラ・トラ」が撮影の真っ最中でした。

芦屋飛行場西側の海岸には、 航空母艦「赤城」と戦艦「長門」の実物大のセットが建造されて
いました。 艦首を海に向けているので、艦尾の方から見るとちょうど海に浮かんでいるような
感じでした。

5-117、天皇諌言

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             ここにも、天皇が居ました。


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           5-117、天皇諌言

航空自衛隊では幹部自衛官に対して、毎年一編、研究論文の提出を義務付けていました。課題は
事前に指示される場合もありますが、通常は自由課題でした。毎年提出期限が近付いても題目す
ら決まらず、目前になって慌てて書き上げるのが通例となっていました。

その頃教育部長は武者1佐に代わって、○○1佐が着任していました。彼は武者1佐と陸軍士官
学校同期生の53期出身です。 このクラスには豪傑肌の人物が多く、彼も武者1佐以上にうるさ
い存在でした。

そのため、陰で彼は○○天皇と呼ばれていました。 われわれが、このような呼び方をするときの
天皇とは、新憲法の象徴天皇を意味するものではありません。絶対的権威の権化として名付けら
れるものです。だから、尊敬の念は込められていないのが普通でした。

教育部の教官連中は、やれ剣道だ!、やれサッカーだ!、 と連日のように鍛えられていました。
天皇は剣道が得意で、特別製の太い竹刀を持って遠慮会釈もなく殴りつけていました。幹部候補
生を教育するためのに教官になったのに、これでは、学生の方がましだと陰で愚痴をこぼしても、
面と向かっては誰も反抗できないでいたのです。

その天皇がある日のこと、 膝を痛めたとかで足を引きずりはじめました。 教官連中に聞いても、
今一つその原因がはっきりしません。真偽のほどは分かりませんが「公務災害補償費」が目当て
だという噂がささやかれはじめました。もしこれが本当なら大問題です。

むかし天皇陛下のために、一度は死ぬ覚悟決めた《特攻くずれ》です。 いくら格が違うといっても、
天皇に諌言するのも忠義というものでしょう。 とは言っても、 面と向かって直言できる立場には
ありません。さっそく論文の課題に決めました。

その頃、幹部自衛官で金銭に執着する者が沢山いました。例えば転属して、「扶養親族移転料」を
請求します。支払いが終わつた途端に家族は元の住所に帰します。 住むつもりがないのだから
家族の荷物は着替え程度しか持ってきていないのです。 中には、初めから転出入の書類だけで
処理しようとする者もいました。

通勤手当も同様です。バス通勤の名目で手当を申請しながら、実際には自転車で通勤しています。
(当時は自家用車やバイクなどはまだ少数でした)。  出張の際に普通車に乗ってグリーン料金を
浮かす程度のことは、ご愛嬌の部類でした。

業務中や訓練中に事故などで負傷すると国の費用で治療を行います。完全に回復しないで症状が
固定すると、その症状の程度に応じ「公務災害補償費」が支給されるのです。従来からの不正請求
の事例や、今後の対策などを盛り込んで論文は完成しました。

「文臣銭を愛せず、武将死を惜しまざれば、天下泰平たらん」とは岳飛(宋史)の言葉です。武将で
ある幹部自衛官が金銭に執着する現状を、岳飛なら何と評するであろうか! と結びました。

ほどなく論文の審査結果が発表されました。私の提出した論文も撰に入っていました。審査委員長
である教務課長に呼ばれました。

「君の論文は学校止まりだ、分かるなあ……、 その代わりこれが賞品だ」
そう言って万年筆を渡されました。 本来「優秀論文」は、 航空幕僚幹監部まで提出されることに
なっています。 だが、個人名こそ挙げていませんが、 あの内容では空幕に提出するには問題が
あるのでしょう。教務課長の裁定も仕方のないことでした。

その後、○○天皇から関係予算の問題などで呼ばれる機会が度々ありました。直接話してみれば、
見識もあり立派な方だとお見受けしました。部下との人間関係を誤って、反感を買っていたのかも
知れません。またいつ頃から天皇の称号を得たのか知らないけれど、やはり凡人離れのした人物
でした。

5-116、戦後の京都

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              京都は原爆の候補地でした!


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           5-116、戦後の京都

奈良の幹部候補生学校に在勤中、京都洛北の八瀬遊園地一帯で「防衛博覧会」が実施されました。
これを支援するため、度々京都市を訪れる機会がありました。 ここは終戦直後に、大井航空隊で
特攻待機から解放されて、戦友の石井兵曹と一緒に復員の途中、 彼の親戚の家に一泊した思い出
の地でもあります。(当時の経緯については拙著『かえらざる翼』に記述しています)

昭和32年、 幹部候補生として在学中も暇をみては京都市内を見物して廻りました。 終戦当時の
古い町並みが、次々に近代的なビルに生まれ変わってゆきました。そして「京都は戦災を免れた」と
いう神話が何処からともなく生まれました。

一説によると東洋美術学者ウォーナー氏がルーズベルト大統領に、古代美術品の宝庫である京都
に対する爆撃回避を進言したためとの説が有力です。 しかし、この説には疑問があります。私は
復員の途中に京都の街を歩き、爆撃の跡をこの目で見ています。強制疎開のため壊された家屋と、
爆撃によって破壊されたものとは明らかに相違があります。

最近になってこの疑問は解明されました。 西日本新聞の「春秋」に京都爆撃の記録が掲載された
からであす。  これは「昭和二十年六月九日、知事事務引き継ぎ書」という公文書からの抽出され
たものです。

 昭和二十年一月十六日二三・一〇 (東山区東大路通・常盤町・上馬町・下馬町。
                  死者三十四人。負傷者五十六人。家屋損失四十四戸)
 同    三月十九日〇七・三〇 (右京区春日通。負傷者一人。家屋損失一戸)
 同    四月十六日一二・〇〇 (右京区太秦。死者二人負傷者四十八人)
 同    四月二十二日〇九・五〇(右京区大宮町。負傷者四人)  
 同    五月十一日一〇・〇〇 (上京区河原町通・荒神口通。負傷者十一人)


以上のとおり京都は五回にわたって爆撃を受け、死者三十四名と多数の負傷者があったことが、
この公式文書に記載されていたのです。これは昭和二十年六月九日付けの文書です。だから、
これ以降にも爆撃を受けた可能性も否定できません。

やはり、私の記憶は正しかったのです。しかし、なぜ「京都は戦災を免れた」との神話が生まれた
のでしょうか。 まず第一に、東京・名古屋・大阪などの他の大都市に比較して、 被害が極端に
少なく目立たなかったことが挙げられます。

次に原爆投下との関連です。 アメリカ軍は原爆投下の候補地として、新潟・京都・広島・小倉・
長崎の各都市を選定してました。最終的には広島・長崎(小倉)が目標となり、結果的に京都は
原爆投下を免れました。

この二点が、「京都は戦災を免れた」との誤解を生んだ要因だと思います。 最近になってさらに
新しい資料が発表されています。アメリカ軍は原子爆弾を投下するため、特別な部隊を編成しま
した。そして、新兵器の効果を試すために色々な方策が検討されたのです。            
まず、原子爆弾で被害の評価が正確にできること。次に、原子爆弾が最も経済的効果的に使用
できること。 以上の二点から、新潟・京都・広島・小倉を候補地として選定しました。 そして、
この候補地に対しては、爆撃や艦砲射撃などの通常攻撃を禁止しました。

この決定は七月二十五日のことです。さらに、八月七日に至って長崎が候補地として追加されま
した。理由はともかく、この時点で京都や新潟が通常攻撃の禁止地区となっていたのも事実です。
逆説ですが原爆投下の候補地となったお陰で、通常攻撃を免れる結果となったのです。これらの
事情が重なって、「京都は戦災を免れた」との神話が誕生したのだと思います。

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        ブランディー「ナポレオン」。

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           5-115、ノータックスのお土産

見学が一段落したところで、基地内のBXで買物をしました。皆スコッチやバーボンを買い込ん
でいました。もちろんノータックスです。 私は迷わずに40年ものブランディー「ナポレオン」を
買いました。内地での価値を知っていたからです。

脊振山サイトに勤務していた頃、アメリカ軍の人員が減少したので、将校クラブを閉鎖すること
になりました。 そこで、残っている洋酒類を自衛隊で引き取ってほしいとの打診がありました。
ウイスキーやブランデー以外に、ドライジンやアブサンなどカクテル用の材料まで各種揃って
いました。

さっそく幹部宿舎で皆に相談したところ、スコッチやバーボンウイスキーなどを1本か2本程度
希望するだけで全部を引き取るには少々無理がありました。 数日後、雑飼隈のスナックで飲み
ながらこの話をすると、知り合いのマスターが目の色を変えました。

「ノータックスで買えるなら、お金は幾らでも用意するから、全部引き取りたい!」
と、申し出たのです。当時の相場ではスコッチなら2倍以上、本場のブランデーなら3倍以上の
値段で取引されると教えられました。翌日出勤して様子を聞くと、将校クラブはすでに閉鎖され
ていました。

残った洋酒類などは、春日原ベースのBXに全部引き取ってもらったとのことです。せっかくの
儲け話も、 夢と消え去ったのです。 しかし、この時の教訓が沖縄出張で生かされたのです。
とは言っても、 一人僅か3本しか購入できないので、お土産と自家用で終わり、儲けなど思いも
よりませんでした。


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